「三つの春が訪れる町」に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
春を代表する花と言えば梅・桃・桜であろう。その3つの花が同時に咲くと言われる地勢から「三春」と呼ばれるようになったこの地は、
田村郡の中心となる町であり、三春城は田村郡を治めた大名・田村氏の本拠地として築かれた。その田村氏は平安期の征夷大将軍
坂上田村麻呂の後裔を称した名門武家であるが、実際は平氏の血筋を有した氏族だったと見られる。正確な築城年代は不明ながら
1504年(永正元年)又は1516年(永正13年)に田村氏23代目当主・大膳大夫義顕(よしあき)によって作られたとされる。これは永正の
「子ノ歳」に築かれたとの記録に拠るのだが、異説では南北朝時代に田村庄司(藤姓田村氏)の田村遠江守量顕(かずあき)が居館を
構えていたとの謂れもある。この田村庄司系田村氏は鎌倉幕府の評定衆に含まれていた一族だが、南北朝争乱では南朝方に就き、
次第に室町幕府の統治体制が確立すると鎌倉府(室町幕府の東国出先機関)の興亡に巻き込まれ衰退していった。その名跡を平姓
田村氏が取って代わって田村郡を掌握した流れらしく、義顕は後に田村氏が戦国大名として勇躍する基盤固めを果たした人物なので
田村庄司の旧館跡を接収して新たな城を築いた?とも考えられよう。それまでの居城だった守山城(福島県郡山市田村町)から、この
三春城へ移った義顕と、その子で24代目となった民部少輔隆顕(たかあき)は田村家拡大の原動力となった代と称され、彼らは領内に
「田村四十八館」と呼ばれる大量の支城網を整備した。実際には48どころか100を越える数の城砦群が作られたようだ。田村氏が戦国
大名として勢力を拡大させていた様子が窺え、三春城はその中心となっていた事の歴史的証左でござろう。■■■■■■■■■■■
しかし田村領の周囲は相馬・岩城・佐竹・蘆名・伊達などの強豪揃いである。田村家は一国人領主から戦国大名化したものの、独力で
領地を守るのは難しく、これら諸勢力との外交均衡が不可欠であった。故に田村義顕は岩城氏から、隆顕は伊達氏から、隆顕の子で
25代目の大膳大夫清顕(きよあき)は相馬氏から正室を迎え入れている。さらに、清顕の一人娘・愛(めご)姫は伊達家の新当主となる
藤次郎政宗、あの独眼竜政宗の正室として嫁いだ。このように田村家は周辺大名との縁戚関係を巧みに繋いで、安全保障を成り立た
せていた訳だ。ところが清顕が1586年(天正14年)10月9日、男子なきまま没した為に家督相続問題が急浮上し、田村家中では清顕の
正室である相馬家を頼る派閥と、愛姫の嫁先・伊達家を頼る派閥に割れた。相馬派は於北の方(清顕未亡人)を筆頭とし、田村梅雪斎
顕盛(あきもり、清顕の叔父)・田村右馬頭清通(顕盛の子)・大越紀伊守顕光(おおごえあきみつ、田村一門衆)そして郡司豊前守敏良
(ぐんじとしよし、田村家臣)と言った面々、一方の伊達派は田村月斎顕頼(あきより、梅雪斎顕盛の叔父)・田村宮内顕康(顕頼の子)・
橋本刑部少輔顕徳(あきのり)・鹿山兵部秀季・門沢左衛門・石沢修理(顕常?)等とされる。日に日に高まる対立に際し、於北の方は
甥で相馬家16代当主・長門守義胤(よしたね)に救援を要請、それを受けて1588年(天正16年)閏5月12日に義胤は三春城への入城を
図った。されども彼が城中の中ほどまで来た所、伊達派の田村月斎や橋本顕徳が伏せていた兵に命じて一斉射撃を開始、義胤を亡き
者にせんと謀った。結局、義胤は城から撤退せざるを得なくなり、城はそのまま伊達派が制圧する。それに伴い、伊達軍は攻勢を強め
三春周辺から相馬方勢力を駆逐し、8月3日には於北の方が三春城を退去、船引城(福島県田村市)にて隠棲する。そして8月5日には
政宗が三春城へ入城。政宗の滞在は9月17日まで続き、家中は伊達家臣従で統一され、清顕の後継者には孫七郎宗顕(むねあき)が
据えられた。宗顕は亡き清顕の甥だが、政宗の「宗」の字を与えられた事から分かるように事実上政宗の家臣として扱われた。当然、
三春城も“伊達家の”田村宗顕居城という訳だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが、この「政宗家臣」という認識は田村家にとって不幸を呼び込む事になった。1590年(天正18年)天下統一に王手をかけた関白
豊臣秀吉は、その統一戦の舞台となる小田原城(神奈川県小田原市)攻めに全国の大名を呼び寄せる。それに従わぬ者は豊臣家に
敵対する者と見做される事になるのだが、“伊達家臣たる田村宗顕”は「政宗の命により」国元に留め置かれた。これが秀吉側からは
“独立大名である筈の田村宗顕”が「関白の命に従わず」小田原へ来ないと解釈され、田村家は所領没収される事に。とは言え、結局
田村郡は「伊達家の所領に加えられる」形となったので政宗としては痛くも痒くもない話だったが、田村家としては「政宗だけが得する」
事となってしまった。この為、禄を失った宗顕は伊達家臣・片倉家に預けられ、三春城には片倉小十郎景綱(かげつな)が入る。■■
田村時代が終わった後■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さりとて、事はそれだけで終わらない。田村郡の領有こそ公認されたものの、政宗はそれまで自力で切り取った所領を秀吉に没収され
表向き豊臣家へ臣従したが内心では所領の奪還を画策していた。故に、秀吉が奥州各所の所領再編を行う中で政宗は旧勢力による
反抗を画策、同年末から大崎・葛西地方で巨大一揆が勃発した。政宗としては豊臣政権ですら鎮圧できない一揆を煽り、頃合いを見て
裏で手を引く一揆勢を懐柔し秀吉から旧領の返還を引き出そうとしたのだろう。ところがこの企みは露見し、切羽詰まった政宗は自身で
一揆を鎮圧せざるを得なくなる。政宗としては「知らぬ存ぜぬ」を決め込んで、伊達家こそが体を張って一揆を抑え込んだという“体”に
仕立て上げた訳だ。事の推移を知ってか知らずか、秀吉も「一揆鎮圧の功績」としてその大崎・葛西地方を政宗に与える。但し、旧来の
所領である米沢や田村郡と引き換えに。天下人の裁定に従わざるを得なかった政宗は、こうして公認されたばかりの田村郡を1591年
(天正19年)に手放した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
このため、田村郡は秀吉によって会津の領主に封じられていた蒲生飛騨守氏郷の領土に組み込まれ、蒲生家の与力大名である田丸
中務大輔直昌(たまるなおまさ)が三春城主になる。だが後に直昌は居城を守山城へ移しており、恐らく1595年(文禄4年)頃までには
三春城は廃城とされてしまう。以後、田村郡は蒲生家から上杉家の領有する所となるが三春城は用いられないままであった。ところが
その上杉家は関ヶ原の戦いで西軍主力として活動し、戦後は出羽国米沢(山形県米沢市)30万石へと大幅減封され、会津や田村郡は
1601年(慶長6年)8月、再び蒲生家の領土に戻される。氏郷は既に没し、その子・飛騨守秀行(ひでゆき)が当主となった中で田村郡は
家老の蒲生源左衛門尉郷成(さとなり)が治める事となるも、当初は守山城を使い、後に三春城を復興し城代となった。されど、それも
束の間、1609年(慶長14年)郷成は蒲生家中での権力闘争に敗れ、国を捨てて出奔してしまう。故に三春城は秀行の2男・鶴松の城と
されるが、その当時まだ鶴松は6歳。当然ながら城主としての任に耐えず、実質的には鶴松の傅役・蒲生五郎兵衛尉郷治(さとはる)が
差配した。5年後の1614年(慶長19年)幕府の命で蒲生郷成が三春城に復帰する事となり、郷治は津川城(新潟県東蒲原郡阿賀町)へ
移っている。この時、郷成は入国の直前に病死してしまったので実際に三春城を預かったのは郷成の子・源左衛門尉郷喜(さとよし)と
源兵衛郷舎(さといえ)兄弟であった。この兄弟も蒲生家中での権力闘争に敗れ1616年(元和2年)蒲生家を逐電し、三春城はまたもや
鶴松長じて蒲生中務大輔忠知と郷治が治めるようになり、それが1624年(寛永元年)に郷喜・郷舎兄弟の復帰で戻されるという流れを
辿る。最終的に蒲生家は1627年(寛永4年)無嗣断絶で改易処分となり、蒲生一族による三春城統治は終わりを告げていく。このように
蒲生時代の三春城は主が何度も何度も変わったため、従来はあまり手入れされなかったと考えられてきたが、近年の発掘調査により
本丸に残る大規模な石垣は蒲生期の構築と推測されるようになり、城下町整備もこの時代に行われたとの結論が出てきていて、実は
蒲生時代に三春城が近世城郭として大規模な改修・整備が行われたと考えられるようになってきており申す。■■■■■■■■■■
さて、改易となった蒲生家に代わり会津を領有する事になったのは加藤左馬助嘉明。「賤ヶ岳の七本槍」の一人である。武功に秀でた
彼は、奥羽の要衝である会津を任せられた訳だが、支城となる各所に一門衆を配して統治体制を固めた。そうして三春城には嘉明の
3男・民部大輔明利(あきとし)が入る事になる。時に1627年3月14日、三春領の石高は3万石であった。ところが同年の10月2日、同じく
加藤一門として二本松城(福島県二本松市)主になっていた松下右兵衛尉重綱(しげつな)が没し、その子・石見守長綱(ながつな)は
まだ若年であった為、二本松5万石は翌1628年(寛永5年)10月5日に召し上げられ、加藤明利が二本松城に入る。代わって松下長綱が
三春城主となるのだが、蒲生家が氏郷没後に騒動を頻発させ改易になった如く、加藤家も嘉明が没した後に御家騒動を引き起こして
1643年(寛永20年)5月に改易とされた。これで松下長綱は加藤家与力の立場から離れ独立大名となったものの、1644年(寛永21年)
4月10日、乱心したとされ彼も改易。田村清顕の死没以来、この城の主は何かと問題に直面して離任する事が続いたのである。■■
秋田家の城として■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1645年(正保2年)7月10日、幕府は常陸国宍戸(茨城県笠間市)5万石の主であった秋田伊豆守俊季(としすえ)を三春へ転封させた。
三春での石高は5万5000石。秋田氏は戦国時代まで、その名の通り秋田の領主として代々君臨していたのだが徳川幕府の成立と共に
故郷を離れ、宍戸へ国替えとなっていた家だ。此度、宍戸から三春へと移封され、以後は明治まで秋田家が三春城主の座を継承する。
俊季は1649年(慶安2年)1月3日に病没し長男の安房守盛季(もりすえ)が相続するも、この時に盛季は弟の淡路守季久(すえひさ)に
5000石を分知したので三春藩領は5万石となり、これが幕末まで維持された。盛季以降、信濃守輝季(てるすえ)―主水正頼季(よりすえ)
河内守延季(のぶすえ)―主水正定季(さだすえ)―山城守倩季(よしすえ)―信濃守長季(ながすえ)―山城守孝季(のりすえ)―信濃守
肥季(ともすえ)―信濃守映季(あきすえ)と続く。この間、三春城においては倩季の代に当たる1785年(天明5年)2月22日に三春城下で
大火が発生。八幡町から出た火は町のみならず城も焼き尽くし、灰燼に帰したと云う。この後、主要な建物は再建されたものの1830年
(天保元年)孝季の代に馬屋が火災で失われ、その火が城下まで延焼したとか。もともと、三春藩の財政は困窮状態にあり、1785年の
火事では幕府から復旧費用として3000両を借り受ける程でござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
幕末においては東北諸藩が奥羽越列藩同盟を結成する中、三春藩も当初はそれに加わっていた。しかし藩内には尊皇派も根強くおり、
新政府軍が征東の軍を発するにおいて水面下で服属工作も行われており、特に三春藩郷士の実力者・河野広中(こうのひろなか)らが
断金隊(だんきんたい、土佐藩兵による遊撃部隊)隊長・美正貫一郎(みしょうかんいちろう)に接触、新政府への降伏帰順が認められた。
このため浅川の戦いで東北諸藩側が敗北した直後(順番には諸説あり、三春藩の裏切りにより東北勢が敗北したとするものもある)に
三春藩兵は同盟軍から離脱、1868年(明治元年)7月26日に三春城は無血開城を決す。この時、城主・秋田映季自らが新政府の軍勢を
城外に出迎えており、東北戦争初期での降伏もあって三春藩は朝敵の汚名を回避している。一方で三春藩は直前まで列藩同盟側にも
同盟維持の態度を見せていたので、あまりの変節ぶりに東北諸藩側は「三春狐に騙された」と恨み骨髄だったそうな。ともあれ、これで
浜通りから仙道筋への道が開けた新政府軍は二本松の攻略に取り掛かる事が可能となり、その道案内は三春藩が引き受けたと云う。
二本松や会津若松では城下まで戦闘に巻き込む壮絶な籠城戦となったのに対し、三春城は開城したため戦火に晒される事は無かった。
ちなみに三春城内には美正貫一郎が座ったと伝わる「美正の腰掛石」がある。また、近代立憲制の誕生と共に河野広中は政治家になり
第11代衆議院議長、更に1915年(大正4年)第2次大隈重信内閣の農商務大臣となってござる。■■■■■■■■■■■■■■■■
1871年(明治4年)7月14日の廃藩置県で三春藩は三春県になるが、同年11月2日の第1次府県統合で平県になり、更に同月29日には
磐前(いわさき)県へと改称、1876年(明治9年)8月21日 の第2次府県統合で福島県に統合される。当然、城は統治拠点としての意義を
失い、廃城処分もあって城地は兵部省が管理する事となった。その為、建築物や石垣などは破却を受け民間へ払い下げられてしまう。
現在、城の残存建築物は全く無く藩校・明徳堂の表門だけが城山の麓にある三春町立三春小学校の校門として移築現存するのみだ。
詳しく記せば、1781年(天明元年)明徳堂は秋田倩季により設立されたのだが、1785年の大火で焼失したため場所を移して再興される。
この門はその折に建てられたもので、寛政年間(1789年〜1801年)の建築と言われている。明徳堂が1871年に廃止とされて以降、その
敷地は師範学校や三春小学校分教場、自由民権運動の学塾である正道館などとして転用されていくが、門はそのまま使われていた。
但し、昭和になって屋根を茅葺から銅板葺きに改装されている。1947年(昭和22年)公会堂となっていた明徳堂跡に三春警察署が建つ
事となったので、表門は文化財として学校教育の場に供すべく三春小学校の校門に移築し現在に至っているそうだ。1964年(昭和39年)
11月3日、三春町指定文化財とされている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、建材どころか石垣の石材すら売り払われた城址は長らく放置されていたが、1922年(大正11年)山頂一帯が城山公園として整備・
一般開放されている。但し、この公園化によって本来ない道が敷設されたり、櫓台土塁などが均されてしまい旧来の縄張りと変更された
点が発生してしまった。とは言え、それでも城跡の大まかな地形は変わっておらず現状では三春町指定史跡となっている。また、2017年
(平成29年)4月6日には財団法人日本城郭協会から続日本百名城の中に選ばれた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
三春城の特徴■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
中世の三春城には不明な点が多く、現在に残る遺構は殆んどが近世城郭化されてからのものである。これらは概ね蒲生氏と松下氏の
統治時代に築かれ、それが秋田氏の時代に焼失・再建を繰り返したものだ。まず城の立地だが、三春町役場のすぐ北側にある小高い
山が城跡で、最高地点は標高407.9mを数える。大志多山と呼ばれていた城山は麓との比高が約90m、ほぼ独立した丸い山だが西側に
小さな尾根が延び、南東に小さな次峰が付属する。この山の北側にももう一つ小山があり、戦国時代(田村期)には城山山頂に三春城の
主城、南東の小山に東館、そして北の山には月斎館という3城が並立する構造だったらしい。月斎館と言うのは田村月斎顕頼が預かった
出城であろうか。ちなみにこの田村月斎顕頼、当時の田村家中で屈指の名将だったらしく、敵方からは「畑に地縛り、田に蛭藻、田村に
月斎無けりゃ良い」と恐れられたそうだ。また、同時期の東館には小宰相こと田村隆顕未亡人(清顕の母)が入居しており、彼女は伊達
政宗の大叔母にあたる人物だった事から、田村家を制圧した政宗は度々この館を訪れ爾後の相談をしていたと記録されている。その為
三春城主郭部の東面(東館へ通じる部分)にある石垣は政宗が三春城増強の為に築いたものとも考えられている。そうした戦国期三春
城は蒲生氏によって石垣を全周に取り巻く近世城郭へと改修され、松下時代には城の中腹にも曲輪が築かれ、家臣団を集住させるよう
変化したと推測される。その一方、完全に別の城となっていた月斎館は放棄されたようだ。これが秋田氏の時代になると、山頂での曲輪
構成が拡張されたものの次第に山上での居住が不便なために山麓での御殿が築かれ、そちらが城主の日常的居住空間になっていった。
では改めて縄張りを示すと、山頂一帯をかなり広く啓開し、「L」字型の敷地をした本丸を造成。この本丸は上段と下段に分かれ、東側の
南北に細長い敷地が上段、西側にある残りの部分が下段だ。これに付随する北側の突出部は杉の丸と呼ばれていた。本丸上段は東西
およそ40m×南北80m強と言う大きさで、この敷地には北から順に御座の間・台所・広間が建てられていたと図面上にある。下段は凡そ
東から西へ突き出す敷地で、その北面に長屋(多聞櫓)が置かれ、南面には表門(本丸大手門)、そして西端部に三階櫓が建っていた。
下段から上段へ上がるには、南端部に坂虎口、中央部に枡形状の虎口が開いていたのでその何れかを使ったのだろう。L字のくびれと
なる地点には裏門が開き、そこから北側の山裾へ降りると搦手門があった。杉の丸には風呂屋が。これら、山上主郭部の下には中腹の
帯曲輪群が取り巻いて防備を固めていた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
西の尾根の根元には二ノ丸。その先にも西の曲輪群が連なり、最先端部には太鼓堂があったとされる。こうした西の曲輪群の南麓には
秋田氏時代の藩主居館が築かれ、これが日常の生活空間や藩政の場となっていた。現在、この山麓居館跡地が三春小学校の敷地に
なっており、その南には藩校・明徳堂があった。明徳堂は創建当初は三春福祉会館の位置にあったが、先に記した通り1785年の大火で
現在の三春町役場の位置(三春警察署が移転し役場となった)に移り、そこにあった表門が三春小学校に移築された訳である。表門は
今、小学校敷地に登る階段の上に置かれているが、この階段の下にあったのが三春城の追手門(大手門)だったとの事。他方、東館が
あった南東の小ピークは近世城郭となって三ノ丸として取り込まれたが、この小山の中腹には戦国期からそれほど改変を受けなかった
腰曲輪群が多数眠っている。場所的には田村大元神社の北側にある森だが、三ノ丸曲輪群は公園整備の手が入っていない為、見学は
難しい状況にある。なお、三春城は時代や図面ごとに曲輪の名称が異なっていたので、例えば本丸下段を二ノ丸とする事例があったり
三ノ丸を城山の北側にある低台地(ここは三部坂と呼ばれる経路沿いにあった寺社敷地群)とするものもあり一定しないが、当頁では
三春町教育委員会が作成した三春城跡案内パンフレットを基準に解説し申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城山一帯では数度に亘る発掘調査が行われており、主に建物の瓦や陶磁器などが出土、城が用いられていた当時の生活遺物が確認
されたが、一部には埋もれていた戦国期の石垣(蒲生期ではなく、それ以前のもの)も検出されており、これが東館側を固めた伊達政宗
時代の遺構ではないかと考えられるようになった。また、城内の建築物で特筆すべきは風呂屋と三階櫓だろう。「風呂」と言うと現代では
入浴する為の浴槽を備えた施設となるが、当時はそれを「湯殿」と表現するので「風呂屋」となると今でいうサウナ(蒸気風呂)を指す。
「湯殿」を備えた城は他にもいくつかあるが、「風呂」は大量の蒸気を発生させる大掛かりな設備が必要なので、御三家筆頭である尾張
徳川家の名古屋城(愛知県名古屋市中区)くらいしか類例が無い。その名古屋城の風呂(湯殿書院)も、城主用ではなく将軍が来訪した
時にのみ使うとされていたので、三春城の風呂屋は非常に贅沢な建築物だったと言える。続いては三階櫓だが、これは松下長綱が築き
外観3重、内部3階の3重3階櫓であった。既に武家諸法度が発布された時代、城に天守を築くのは憚られ、三階櫓の名称を用いたもので
あるが事実上の天守と言える建造物だ。敷地は南北に細長かったため、初重の入母屋屋根が2重部分に食い込んだ古式な望楼型をし、
それが本丸の隅部に建っていたのだからさぞかし重厚な雰囲気を醸し出していた事だろう。初重平面は4間×7間、2重目は3間×4間で、
3重目は2間×3間との記録が残り、櫓は高さ約13mを数えた。この櫓の中に将軍家から拝領した文書類を保管していたそうだが、惜しくも
1785年の火事で焼け落ち、再建されたものの明治に破却された。これがもし残っていれば、現存12天守にもう1つ加わったかも?なお、
1785年の火事では内部に保管していた将軍家からの文書だけは城主が持ち出し難を逃れた。城は焼けても、将軍からの命令書は何が
あっても守り通さねばならない、封建時代ならではの逸話でござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名で舞鶴城(臥牛舞鶴城)。なるほど確かに優美な雰囲気が漂う城址ではある。築城者とされる田村義顕が入城した朝、城の上空を
鶴が舞ったからだとか。そう言えば冒頭に三春は「梅・桃・桜が同時に咲くから」と記したが、三春城の完成を祝い義顕が入城したのが
1月7日だった事から、移る前と移った後、更にその月が閏月であった事から翌月にもう1回と、正月(新春)を3度祝った習わしがあったと
伝わるので「三春」と呼ぶようになったという説もあるそうな。三春の町は、城と共にあると云う事なのだろう。■■■■■■■■■■■
三春町保健センターのすぐ東隣に城山まで登れる車道があり、本丸と二ノ丸の間に駐車場もあるので自動車で簡単に登城できる。但し、
車道入口がイマイチ分かりづらく、また駐車場の入口もこれまた分かりづらいので注意が必要。何よりこの車道が狭いので、下手な所で
停車して対向車との交差に難渋するような事の無きよう、運転には細心の配慮をお願いしたい。山中には曲輪群・土塁・石垣が数多く
残っているので見応えは十分でござる。さすが続百名城!街並みも落ち着いた良い雰囲気なので併せて散策したい城だ。■■■■
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