常陸国 関城

関城址碑

所在地:茨城県筑西市関舘
(旧 茨城県真壁郡関城町関舘)

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★★■■■
公園整備度:☆■■■■



南北朝時代の激戦地として有名な城郭。現在は市町村合併で筑西市となったが
以前の町名「関城町」はこの城から採られていた。当地を代表する史跡と言える。
その名の通り、関城の城主は関氏。鎌倉時代初頭、下総国結城領主であった
結城朝広の4男・朝泰が分家しこの地に根付いた事から始まる一族でござる。
関城が戦乱に巻き込まれるのはそれからおよそ100年後。
鎌倉幕府打倒を為した後醍醐天皇であったが、共に倒幕を戦ってきた
足利尊氏と不和になり、後醍醐天皇は吉野に南朝を立て、尊氏は京都で
北朝を興した。こうして、南朝と北朝が両立し互いの撃破を狙う
南北朝時代が到来するわけだが、この渦中で関城が戦いの焦点となるのである。
軍事的に劣勢の南朝は、北朝に一矢報いるため奥羽地方の軍勢を味方にし
京都へ攻め上がる反攻作戦を企画。1338年(延元3年・暦応元年)、南朝方の
有力人物であった北畠親房(きたばたけちかふさ)や白河結城氏の結城宗広が
伊勢から海路で東北地方へ向かい軍事動員を行うものとされた。しかし船は遭難、
親房は常陸国東条浦に漂着してしまう。東北へ向かう術を絶たれた親房は
常陸の豪族・小田氏の庇護下に入り、その居城である小田城に寄宿。
そこで親房は「神皇正統記」などの史書を執筆し始め、南朝の正統性を主張し
近隣豪族の参集を求めた。関城主の関宗祐・宗政父子や下記の大宝城主・下妻政泰は
この求めに応じ、小田城・関城・大宝城は南朝方の一大拠点になったのでござった。
ところが北朝方は親房を倒すべく、勇猛で知られる高師冬(こうのもろふゆ)を
派遣し、まず小田城への攻撃を開始。師冬や佐竹氏の連合軍に攻められた小田城は
1339年(延元4年・暦応2年)に奮戦虚しく陥落、城主・小田治久は降伏し
北畠親房は落城寸前に脱出した。逃げた親房が頼りにしたのがここ関城。
彼は移居した関城で「神皇正統記」を完成させ、白河の結城親朝(宗広の子)に
援軍を要請、なおも北朝への抵抗を続けるが、親朝は劣勢の南朝を見捨てて
北朝に投降。援軍を得られぬまま関城にも師冬の大軍が押し寄せる事になる。
関城は北から南へと延びる舌状台地の南端部を利用して築かれた城郭。
そのため東・南・西の三方は一段低い湿地帯となっていた堅城で
守城側はこれら天然の地形を存分に利用して堅固な防御線を構築していた。
唯一地続きの北側には大規模な堀切を掘削して進入路を切断。
また、南に控える大宝城との連携を強めて攻城軍を撹乱する戦術を展開。
関城の守りは鉄壁かと思われた。
これに対し、攻撃側の師冬は密かに坑道を掘って城内への侵入を試みる。
よもやの奇襲に混乱した守城側は敗退、最後の意地で親房を逃亡させるも
1343年(興国4年・康永2年)11月11日にとうとう落城、城主の
関宗祐・宗政父子は城と運命を共にしたという。
現在、城跡はほとんどが宅地や田畑になってしまったが、それでもそこかしこに
土塁や堀切の痕跡を見る事ができる。また、攻城に使われた坑道や
船着き場の跡も現存する。これらの残存状況や、関東における南朝方最後の
拠点としての歴史が評価され、関城跡は1934年(昭和9年)5月1日に
文部省指定第181号を以って国の史跡に指定されたのでござる。
城の中心郭跡には関父子の墓と伝えられる宝篋印塔(ほうきょういんとう)や
関城址の石碑(写真)が建立されている。また、北朝方武将で関城攻撃において
戦死した結城直朝の墓もある。なお、落城の日を関一族の命日とし、
毎年この日に墓前際が執り行われているのも記しておく。


現存する遺構

堀・土塁・郭群・攻城坑道
城域内は国指定史跡








常陸国 大宝城

大宝城址 大宝八幡宮

所在地:茨城県下妻市大宝

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★■■■
公園整備度:★■■■■



鎌倉時代中期の1232年(貞永元年)、下野国小山(おやま)一族(諸説あり)の
下妻修理権亮長政が築城したとされる城郭。その起源を平安時代に遡る説もある。
(1086年(応徳3年)下津間盛幹による築館との事。なお、下津間氏と下妻氏は別家)
大宝城は関城と相対するような立地にある城で、南から北へと延びる
半島状の台地を利用した縄張り。台地北端部に曲輪が構えられ、西・北・東が
大宝沼と呼ばれる泥湿地に囲まれており、この大宝沼はそのまま関城を取り囲む
湿地帯まで繋がっていた。つまり、大宝城と関城は大宝沼を挟んで南北に対面する
“対の城”と呼べるような関係にあったのでござる。城地には平安時代に
藤原時忠が豊後国の宇佐八幡宮を勧請した大宝八幡宮が置かれており、
この八幡宮を創建した年が701年、つまり大宝元年であった事から
大宝八幡宮・大宝城・大宝沼の名が付けられたと考えられる。
関城の項で記した通り、大宝城も南北朝期の南朝方拠点として活用された経緯を持つ。
小田城が陥落した後の1341年(興国2年・暦応4年)11月、北畠親房と共に
小田城で籠城していた興良親王(おきながしんのう)は、
春日中将顕国(かすがちゅうじょうあきくに)に伴われ大宝城へ入城。
大宝城主・下妻政泰(しもづままさやす)はこれを迎え入れ、関城や
下妻(多賀谷)城と連携しつつ、北朝方に抵抗を続けた。
これに対して北朝方の高師冬が大攻勢をかけたのは既に書いた通り。
関城が落ちた翌日にあたる1343年11月12日、高師冬配下武将である
小笠原貞宗の大軍によって大宝城も陥落し下妻政泰らは討死したのでござった。
城の規模は東西288m・南北576mとされ、台地の北端が本丸。
南方が大手口とされ、東側が搦手(裏口)になっていた。
城跡の現況は大宝八幡宮の境内や大宝小学校の敷地となっているが
神社の裏手などに土塁や堀切の痕跡がわずかに見受けられる。
また、八幡宮本殿裏側の平地(曲輪跡か?)に1931年(昭和6年)5月
「贈正四位下妻政泰忠死之地」の石碑、1943年(昭和18年)11月には
「下妻政泰公碑」の石碑がそれぞれ建立され、城主の遺徳を偲んでいる。
関城と共に1934年5月1日、国の史跡に指定。それほど保存作業が行われている
様子は見受けられないのだが、関城〜大宝城に繋がる敷地一帯に
「史跡指定地内」の標柱が設置されているのに驚かされる。
…と言うか、「ここは大宝沼の中だった所だろ?」という所にばかり
この標柱が乱立(!)しているので、本当にどこまでが史跡に該当する場所なのか
よく分からなくなる。これを見るとむしろ混乱するのでは… (ーー;
ちなみに現在に残る大宝八幡宮本殿は1577年(天正5年)の建立。時の下妻城主
多賀谷(たがや)下総守重経(しげつね)が勧進したもので、国の重要文化財である。


現存する遺構

堀・土塁・郭群
城域内は国指定史跡








常陸国 多賀谷(下妻)城

多賀谷城址碑

所在地:茨城県下妻市本城町

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:☆■■■■



当地の豪族、多賀谷氏累代の居城。もともとは下妻城の名であったが
城主の姓から多賀谷城と呼ばれるようになったとされている。多賀谷氏の出自は
桓武平氏に繋がると言われ、下総の名族・結城氏の家人として代々仕えていた。
さて、室町時代の関東地方は幕府の東国統制機構である鎌倉府が治めていたが
京都の幕府に対して反抗を見せる事が多く、鎌倉公方足利氏と本家の足利将軍家が
激しい対立関係にあった。これに加えて鎌倉府の中でも、鎌倉公方と
補佐官である関東管領・上杉氏がいさかいを起こす事件が度々発生しており
足利将軍家・鎌倉公方足利氏・関東管領上杉氏の三者が集合離散を繰り返す
混沌の中にあったと言える。こうした最中の1454年(享徳3年)、鎌倉公方の
足利成氏が関東管領・上杉憲忠(うえすぎのりただ)を攻め殺す事件
いわゆる「享徳の大乱」が勃発した。この時に多賀谷氏が成氏の命令により
憲忠の首級を挙げたと言われ、その功績によって下妻庄内33郷が恩賞として
与えられる。翌1455年(康正元年)多賀谷氏当主の多賀谷家稙(いえたね)が
下妻庄に入り、当初関城を居城と定めたもののすぐに南へ居を移し
新たな城を築いて本城とした。これが現在に続く下妻城の発祥でござる。
下妻城は別名で「浮島城」と呼ばれ、沼の中の島と島を繋いだ
要害堅固な水城であったという。この城を拠点とした多賀谷氏は、
次第に結城氏の支配から脱し、独立の気配を見せるようになる。
多賀谷氏と結城氏の確執と和睦を繰り返す時代が到来し、遂に1534年(天文3年)
下妻城の多賀谷家重は小田城の小田政治と図り結城政勝への攻撃を開始した。
一方、家臣の山川氏や血縁関係にあった小山氏の軍を得た結城氏は
大方原の戦いでこれを撃退、最終的に水谷(みずのや)氏の仲介によって
多賀谷方と結城方は停戦する事となる。しかし1547年(天文16年)5月にも
同様の戦闘が発生、さらに1560年(永禄3年)1月には結城晴朝の留守を狙って
多賀谷・小田・佐竹・宇都宮ら諸勢力の連合軍が結城城を攻撃する事件も起きている。
この後、多賀谷氏は周辺の小勢力の領土を侵犯する事で少しずつ勢力を拡大。
また、弱体化していった小田氏と手を切り、その封領も奪っていくようになる。
豊田氏や岡見氏らはこうして滅ぼされ、多賀谷領は20万石程度にまで増加したと
見られる。それもこれも、全ては結城氏を上回る力をつける為の戦略であった。
ところが1590年(天正18年)、天下取りに王手をかけた豊臣秀吉が
関東平定の軍を発し、小田原後北条氏を攻撃した。関東・奥羽の諸勢力は
秀吉に従うか、後北条氏に与するかの二者択一を迫られたわけだが
多賀谷氏は秀吉への帰順を申し出た。その結果、本領である下妻6万石は
安堵されたものの、旧来通り結城氏の配下に組み込まれる命を受けたのでござる。
これが不満だったのか、1592年(文禄元年)からの朝鮮出兵命令に際し
多賀谷氏は兵を出さず秀吉の意向に背いた。その結果、多賀谷領は多くが没収され
下妻城も破却するよう命じられる。さらにその後、秀吉没後の1600年(慶長5年)
天下を二分する関ヶ原合戦の時に多賀谷氏は佐竹氏らと歩調を合わせ
徳川家康への味方をしなかった。戦後になってこれが咎められ、改易。
1601年(慶長6年)2月、下妻多賀谷氏は追放され城を去る事になる。
城主・多賀谷重経が城を退去する際、奥方や城内の女中らは
その後の行く末に絶望し、各々自害して果てたと言う。領民らはこれを哀れみ、
遺体を集め城中三ノ丸の一角に合葬。この墓塚は今に伝わり、
美女塚と呼ばれている。同時に下妻城は完全に破却され廃城となった。
1606年(慶長11年)、徳川家康の11男・徳川頼房(よりふさ)が石高10万石で
下妻に封じられるが、1609年(慶長14年)水戸へと移される。頼房こそ
徳川御三家の一つ・水戸徳川家の始祖であるが、一時は下妻に領を得ており
もしかすると下妻徳川家、という筋書きになったかもしれない。
さらに1615年(元和元年)には松平忠昌(結城秀康の2男)、1616年(元和2年)に
松平定綱が下妻に封じられたが、天領時代を経て1712年(正徳2年)からは
井上氏が1万石で領有する事になった。以後、明治まで井上氏の領土とされたが
城が復興される事は無く、城跡とは別の場所に陣屋が構えられたのみであった。
現在の城跡は完全に下妻市街地の中で開発・整地されてしまい遺構は何も無い。
下妻市役所の傍で多賀谷城址公園とされている空間が城跡であるが、その痕跡は
1890年(明治23年)12月に建立された多賀谷氏遺跡碑が本丸跡に建つくらいで
公園内の土塁等もかつての城郭遺構ではなく、新たに築かれたものでござる。
申し訳程度に?1977年(昭和52年)3月22日、市指定の史跡とされた。


現存する遺構

城域内は市指定史跡




真壁城  逆井城・豊田城・石毛城