常陸国 土浦城

土浦城太鼓櫓門

 所在地:茨城県土浦市中央・文京町・立田町・大手町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★☆■■■
★★☆■■■



“小田氏の庇護者”菅谷氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
茨城県南の主要都市にして霞ヶ浦水運を担う重要拠点、土浦の町に築かれた城。別名にして亀城(きじょう)、江戸時代に
幕府重鎮である土屋氏が居城とした土浦城だが、その創建は室町時代中期の永享年間(1429年〜1441年)にまで遡る。
築城者は現地の土豪・今泉(若泉)三郎と言われるが、この今泉氏は1506年(永正3年)に菅谷勝貞(すげのやかつさだ)に
滅ぼされ、以後の土浦城は菅谷氏の居城となった。菅谷氏は常陸国(現在の茨城県ほぼ全域に相当)南部の大名にして
鎌倉時代から続く名門・小田氏の被官であったが、戦国期すでに小田氏は力を失い、周囲の勢力に攻められては居城の
小田城(茨城県つくば市)から逃亡するという事を繰り返していた。小田城から逃れた小田氏は、その都度土浦城に逃げ
込み、時機を見てまた小田城へ帰るという事が度々続き、終いには土浦城を預かる菅谷氏も主家に巻き込まれた戦乱に
疲弊し勢力を失うようになっていったのだった。そして1578年(天正6年)、遂に土浦城までもが落城。城主である菅谷氏は
追われ、土浦周域は常陸国北部の大大名である佐竹常陸介義重の支配下に入ったのである。■■■■■■■■■
1590年(天正18年)、豊臣秀吉によって天下は平定された。秀吉の大名仕置にて小田氏の旧領は結城左近衛権少将秀康
(徳川家康の次男)の領地に組み込まれる。秀康は土浦城の城代として家臣の多賀谷安芸守政広(たがやまさひろ)を入れ
次いで政広の子・村広が任じられている。これが10年ほど続くも、関ヶ原合戦後の1600年(慶長5年)11月15日に結城家は
越前国北ノ庄(福井県福井市)67万石へ加増転封され申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

近世城郭として■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その為、江戸時代に入ると土浦の領主は3万5000石で藤井松平氏2代(伊豆守信一(のぶかず)―安房守信吉(のぶよし))
1617年(元和3年)8月から2万石で西尾氏2代(丹後守忠永(ただなが)―右京亮忠照(ただてる))、更に1649年(慶安2年)
2月に3万石で朽木民部少輔稙綱(くつきたねつな)が任じられる。稙綱死後、長男の伊予守稙昌(たねまさ)が継ぐものの、
この時、弟の則綱に3000石を分与した為に土浦藩領は2万7000石となった。しかし1669年(寛文9年)9月、稙昌は5000石を
加増され3万2000石になる一方、丹波国福知山(京都府福知山市)へ転封されている。それに代わって入封したのが土屋
但馬守数直(かずなお)、石高は4万5000石。土屋氏は左門政直(まさなお)が相続した後、駿河国田中(静岡県島田市)へ
移封され、1682年(天和2年)2月19日から大河内松平美濃守信興(のぶおき)が城主と目まぐるしく交代していく。■■
この間に土浦城は近世城郭への改修工事が行われ、特に西尾忠照期の1620年(元和6年)〜1621年(元和7年)工事では
2代将軍・徳川秀忠が日光東照宮へ参拝する帰路に土浦城へ立ち寄る予定とされた為、それに相応しい威容を整えるべく
本丸に西櫓・東櫓を造営した。また、土浦で小判が鋳造された事から北関東における貨幣経済の中心地として発展する。
駿河国田中へと移封されていたかつての城主・土屋相模守政直が、6万5000石を以って再び土浦城主に任じられたのは
1687年(貞享4年)10月3日の事である。以後、幕末まで土屋氏10代が土浦城を預かるようになった。政直は幕府老中まで
昇進して権勢を握り、赤穂浪士の吉良邸討入事件を裁決した事でも知られている。これら数々の功績により政直は3度も
加増され、土屋家は9万5000石もの封を得た。政直以降、但馬守陳直(のぶなお)―能登守篤直(あつなお)―相模守寿直
(ひさなお)―能登守泰直(やすなお)―但馬守英直(ひでなお)―左門寛直(ひろなお)―相模守彦直(よしなお)―采女正
寅直(ともなお)―相模守挙直(しげなお)と続くが、途中で養子入りして家督を継いだ者はいずれも水戸徳川家の縁者で、
為に幕末騒乱時は佐幕か尊王かで土浦藩は揺れに揺れたと言う。結局、明治維新後に土浦城は廃城とされた。城は順次
破却されて、本丸御殿は一時的に新治県(廃藩置県後に設置された県)庁舎、後に新治郡役所とされたそうだが、それも
1884年(明治17年)には火災によって本丸内の殆んどの建物を滅失してしまう。残されたのは東櫓・西櫓・鐘楼・太鼓櫓門
(本丸表門)・霞門(本丸裏門)のみで、このうち東櫓と鐘楼は火災の損傷激しく翌1885年(明治18年)取り壊されてしまった。
この間、城跡は土浦県庁、新治県庁、新治郡役所(火災後に改めて庁舎再建)、自治会館などに転用されて行った一方、
1899年(明治32年)には本丸跡地と二ノ丸の南側が亀城公園として一般開放されている。■■■■■■■■■■■
1949年(昭和24年)9月、西櫓までがキティ台風によって大きな被害を蒙り、翌1950年(昭和25年)撤去される。但し、この
解体ではいずれ再建する予定として古材を保管する事としていた。さりとて、その再建は長く果たす事が出来ぬままで、
このようにして廃れていくかつての名城を惜しみ、1952年(昭和27年)11月18日に土浦城跡は茨城県指定史跡となった。
これは茨城県史跡の第1号でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

現在は城址公園■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在の城跡は亀城公園の名で都市公園整備され、平成になってからの1992年(平成4年)ようやく西櫓の復旧を果たす。
また、1998年(平成10年)には東櫓も再建。公園の南隅にはかつて土浦城の前川口を守った高麗門も移築されている。
この前川口門は1971年(昭和46年)7月13日、市の指定文化財になってござる。■■■■■■■■■■■■■■■■
小ぶりながら豊かな自然を湛える公園内には小動物園などもあるため土浦市民の憩いの場となっている。■■■■■
さて、土浦城の縄張は輪郭式の平城。霞ヶ浦に繋がる水路を濠として幾重にも張り巡らし防備を固めた水城の形態だ。
あまりに多くの水路で囲まれているため、もはや湖の上に曲輪が浮いていると言っても過言ではない。別名の亀城とは、
五重の濠に囲まれた城の姿がまるで水に浮かぶ亀のように見える事からつけられたものなのだ。こうした濠は、城下の
町屋や武家屋敷までも独立した曲輪として機能させており、土浦の町全体が濠で仕切られた総構の構造を有するように
なっている。この濠は東に霞ヶ浦、南に上沼・下沼や桜川を取り込んでおり、さらに城外一帯が泥湿地となっていたため、
土浦城とその城下町は水郷を利用した要害であったと言えよう。今でこそこれらの水路や湿地は埋め立てられ、殆んど
消え去っているが、亀城公園は土浦城の本丸全域と二ノ丸の一部を利用して作られているので、公園内にのみかなり
大掛かりな濠が残されている。また、断片的には土塁の欠片が土浦警察署の西側に現存しているのでそれも貴重だ。
土浦城に残る現存建築物は、本丸表門であった太鼓櫓門と本丸裏門に当たる霞門。このうち、写真にある太鼓櫓門は
朽木氏城主時代に建てられたものと伝えられ、関東地方に残る数少ない楼門形式の城門として貴重な存在でござる。
また、霞門は小柄ながら虎口構造になっているため、これまた注目に値する。■■■■■■■■■■■■■■■■■
陸上交通において水戸街道を押さえ、水上交通において霞ヶ浦水系を確保し、水陸の両方において重要拠点であった
土浦の町は、今でも商業都市として栄えている。その中心にあったのが、この土浦城なのである。2017年(平成29年)
4月6日には財団法人日本城郭協会から続日本百名城の1つに選ばれ申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

太鼓櫓門(本丸表門)・霞門(本丸裏門)・西櫓(古材再建)
堀・石垣・土塁・郭群
城域内は県指定史跡

移築された遺構として
旧前川口門《市指定文化財》








常陸国 藤沢城

藤沢城主郭跡

 所在地:茨城県土浦市藤沢
(旧 茨城県新治郡新治村藤沢)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

★☆■■■
■■■■



小田氏と佐竹氏の“尽きない戦い”■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こちらも戦国時代に小田氏が佐竹氏との抗争時に用いた城。小田城に居を構える小田氏は名門ではあったが、その実
既に戦国期は実力を失い没落。戦国大名として勇躍し、先んじて常陸国の支配権を確立していた佐竹氏から何度となく
攻め立てられ、1560年代以降小田城から逃亡して藤沢城や土浦城へと転がり込んだ事は数知れず、総て列挙するのは
不可能という程だ。結局、この城は佐竹氏と獲ったり獲られたりという歴史を繰り返しており、元来の創建は南北朝時代
(小田氏が常陸国主として入府した頃?)と言われるものの定かならず、このような戦国期の争奪戦において、実質的な
構築が成されたと考える方が自然であろう。もっとも、それも佐竹氏の手によるものか小田氏の手によるものか、判断が
分かれる処で、とにかく当城の歴史は混濁した中にあったとしか言いようがない。■■■■■■■■■■■■■■
とりあえずこの城を巡る攻防戦の概略を記せば、まずは1565年(永禄8年)佐竹氏に請われた越後の上杉不識庵謙信が
小田家の征伐を狙って小田城へ来攻したため、時の当主・小田氏治(うじはる、天庵)は防戦できず逃亡、この藤沢城へ
逃げ込んだとされる。謙信が領国へ撤退した後、氏治は勢力回復を目指して同年末に小田城を奪還するも、再び謙信が
攻めた事で大敗。降伏を余儀なくされた。が、佐竹氏との対立はその後も続き、1569年(永禄12年)11月の手這坂合戦に
おいて敗北した小田軍が藤沢城に逃がれ籠城した記録が残る。但し、史書によってはこの戦いを1573年(天正元年)の
事とするものもあり、情勢は判然としない。いずれにせよ、小田城と藤沢城は何度となく佐竹勢との争いにまみれていた
ようである。また、1573年は9月から11月にかけて小田家と佐竹家との戦いが起きており、この折に小田城・藤沢城共に
落城した。もっとも、この戦いも1574年(天正2年)の事とする説も有力で、それに基づけば佐竹家の客将である片野城
(茨城県石岡市)主・太田三楽斎資正(すけまさ)が小田城を奪取したと言われ、氏治は藤沢城へと転がり込んだとの事。
本拠地である小田城を回復する執念に燃える氏治は、1585年(天正13年)に一大反攻の兵を挙げ藤沢城を奪還するも
小田城には入れず、結局1588年(天正16年)11月に佐竹方の豪将・真壁安芸守氏幹(うじもと)から攻められ、藤沢城を
再び失う始末だった。一方、氏治が1585年に藤沢城を手にしたのは佐竹氏に城を与えられた(即ち小田氏が服属した)
為とする文書もあり、兎に角この城に関する情勢は輻輳を極めてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、氏治は何度負けても復活を試みるしぶとい武将であったが、いずれも志は果たせずその都度敗退する事の
繰り返しであった。最終的に1590年、豊臣秀吉の天下統一に伴い小田氏は大名としての格を失い滅亡。佐竹氏の手に
あった藤沢城は、この時に廃城となったようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

手に余る程の巨大城郭?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて藤沢城の縄張であるが、周辺の低湿地部に比べて5m〜10mほど比高のある低台地を用いた城地内を、いくつかの
曲輪に分割していた事は間違いない。南端部を主郭とし、その東側が「中城」と呼ばれる副郭、更にそれらを囲うように
北へと曲輪群が並べられている。この台地はいくつか谷戸が入り組んでいて、そこを天然の堀として活用し曲輪を分割
していた事が良く分かる。この堀と、曲輪の縁を土塁で囲う高低差が防御の要だったようだ。しかしそれ以外には要害と
呼べるような特色は見受けられない。縄張の様態としては梯郭式?に見えるが、さりとて大した比高差もなく、全体的に
真っ平らな敷地が広がっており、しかも主郭に対する有機的な繋がりや順位の優劣も判別し難い。まるで、東北地方や
九州地方によくある「群郭式(とにかくいくつも曲輪を並べるものの、求心性が無く主要部が分からない縄張)」のようにも
見えよう。それと言うのも、「城地」として認識される区域の大きさが広大過ぎて、どこを要点にして防衛するのか、見当が
全く付かないのである。東西およそ900m×南北約700mという規模は、近世城郭ならまだしも中世の平城では無駄と思う
程の巨大さだ。戦歴から見てみれば小田城(小田氏の本拠)に対する“詰めの城”という扱いであろうが、とても緊急時に
守りを固めるような雰囲気には見えない。通説では南北朝時代以来つづく小田家の“政務所”と言われており、現実的に
そのような使われ方をしたと考える方が自然だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
廃城以後、完全に畑地や宅地となってしまった事もあり主郭(写真)をはじめとする城域の大半は全く遺構らしい遺構が
見当たらず、これまた往時の藤沢城を推測する妨げとなっている。副郭周辺の谷戸や外郭部にあたる光明院遍照寺や
浄土宗慈光山精泉寺(両寺を結ぶ線が城域北端となる)には断片的に土塁が残り、確かにここが城であった証拠には
なっているが、しかし主郭と遍照寺・精泉寺があまりにも離れているので(何せ700mもあるのだ)、現地に行って見ると
「本当にこんな所まで城として囲っていたの?」と疑念が増す一方でもある(苦笑)■■■■■■■■■■■■
戦歴と言い、構造と言い、とにかく分からない事づくめの城…と言える。■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群





古河周辺諸城館  小田城