常陸国 木原城

木原城本丸入口土橋

所在地:茨城県稲敷郡美浦村大字木原

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★■■■
公園整備度:★★☆■■



霞ヶ浦湖畔の静かな村、美浦村にある小さな城跡。木原小学校の裏手にござる。
この城の最大の特徴は、非常に特異な縄張りでござろう。
通常、城郭というものは三ノ丸→二ノ丸→本丸と、重要部分へなるにつれ
標高が高くなっていくものである。これは、籠城戦の際に最後まで抵抗が続けられる
本丸が戦闘指揮所となる為、眺望の利く高所を占位する必要があるという理由と
攻め寄せる敵兵を城の外側へと叩き落すという戦術がセオリーになる理由からだ。
ところが、この木原城は全く様相が異なる。三ノ丸→二ノ丸→本丸となる程、
標高が低くなるのだ。つまり、城内で最も低い場所が本丸なのでござる。
これはどうやら、防衛構想に霞ヶ浦の存在を盛り込んだ故の特殊な事情によるようだ。
城の縄張り図を見ると、三の曲輪・二の曲輪・詰曲輪(本丸)が階段を下りる様に繋がる
言わば“逆梯郭式”の縄張りとなっており、詰曲輪の裏手には大規模な堀と搦手口(裏口)が、
更に搦手口の先には船着場が続くようになっている。この船着場から船を出すと
そのまま霞ヶ浦に出る事ができるのだ。よって、船を使った脱出経路を確保するために
本丸の位置が決定され、それに基づいて二ノ丸・三ノ丸が構成されているのである。
湖を背にしたいわゆる「後ろ堅固」形式の城郭であるが、それにしても
本丸が最も低い位置にあるというのは極めて異例。城郭愛好家なら必見の城でござる。
さて、そんな木原城の創建時期などはよくわかっていないが、
近隣の江戸崎を治めていた土岐(土岐原)氏の家臣である近藤氏の居城と伝えられる。
文献に初出するのは1504年(永正元年)の事。伊佐部村に居城のあった
近藤氏元が、その居城が焼失したために神越城に移った、とあり
どうやらこの神越城というのが木原城の旧名らしい。1506年(永正3年)に
神越村は木原村と改称されているので、「木原城」の名もこの時からであろう。
同年には近藤利勝が木原城主となったという記録も残されている。
近藤氏、そして土岐氏らは近隣の大名と度々交戦に及ぶ事があったようで
1523年(大永3年)には小田氏(つくば市小田に居を構える古豪)と戦った。
戦乱で荒廃していく木原城は、1562年(永禄5年)土岐治美によって修築を受け
近藤義勝(利勝とも)が守将に任じられる。その後も木原城を巡る戦いは続き
1574年(天正2年)には江戸崎監物(江戸崎の土豪か?)が来攻、さらに
1583年(天正11年)には常陸国(現在の茨城県のほぼ全域)の大半を有する大大名、
佐竹義重とその嫡子・義宣、及び白川義広(同じく義重の実子で後の芦名盛重)の軍が
木原城を攻撃したのでござった。歴戦をくぐり抜けた木原城であったが、
それにもかかわらず土岐氏の影響下にあったようで、1589年(天正17年)には
土岐氏の勢力は龍ヶ崎・木原などを治め、軍勢にして1500騎を動員できる程であった。
これは南関東を支配下に収めた小田原の後北条氏が後ろ盾になっていた為らしい。
ところが、その後北条氏は1590年(天正18年)に豊臣秀吉の攻撃を受けて滅亡してしまう。
これで勢力を失った土岐氏とその諸城は、秀吉に与していた佐竹義重に降伏。
もちろん、この中に木原城も含まれており申す。
佐竹方に吸収された江戸崎一帯は、翌1591年(天正19年)芦名盛重の所領となった。
さらに関ヶ原合戦後の1603年(慶長8年)、江戸崎領は徳川譜代家臣である
内藤清成と青山忠成に与えられたが、この頃に木原城は廃されたと見られる。
現在の城跡は小高い森の中にある史跡で、三ノ丸や二ノ丸は畑となってしまっているが
それでも土塁や堀などの遺構が確認できるため、容易に城跡だと判別できる。
城内に進むにつれて低くなる構造を補うべく、こうした土塁や堀はかなり大掛かりで
木原城の防備が行き届いていた事を伺わせる。三ノ丸から二ノ丸、二ノ丸から本丸は
こうした遮蔽物に遮られ、様子を探るのはかなり困難だ。二ノ丸と本丸は土橋によって
接続されており(写真)、特にこの虎口は(木原城の築城年代から考えると)守りが堅い。
写真を見てもらえばわかるように、深い堀で分断された二つの曲輪は
土橋を渡らねば進む事ができず、しかも橋のすぐ目の前にはかなり高い土塁が築かれ
本丸内部の状態を確認する事が不可能である。無論、渡橋後には食い違い虎口が控える。
本丸の中は現在、児童公園になっていて遊具などが置かれている。
その脇にはかなり大きな展望台が建てられており、霞ヶ浦を望むことができる。
さらにこの本丸を発掘したところ、深土層からは縄文時代のV字型環濠集落痕が検出された。
これにより、木原城の敷地が戦国時代のみならず、古代から
人々の生活場所となっていた事が確認された。漁場となる霞ヶ浦の目の前にある
高台なので、古代の生活においてはうってつけの場所だったであろう。
加えて、鎌倉時代の鉄観音像や15世紀頃の生活土器なども発見されているため、
この場所が縄文時代以来、江戸時代に至るまで継続して人々に
使用され続けたという事実が検証できよう。歴史の深さを知らされる城跡でござる。


現存する遺構

堀・土塁・郭群




小田城  真壁城