古豪・真壁氏の本拠地たる大城郭■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
筑波山の北麓にある古城郭。真壁体育館(旧真壁町立体育館)の裏手に広がる真壁氏累代の平城で、
往時の敷地面積は約9万9000uに及ぶといわれる広大な城跡でござる。■■■■■■■■■■■■■
城が築かれたのは平安時代末期まで遡る。真壁氏は桓武平氏から分派した常陸大掾(だいじょう)家の
一族で、大掾多気直幹(たげなおもと)の4男・六郎長幹(ながもと)がここ真壁郡に封を得た事で真壁の
姓を名乗るようになった。それに伴って古代真壁郡衙跡に城が築かれ、以後400年以上に渡り真壁氏が
本拠としたものだ。時に1172年(承安2年)の事であった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
真壁長幹が築城した時期は源平争乱から鎌倉幕府成立に向かう時代である。長幹は源頼朝の勢力が
伸びるにつれその指揮下に入り、頼朝から常陸守護に任じられた八田右馬允知家(はったともいえ)に
従って1189年(文治5年)奥州藤原氏討伐に参戦、翌1190年(建久元年)には頼朝の随伴衆として京都
上洛も行っている。2代・友幹(とももと)、3代・時幹(ときもと)も勢力を拡大し、1254年(建長6年)になると
鹿島大使として鹿島領も手にする。4代・成幹(なるもと)、5代・行幹(ゆきもと)の時代を経て、6代・幹重
(もとしげ)の頃に南北朝の戦乱を迎えたが、北関東とくに常陸国は南朝方勢力の一大拠点となっていた
為、真壁氏も南朝方に与した。近隣の小田城(茨城県つくば市)にあった小田(八田氏から改姓)常陸介
治久(はるひさ)は南朝の重要人物・大納言北畠親房(きたばたけちかふさ)を擁しており、幹重もこれに
従ったのだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし時流は北朝に味方し、南朝は次第に劣勢となっていく。斯くして真壁城は北朝方の勇将・高三河守
師冬(こうのもろふゆ)に落とされ、降伏した幹重は室町幕府初代将軍・足利尊氏へと臣従する事になる。
これで真壁氏は本領を安堵され、1344年(興国5年/康永3年)7代・高幹(たかもと)は尊氏から真壁郡内
9郷の地頭職を補任されたという記録が残っている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以後、真壁氏は常陸南部の在地領主として京都室町幕府の影響下に置かれた。■■■■■■■■■
幾多の戦いに直面した真壁氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
が、15世紀の関東地方は鎌倉府(鎌倉に設置された室町幕府の東国統制機関)と、本家である京都の
幕府との間で争いが絶えず、また、鎌倉府の内部でも長官である鎌倉公方と補佐官である関東管領が
対立する事もあり、騒乱が多発した。真壁氏もこれら数々の戦で右往左往せざるを得ず、難しい立場に
置かれていたのでござる。順を追って説明すると、1416年(応永23年)関東管領の上杉氏が鎌倉公方に
造反した上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)の乱では鎌倉公方・足利左兵衛督持氏(もちうじ)方に参陣して
反乱軍を討伐し勝利を掴んだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
だが1422年(応永29年)今度は幕府に対して反乱を起こした持氏に対し、真壁氏11代・秀幹(ひでもと)は
近隣の小栗常陸介満重(おぐりみつしげ)らと共に幕府方として戦った。このため、真壁城は持氏配下の
将・宍戸弥五郎満里に攻められ、翌1423年(応永30年)に落城。恐らくこの時に秀幹は戦死したと云われ
秀幹の子で12代の慶幹(よしもと)は降伏し出家。真壁氏は持氏から所領を没収され、一時御家断絶の
憂き目を見るのだった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この後、秀幹の甥・朝幹(とももと)が鎌倉府に御家再興を働きかけ、1436年(永享8年)真壁氏の復権が
認められた。ところが1439年(永享11年)に秀幹の遺児とされる氏幹(うじもと)も真壁氏当主の座を狙い
台頭、家中は二分され内輪での争いが発生してしまった。結果的に氏幹は破れ、朝幹により平定された
ものの、戦国の動乱が激しくなるにつれ、真壁氏の中でもそれに合わせた動きが見られたと言えよう。■
家中の統制を強化した真壁氏はこれ以後、近隣の豪族とも戦いを繰り広げて勢力を拡大していく必要に
迫られる。戦国乱世が本格化する頃の真壁郷は、同盟を組んでいた小田氏、小田氏に敵対する佐竹氏、
佐竹氏の盟友・江戸氏、鎌倉公方からの流れを汲む古河(こが)公方・足利氏、下総に古くから根付いた
結城氏など多くの勢力に囲まれており、広く見れば南関東の小田原後北条氏や越後の長尾(上杉)氏ら
巨大な大名の影響力が及ぶ地域でもあった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
次第に佐竹配下となっていく真壁氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうした中、真壁氏は1481年(文明13年)小田氏の意向に従い江戸氏を攻撃。16世紀に入ると結城氏と
小田氏が交戦する事態となり、真壁氏は小田氏を助け結城氏と交戦した。ところが、小田氏と真壁氏の
同盟は1548年(天文17年)小田氏当主・左近衛中将政治(まさはる)の死によって終焉を迎えた。斜陽の
小田氏を見限り、真壁氏17代・安芸守久幹(ひさもと)は結城氏との同盟に切替えたのだ。逆襲を試みる
小田氏は1559年(永禄2年)、結城氏の当主・左衛門督政勝(まさかつ)が死去した間隙を突いて結城城
(茨城県結城市)を攻めるものの、政勝の弟・小山下野守高朝(おやまたかとも)が防戦に努め、これに
下館城(茨城県筑西市)主・水谷伊勢守治持(みずのやはるもち)と真壁久幹の援軍が加わり、小田軍は
敗走した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
巧みな政治感覚と剛勇を鳴らした久幹は、剣豪の塚原卜伝(つかはらぼくでん)に師事した豪傑。神道流
(しんとうりゅう)の極意を会得した彼は「鬼道無」「夜叉真壁」などと称され、敵に恐れられた。その久幹は
1561年(永禄4年)佐竹氏とも同盟。小田氏の没落は決定的となり、常陸国では佐竹氏を頂点とする支配
体制が確立していく。と同時に、南関東は大半が小田原後北条氏の領土になり、北の上杉氏と手を組む
東の佐竹氏が南の後北条氏と激烈な抗争を繰り広げる時代が到来。久幹の跡を継いだ18代の安芸守
氏幹(うじもと)は、やはり「鬼真壁」と称される戦いぶりで佐竹氏を援け後北条氏の北進を阻止したとか。
数々の武功を挙げた氏幹は1590年(天正18年)家督を甥の右衛門佐房幹(ふさもと)に譲ったが、丁度
この年に豊臣秀吉が小田原を討伐し全国平定を成し遂げた。佐竹氏は秀吉に従い常陸国を安堵され、
統制を強化。これにより同盟関係であった真壁氏は主従関係に改組され、佐竹氏の家臣として組み込ま
れたのでござる。これら歴代の戦いの中で真壁城は「地方の武家居館」から「大規模な戦国城郭」に拡張
されていった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて秀吉没後の1600年(慶長5年)天下の覇権を賭けた関ヶ原合戦において佐竹氏は東軍・徳川家康の
意向に従わなかった。これを咎められ、1602年(慶長7年)佐竹氏は出羽国久保田(秋田県秋田市)へと
国替えになり、真壁氏も随行し角館(秋田県仙北市)へと移る。■■■■■■■■■■■■■■■■■
ここに真壁氏400有余年の歴史は幕を閉じ、新たな真壁城主には浅野采女正長重(ながしげ)が5万石を
以って任じられた。その浅野家も1622年(元和8年)に5万3500石となって常陸国笠間(茨城県笠間市)へ
移封、1624年(寛永元年)に1万石で稲葉丹後守正勝(いなばまさかつ)の領地に編入されたが、1628年
(寛永5年)下野国真岡(もおか、栃木県真岡市)4万石に移され、真壁の地は天領や笠間藩領の飛地と
なったのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうした過程の中で真壁城は廃され、450年にも及ぶ城の歴史にも終止符が打たれた。■■■■■■■
果てない城域、美しく変貌する過程■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在、部分的に田畑や宅地となった真壁城跡であるが、それでもそこかしこに土塁や堀が残され、保存
状態は比較的良好だ。縄張り的には、西から東へ本丸・二ノ丸・中城・陣屋郭などの曲輪が一列に並ぶ
連郭式の城郭。何といってもその敷地は広大なので、平城という事もあり、西端の本丸跡から眺めても
陣屋郭の果ての東端まで見渡す事は難しいほどである。何重にも巡らされた堀、連続する屈曲で多重の
防衛線を構築する曲輪や馬出状小曲輪の複雑な接続、どこを見ても技巧的で唸らされる構造は、恐らく
大大名・佐竹氏の力を用いて作られたもの想像される。中城(三郭)跡からは庭園遺構も検出されており
真壁氏がこの地域で絶大な権力を維持した様子が垣間見える。■■■■■■■■■■■■■■■■■
但し、この城に石垣は使用されていない(真壁は石の名産地なのだが)。それどころか、発掘の結果では
真壁氏が去った後この真壁城が使われた痕跡すら見つからない。反対に破城の証拠となる遺物が出て
浅野氏はこの城を破却し、使用しなかった(近世城郭にはしなかった)ようである。だとすれば、これだけ
広大で技巧的な縄張りは真壁氏が完成させた事になる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
推定される城域は東西700m×南北500m程。最東端の鹿島神社(これは前衛の櫓台だろう)周囲は深く
急峻な堀が取り囲み、ここはまだ未整備地区なので当時の荒々しい雰囲気が存分に残っている。反対に
往時は本丸の西側(現在は住宅地の地域)も城の外郭となっていたようなので、実際にはもっと広かった
ようだ。とりあえず本丸より東の広い敷地がほぼ手付かずで残されていた事から、1934年(昭和9年)12月
18日に本丸の一部が茨城県指定史跡となり、更には1994年(平成6年)10月28日に国指定史跡とされた。
これに伴い発掘調査や復元工事が順次行われており、次第に史跡公園として整備されつつある。本丸に
近い部分からこれらの公園整備が完了していて、現状では城跡の半分ほどが綺麗な状態で見学できる
ようになった。と言ってもこれだけ大規模な城址を全て整備するのは並大抵の事ではないようで、先端の
東側はまだ調査・整備の真っ最中。作業は当分かかかりそうでござる。今後の進展に期待したい。■■■
なお、真壁氏19代・房幹によって城門が桜川市内の名刹・真言宗雨引山楽法寺に寄進された。この門は
修理の度に改変を受けているものの概ね原型を留めており、真壁城の建築物で唯一現存するものとして
貴重な存在である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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