謎の長塁遺構■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
天栄村の埋蔵文化財包蔵地名称としては「馬入峠堡塁(ばにゅうとうげほるい)」。天栄村の大平(おおだいら)集落と郡山市の湖南町福良(ふくら)
集落を結ぶ福島県道235号線が市町境を越える地点を馬入峠と呼び、そこには道に対して「通せんぼ」するかの如く左右両脇に長大な堀と土塁が
延びている。かと言って、この塁線は曲輪のような敷地を囲う訳でも無く、単純に道路を阻害する為だけに延々と繋がる長塁遺構であり、周辺にも
特に“主城”となるような城砦も無い。塁壁だけが、道路封鎖の目的で広がっている状態なのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この長塁の創始には2つの説がある。1つ目は1600年(慶長5年)会津の太守であった上杉左近衛権少将景勝が領国統治の為に自国へ帰った際、
それを「豊臣政権五大老の職務を放棄して自領に引き籠り戦闘施設を各所に築いている(=謀反の企みである)」と大老筆頭・内大臣徳川家康に
指弾され「追討するなら受けて立つ」とばかりに対徳川戦線の防備拠点として作った城砦群の一つとされるもの。結局、この追討令は反徳川派の
石田治部少輔三成を釣り出す口実に過ぎず、家康は奥羽へは来襲せず関ヶ原合戦へと転じたので防塁が使用される事は無かった。■■■■■
もう1つの説は幕末、会津藩が薩長新政府から“朝敵”の汚名を着せられ追討を受ける事となった際、会津盆地への侵入路を封鎖するべく各地の
街道にこのような防塁を作った中の一つとされるもの。これについては上杉景勝が築いた防塁跡を再利用したとも言われる。会津戦争では各所で
戦闘が惹起し、新政府軍がそれを突破し会津若松市街地へ侵攻していったが、この馬入峠では他の峠から既に新政府軍が会津へ進撃したと言う
状況になってしまったので、会津藩兵は鶴ヶ城(会津若松市)での籠城戦に戦力集中すべく陣地が放棄された為、ここでの戦闘は無かった。■■■
江戸時代、会津から白河へ抜ける主要街道は馬入峠の東4km強の距離にある勢至堂(せいしどう)峠(現在の国道294号線から分岐する旧道)が
最も盛んに用いられていたが、この馬入峠は会津〜白河を結ぶ“最短ルート”である為、こちらの需要も多かったと言う。故に、この道は会津藩の
廻米街道として重視されており「大平口」と呼ばれていた。また、峠から北(会津盆地側)には福良口留番所(検問所)も設置されている。砲撃戦を
伴う(=大砲を移動・設置する)近代戦に於いては、廻米街道が用いられる可能性は十分あり、馬入峠を封鎖する必然性は当然あった事だろう。
堡塁の構造■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ではその遺構を見てみると、県道235号線は概ね南北に峠を貫通し、その西側に約166m、東側におよそ61m(数値は天栄村資料による)の塁壕が
延びている。つまり全長は227m、土塁と空堀は必ず並走しており、そのうち3分の2程の部分では土塁が2重に構えられていて、多重防御を意図した
ものであった。塁線は数箇所で折れを伴っており、あるいは戦国城郭の“横矢掛り”にも見えるが、折れと折れの間は極めて直線的に繋がっていて
まるで定規で線を引いたかのような精巧さである。この「定規で線を引いた」と言う点が重要で、戦国時代の城ならば地形によって構造物の形状が
変化するものを、この防塁では「図面で描いた通りの形」を成形している。即ち、塁線の折れは「砲撃の射撃散布界を計算したもの」で、地形を無視
した直線の塁壁も「近代の土木作業」によって成立したものと考えると、幕末の稜堡式城郭理論を峠と言う山中に当て嵌めた構造物となろう。よって
この馬入峠防塁は幕末の会津戦争時に設置されたものである(上杉時代の遺構ではない)と、福島県文化財センターでは推測している。それ故に、
埋蔵文化財包蔵地の名称は馬入峠「堡塁」つまり「稜堡式の構造物」となっている訳である。それを裏付けるかのように、土塁の内側には3箇所ほど
大砲を据え付ける為の砲座跡と思われる窪みがあり、大砲の射線を遮らないように土塁の高さが意図的に下げられた部分もある。加えて、塁壁に
沿って多数の“蛸壺”つまり人間が入り込んで銃を構える為の垂直孔も存在。先に「多重防御を意図した」2重土塁があると記したが、要するにこの
防塁は峠を塞ぐ「塹壕」だったと考えるのが自然である。戦国時代の戦術では蛸壺を用いる事が無いので、これも幕末の近代戦に特化した遺構と
結論付けられよう。土塁と土塁の間にある空堀は「敵を落とす」為のものではなく、「防備側の兵員が身を潜める」或いは「左右展開する通路」として
作られた物か。この長塁は街道を左右から挟撃するように広がっており、しかも必ず道よりも高所を確保していて“近代銃撃戦のセオリー”を踏襲
する構造物なのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
文献資料では■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
史料上、上杉氏がこの防塁を築いたと記したものは無いそうである。確かに、上杉景勝は徳川家康の追討に備えて領内各所に砦や城を築いたが
この馬入峠に関する資料は見当たらないとの事。反対に、幕末の資料には何点か馬入峠堡塁の事を示す内容が見受けられる。江戸幕府の歩兵
奉行・大鳥圭介は会津戦争に会津藩側として参戦しその記録「南柯紀行(なんかきこう)」を著したが、その中には旧幕府の工兵方・吉沢勇四郎が
「先頃より大平口に出て要砦を建築せし」とある。大鳥も吉沢も大政奉還の後、江戸を脱走し会津藩に協力していた人物。この文面から推測すると
大鳥がこれを書いた1868年(慶応4年)5月の時点で既に「要塞が建築されていた」事になる。時を同じくして白河口の戦いが起きており、会津藩は
勢至堂峠と馬入峠から兵を繰り出していたので、新政府軍の反抗を阻止する防塁が必要だった訳だ。会津藩主・松平若狭守喜徳(のぶのり)が5月
29日から6月9日まで福良に滞在していたという記録もあり、福良口つまり馬入峠の防備は会津藩にとって最重要課題だったのだろう。工兵のプロ・
吉沢勇四郎は幕臣時代に西洋の兵学(工学)書を数点和訳しており、当時の稜堡式城郭構築に於いて第一人者と言えた。その彼が会津の最重要
拠点の工事を託されたとあれば、必然的にこの堡塁構造へと辿り着くのであろう。なお、会津戦争時の会津藩主として名が上がるのは松平肥後守
容保(かたもり)であるが、当時既に容保は家督を喜徳に譲っていたため「前藩主」とするのが正しい。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現状、馬入峠防塁はほぼ全域に亘って土塁と空堀の痕跡が残されている。現地に行って俯瞰すれば、城に目の慣れた人ならば一目でその形状を
認識する事が出来よう。ただ、山林の中で長年の落ち葉に埋まった状況はそれほど保存状態が良いとは言えない。拙者は秋口の紅葉が始まる頃
会津へ赴いたが、山を登る道を往くにつれ急激に葉が枯れ、峠ではすっかり冬の様相になっていた。麓と山頂付近では明らかに季節が違っていて
標高863mにある“山の稜線上”が過酷な環境にある事を痛感した。何より、この峠道は所々で道幅が狭く路盤が緩い所を見かけるので、来訪時の
運転には注意が必要であろう。小型乗用車なら楽勝だが、大型車はオススメできない。況や、車無しでの来訪はかなり厳しいだろう。そんな馬入峠
防塁の中で確実に遺構が破壊されてしまっているのが、まさに「車道が貫通している箇所」。ここには枡形虎口があったそうで、僅かながらその断片
土塁だけが残るも、肝心の関門部分が道路によって潰されてしまった。ただ、逆に考えれば「昔の街道と同じ場所を車道が通っている」訳で、峠道は
“天険の要害”昔も今もそこを通るのが最も合理的だという証でもある。この街道を拓いた先人、そしてそこを守ろうと心血を注いだいにしえの武士に
敬意を表したいものでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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