二階堂氏分家の館■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
須賀川市と言うと二階堂氏の所領、その二階堂氏の分家である保土原(ほどわら)氏の館とされるのがここ、保土原館である。■
(「ほどはら」と振り仮名を振られる事が多いようだが、須賀川市内にある「保土原」の地名(保土原氏の所領)は「ほどわら」と読む)
二階堂家は藤原南家・武智麻呂流工藤氏の後裔で、源頼朝が鎌倉に幕府を開いた際、その有力御家人に取り立てられて、鎌倉の
二階堂に館を構えた事から二階堂氏を名乗るようになった。鎌倉の永福寺(ようふくじ)には二階建ての大きな寺堂があり、これが
二階堂という地名の元になっている。当時の建築物は平屋が当たり前なので、二階建てと言うだけで相当立派な目立つ建物だった
らしく、現代風に表現すれば「ランドマーク」と言えた。中世ならそれが地名になるのも当然であり、そこに住んでいれば「二階堂」を
名字にするのも自然な流れであろう。民部丞工藤行政が鎌倉幕府政所を掌る事になり、二階堂と改姓し中世の有力氏族となるが
その子孫が数多くの分家を立てる(又はそう仮冒する者が出る)中で二階堂氏が須賀川に入るのが室町時代。とは言っても、何せ
仮冒や諸家乱立の中で二階堂氏が陸奥国岩瀬郡へ入るのだから鎌倉期とも平安期とも諸説入り乱れており正確な事は分からぬし
その系譜も色々と残されていて本当の事は不明。そんな諸説のうち一つ、二階堂遠江守政藤なる人物の弟が保土原に所領を分け
与えられた為、保土原左衛門尉藤顕と名乗った。これが保土原氏の創始なんだそうな。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
保土原館の創始も定かでないが、二階堂家の城として築かれた(元来の須賀川城)が、後に新たな須賀川城(下記)が築かれた為
二階堂氏は本拠をそちらに移した、とする説がある。また、岩瀬山城(これも下記)に密接した立地なので、岩瀬山城構成曲輪群の
一つと解釈される事もある。ただ、二階堂家の「古須賀川城」と言うのは岩瀬山城を指すとも云い(つまり、この館とは一致しない?)
また岩瀬山城と保土原館は性格を異にするようでもあるので、ここではそれぞれ別の城館として扱った。いずれにせよ、館の名から
当館は保土原氏の居館だったとするのが妥当であろう。藤顕の後、定種―満藤と代を繋ぎ室町時代〜戦国時代に突入する。■■
保土原氏、政宗に寝返る■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その戦国時代、1581年(天正9年)8月26日に時の二階堂家当主・信濃守盛義(もりよし)が没する。この時、盛義の長男・平四郎盛隆
(もりたか)は会津の太守・蘆名家の後嗣に迎え入れられて蘆名左京亮盛隆となっていた。故に家督は2男・行親(ゆきちか)が継ぐも
彼も翌年に僅か13歳で死去。このため二階堂家の家督は空位となり、盛義未亡人の阿南姫(おなみひめ、盛隆・行親兄弟の母)が
掌握する。夫が亡くなった事で出家し大乗院と称した彼女は、伊達家の出身ながら蘆名家との同調路線を頑なに維持する。その頃、
伊達家は独眼竜こと17代当主・藤次郎政宗が家督を継ぎ領土拡大の戦いに邁進しており、必然的に政宗は二階堂領を攻略せんと
攻勢を強めていた。大乗院は政宗の叔母に当たるが、二階堂家は政宗の降伏要請には屈しない。斯くして1589年(天正17年)10月
伊達軍による須賀川城総攻撃が開始された。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
大乗院をはじめとして二階堂家の主だった家臣は伊達軍への徹底抗戦を選んだが、一方で家中第2位の地位にあった保土原左近
行藤(ゆきふじ、出家して江南斎と号す)や重臣・浜尾豊前守宗泰(むねやす)らは政宗への服属を選んだ。かねてから政宗と通じて
いた行藤は伊達軍の攻撃を先導したと言う。こうして10月26日に須賀川城は落ち、二階堂家は滅亡。行藤や宗泰は伊達家臣に召し
抱えられ、大乗院は実母・久保姫(政宗の祖母)の許に送り返されたが、彼女は伊達家に庇護される事を良しとせず、後に岩城家や
佐竹家(いずれも伊達家に敵対した大名)に迎え入れられ余生を送ったそうな。保土原行藤はそれまで二階堂家中の“武の中心”と
なっていた武将だが、彼らが伊達家へ寝返っては二階堂家に勝ち目は無かっただろう。一方で行藤は和歌や茶道にも通じた風流の
人で、数寄者・政宗に気に入られたようだ。後年、仙台藩士として伊達準一家に列したそうだ。それはさて置き、1590年(天正18年)
天下人・豊臣秀吉の奥州仕置によって伊達家は須賀川の領地を削られており、その折に保土原家もこの地を去る事になる。よって
館は廃絶されたと考えられ申そう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在は市立博物館■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在、保土原館跡は須賀川市立博物館の敷地になっている。この地点の標高は海抜254.3mで、周囲からは5mほど高い低台地に
なっている。博物館の敷地は東西100m×南北120m程度、方形館?と思しき武家居館を置くには手頃な大きさであろう。尤も、館の
詳しい構造などは不明だ。敷地の裏手(東側)は先ほど紹介した岩瀬山城の敷地なのだが、その間には下の川(栗谷沢)が流れ、
保土原館と岩瀬山城を分離している。この川は本来、市の名前になっている「須賀川」なので、元々はもっと大きな川幅だった筈だ。
岩瀬山城の曲輪群はもっと比高差のある山を利用して作られており、また須賀川で分断されて“孤立した”位置にある保土原館は
至近距離にあるとは言え、構造的に岩瀬山城とは異なるものであったと考えるが如何であろう?まぁ、二階堂氏の本城たる須賀川
城も然程離れた場所ではなく、この辺り一帯には家臣の居館が多数並んでいたようなので(保土原館はその中の1つ)別にいちいち
区別する必要もないのかもしれないが…(苦笑)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
翠ヶ丘(みどりがおか)公園(岩瀬山城跡地の公園)や、博物館の駐車場が沢山あるので車での来訪は至極簡単。須賀川駅からも
1km強の距離なので、公共交通機関を利用した来訪も楽だろう。博物館前の大通り沿いに写真の石碑があり、その奥には何やら古い
石垣が。近現代のものではなさそうなのだが、果たしてこれは館址の遺構?それとも無関係?説明が無いので謎でござる (^ ^;■
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