下総国 古河御所

古河御所跡地と旧中山家住宅

 所在地:茨城県古河市大字鴻巣

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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★★★☆



“関東の中心”■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
茨城県の最西端に位置する古河(こが)市は、地勢的に見ると関東平野のほぼ中心にあたり、実は交通の要所である
事に気付かされる。実際、現代においては国道4号線・JR東北本線それに東北新幹線の線路が市内を縦貫している。
茨城県内で東北本線の駅があるのは古河だけであり、その重要性は昔から変わらぬものだったと言えよう。また、現在
茨城県の行政区分に入っている古河市は、旧国界では下総国に含まれる。古河を除く茨城県は常陸国なのだが、古河
周辺だけは下総国という特殊性からも、その独自の地位が確立されていた事が伺えるのではないだろうか。■■■■
(京の都に近い国ほど上位の国とされており、当然下総国の方が格上である)■■■■■■■■■■■■■■■■■
古河の歴史を紐解くと、旧石器時代にまで遡る。当時の東京湾は古河近辺にまで入り込み、利根川・渡良瀬川・思川と
いった河川の流出口となる位置に当っていたこの地には自然と集落が発生し、2万年前の遺物や縄文遺跡などが検出
されている。以来、古河は河川や海を利用した水運の拠点として発展。平安後期になると関東武士が台頭するように
なるが、彼らの戦いの中にも古河という場所がしばしば登場するようになる。有名なものでは、源頼朝に背いた常陸の
豪族・志田信濃守義広を討伐する際、下河辺(しもこうべ)氏が「古我(古河)・高野等渡」を固め討ち止めたとの記録が
吾妻鏡(鎌倉時代の史書)にある。水運の要地という事は、当然ながら河川を利用した戦略上の要地でもあった訳だ。
下河辺氏は鎮守府将軍・藤原秀郷の子孫と言われる一族で、鎌倉時代には下河辺行平(ゆきひら)が頼朝の御家人に
加わり、初めて古河に城館を築いたと伝えられているのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ちなみに、「古河」という字が当てられるようになるのは南北朝時代の事らしい。下河辺氏はその南北朝期あたりまで
古河に城館を保ち、南北朝の騒乱時に伴って没落すると、代わって室町幕府の安定に従い野田氏が領有するように
なっていた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

「公方様」の御所■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そんな古河が特に注目されるようになったのは室町時代中期の事。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
室町幕府の職制において、関東以東の東国を管轄する職にあった鎌倉公方は、元来、京の将軍と対立する事が多く
1455年(康正元年)6月、当時の鎌倉公方だった足利左兵衛督成氏(しげうじ)は、幕府方の圧力を嫌い鎌倉を離れて
しまった。成氏が新たな本拠としたのが古河であり、以来、成氏の子孫は代々に渡り古河公方の職を名乗っていく。
古河公方の館がこの古河御所。地名から採り、鴻巣(鴻ノ巣)御所(鴻巣館)とも尊称される。成氏はここ古河から関東
地方を統制しようと試みた。一時的とは言え、古河は関東を掌握する首府としての役割を担う場所となった訳だ。
一方、成氏が鎌倉を離れた事から、京の幕府は成氏に代わる新たな鎌倉公方を選任。鎌倉へと下向させたのだが、
こうして派遣された足利左馬頭政知(まさとも)は関東の大騒乱に抗う事が出来ず、鎌倉に入れないまま伊豆国堀越
(静岡県伊豆の国市)に逗留した。これにより政知は堀越公方を名乗る事になり、古河の成氏と対立を続けるように
なった。以後、古河公方は堀越公方や関東管領(鎌倉公方を補佐するべき役職)の上杉氏、その他の関東諸勢力と
対立や同盟を繰り広げ、関東地方における戦乱の中心人物に名が挙がるようになっていく。当然、古河御所は古河
公方の居館として整備され、古河公方の盛衰に伴って変化していったのである。ただし、戦闘に備えて成氏は1457年
(康正3年)本格的な城郭である古河城も築城し、もっぱらそちらが居城として用いられたようだ。■■■■■■■■
さて関東の戦乱がどう推移したかと言えば、堀越公方は政知の子・茶々丸の代に伊勢新九郎盛時(いせもりとき)、
後の北条早雲によって滅ぼされ断絶。早雲は小田原城(神奈川県小田原市)を本拠にし相模国(神奈川県西部)から
北上政策を進め、上杉氏や関東諸氏を倒していく。北条氏は3代目・左京大夫氏康(うじやす)の頃になると南関東の
大半を手中に収め、事実上、関東地方の支配者としての地位を確立していた。それでも古河公方は命脈を永らえて
成氏―左馬頭政氏(まさうじ)―高基(たかもと)―左兵衛督晴氏(はるうじ)と代を重ねていたが、1546年(天文15年)
4月20日の河越夜戦で後北条氏に大敗北を喫したため服属を余儀なくされ、古河公方の役職は有名無実のものへと
衰退する。晴氏の子・右兵衛佐義氏(よしうじ)の代になると完全に後北条氏配下として扱われた上、義氏は男子が
無いまま1582年(天正10年)に亡くなったため、嫡流が断絶してしまった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

古河公方家の断絶以後■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原征伐により、後北条氏も滅亡を迎えたが、古河公方の名籍を惜しんだ秀吉は
義氏の娘・氏姫(うじひめ)を厚遇し、居館となる古河御所を安堵。高基の弟・右兵衛佐義明(よしあき)から発生した
小弓(おゆみ)足利家(千葉県千葉市に分家した古河足利家の傍流)と氏姫との縁組を行い、御家再興を支援したと
される。古河御所が用いられたのはこの頃までで、氏姫は喜連川(きつれがわ、栃木県さくら市)に所領を得たため
江戸時代になると子孫はそちらへ居所を移してしまう。以後、この家は喜連川(きつれがわ)家を名乗り幕府の高家
(こうけ、儀式典礼を取り仕切る特別家格)に名を連ねた。これが縁で、古河市と旧喜連川町は姉妹都市関係を締結
したのである。喜連川家が古河を去ったのは1627年(寛永4年)の事で、こうした経緯で古河御所は使用されなくなり
そのまま廃墟になってしまった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在の古河御所跡地は、広大な古河総合公園になっている。都市公園として整備された古河総合公園の園内には
蓮田や桃林といった花園、遊水地などの回遊施設、移築された江戸時代の農家邸宅である旧飛田(とびた)家住宅
(国指定重要文化財)や旧中山家住宅(茨城県指定文化財)などの歴史的建築物が置かれ、古河市民のみならず
全国的にも有名な観光地だ。その一角に古河公方館跡として古河御所の跡が茨城県史跡に指定され、戦国の一時
ここが政庁として隆盛していた事が偲ばれるようになっている。公園の池の中に突き出した半島状の小台地が館跡。
かつてはこの池が大きく広がり、半島も細く長く繋がっており、その中が曲輪として分割されていたようだが、今では
末端部しか確認できない状態。それ以外、遺構らしい遺構が残されていないのが残念な処でござるな。ただ、森の
木立ちの中にひっそりと佇む史跡は非常に雰囲気が良く、見学するのが楽しい場所であろう。■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁
館域内は県指定史跡








下総国 古河城

古河城大手門跡

 所在地:
茨城県古河市桜町・錦町・中央町 ほか
 
埼玉県加須市向古河
(向古河地域:旧 埼玉県北埼玉郡北川辺町大字向古河)
駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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「御所」とは別の古河城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
江戸時代に入ると、交通の要地たる古河には徳川譜代の大名が配される。五街道(幕府が整備した主要5幹線)の
奥州道中と日光道中が古河を通り、江戸の北辺を守る要地そして宿場町として認識されるようになった事もあって、
古河公方以来、関東政局の中心とされた歴史も踏まえて古河の町が再整備されたためだ。■■■■■■■■■■■■
軍事拠点としての古河城は、上記の通り下河辺行平が鎌倉時代に築いたものが始まりとされ、室町幕府成立後の
1382年(弘和2年/永徳2年)時の城主であった下河辺朝行は近隣の小山氏の攻略を受けて城を放棄し、小山氏に
与する野田右馬助が入城した。15世紀になると室町幕府と対立する鎌倉公方は戦乱を誘発し、1438年(永享10年)
幕府から鎌倉公方・足利左兵衛督持氏(もちうじ)が征伐される事件「永享の乱」が発生する。敗死した持氏の遺児、
春王丸と安王丸を奉じる結城氏も1440年(永享12年)幕府と交戦するが、「結城合戦」と呼ばれるこの戦いにおいて
結城方に就いた右馬助は古河城に籠もって幕府軍と戦い、敗れ去ったようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■
更に1455年、古河に御所を定めた足利成氏により古河城が接収され、平時の居館・統治拠点としての古河御所と
併用される形で古河城が整備され続けた。古河城が戦国期城郭として成立するのはこの時であり、それを根拠に
古河城の築城年を1455年とする説が一般的になっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
古河公方家が小田原後北条氏の伸長で衰退し、最後の当主・義氏が没した後は古河城に後北条氏の城代として
北条陸奥守氏照(4代当主・左京大夫氏政(うじまさ)の実弟)配下の大石越後守直久・間宮若狭守綱信らが在番。
1590年の豊臣秀吉による後北条氏征伐においては芳賀正綱が在番していたものの、この年の5月、豊臣方の浅野
弾正少弼長政・酒井宮内大輔家次らに攻略され落城。程無く小田原城も落ち後北条氏が滅亡すると、秀吉の大名
仕置により関東地方には徳川家康が封じられる。古河も徳川領となり、家康譜代の家臣である小笠原信濃守秀政が
信濃国松本(長野県松本市)から移り古河城主を任じられ、古河御所に代わる新たな統治拠点として改修を始めた。
小笠原家の石高は3万石。こうして成立したのが近世古河城でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
関ヶ原合戦を経て天下の主が家康に定まった頃の1601年(慶長6年)、秀政は信濃国飯田(長野家飯田市)5万石へ
移封、代わって上野国白井城(群馬県渋川市)主であった戸田松平丹波守康長が2万石で古河城主となる。1612年
(慶長17年)彼は常陸国笠間(茨城県笠間市)3万石へと移され、武蔵国本庄(埼玉県本庄市)から小笠原左衛門佐
信之が2万石を以って古河へ入府。小笠原家は左衛門佐政信(まさのぶ)が継いだ後、隣の関宿(千葉県野田市)へ
移り、今度は奥平美作守忠昌(ただまさ)11万石、永井右近大夫直勝(なおかつ)―信濃守尚政(なおまさ)が城主を
歴任。永井家の石高は7万2000石であった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

名門幕閣の城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
目まぐるしく交代した古河城の主は1633年(寛永10年)下総国佐倉(千葉県佐倉市)14万2000石から転封された幕府
大老・土井大炊頭利勝の入城によって一応の決着をみた。古河での土井家の石高は16万2000石とされる。一説には
家康の御落胤?と噂される利勝は、家康・秀忠・家光の将軍3代に仕えた重臣で、才覚高い名宰相として知られる。
機知に富む利勝は愛民の情深き名君であり、領民の副業として成り立つ桃の栽培を古河城下に広めた。古河市が
桃の花の町として知られるのは、このためである。小笠原秀政以来、数次に渡って改修工事が続けられた古河城を
完成させたのも利勝だ。前任地である佐倉城には、江戸城(東京都千代田区)の櫓を下賜された天守(御三階櫓)が
あったが、それと同じ構造の櫓を古河城にも構築。この三階櫓が事実上古河城の天守となり明治維新まで残存する
事になった。外観3重の古河城御三階櫓は内部4階の構造になっており、本丸の北西隅を守るかなり大規模なもの。
櫓の外に塀が廻らされたため、外周からはあたかも4重櫓のように見えたと言われ申す。■■■■■■■■■■■■
利勝が城主を務めた後、土井氏は遠江守利隆(としたか)―大炊頭利重(とししげ)―帯刀利久(としひさ)―周防守
利益(とします)の5代で志摩国鳥羽(三重県鳥羽市)へと移封される。1681年(延宝9年)2月25日からは堀田備中守
正俊―下総守正仲(まさなか)の堀田家2代が入るも出羽国山形(山形県山形市)へ転封、1685年(貞享2年)6月から
松平日向守信之(のぶゆき)―日向守忠之(ただゆき)の藤井松平家2代、それが1693年(元禄6年)11月に改易され
1694年(元禄7年)1月7日から松平伊豆守信輝(のぶてる)―甲斐守信祝(のぶとき)の大河内松平家7万石が入封。
これが1712年(正徳2年)7月12日、三河国吉田(愛知県豊橋市)へ移され、今度は三河国刈谷(愛知県刈谷市)から
5万石で本多中務大輔忠良(ただなが)―美濃守忠敞(ただひさ)が古河城主となる。1759年(宝暦9年)石見国浜田
(島根県浜田市)の松井松平周防守康福(やすよし)と入れ替わり、その康福が1762年(宝暦12年)9月に三河国岡崎
5万4000石へと移されており、またもや激しく城主交代の歴史を重ねた後、再び土井氏が古河へと帰ってくる事に。
肥前国唐津(佐賀県唐津市)7万石から古河へ移されたのは土井大炊頭利里(としさと)、利益の外孫である。以降、
美濃守利見(としちか)―大炊頭利厚(としあつ)―主膳正利位(としつら)―大炊頭利亨(としなり)―大炊頭利則
(としのり)―大炊頭利与(としとも)と土井氏7代が城主を務めた後に明治維新を迎え、廃城となり申した。■■■■
歴代の古河藩主を数えると、11家28人にも及ぶ。この中で特筆すべき者は土井氏11代目にあたる土井利位。彼は
幕府老中を務める要人であると共に、当時としては先進的な雪の結晶を研究した科学者でもあった。その成果として
「雪華図説」を著している。なお、この利位は1837年(天保8年)起きた大塩平八郎の乱当時の大坂城代でもあった。

将軍宿舎■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
江戸時代を通じ、古河城は将軍が日光東照宮へ参詣する時の宿館としても利用されている。冒頭でも述べた通り、
古河は日光道中の宿場町として栄えた場所なので、江戸城を出た将軍一行は岩槻城(埼玉県さいたま市岩槻区)
古河城そして宇都宮城(栃木県宇都宮市)を宿館とするのが通例とされたのである。このため古河城は将軍一行を
歓待するだけの格式を有す城として整備され、将軍を迎え入れる為の門「御成門」があった。江戸から古河城下に
入った将軍の行列は、古河城外郭にある御茶口門へ入る。御茶口門を入った突き当りには御茶口番屋と呼ばれた
武具を飾り立てた勇壮な番所があり、将軍や格の高い大名・公卿が通行する時に古河藩の担当役がここで整列し
出迎えた。相手の大名も乗物を止め、輿の戸を開けて挨拶をするのが慣し。「御茶口」という名称は、土井利勝が
3代将軍・家光をもてなした際、ここに茶屋を置いた事に始まる。なお、一定格式以下の大名が古河城へ入る時は
御茶口ではなく、肴町(さかなまち)にある使者取次所、通称で御馳走番所と呼ばれる番所へ回る事になっていた。
御馳走番所の名の由来は諸大名が古河城下を通過する際、使者を派遣して挨拶に来るしきたりがあり、古河藩が
その使者を接待し御馳走を振舞うようになっていた事から。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そして御茶口番所を通った一行は、城代の居た出城へと進む。出城の堀沿いからやがて出る中道と呼ばれる道を
通行、その先の古河城本郭の堀に挟まれた杉並木の奥にある御成門から城内へと入っていくようになっていた。
その古河城本郭は、西側を渡良瀬川が流れるようになっており溢れんばかりの水を多用した水城の要素を備えた
縄張り。というか、渡良瀬川はしばしば氾濫するため、治水にはかなり悩まされたようである。記録には古河城が
度々浸水の被害に遭った事が残されており、古河藩では城が冠水した際の手順規定が定められていた。現代風に
言えば「洪水対策マニュアル」で、水害が恒常的に発生する事を想定したものだ。こうした規定は他藩にはない物で
如何に古河城が浸水の被害を受け続けていたかが想像できよう。この手順書によれば、冠水で城が機能停止した
際は城下の浄土宗証誠山正定寺が臨時役所とされ、将軍からの朱印状など最重要文書は出城に退避させる事が
規定されていた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、災害時は兎も角として普段は川とそれに繋がる沼地帯に囲まれた古河城は敵軍の包囲を寄せ付けない要害
堅固な場所であったと言える。江戸時代の整備により本丸・二ノ丸・三ノ丸・立崎郭・頼政郭などから成る本郭部と、
諏訪郭・観音郭で構成される出城の二段構えになった当城の縄張は至る所を水濠で仕切られ、各曲輪の独立性が
高い。この水濠は4重にもなっていて、水城でありながら敵の船を乗り付けさせないという防御性にも配慮していた。
明治初期に撮られた城の古写真を見れば、各曲輪はさながら島のようにも思え、その島に繁茂する木々に遮られ
曲輪の奥までは見通せない。平城、水城の特性を活かし切った縄張で、何とも見事という感じである。■■■■■■■

川に消えた城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが古河城は明治維新後に廃城の扱いとなり、ほぼ全ての建造物が破却されてしまった。曲輪を仕切っていた
水濠や沼も完全に埋め立てられた上、大正年間には渡良瀬川の治水事業によって川の流路が変更されてしまい、
古河城の本丸・二ノ丸などの本郭部は大半が渡良瀬川の堤防として埋没してしまった。■■■■■■■■■■■■
現在見られる遺構は、建築物としては市内の浄土真宗亀嶋山福法寺の山門として移築された旧二ノ丸御殿乾門と
商家の店舗・蔵屋敷として再利用されている旧城内蔵が2戸前。構造物としてはごく僅かに残る獅子崎土塁・観音寺
曲輪土塁と、空き地となった百間堀跡の埋立地くらいしかない。甚だ残念な事ではあるが、古河市では観光誘致の
為に旧城下町を利用し武家屋敷跡の保全、各種美術館・博物館などの文教施設を整備しており、古河の歴史を知り
観光散策に不便のないように取り計らっている。市内各所には歴代古河藩主にゆかりの社寺も残されており、件の
正定寺には古河藩の江戸屋敷にあった門が移築され、これまた市指定の文化財になってござる。■■■■■■■■
古河公方御所跡である古河総合公園も市街地から1kmほど南にあるので、城の名残を感じつつ、古い町並を探訪し
懐かしさに浸り、のんびりと市内を歩き回って見物するのも悪くない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁

移築された遺構として
坂長本店店蔵(旧古河城文庫蔵)
坂長本店袖蔵(旧古河城乾蔵)《以上国登録有形文化財》
福法寺山門(旧古河城二ノ丸御殿乾門)《市指定有形文化財》








下総国 磯部館

磯部館跡 空堀

 所在地:茨城県古河市磯部字浅間南
(旧 茨城県猿島郡総和町磯部字浅間南)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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今なお使われる武家居館址■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
国道354号線が東北新幹線の線路と交差する地点から東南東へ約350m、浅間神社の南にある個人宅が磯部館跡。
国道に沿って見事な空堀と土塁が残存している。往時は恐らく100m四方くらいの方形居館が構えられていたようだが
大正時代に大半は切り崩され、現状で残るのは四方形の北の1辺のみという事である。ただ、この残存土塁は非常に
見応えがあり(写真)北西隅部の折れ曲がりまでは確認できる状況でござる。■■■■■■■■■■■■■■
古河公方足利家の重臣であった簗田氏の家臣に当たる岩瀬豊前の館と伝わる。古河公方家が小弓公方家と言った
諸家分流させて内訌を繰り返した如く、簗田家も主流派と非主流派に分かれ内輪揉めが絶えず没落して行くのだが、
小田原後北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされた後、足利義氏に追従していた縁で簗田氏も後北条家臣と見做されて
秀吉は領地を没収してしまう。しかし、簗田平四朗貞助(さだすけ)は非主流派であった事から徳川家康に救済され、
1000石の少禄ながら徳川旗本として取り立てられた。岩瀬豊前はこの貞助に従っていたようだ。■■■■■■■■■
後に徳川幕府が成立し、大坂城(大阪府大阪市中央区)に居座る豊臣秀頼との対決が確実となるや、貞助とその息子
助吉は岩瀬豊前に留守居を託し、簗田家の守り本尊とされる阿弥陀三尊像を預けて大坂へ出陣。1615年(元和元年)
大坂夏の陣で簗田父子は戦死してしまい、主を亡くした豊前は武士を辞め帰農したと言う。以来、磯部館は岩瀬家の
邸宅として受け継がれ、現在に至るのでござる。その為、磯部館の別名(と言うか現状)は岩瀬氏屋敷と言い、或いは
四方を土塁に囲まれ(てい)た形状から「土手のうち」とも称されている。屋敷内では今でも簗田家の阿弥陀三尊像が
大切に保管されているそうだ。また、話によれば1907年(明治40年)8月に起きた利根川の大氾濫では周辺地域が次々
水没する中、この「土手のうち」は水難を免れたとか。土塁の防御力を垣間見る逸話であろう。■■■■■■■■
館跡…いや、岩瀬家は現住の家なのでやたらに敷地へ踏み入れたりするのは憚られるが、国道から堀や土塁を拝観
させて頂く事は可能。お住まいの方々に御迷惑をお掛けしないよう注意の上、見事な遺構を味わうのが良うござろう。
史跡指定はされていないが、市町村合併前の旧総和町時代に埋蔵文化財包蔵地として調査確認が行われている。
なお、茨城県内には桜川市にも磯部館と言われる城館があるのだが、それとは別物なので混同なきよう。■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭








下総国 長井戸城

長井戸城跡 堀と土塁

 所在地:茨城県猿島郡境町大字長井戸

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

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古城の香り漂う神社境内■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
境町役場から真北に2.5km、国道354号線「境古河IC」交差点(境古河ICの入口)の一つ北側にある信号を西へ曲がり
1.1kmほど走った地点に香取大神社がある。この境内一帯が長井戸(ながいど)城跡。神社には長井戸集落センター
(公民館)が併設されており、車はその駐車場に停める事が出来る。逆に、公共交通機関で赴くのは厳しそうである。
軍記物「東国闘戦見聞私記」には天文年間(1532年〜1555年)当地の豪族・菅谷左京なる者の館であると記される。
1554年(天文23年)祇園城(栃木県小山市)の小山下野守高朝(おやまたかとも)から攻撃を受け降伏し、菅谷氏は
小山氏に従属するようになった。その小山氏も関東騒乱の情勢に越後の上杉謙信・相模の北条氏康・常陸の佐竹
常陸介義重ら大大名の圧迫に振り回され、結果的に長井戸周辺は後北条氏の勢力圏に取り込まれていく。斯くして
長井戸城は関宿城(千葉県野田市)と逆井(さかさい)城(茨城県坂東市)を繋ぐ中継拠点として用いられていったが
(関宿城・逆井城ともに戦国末期には後北条家の拠点城郭)後北条氏が1590年に滅亡すると、長井戸城も廃城に
なったようだ。一方、かつての城主である菅谷家は小山家臣として生き延び、朝鮮出兵や大坂の陣などにも従軍
したものの最終的には帰農したとの事。磯部館の岩瀬家と似たような運命を辿っているが、現在も菅谷家所有の鎧
「萌黄糸威伊予札二枚胴具足」が残されていて、これまた岩瀬家の阿弥陀三尊像と同様に“地域の歴史資料”として
貴重な存在でござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1983年(昭和58年)度〜1984年(昭和59年)度にかけて発掘調査が行われ、屋形建築の柱穴痕や版築土塁の構造、
かわらけ等が検出されており、城はおそらく12世紀〜13世紀(鎌倉時代)の創建と考えられるようになった。それに
符合する如く、香取大神社の社殿を囲うように方形居館構造の土塁と空堀(写真)が取り巻いているが、南東隅部は
入隅の折れがあり、横矢を掛ける構造になっている。他方、公民館敷地部分(城地の西半分)は湮滅しているので、
全体的な要諦は分からなくなってしまった。恐らくは100m四方の方形館を成していたのであろう。これまた、磯部館と
同じような雰囲気を匂わせている。残存する土塁や堀は古城のよすがを漂わせ、非常に良い雰囲気でオススメだ。



現存する遺構

堀・土塁・郭








下総国 栗橋城

栗橋城址 空堀跡

 所在地:茨城県猿島郡五霞町大字元栗橋

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

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川と国境■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「栗橋」と言うと埼玉県久喜市にJRおよび東武日光線の栗橋駅や東武線の南栗橋駅があり、また現状の“新”久喜市が
平成の市町村大合併で2010年(平成22年)3月23日に成立する以前には北葛飾郡栗橋町が存在していて「埼玉県」の
印象が強いものの、この栗橋城が存在するのは「茨城県」猿島郡五霞町の中にある「元栗橋」地域でござる。埼玉県と
茨城県の境界も、一般的に利根川を境にしている印象があるが、埼玉県加須市の一部(旧北川辺町域)は利根川の
北岸に突出し、逆に五霞町は利根川の南にせり出している。旧北川辺町と古河市の境は渡良瀬川、五霞町における
県境は権現堂川を基本としており、これが中世までの国境だった名残りなのである。そして「栗橋」という土地の歴史も
権現堂川によって大きく影響を受けていた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そもそも、現状にある利根川は江戸時代になってから付け替えられた流路で、中世までは他の河川と分岐合流しつつ
江戸(東京)湾へ注いでいた。これに対して権現堂川は元来の渡良瀬川であり、利根川の東遷に伴って切り離された
部分だ。だとすれば、旧北川辺町にせよ五霞町にせよどちらも渡良瀬川が基準となって国境(県境)になっているので
一貫性があり納得できよう。但し、治水整備が未熟だった頃の渡良瀬川流域にはいくつもの小河川が並行して流れ、
渡良瀬川だけが国を分ける大河として幅を利かせていた訳ではない。要するにこの一帯は水郷地帯だったのである。
さてそこで(ようやく)栗橋城の話だが、古河公方となった足利成氏が、家臣の野田右馬助に築城させたのが創始だと
言う。古河城の項でも野田右馬助の名が出ているが、恐らく野田氏歴代当主がその名を継いだものだろう。栗橋城の
築城年代は長禄年間(1457年〜1460年)とされるが、これは成氏が古河城に入った事により従前から古河城に居た
右馬助が栗橋へ居を変えたとする説に基づくもので、或いは栗橋城そのものはもっと前から存在した可能性もある。
いずれにせよ、野田氏は古河城を公方に譲ってこの地へやってきたという事だが、栗橋は上記のように渡良瀬川や
旧利根川を伝い江戸湾へ至り、またすぐ近隣には常陸川(現在の利根川本流となった太平洋へ注ぐ旧河川)も擁して
おり、利根川水運と常陸川水運の物資中継点になっていた要衝であった。古河公方はこの重要拠点を野田氏に任せ
東関東における大きな流通網を掌握しようとした訳だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

“関東の主”が替わるにつれて■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし肝心の古河公方は、戦国動乱の中で内訌を繰り返し没落。そうした中、天文年間後期に栗橋城主となっていた
野田左衛門大夫弘朝(ひろとも)は、足利義氏に忠節を尽くした縁から小田原後北条氏に接近するようになる。当時、
足利家は義氏と庶兄の藤氏(ふじうじ)が家督を争っており、義氏は後北条氏の後援を受けていたのだ。結果、公方の
座は義氏が得たものの、次第にその位は傀儡と化し義氏は後北条家の操り人形となっていく。それに伴い、栗橋城も
後北条氏の支配下に含まれるようになっていき、弘朝が没しその弟・右馬助景範(かげのり)が家督を継いだ後になる
1568年(永禄11年)頃には北条氏照が当城に入城、接収したと見られる。この前年(1567年(永禄10年))5月に氏照が
景範に発給した起請文の中で栗橋城の明渡しが命じられており、1568年10月の時点で景範が古河へ居を移した事が
確認されている為だ。但しこの頃、後北条氏は長年の盟友であった甲斐武田氏と手切れとなり、反動で不倶戴天の敵
上杉謙信と和議を結ぶ事になる。謙信との外交交渉上、北関東での旧状復帰を約束せざるを得なかった後北条家は
1569年(永禄12年)7月、景範に栗橋城在番を命じた。とは言え、後北条家と上杉家の盟約は形だけに終わり、景範も
後北条家中での折合いが悪かったらしく、1572年(元亀3年)12月に栗橋城は後北条軍から攻め落とされる結果となる。
こうして栗橋を確保した氏照は「栗橋衆」と呼ばれる地方軍を組織し(○○衆というのが後北条家における方面軍集団)
栗橋城が重視されていた様子を想像させ、実際この城を拠点に関宿城への攻撃を数度に渡って行っている。■■■■
その後、氏照は祇園城へ居を移し栗橋城は城番制となるが、1590年に秀吉の小田原征伐によって開城。家康の命で
小笠原秀政が古河城に入る際に、近世古河城の完成まで栗橋城が仮の居城とされている。その工事が完了した事で
栗橋城は役割を終えて廃城になった。この後、冒頭に記した利根川の付け替え工事が行われた事に伴って1641年
(寛永18年)渡良瀬川の流路変更、権現堂川が開削されたが、新河道により旧栗橋城地は東西に分断されたと言う。
現状に残る栗橋城跡地は川の東側(下総国(茨城県)側)だが、西側にあった部分は自然消滅。加えて、川の西側は
下総国から武蔵国へと編入されている。つまり、旧渡良瀬川は現在よりももっと西を流れていた訳だ。結果、武蔵国に
含まれる事となった地域には江戸幕府が整備した大幹線道路である日光街道・奥州街道が通じる事となり、そこには
栗橋宿が形成されていく。これが「栗橋=埼玉県」という位置付けになっていく一方で、川の東は「元々の栗橋」として
「元栗橋」という地名に落ち着いた。同様の例は八王子城(東京都八王子市「元八王子町」)でも見られるが、栗橋城も
八王子城も、どちらも北条氏照の城であると言うのは何かの因縁であろうか?■■■■■■■■■■■■■■■■

推測される縄張■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
幕末、下総国の識者・赤松宗旦(あかまつそうたん)が著した地誌書「利根川図志」の中に「古河城舊址(旧址)」として
栗橋城の縄張図が示されている。栗橋城の事を古河城としたのは、野田右馬助の来歴から混同したものであろうが、
場所は栗橋の話である。それによれば、権現堂川の東側に本城(主郭)があり、榎曲輪や“七曲り”と呼ばれる塁線の
屈曲があったと云う。他方、1672年(寛文12年)編纂と見られる兵法書「城築規範」にも栗橋城の記載があり、それに
基づいて現地調査も行われている。城築規範では権現堂川の西に城地は無かったとされ、川の東岸にのみ11もの
曲輪が構えられていた。4つの曲輪が外郭部、残る7つの曲輪が内郭群を構成し、これらは概ね利根川図志の特徴と
一致する。曲輪はそれぞれ直線的な形取りが為され、その出入口には角馬出と思しき小郭が付随している。これが
正しくば、後北条氏が得意とする築城術に基づいた形状と言え、北条氏照が入城した後に改修を受けた証となろう。
だが、主郭に対する求心性は乏しく曲輪がバラバラに並んでいるような感じも受ける。このあたり、古来からある中世
武家居館に“手あたり次第”曲輪を増設していったという具合だったのかもしれない。城域は東西300m×南北500mを
数えるが、城域の北端に香取神社、南端に八坂神社があって、両神社を結ぶ参道と権現堂川の間という細い空間に
曲輪が密集していたようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし現在、城跡の大半は耕作地か川の堤防となっており残存遺構は僅かしかない。利根川の改修期、権現堂川が
成立するまでは行き場を失くした水がこの一帯に押し寄せていたと言われ(故に栗橋宿は遥か西に築かれた)遺構が
壊滅状態になったのも致し方なかろう。それでも外郭部の曲輪跡が個人宅となり、その曲輪を囲う堀と土塁が所々に
確認できる(写真)。言うまでもなく、あくまで個人宅なので見学は控えめに。このお宅の隣に日蓮宗正長山法宣寺が
あるので、それを目指して行くのが分かり易うござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■






現存する遺構

堀・土塁




馬入峠防塁  土浦城・藤沢城