“関東の中心”■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
茨城県の最西端に位置する古河(こが)市は、地勢的に見ると関東平野のほぼ中心にあたり、実は交通の要所である
事に気付かされる。実際、現代においては国道4号線・JR東北本線それに東北新幹線の線路が市内を縦貫している。
茨城県内で東北本線の駅があるのは古河だけであり、その重要性は昔から変わらぬものだったと言えよう。また、現在
茨城県の行政区分に入っている古河市は、旧国界では下総国に含まれる。古河を除く茨城県は常陸国なのだが、古河
周辺だけは下総国という特殊性からも、その独自の地位が確立されていた事が伺えるのではないだろうか。■■■■
(京の都に近い国ほど上位の国とされており、当然下総国の方が格上である)■■■■■■■■■■■■■■■■■
古河の歴史を紐解くと、旧石器時代にまで遡る。当時の東京湾は古河近辺にまで入り込み、利根川・渡良瀬川・思川と
いった河川の流出口となる位置に当っていたこの地には自然と集落が発生し、2万年前の遺物や縄文遺跡などが検出
されている。以来、古河は河川や海を利用した水運の拠点として発展。平安後期になると関東武士が台頭するように
なるが、彼らの戦いの中にも古河という場所がしばしば登場するようになる。有名なものでは、源頼朝に背いた常陸の
豪族・志田信濃守義広を討伐する際、下河辺(しもこうべ)氏が「古我(古河)・高野等渡」を固め討ち止めたとの記録が
吾妻鏡(鎌倉時代の史書)にある。水運の要地という事は、当然ながら河川を利用した戦略上の要地でもあった訳だ。
下河辺氏は鎮守府将軍・藤原秀郷の子孫と言われる一族で、鎌倉時代には下河辺行平(ゆきひら)が頼朝の御家人に
加わり、初めて古河に城館を築いたと伝えられているのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ちなみに、「古河」という字が当てられるようになるのは南北朝時代の事らしい。下河辺氏はその南北朝期あたりまで
古河に城館を保ち、南北朝の騒乱時に伴って没落すると、代わって室町幕府の安定に従い野田氏が領有するように
なっていた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「公方様」の御所■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そんな古河が特に注目されるようになったのは室町時代中期の事。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
室町幕府の職制において、関東以東の東国を管轄する職にあった鎌倉公方は、元来、京の将軍と対立する事が多く
1455年(康正元年)6月、当時の鎌倉公方だった足利左兵衛督成氏(しげうじ)は、幕府方の圧力を嫌い鎌倉を離れて
しまった。成氏が新たな本拠としたのが古河であり、以来、成氏の子孫は代々に渡り古河公方の職を名乗っていく。
古河公方の館がこの古河御所。地名から採り、鴻巣(鴻ノ巣)御所(鴻巣館)とも尊称される。成氏はここ古河から関東
地方を統制しようと試みた。一時的とは言え、古河は関東を掌握する首府としての役割を担う場所となった訳だ。
一方、成氏が鎌倉を離れた事から、京の幕府は成氏に代わる新たな鎌倉公方を選任。鎌倉へと下向させたのだが、
こうして派遣された足利左馬頭政知(まさとも)は関東の大騒乱に抗う事が出来ず、鎌倉に入れないまま伊豆国堀越
(静岡県伊豆の国市)に逗留した。これにより政知は堀越公方を名乗る事になり、古河の成氏と対立を続けるように
なった。以後、古河公方は堀越公方や関東管領(鎌倉公方を補佐するべき役職)の上杉氏、その他の関東諸勢力と
対立や同盟を繰り広げ、関東地方における戦乱の中心人物に名が挙がるようになっていく。当然、古河御所は古河
公方の居館として整備され、古河公方の盛衰に伴って変化していったのである。ただし、戦闘に備えて成氏は1457年
(康正3年)本格的な城郭である古河城も築城し、もっぱらそちらが居城として用いられたようだ。■■■■■■■■
さて関東の戦乱がどう推移したかと言えば、堀越公方は政知の子・茶々丸の代に伊勢新九郎盛時(いせもりとき)、
後の北条早雲によって滅ぼされ断絶。早雲は小田原城(神奈川県小田原市)を本拠にし相模国(神奈川県西部)から
北上政策を進め、上杉氏や関東諸氏を倒していく。北条氏は3代目・左京大夫氏康(うじやす)の頃になると南関東の
大半を手中に収め、事実上、関東地方の支配者としての地位を確立していた。それでも古河公方は命脈を永らえて
成氏―左馬頭政氏(まさうじ)―高基(たかもと)―左兵衛督晴氏(はるうじ)と代を重ねていたが、1546年(天文15年)
4月20日の河越夜戦で後北条氏に大敗北を喫したため服属を余儀なくされ、古河公方の役職は有名無実のものへと
衰退する。晴氏の子・右兵衛佐義氏(よしうじ)の代になると完全に後北条氏配下として扱われた上、義氏は男子が
無いまま1582年(天正10年)に亡くなったため、嫡流が断絶してしまった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
古河公方家の断絶以後■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原征伐により、後北条氏も滅亡を迎えたが、古河公方の名籍を惜しんだ秀吉は
義氏の娘・氏姫(うじひめ)を厚遇し、居館となる古河御所を安堵。高基の弟・右兵衛佐義明(よしあき)から発生した
小弓(おゆみ)足利家(千葉県千葉市に分家した古河足利家の傍流)と氏姫との縁組を行い、御家再興を支援したと
される。古河御所が用いられたのはこの頃までで、氏姫は喜連川(きつれがわ、栃木県さくら市)に所領を得たため
江戸時代になると子孫はそちらへ居所を移してしまう。以後、この家は喜連川(きつれがわ)家を名乗り幕府の高家
(こうけ、儀式典礼を取り仕切る特別家格)に名を連ねた。これが縁で、古河市と旧喜連川町は姉妹都市関係を締結
したのである。喜連川家が古河を去ったのは1627年(寛永4年)の事で、こうした経緯で古河御所は使用されなくなり
そのまま廃墟になってしまった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在の古河御所跡地は、広大な古河総合公園になっている。都市公園として整備された古河総合公園の園内には
蓮田や桃林といった花園、遊水地などの回遊施設、移築された江戸時代の農家邸宅である旧飛田(とびた)家住宅
(国指定重要文化財)や旧中山家住宅(茨城県指定文化財)などの歴史的建築物が置かれ、古河市民のみならず
全国的にも有名な観光地だ。その一角に古河公方館跡として古河御所の跡が茨城県史跡に指定され、戦国の一時
ここが政庁として隆盛していた事が偲ばれるようになっている。公園の池の中に突き出した半島状の小台地が館跡。
かつてはこの池が大きく広がり、半島も細く長く繋がっており、その中が曲輪として分割されていたようだが、今では
末端部しか確認できない状態。それ以外、遺構らしい遺構が残されていないのが残念な処でござるな。ただ、森の
木立ちの中にひっそりと佇む史跡は非常に雰囲気が良く、見学するのが楽しい場所であろう。■■■■■■■■■
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