岩代国 保土原館

保土原館跡

 所在地:福島県須賀川市池上町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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二階堂氏分家の館■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
須賀川市と言うと二階堂氏の所領、その二階堂氏の分家である保土原(ほどわら)氏の館とされるのがここ、保土原館である。
(「ほどはら」と振り仮名を振られる事が多いようだが、須賀川市内にある「保土原」の地名(保土原氏の所領)は「ほどわら」と読む)
二階堂家は藤原南家・武智麻呂流工藤氏の後裔で、源頼朝が鎌倉に幕府を開いた際、その有力御家人に取り立てられて、鎌倉の
二階堂に館を構えた事から二階堂氏を名乗るようになった。鎌倉の永福寺(ようふくじ)には二階建ての大きな寺堂があり、これが
二階堂という地名の元になっている。当時の建築物は平屋が当たり前なので、二階建てと言うだけで相当立派な目立つ建物だった
らしく、現代風に表現すれば「ランドマーク」と言えた。中世ならそれが地名になるのも当然であり、そこに住んでいれば「二階堂」を
名字にするのも自然な流れであろう。民部丞工藤行政が鎌倉幕府政所を掌る事になり、二階堂と改姓し中世の有力氏族となるが
その子孫が数多くの分家を立てる(又はそう仮冒する者が出る)中で二階堂氏が須賀川に入るのが室町時代。とは言っても、何せ
仮冒や諸家乱立の中で二階堂氏が陸奥国岩瀬郡へ入るのだから鎌倉期とも平安期とも諸説入り乱れており正確な事は分からぬし
その系譜も色々と残されていて本当の事は不明。そんな諸説のうち一つ、二階堂遠江守政藤なる人物の弟が保土原に所領を分け
与えられた為、保土原左衛門尉藤顕と名乗った。これが保土原氏の創始なんだそうな。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
保土原館の創始も定かでないが、二階堂家の城として築かれた(元来の須賀川城)が、後に新たな須賀川城(下記)が築かれた為
二階堂氏は本拠をそちらに移した、とする説がある。また、岩瀬山城(これも下記)に密接した立地なので、岩瀬山城構成曲輪群の
一つと解釈される事もある。ただ、二階堂家の「古須賀川城」と言うのは岩瀬山城を指すとも云い(つまり、この館とは一致しない?)
また岩瀬山城と保土原館は性格を異にするようでもあるので、ここではそれぞれ別の城館として扱った。いずれにせよ、館の名から
当館は保土原氏の居館だったとするのが妥当であろう。藤顕の後、定種―満藤と代を繋ぎ室町時代〜戦国時代に突入する。■■

保土原氏、政宗に寝返る■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その戦国時代、1581年(天正9年)8月26日に時の二階堂家当主・信濃守盛義(もりよし)が没する。この時、盛義の長男・平四郎盛隆
(もりたか)は会津の太守・蘆名家の後嗣に迎え入れられて蘆名左京亮盛隆となっていた。故に家督は2男・行親(ゆきちか)が継ぐも
彼も翌年に僅か13歳で死去。このため二階堂家の家督は空位となり、盛義未亡人の阿南姫(おなみひめ、盛隆・行親兄弟の母)が
掌握する。夫が亡くなった事で出家し大乗院と称した彼女は、伊達家の出身ながら蘆名家との同調路線を頑なに維持する。その頃、
伊達家は独眼竜こと17代当主・藤次郎政宗が家督を継ぎ領土拡大の戦いに邁進しており、必然的に政宗は二階堂領を攻略せんと
攻勢を強めていた。大乗院は政宗の叔母に当たるが、二階堂家は政宗の降伏要請には屈しない。斯くして1589年(天正17年)10月
伊達軍による須賀川城総攻撃が開始された。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
大乗院をはじめとして二階堂家の主だった家臣は伊達軍への徹底抗戦を選んだが、一方で家中第2位の地位にあった保土原左近
行藤(ゆきふじ、出家して江南斎と号す)や重臣・浜尾豊前守宗泰(むねやす)らは政宗への服属を選んだ。かねてから政宗と通じて
いた行藤は伊達軍の攻撃を先導したと言う。こうして10月26日に須賀川城は落ち、二階堂家は滅亡。行藤や宗泰は伊達家臣に召し
抱えられ、大乗院は実母・久保姫(政宗の祖母)の許に送り返されたが、彼女は伊達家に庇護される事を良しとせず、後に岩城家や
佐竹家(いずれも伊達家に敵対した大名)に迎え入れられ余生を送ったそうな。保土原行藤はそれまで二階堂家中の“武の中心”と
なっていた武将だが、彼らが伊達家へ寝返っては二階堂家に勝ち目は無かっただろう。一方で行藤は和歌や茶道にも通じた風流の
人で、数寄者・政宗に気に入られたようだ。後年、仙台藩士として伊達準一家に列したそうだ。それはさて置き、1590年(天正18年)
天下人・豊臣秀吉の奥州仕置によって伊達家は須賀川の領地を削られており、その折に保土原家もこの地を去る事になる。よって
館は廃絶されたと考えられ申そう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

現在は市立博物館■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在、保土原館跡は須賀川市立博物館の敷地になっている。この地点の標高は海抜254.3mで、周囲からは5mほど高い低台地に
なっている。博物館の敷地は東西100m×南北120m程度、方形館?と思しき武家居館を置くには手頃な大きさであろう。尤も、館の
詳しい構造などは不明だ。敷地の裏手(東側)は先ほど紹介した岩瀬山城の敷地なのだが、その間には下の川(栗谷沢)が流れ、
保土原館と岩瀬山城を分離している。この川は本来、市の名前になっている「須賀川」なので、元々はもっと大きな川幅だった筈だ。
岩瀬山城の曲輪群はもっと比高差のある山を利用して作られており、また須賀川で分断されて“孤立した”位置にある保土原館は
至近距離にあるとは言え、構造的に岩瀬山城とは異なるものであったと考えるが如何であろう?まぁ、二階堂氏の本城たる須賀川
城も然程離れた場所ではなく、この辺り一帯には家臣の居館が多数並んでいたようなので(保土原館はその中の1つ)別にいちいち
区別する必要もないのかもしれないが…(苦笑)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
翠ヶ丘(みどりがおか)公園(岩瀬山城跡地の公園)や、博物館の駐車場が沢山あるので車での来訪は至極簡単。須賀川駅からも
1km強の距離なので、公共交通機関を利用した来訪も楽だろう。博物館前の大通り沿いに写真の石碑があり、その奥には何やら古い
石垣が。近現代のものではなさそうなのだが、果たしてこれは館址の遺構?それとも無関係?説明が無いので謎でござる (^ ^;



現存する遺構

郭群






岩代国 
岩瀬山城

岩瀬山城址 土塁

 所在地:福島県須賀川市愛宕山・栗谷沢

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★☆■■
★★☆■■



多数の曲輪が散在する城山■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
保土原館の項であらかた記したが、鎌倉期?か室町期に二階堂氏が須賀川へ入部した当初に築かれた「古須賀川城」と伝わる城郭。
須賀川城が築かれた後も、その詰め城として用いられたそうだ。確かに、須賀川城は平地に築かれた城(僅かだが起伏はある)なので
この岩瀬山城の方が要害性には富んでいる。翠ヶ丘公園は全体的に山がちな地形にあり、その中でも北西部に位置する愛宕山には
愛宕神社が鎮座し、公園内で最も高い山となっている。この山には標高278.0mを示す三角点があり、市街地、例えば須賀川駅は標高
243m前後なので比高差30mを越える。実際、愛宕山からは市街を睥睨できる高さがあり、この山を主郭として山頂一帯を啓開している。
その愛宕山には概ね南北方向に起伏(小丘陵)が連なり、主郭の北には北ノ丸(現在の梅林広場か?)、主郭南側には南郭・五老山館・
妙見山郭と言った曲輪が並ぶ連郭式と思われる縄張となっていた。これら一連の曲輪群の西側に須賀川が流れて、保土原館の敷地と
相対する。現状では用水路のようになってしまった須賀川だが、妙見山あたりでは川に面した部分が絶壁となっており、恐らく当時は
山を削る急流となって水濠の役割を果たしていた筈だ。また、翠ヶ丘公園(城地一帯)の東には阿武隈川があり、敵勢の侵攻を足止め
出来る立地になっていたと考えられる。公園内には他にも小丘がある他、北ノ丸の更に北西側(須賀川の対岸)には枇杷ノ首山と言う
山も存在。この枇杷ノ首山は御隠居岳とも言われ、二階堂家重臣・守屋筑後守俊重の隠居所とされた事からその名が付いたとか。この
山にも曲輪があり、当然ながら守屋館と呼ばれる訳だが、それは事実上岩瀬山城の二ノ曲輪だと考える説がある。さりとて、守屋氏の
居館なのだから保土原館と同様に別城(別郭)と考える向きもあり、この辺りは一概に断ずる事は出来ないだろう。■■■■■■■■
愛宕山(主郭)と南郭の間に新池、愛宕山と守屋館との間には琵琶池という2つの大きな池が。これらは当時からあったもので、両者は
須賀川によって繋がっていた。守屋館のある山は琵琶池を扼する位置にあるから「枇杷ノ首山」なのだろう。「琵琶」「枇杷」と字が違うが
中世においてはこうした表記の差は良くある事だし、そもそも楽器の「琵琶」は果物の「枇杷」に似た形だからそう呼ばれるようになった
ものなので、池の形状を表す意味としては同義だ。このように岩瀬山城は水利に恵まれた城でもあった。■■■■■■■■■■■■
いずれにせよ、愛宕山を中心としていくつもの山が曲輪として点在する岩瀬山城は、それ故に愛宕山城とも称される。二ノ曲輪まで含め
「守屋館」、その立地から「びわ首城(びわ首館)」、来歴から「須賀川古館」と言われる事も。■■■■■■■■■■■■■■■■■
現状、公園化で各曲輪は殆どが均されてしまった。但し、愛宕山の主郭だけは土塁が綺麗に残され、往時の姿が想像できる見事さだ。
大きく見れば三角形をした主郭敷地なのだが、これを多数の折れがある土塁で囲い、まるでいびつな長方形と錯覚させるような形状に
整地されている。土塁は部分的に分厚くなっている箇所があり、ここには櫓が建っていたようにも見受けられる。当然、土塁の折れ歪は
入隅・出隅となって随所に横矢を掛け、また虎口も厳重な防備を伴うよう工夫されていて感心させられよう。土塁の外周は帯曲輪の如く
細長い敷地で囲われており、敢えて敵をおびき寄せ土塁上から集中攻撃するような仕掛けになっていたようにも思える。見れば見る程
興味深い城跡なので、オススメでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところで、五老山と言うのは1581年(天正9年)二階堂領の北東に勢力を持つ田村氏が攻撃を仕掛けて来た折、敵の総大将である田村
大膳大夫清顕(きよあき)と二階堂家の5人の老臣が和睦の会談を持った場所としてその名が付けられたと言う。この五老山では現在、
須賀川市を代表する夜祭り「松明あかし(たいまつあかし)」が毎年秋に開催されている。伊達政宗の攻撃で須賀川城が落とされた際、
兵火により須賀川の町は焼け落ちたが、その戦没者を敵味方共に供養する祭りとして行われるようになったそうで、日本三大火祭りの
1つに数えられている。実は、伊達軍の攻撃を前にして大乗院は1589年10月10日の夜、家臣領民を一堂に集め決起集会を行っており、
手に手に松明を持って集った大群衆の意気を今に伝えるべく、松明の篝火を盛大に灯す火祭りとなっている。この城山は現代に至る迄
二階堂家の興亡を示す舞台なのであろう。なお、政宗が豊臣秀吉によって須賀川領を手放した後は蒲生飛騨守氏郷(がもううじさと)
次いで上杉左近衛権少将景勝の所領に転化していくが、景勝は家臣の栗田刑部国時を須賀川に入れたと言う。その後の動向は不明で
程なく廃城になったのでござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

土塁・郭群等






岩代国 
須賀川城

須賀川城址 須賀川神社

 所在地:福島県須賀川市諏訪町・宮先町・中町・加治町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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市街地として消滅だが■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
須賀川市役所から北北東へ330m程の位置に写真の須賀川神社がある。ここが須賀川城の主郭跡とされ、社殿だけが一段高い土壇上に
置かれている。これが櫓台だと言うが、或いはもっと大きな土塁の削り残しか、はたまた全体的に高い敷地が市街地化で均されたものか。
いずれにせよ、この主郭を囲うような形で南面〜東面にかけて(現在、須賀川市民交流センターがある一帯)二ノ丸があり、反対に主郭の
西には馬出状の出郭が。これらは堀によって区分けされ、この外部にも寺町や侍町が広がって城の外郭を作っていたと縄張図にはある。
だが、平城の敷地は大半が市街地となり、面影が残る部分はごく僅かのようだ。須賀川神社の土壇以外には、そこから北西側に170m程の
位置にある神炊館(おたきや)神社の境内に断片的な土塁と外濠があるのと、逆に本丸の南西180mくらいの場所に、同様に空堀と土塁が
部分的に残る(曹洞宗万年山長松院境内)。この長松院では2003年(平成15年)土塁断面や堀の構造を調査するべく試掘が行われており、
土塁は基底幅5.7m、現状では高さ1.6mあるが当時はもっと高く、堀を掘った土を築き上げて構築したと確認された。堀は上幅12.6m、底まで
現状の地表面から2.3mの深さがあり、当時は土塁の高さも相俟ってもっと険要な高低差を持っていたと考えられる。このような構造物が、
当時は須賀川市中心街の大半を占めていたと考えるに、平城ならではの広大な領域を活用した城だったのであろう。この城を中心として
一門や配下武将の館が周辺に広がり、結果的に町を囲んで出曲輪状の館群(岩瀬山城までも繋がる)が固まる事になっていき、須賀川は
町そのものが城郭という感じになっており申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
須賀川城の起源としては、鎌倉時代に二階堂氏がこの地を領した事に始まると言うが正確な所は分からない。記録を検証するに、1399年
(応永6年)頃に二階堂治部少輔行続(ゆきつぐ)が築城したと言うものもあれば、それまでの岩瀬山城(古須賀川城)から1448年(文安5年)
二階堂遠江守為氏(ためうじ、行続の子)が城を移したとするものも。二階堂家は嫡流と分家(須賀川二階堂家は元々分家だと言う)が入り
乱れ、系図には諸説ありそれが正しいのかどうかは分からないが、一応その系譜を辿れば為氏の後に山城守行光―山城守行詮―行景―
遠江守晴行―弾正大弼輝行―信濃守盛義と続く。この間、二階堂家は近隣大名との戦いに明け暮れ、特に田村氏や蘆名氏との攻防が
多く、鎌倉以来の名家も損耗が激しくなっていた。輝行の頃には「わずかに五十余郷を領す」程度に領土を縮めていたそうだ。斯くして跡を
継いだ盛義は蘆名氏との和睦に傾き、嫡子・平四郎を蘆名家への人質に出した訳だが、逆に蘆名家でも当主が次々と落命して、結果的に
その平四郎が蘆名家の後嗣となっていく。これが三浦介蘆名盛隆であり、それまで仇敵だった蘆名家は、いつしか二階堂家にとって大きな
後ろ盾となったのである。そこへ伊達政宗が攻め込んで来たとあれば、阿南姫としては愛息子の家である蘆名(盛隆)・二階堂(行親)の為
甥であろうと「政宗何するものぞ」と徹底抗戦を選ぶのも当然だと想像出来よう。既に盛義も行親も亡く、頼るべきは家老・須田美濃守盛秀
(すだもりひで)で、大乗院と盛秀は果敢に戦うも落城したと言うのは保土原館の項で記した通り。大乗院は政宗の庇護を嫌い佐竹家へ身を
寄せたが、盛秀も同様で須賀川城落城の後、佐竹家の家臣に取り立てられている。一方、須賀川城は政宗の蹂躙によって破壊され、恐らく
堀の大半がこの時に埋め立てられている。だが、廃城になったのではなく政宗は一門衆の石川大和守昭光(いしかわあきみつ)に当城を
預けた。この昭光、大乗院の弟である。政宗が秀吉により所領を没収されると、この地は会津の蒲生家が領し須賀川城には田丸中務大輔
直昌(たまるなおまさ)が入城。その蒲生家も転封されると次は上杉景勝の所領となり千坂対馬守景親(ちさかかげちか)や二本松右京進
義孝(よしたか)が城代に、1601年(慶長6年)蒲生家が再封されると家老の蒲生源左衛門尉郷成(さとなり)が封じられた。このように戦国
末期から江戸時代初頭にかけて須賀川城は激変の時代を経験するが、1627年(寛永4年)蒲生家が改易となって加藤家が会津に入ると
城は廃されてしまった。その代わり、須賀川は街道の宿場町として発展を遂げ、城は無くとも繁栄する時代を迎えたのでござる。■■■■
余談になるが、須賀川城の濠が断片的に残る神炊館神社はもともと別の地にあったものを、上杉家領有時代に現在の場所へ遷座された。
そしてその神官は須田盛秀の2男・秀世が務めたと言う。どうやら須賀川の町にとって伊達政宗は“侵略者”であり、それに抗して大乗院に
忠義を尽くした須田家は崇敬を集め、民衆に請われて神社の守主になったそうだ。独眼竜は全国的な知名度を誇る武将だが、この町には
その人気を上回る英雄が居り、その血筋は現代まで続いている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁








岩代国 長沼城

長沼城址

 所在地:福島県須賀川市長沼・長沼字殿町・長沼字堀切
 (旧 福島県岩瀬郡長沼町長沼・長沼字殿町・長沼字堀切)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★★■■
★★■■■



山間の名城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
千世城、牛臥城などの別名もある旧長沼町の平山城。「長沼」と言う地名は全国に散らばっているが、遡ると鎌倉時代の御家人・長沼氏に
関連する事が多く、ここ岩瀬郡もそれに該当する。下野国の名族・小山下野大掾政光(おやままさみつ)の2男である五郎宗政(むねまさ)は
下野国芳賀郡長沼(栃木県真岡市)に所領を得た事から長沼姓を名乗り、長沼淡路守宗政を称した。これが長沼氏の創始で、子孫は全国
各地に分派している。その中に陸奥国岩瀬郡があり、1260年(文応元年)長沼中納言隆時がこの城を築いたとされるのだが、南北朝時代の
築城とする説もあり、詳しい事は良く分からない。この後、室町時代の応永年間(1394年〜1428年)に長沼氏は奥会津の鴫山(しぎやま)城
(福島県南会津郡南会津町)へ居を移したそうで、戦国時代になると伊達氏や蘆名氏、二階堂氏の争奪戦が行われる現場となっていく。
1547年(天文16年)二階堂盛義と蘆名修理大夫盛氏(もりうじ)が岩瀬郡内で戦ったのは、この長沼城を巡る攻防戦だったとか。■■■■
相次ぐ戦乱によって疲弊した二階堂氏は1566年(永禄9年)当主・盛義が嫡男の平四郎を蘆名家へ人質に出して従属、この時に長沼城は
蘆名家へ割譲された。それにより蘆名領となったこの城には蘆名家臣・新国上総介貞通(にいくにさだみち)が入る。1588年(天正16年)7月
伊達政宗が仙道筋の覇権を賭けて佐竹・蘆名連合軍と戦った郡山合戦では、貞通が5〜6騎の武者と足軽100名を率いて政宗本隊を挑発、
そこから乱戦になってあわや政宗が戦死しかけた所を、伊達軍の伊東肥前守重信が身代わりになって討ち死にするなど、老練の将となった
貞通は会津蘆名家が仙道筋への前線城郭として重視した長沼城を堅守していたのである。ところが翌1589年、蘆名家が政宗に滅ぼされると
貞通は伊達家に降伏する。貞通はなりふり構わずに所領安堵のため政宗へ媚びを売った様子が記録に残るようだが、それも束の間の話で
今度は天下の主となった豊臣秀吉がこの地を再分配する事態に。後北条氏の小田原城(神奈川県小田原市)を攻略した秀吉は、その足で
1590年8月、陸奥国へと入る。その経路上に長沼城があり、8月7日に秀吉がこの城を宿所にしたそうで、貞通は白河まで秀吉を迎えに行き、
その夜は歓待の大宴会を長沼城で開いたと言う。それでも秀吉は貞通と気が合わなかったようで(その逸話も色々と)、結局長沼城は会津の
新領主となった蒲生家のものに。蒲生家の筆頭家老・蒲生四郎兵衛郷安(さとやす)が3万500石で長沼城主になり、次いで1592年(天正20年)
蒲生家の領内再編で蒲生主計助郷貞(さとさだ)が1万石で封じられている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1598年(慶長3年)越後の上杉景勝が会津へ移されると、長沼城には上杉家臣・島津淡路守忠直(ただなお)が入った。この忠直、姓が島津と
言う事で分かるように薩摩島津家と同類の信濃島津家を出自とするが、前任地は信濃国水内(みのち)郡長沼城(長野県長野市)と、奇しくも
同じ「長沼」という土地であった。ところが上杉家は関ヶ原戦役において西軍の主力として動き、徳川家康の会津征伐を待ち構える状況を前に
ここ長沼城は会津南端の要衝として最重要拠点となる。この為、長沼城は急遽上杉本営として整備拡張された。今に残る遺構、特に石垣は
この時の突貫工事によって築かれたものと見られている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
されど、家康の会津遠征軍は途中で引き返し関ヶ原で天下分け目の一大決戦に至る。会津攻略は沙汰止みとなり、この城が戦いに供される
事は無かった。戦後、天下を握った家康は上杉家を会津から追い出し、蒲生家が再びこの地の領主となるや長沼城主には蒲生五郎兵衛尉
郷治(さとはる)が1万石で任じられ、1609年(慶長14年)からは玉井数馬助貞右(たまいさだすけ)がその職に就いている。■■■■■■■■
最終的には1615年(元和元年)江戸幕府が一国一城令(大名の居城以外の城を禁ずる法令)を発布した事により廃城となり申した。■■■

桜の名所■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
須賀川市立長沼小学校のすぐ北側にある日高見山という低山が城山。この山には標高367.6mを指す三角点があり(最高標高点は367.9m?)
麓の長沼小学校には326.1mの電子基準点があるので、比高差40m越と言った具合である。日高見山は東西に細長く、西の主山塊から東へと
突出した舌状台地の地形であるが、東端が大手口となっており、そこから九十九折の坂道を登ると半坂門と呼ばれる三ノ丸入口に到達する。
この時、三ノ丸の北東側に東の丸が回り込んで置かれている為、半坂門に殺到する敵は正面の三ノ丸と右手上方にある東の丸から挟撃を
受ける形となる。現状、東の丸には水道施設が設置されているので立ち入れないが、三ノ丸は平場となっており簡易なベンチ等があって城山
散策をお手軽に楽しめる。この三ノ丸から一段上がった曲輪が山の最高所を啓開した本丸。緩い三角形をした本丸は、北東隅部が入口で、
南東隅部は物見台であったかのように突出している。ここには今、東屋があるので“現代の物見台”の如き雰囲気だ。北西隅近くには日高見
稲荷の古びた社が鎮座しているが、その裏手には石垣が存在している。本丸は全周を土塁で囲っており、特に西側は分厚くなっている上、
このように法面をしっかりとした石垣で固めており、念入りに作り込まれている印象を受ける。これが関ヶ原前哨戦として上杉家により増強を
受けた部分なのだろう。そして本丸の西側には、明瞭な高低差を付けて二ノ丸が開かれている。ただ、長沼城山は三ノ丸と本丸を公園として
整備しているものの二ノ丸は逆に手付かずで藪だらけのまま放置されている。この高低差を上り下りし、なおかつガサ藪の荒れた曲輪へと
侵入するのは危険なのでオススメしない。むしろ、本丸周辺の石垣をじっくり考察する方が楽しめるだろう。ちなみに二ノ丸の先には大堀切を
穿ち、その西へ連なる主山塊との間を切断しているそうだ。この大堀切の根元部分だけが小字名「堀切」となっている。この他、城山の東側
(小学校前の道路を渡った更に東)の畑の中には大外郭の堀も残存するとか。この大規模構造物も、上杉家が作ったものだろう。■■■■
兎にも角にも、切岸や石垣が見事な城郭。1968年(昭和43年)4月1日、須賀川市(当時は長沼町)指定史跡となってござる。のみならず、この
城山は桜の名所だそうで、春になると山全体が桜の花で覆われる。季節によっては非常に美しい城…なのだが、その頃には花見客も多くて、
そういう意味では、あまり城を堪能する環境にはならないのかもしれない。まぁ、おかげで駐車場完備(小学校のすぐ北側に数台駐車可)の
城山公園として開放されている訳なのだが (^ ^;ありがたや■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は市指定史跡




三春城  馬入峠防塁