常陸国 小田城

小田城址標柱

所在地:茨城県つくば市小田

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★★■■■
公園整備度:☆■■■■



築城時期は12世紀末にまで遡る、歴史の古い城郭。南北朝時代の歴史書である
神皇正統記執筆の舞台として日本史上に名が残っている城としても有名でござる。
小田城主は、名前の通り累代の小田氏である。その小田氏の系譜を遡ると
平安時代の関白・藤原道兼に突き当たる。道兼の曾孫・朝綱は宇都宮氏と改姓、
さらに朝綱の孫・知家は八田の姓を名乗るようになった。この八田知家は
源頼朝の鎌倉幕府開設に与力し、常陸国(現在の茨城県ほぼ全域)守護を任じられた。
こうして築かれたのが小田城でござる。知家は1193年(建久4年)に
近隣の豪族・多気義幹を滅ぼし勢力を拡大、常陸国南部に根付いた。
知家の曾孫である4代目、時知の時に小田氏に改姓したとされる。
(これは異説もあり、知家の時から小田氏を名乗ったとも言われる)
さて、常陸守護である小田氏は常陸国南部の小田城周辺に威勢を張ったものの
常陸国北部は佐竹氏が領有しており、そちらには勢力が及ばなかった。
小田氏と佐竹氏は不倶戴天の敵とも言える間柄で、常に敵対する行動を起こし
互いの領地を狙おうと画策する状態にあった。こうした状況の中、
次第に鎌倉幕府は衰退し、討幕運動が盛り上がっていく。倒幕計画の中心にいたのは
京の朝廷にある後醍醐天皇とその近習たちで、幕府の警戒をかいくぐっては
会合を開き、幕府を倒す手筈を整えようとしていた。しかしこれらの行動は
鎌倉側へ漏れ伝わる事になり、その度に天皇の近習らが罪に問われ刑に処せられた。
1332年(元弘2年・正慶元年)倒幕計画破れた天皇らは各地へ流罪となり
天皇の側近公卿、万里小路藤房(までのこうじふじふさ)は常陸国へと流された。
この時、藤房を迎え入れたのが小田氏7代当主(時知の曾孫)の治久でござる。
藤房と親交を深めた治久は次第に後醍醐天皇へ味方するようになって行く。
一方、甲斐源氏の血脈である佐竹氏は、源氏総領である足利氏と交誼を結び
鎌倉幕府滅亡後に足利尊氏の信を得て室町幕府設立に力を貸した。
武家政権を嫌う後醍醐天皇は尊氏と敵対するに及び、南北朝の争乱が開始され
北朝を頂く尊氏に味方する佐竹氏と、後醍醐天皇による南朝を支持する小田氏は
やはり敵として対立する関係を醸成したのでござった。
以後、小田氏は関東地方における南朝支持勢力として重要な地位に立たされた。
その頃、軍事力で劣勢を強いられる南朝方は、後醍醐天皇の腹心である
北畠親房(きたばたけちかふさ)が起死回生の逆転計画を立案。
それによれば、親房がいったん畿内を離れ東北地方へ下向し
同地の兵力を総動員して京都に進撃、足利軍を討ち滅ぼそうというものであった。
こうして畿内を出た親房は、船で太平洋を渡り東北へ向かったが
その途中で暴風雨に遭い遭難、犬吠埼付近に漂着したのでござる。
時に1338年(延元3年・暦応元年)夏の事である。常陸に辿り着いた親房を保護したのは
やはり小田治久であった。小田城に身を寄せた親房によって記されたのが
冒頭に解説した神皇正統記なのである。こうした史書を作る事で
南朝こそ正統の皇室であると喧伝し、味方を募ろうとしたのだ。
しかし親房の思惑は振るわず、南朝は衰えていくばかり。次第に南朝方諸将は
北朝へと降伏していき、小田城も尊氏の重臣・高師冬(こうのもろふゆ)と
佐竹氏の軍勢によって攻撃を受け、落城の止むなきに至った。
斯くして1339年(延元4年・暦応2年)、南朝方の重鎮であった小田治久は北朝に投降、
北畠親房は小田から逃亡し奥州へ潜伏するようになったのでござる。
師冬の裁定により、小田氏は所領を激減された上、常陸守護の職を佐竹氏に奪われた。
1341年(興国2年・暦応4年)の事である。この時から、小田氏の凋落は始まっていく。
所領を大幅に失った小田氏は、足利将軍家の命令に忠実に従い数々の関東戦乱に参戦、
武功を挙げて失地の回復に努めようとした。が、関東地方の統治体制は
足利将軍家・鎌倉公方府・関東管領上杉氏・各地守護など複雑に利権が絡まり
なかなか小田氏は勢力を挽回できない。
武功を挙げても、恩賞を貰える状況ではなかったのだ。
こうした情勢のまま、時代は戦国乱世に突入。勢力を弱め、
一地方豪族に落ちた小田氏はさらに一族内で内紛まで起こしてしまう。
13代当主・治孝に対して、その弟である顕家が叛旗を翻し家督を狙ったのである。
敵対する佐竹氏の南進、御家乗っ取りを狙う顕家など、様々な難局を抱えた治孝は
これを打開すべく堀越公方(関東における幕府の出先機関)足利家から養子を迎えた。
14代当主・政治の登場でござる。権威ある足利家から当主を得る事で、
小田宗家に逆らう者は将軍家に逆らうという印象を与え、敵対勢力を抑えようとしたのだ。
これは一定の成果を見せ、顕家の増長や佐竹氏の侵略は回避する事ができ申した。
しかし、この頃の北関東は堀越公方と対立する古河公方(同じく幕府の出先機関)の
影響力が大きく、小田氏の家督相続は北関東諸豪族との軋轢を引き起こす。
さし当たって最も大きな課題となったのは、下総国結城(茨城県結城市)の古豪
結城氏との対立でござる。結城氏は古来から古河公方を助けた名門で、
その軍事力も、他豪族よりも抜きん出た実力を持っていた。
この結城氏とは1537年(天文6年)正月に対戦、敗戦を喫している。
1548年(天文17年)に没した政治の跡を継いだ15代・氏治も結城氏と対決を続け、
1556年(弘治2年)に結城軍が小田領を侵犯。これに乗じて佐竹氏も再び南進策へと転じ
小田家は結城家と佐竹家の両方から攻撃を受けるようになって行く。
防戦一方の小田氏は、南関東の大勢力である小田原北条氏と同盟を結び
佐竹氏らに対抗しようとするものの、落ち目の兵力を補うには至らない。
1569年(永禄12年)10月、小田氏治は佐竹氏に奪われた領土を回復すべく
兵を起こして合戦に及ぶが、この頃圧倒的な軍事力を有するようになっていた
佐竹氏には敵わず、敗退。手這坂合戦と呼ばれるこの戦いに敗れた氏治は
失地回復どころか手痛い返り討ちにあって、本拠地である小田城まで奪われた。
ここに小田城は落城し、400年に渡る小田氏の城主時代は幕を閉じたのでござる。
佐竹家随一の家臣にして剛勇を誇る梶原政景が、小田城の城代に任じられ
かの地を守備するようになり、土浦に逃れた氏治が小田城奪還を試みるも
これをことごとく退けるようになったのでござる。結局、小田氏はそのまま没落し
小田城の回復は成らず、氏治は1583年(天正11年)に佐竹氏に降伏する。
この間、政景の手によって小田城は大規模に改修されるものの、
1602年(慶長7年)佐竹氏が秋田へ国替えになったのを機に廃城とされたのでござった。
小田城の縄張りは、方形の曲輪が幾重にも囲うように設置された典型的な輪郭式の平城。
本丸の敷地は約2ヘクタール、城郭全域の面積は約21ヘクタールにもなり、
3重の堀と大規模な土塁でかなり強固な防御施設を備えていたように見える。
無論、鎌倉時代初頭に遡る築城時は簡素な地方武家居館に過ぎず、
八田知家の住居が構えられた本丸部分のみであった。しかしこれが順次拡大されていき
南北朝争乱期に小田城を巡って本格的な攻防が開始されるようになると、
単なる武家居館から、防衛施設たる城郭として機能するようになったのでござる。
全く起伏のない平野部に築かれたこの城は、堀と土塁による防衛が要であり
それと同時に、曲輪の複雑な構成や侵入路の迷路化を図る事で備えが強化されている。
平坦な平城ゆえに、攻撃目標となる本丸の位置を特定するのが困難であり
これらの防衛設備は侵入しようとする敵兵を混乱させるのに十分な設備だったのである。
また、城の周囲は多数の河川が流れる湿地帯であったようなので、
水利を取り込んだ事で城の防御性能は更に向上したであろう。
特に梶原政景が城代になった時期、こうした防御設備は大規模な改修工事を受けており
現在に残る小田城跡の最終的な発展が為されたのでござった。
廃城後、元の原野と化した小田城址であったが、これらの土塁や堀は良く残され
現状でもそうした起伏物は姿を確認できる。明治維新後、城跡を縦断するように
関東鉄道筑波線の線路が走ったが、今では廃止されレールも撤去された。
(啓開された線路跡の方がよっぽど堀のように見えるのが困ったモノだが (^^; )
堀・土塁・曲輪跡が残存していた事から、1935年(昭和10年)6月7日に国史跡の指定を受ける。
1999年(平成11年)には本丸周囲の堀が大規模な発掘調査をされ、
堀底が障子堀・畝堀の構造になっていた事も確認されている。
とは言え、民家が点在するほどしかない小田城の周辺は全く手付かずの野原で、
「国史跡の城跡」と言っても史跡公園整備などは全然為されていない。
(国史跡としては珍しい程に放置状態なのである)
どうやら今後こういった整備が行われる予定のようだが、
現状においては…城郭愛好家しか訪れる者のない場所と言えよう。
写真は小田城本丸隅にある史跡標柱。
その標柱の後ろに見えるかなり高い隆起が土塁に連なる櫓台跡で
この1枚の写真だけでも小田城の防衛設備が大掛かりなものであった事が伺える。
櫓台となる塁の上に立つと、何重にも広がる堀跡の姿を見通す事が出来申した。


現存する遺構

堀・土塁・郭群
城域内は国指定史跡




土浦城・藤沢城  木原城