「飯沼」を背負った後ろ堅固の城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
下総国北辺にある平城。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
猿島(さしま)郡の逆井(さかさい)は西に古河公方(こがくぼう)足利氏、北に古豪の結城氏・小山(おやま)氏、
東に下妻の多賀谷(たがや)氏、更にその先には強大な佐竹氏が控える地で、戦略的意義は計り知れない程
大きなものがある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城の創建は宝徳年間(1449年〜1452年)と言われ、小山城(栃木県小山市)主・小山下野守義政(よしまさ)の
5男・常宗がこの地を知行して逆井氏と改姓した事から始まる。この時、常宗は尾張守を自称し、逆井尾張守
常宗と名乗ったのでござった。築城はこの常宗の手に拠るとされる。■■■■■■■■■■■■■■■■■
逆井氏は古河公方足利氏の臣下となり封土を守っていたが、常宗の孫にあたる常繁(子という説もある)の代、
1536年(天文5年)に小田原後北条氏の重臣・大道寺駿河守盛昌(だいどうじもりまさ)から城を攻撃され敗北。
後北条氏は旧体制を打破し、関東に新時代の到来をもたらした新進気鋭の覇者だったが、それ故に旧勢力で
ある古河公方足利氏ら周辺諸氏とは敵対関係にあり、結果として逆井城も後北条氏の攻略を受けたのである。
この戦いで城主の逆井常繁は討死し、彼の妻(娘との伝承も残る)・智御前は先祖伝来の釣鐘を被って城内の
池に入水し果てたと言う。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以後、逆井城は後北条氏の常総方面における最前線基地として機能、度重なる改修工事を受けていく。この為
逆井氏時代の城郭を古逆井城と呼称して区別する事もある。一方、後北条期の逆井城は古文書上で飯沼城と
記される事もあったが、近年までこの「飯沼城」の意味が正確に解されず、飯沼城が逆井城の事を指していると
いう結論が出ていなかったのだった。では何故逆井城を飯沼城と称したかと言うと、この城の北側は東西1km×
南北30kmにも及んだ巨大な沼に面しており、その沼の名が飯沼であったという事に由来する。飯沼は江戸時代
新田開発で姿を消し、今では西仁連(にしにれ)川という細い小川になってしまっているため、往時の規模を知る
事はできない。しかしその大きさが事実だとすると、逆井城は北辺を大湖沼に守られた後ろ堅固の城であったと
結論付けられる。城の敷地は周辺の平地より20mほど高い微高台地であるから、逆井城は水城の要素を持つ
要害だったのだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
後北条氏による大拡張工事■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
だからと言って、築城術に優れた後北条氏は立地だけに甘えた城造りはしない。■■■■■■■■■■■■
1577年(天正5年)、後北条氏一門で相模国玉縄城(神奈川県鎌倉市)主の北条左衛門大夫氏繁(うじしげ)が
藤沢(神奈川県藤沢市)の鋸(のこぎり)曳き職人らを招集し逆井城の大改修工事に着手した記録が。翌1578年
(天正6年)6月13日、氏繁は逆井城で没するが、城主の地位は北条左衛門大夫氏舜(うじきよ、氏繁の子)更に
左衛門大夫氏勝(うじかつ、氏舜の弟)へと継承され万全の守りを固めていき、上に記した結城・多賀谷・佐竹ら
反北条勢力への睨みを効かせており申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうして用いられてきた逆井城、最盛期の規模は主郭部だけで東西180m×南北320m、面積は約5万8000uと
北関東の平城としては最大級の大きさ。飯沼を背にした一曲輪(本丸)を囲むように二曲輪(二ノ丸)が置かれ、
二曲輪は東二曲輪・西二曲輪に分かれている。しかも二曲輪の濠は飯沼に繋がっていて、船を使った出入が
可能なように舟入も用意されていた。その二曲輪の外側が外郭部となる外構(三ノ丸相当)となっており、城域
全体を使えば万単位での兵力を駐留させられるだけの規模を誇っている。■■■■■■■■■■■■■■
各曲輪は深く広い堀で明確に区分されており、その堀は直線的で要所要所に横矢を掛ける直角の折れが。
これも有名な後北条流の築城術が存分に活用されていた事を物語っている。まさに橋頭堡と呼ぶに相応しい、
後北条氏が北関東に打ち込んだ楔となる城郭、それが逆井城であった。■■■■■■■■■■■■■■■
この城の終焉は1590年(天正18年)、天下統一に王手をかけた豊臣秀吉が後北条氏を最後の敵と定め討伐し
小田原城(神奈川県小田原市)を開城させた事による。秀吉の仕置きにより後北条氏は滅亡、それに伴って
逆井城は廃城とされたのだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現代に甦った戦国時代の城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以来およそ400年、風雪に晒された荒地となっていた城跡であるが、戦国末期の築城法を伝える良好な史跡と
して発掘調査・整備され茨城県指定史跡・逆井城跡公園として生まれ変わった。茨城県史跡の指定は1985年
(昭和60年)3月25日。やたらに観光化を狙った模擬天守を建てるようなものではなく、正確な分析に基づいた
遺構再現を目指した復元工事により、一般的な「城」の印象が強い“近世城郭”ではなく、“中世城郭”としての
往時の情景がひと目でわかるような出来栄えとなっており、城郭愛好家からの評価はかなり高い。昔ながらの
土塁や堀の整備、戦国期城郭の技法を見せ付ける虎口や門の配置、大手における物見櫓や土塀・井楼櫓の
木造再建(写真)、どれをとっても文句なしの素晴らしさでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
写真を見て頂ければ分かるように、派手な虚飾で飾り立てる事なく、味気ないコンクリート造りの建物でもなく、
純粋に中世城郭の忠実な再現を目指した姿勢が窺えて非常に良心的と云えよう。この城を見れば、観光地の
近世城郭とは違う、質素で剛健な戦国期城郭の様子がありありと想像できるのではないだろうか。■■■■■
そういった意味で、城郭初心者にもオススメしたい城郭である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
これら一連の復元工事の中で、特に記しておきたいのが一曲輪東虎口の整備。ここには木橋と二階門が再建
されているのだが、旧来の遺構を保存するため、門は本来の位置よりも1.5m斜め後方にずらして建てられた。
とは言えその姿は木造の本格的な城門再現そのもの。史跡保護と遺構復元を両立させた見事な整備例として、
今後の史跡整備事業の先駆となるのではなかろうか。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ただ、現代工法(部材、原材料)を用いない事で風雨による劣化も早いらしく、これらの再現建造物は土壁が
剥げ、柱や板壁に腐食が見られる事が多い。無論、適宜の修理・補修がその都度行われているものの、戦国
当時もこのように維持管理が難しかったのかと考えさせられ、そういう意味でも多くを学ばせて貰える城だ。■
この他にも公園化された城内には関宿城(千葉県野田市)の現存薬医門が移築されていたり、堀之内大台城
(茨城県潮来市)の発掘調査を元にした再現御殿が建てられており「こんなモノまであるのか!」と驚かされる。
もちろんこれらは見学可能で、戦国城郭を勉強するのにうってつけと言える城跡でござろう。■■■■■■■■
交通の便が悪いのが難点。残念ながら、公共交通機関で行くのは至難である。また、周囲に目印となるような
施設もなく、地図上で「坂東市の北端部」としか説明できない。ナビ頼みで車を使い直接乗りつけるしか方法が
ないのだが、そのぶん駐車場は完備されている。2010年代になって圏央道の茨城県区間が順次開通したので
境古河IC、若しくは坂東ICを利用するのが便利であろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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