田村一門・大越氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
2005年(平成17年)3月1日、それまで田村郡を構成していた中の大越(おおごえ)町・滝根町・常葉(ときわ)町・船引(ふねひき)町・都路
(みやこじ)村が合併して田村市が成立した。大越城はその内の旧大越町中心街に程近い標高562.7mの山にある。JR磐越東線の大越
駅から南西およそ760m地点の山頂を中心とした山城で、国の登録有形文化財となっている旧大越娯楽場の南側から西へと延びる道を
入ると、舗装路の行き当たり地点から左手に城の案内看板が現れる。そこから山道を歩けば、順番に曲輪や堀切などの遺構が登場し、
山頂の主郭まで登る事ができる。順路には遺構の案内表示が置かれ、主郭には写真の城址碑や東屋もあり、それなりに手入れされた
山なので然程の危険は無い。ただし、樹木や下草は旺盛に生えているので汚れても良いような恰好で登城すべきだろう。■■■■■■
この城が築かれたのは1566年(永禄9年)、大越紀伊守顕光(信貫(のぶつら)とも)の手に拠る。大越氏はそれまで下大越城(朝霧城)を
居城にしていたが、岩城氏の軍勢に攻められた折、城の水源に毒を投げ込まれ使えなくなってしまったため新しい城を築き移ったと云う。
これが大越城であるが、下大越城は大越城の真北およそ2.5km(同じく旧大越町内)にあり、城を移すにあたり牧野川を遡ってより険峻な
山を選択した格好だ。大越氏は田村郡の戦国大名・田村氏の家臣であるが、血縁を辿れば田村氏から分流した家だそうで、家史である
「大越家系勤功巻」によれば「田村二番の大家」と記されている。その田村氏は平安時代の征夷大将軍・坂上田村麻呂を始祖としており
(実際には藤原氏?平氏?の血縁と見られる)「田村麻呂」所縁の地で「田村郡」、同じくその末裔を称して「田村氏」となっている。大越の
地名も、坂上田村麻呂が現地の敵を討伐する際に大声を上げて部隊を突撃させた事から「大聲(大声)」の地とされ、後にそれが変化し
「大越」となったらしい。その大越を領した田村氏支族が大越氏という訳だ。なお、近現代の「大越町(大越村)」は江戸時代の上大越村と
下大越村(これが旧城を「下大越城」と称する由来)を合わせて成立したものだが、その「上下」大越村は1646年(正保3年)にそれまでの
大越村を分割(他に牧野村も成立)したものなので、戦国時代にはまとめて「大越村」でござった。■■■■■■■■■■■■■■■■
築城の後、田村勢が安積郡へ軍を侵攻させた1576年(天正4年)に手薄と見た岩城左京大夫親隆(ちかたか)が田村領へ攻めかかるも、
顕光は兵700で大越城に籠り岩城勢を退けたと伝わり、下大越城では防げなかった経験が新しい大越城で活かされたと見られる。■■
伊達勢も防ぎきる■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1586年(天正14年)10月9日、田村氏の当主・大膳大夫清顕(きよあき)が亡くなった。清顕には娘の愛姫(めごひめ)がおり、伊達藤次郎
政宗(あの独眼竜政宗である)に嫁いでいたが、他に子が無く田村家の後嗣問題が持ち上がる。田村家中では愛姫の婚姻から伊達家を
頼る意見が出た一方、清顕の正室(愛姫の母)・於北の方が相馬家の出身であった事から相馬家の庇護を求める一派も発生した。■■
顕光は相馬派だった為、志を同じくする於北の方・田村梅雪斎顕盛(あきもり、清顕の叔父)・田村右馬頭清通(顕盛の子)・郡司豊前守
敏良(ぐんじとしよし、田村家臣)らと謀って相馬家16代当主・長門守義胤(よしたね)の来援を要請。これを受けて義胤は田村家の本拠・
三春城(福島県田村郡三春町)へ入城せんとした。1588年(天正16年)閏5月12日の事だ。ところが三春城内では伊達派の田村月斎顕頼
(あきより、梅雪斎顕盛の叔父)や田村宮内顕康(月斎顕頼の子)・橋本刑部少輔顕徳(あきのり)・鹿山兵部秀季・門沢左衛門・石沢修理
(顕常?)らが義胤を亡きものにせんと待ち構えており、義胤が城内中段まで入ってきた所で一斉に銃撃を加えた。いきなりの不意打ちで
義胤は進退窮まるも、万一に備えていた顕光が手勢を率いて応戦。その隙に辛くも義胤は三春城を脱出できたが、顕光も多くの兵を失い
命からがら大越城へ逃げ延びたと言う。銃撃を行った月斎や顕徳に対し、顕光は彼らの屋敷を占領し妻子を人質に取るよう義胤へ進言
したそうだが、義胤は「男のいない屋敷に押し入り女子供を質とするのは武士の行いに非ず」と却下し相馬へと引き上げた。■■■■■
この戦いで相馬派は勢いを失い三春城内は伊達派で制圧されるが、唯一三春城を離脱した顕光は大越城に立て籠もった。形の上では
(伊達家へ服従する事を決した)田村家に対する逆心という様相を呈し、田村家は伊達家に顕光討伐を要請する。これに応えて、政宗は
腹心にして屈強の一門衆である伊達藤五郎成実(しげざね)を大越城へ差し向けた。斯くして6月5日、雨の中で伊達軍による大越城への
総攻撃が行われる。だが顕光は城下の者を引き上げさせ城内の曲輪で固く守らせた。この時、相馬義胤は家臣の泉田雪斎胤雪を城に
入れており、軍監あるいは軍師のような役割を負わせたのだろう。顕光と胤雪の協力でさしもの成実も決め手を失い観念、城下町を焼き
払うのみで城は落とせぬまま翌日には撤退していった。この後、相馬勢が田村領を窺う際には大越城が支援基地として用いられるように
なったが、結局は形勢変わらず時を費やすのみであった。なお、大越顕光の母と相馬義胤の母は姉妹なので、両者は従兄弟同士という
関係。その縁から顕光は田村家中で相馬派になったと考えられ、また義胤も大越城に智将として知られる泉田右近大夫胤雪を遣わすと
云う共助関係を築いたのでござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
奥州情勢の激変■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところで1588年と言えば、伊達政宗が仙道筋(福島県の中通り地方)への進出を活発化させ、南奥州の覇権を掴みつつある頃だ。一方で
それに抵抗する諸勢力も伊達家の領土拡大を阻もうと攻勢を強めていた。かねてから大越城の攻略を企んでいた岩城氏も、この当時は
反伊達側に与しており、目下のところ強大な伊達家に反抗している大越顕光は岩城左京大夫常隆(つねたか、親隆後嗣)の庇護を受ける
事になった。伊達・相馬の争いを横目にしつつ、自身も田村領(大越領もこれに含まれる)進出を狙っていた常隆は“両者の仲裁”の体で
鉾を収めさせ、漁夫の利を得る如く顕光を保護下に置いた。だが田村家は事実上政宗へ従属する事となり、その家督は田村孫七郎宗顕
(むねあき、亡き清顕の甥)が継ぐ。宗顕の「宗」の字は政宗に与えられた片諱である事から分かるように、宗顕(田村家)は伊達家臣との
位置付けで存続するようになった。こうなると顕光一人が田村家に抵抗し続けるのは困難で、「伊達治家記録」によれば1588年8月15日に
「大越紀伊在所を引き退く」古巣の大越城を退去して岩城家中に身を寄せたのである。追い打ちをかける如く、伊達家の拡張は郡山合戦
(仙道筋の覇権を懸けた同年3月〜7月の戦い)で政宗が辛勝した事によって決定的となり、顕光は次第に伊達家との和議(降伏)を模索
するようになった。1589年(天正17年)3月になると岩城常隆は伊達政宗との対決を図り各所で伊達家の城を攻撃し始めるが、そうした中
顕光は田村月斎顕頼・宮内少輔顕康を通じて政宗への取り成しを密かに行った。政宗としても、仙道筋から会津への進出を狙っていた頃
東から岩城氏が攻め寄せてきては苦しい両面作戦を余儀なくされるので、岩城方の戦力を削げる顕光の投降は渡りに船であった。■
話は変わるが、顕光には本田孫市郎と言う寵臣(男色近習)が居た。孫市郎の父・本田孫兵衛は三春城内にあり、田村家臣として残留。
顕光は孫市郎から孫兵衛へ繋ぎ田村月斎との音信を図っていたのだが、顕光の妻は夫と孫市郎の関係を以前から嫉妬しており、ある時
顕光が懐から落とした文を拾い、それを孫市郎との恋文と思い込み兄(弟とも)の大越甲斐守に不貞の翰として届け出た。されど甲斐守が
中身を見てみれば、それは大越惣領たる顕光が伊達家へ寝返る書状であったのだ。甲斐守は義兄弟とは言え顕光と仲が悪かったとかで
この文を即座に岩城常隆へ提出する。常隆は激怒し、配下の北郷刑部(小川隆勝(たかみち)?)に命じ顕光を捕縛連行させた。果たして
顕光は事の次第を知らぬまま切腹させられ、常隆は北郷刑部の迅速な行動を賞し、そして大越氏の惣領は甲斐守が継ぐ事となった。故に
1589年4月大越城主に甲斐守が任じられたのだが、それは長く続かなかった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
同年6月5日、伊達政宗は会津磐梯山麓の摺上原(すりあげはら)で会津太守の蘆名氏と決戦に及んで大勝利を収め、防戦できなくなった
蘆名氏は10日に居城の黒川城(福島県会津若松市、現在の会津若松城)を捨てて逃亡。ここに蘆名家は滅亡し、伊達政宗は浜通りを除く
福島県の大半を手中に収めた。奥州最大の勢力となった伊達家にはもはや抗えず、岩城常隆は政宗と和議を結んだが、和睦の証として
大越城は田村家(つまり伊達家)へ返還される事になり、1589年11月27日に大越甲斐守は城を退去。政宗の命によって、新たな城主には
田村顕康が据えられた。ここに大越氏は父祖伝来の地を失い、岩城氏に従い居所を移す事となった。されど、政宗の差配も程なく変更を
余儀なくされる。1590年(天正18年)豊臣秀吉が全国を統一、伊達政宗も臣下の礼を取る事となり、1591年(天正19年)に伊達家は旧来の
本拠・米沢城(山形県米沢市)から岩出山城(宮城県大崎市)への移転を命じられた。それに伴い大越周辺は会津の新領主に任じられた
蒲生飛騨守氏郷の所領に加えられ、城は廃された。築城から四半世紀、奥羽の激闘を体現した城は用済みとなったのでござる。■■■
広大な山城の縄張り、そして大越氏のその後■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
大越市街地の西に聳える山の山頂が主郭。東西に細長い長方形をした形状で、山はこの主郭から四方八方に尾根が延びる広大なもの。
主郭の西に二郭、東に三郭を繋げ、その先は尾根に沿いいくつもの曲輪を並べ、谷戸の間も無数の帯曲輪が連なる。要所要所は虎口で
固めている上、曲輪ごとの切岸も高く非常に手の込んだ作りとなっている。しかも山中には巨石が散在し、訪れる者を威圧するかのように
城の威容を高めている。主郭裏手(二郭側)には馬場(とされる敷地)があり、そこにある駒石と呼ばれる岩は特に圧巻。真っ二つに割れた
岩の上には蹄跡とされる窪みがあり、何でも大越顕光の愛馬・朝霧号が付けたものなんだとか。まぁ実際にあの岩の上に馬が登る事は
無いのだろうが、そうした伝承が残る程に馬も城兵も屈強だったという意味だろう。一方、土塁で囲まれた主郭の中でも北西隅部は一段と
高くなっており(櫓台であろう)現在はそこに鳴神(なるかみ)神社の小さな祠が祀られている。この神社は城があった当時から城内鎮守と
して勧進されていたそうで、城が家臣領民の“心の拠り所”にもなっていた様子を伝える。故に、大越城の別名は鳴神城とされている。■
広大な城域は東西南北それぞれ500m四方に広がるとされ、山中には湧水点(井戸)もあって長期の籠城に耐えられる備えとなっている。
もっとも、城主は日常の居館を山腹に置いていたようで、主郭に籠るのはあくまでも戦時の事だったようだ。■■■■■■■■■■■■
さて、惣領を“売った”大越甲斐守、家中での人気は芳しくなかったようだが岩城家に対しての忠誠は確かなものだったらしい。岩城常隆は
秀吉の全国統一と前後して急死し、岩城家の家督は佐竹氏から入嗣した忠次郎貞隆(さだたか)が継承する。ところがその貞隆は実家の
佐竹家と同調し関ヶ原合戦で徳川家康に与しなかったので1602年(慶長7年)禄を失って浪人となった。大越甲斐守はそれを契機に閑居し、
出家して未了(みりょう)と号し、最終的に武蔵国浅草(東京都台東区浅草)で没した。これには余談があり、実は常隆には亡くなる8日前に
産まれた男子がいて、出家した甲斐守はその幼子を養育していたと伝わるのだ。甲斐守の母は常隆の乳母であったそうで、2人は乳兄弟。
若くして病没した(享年24と言う)常隆の遺児を、甲斐守は自身が父親代わりに育てたと云う事だ。結局、実家の岩城家は滅亡し行き場を
失ったその幼子は、長じて伊達政宗に召し抱えられ伊達長次郎政隆と名乗るようになった。実は岩城親隆(政隆の祖父)は伊達左京大夫
晴宗(政宗の祖父)の子。つまるところ、政隆も政宗も伊達家の血筋なのである。天下泰平が成った江戸時代には、政隆の家系は岩谷堂
伊達家として伊達一門衆の柱石となっていく。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
父亡き後の子について話をもう一つ。常隆に誅殺された大越顕光の子は、従兄弟の相馬義胤が不憫に思い引き取った。義胤は大越家の
再興をその子に許し、大越権兵衛として相馬家臣に列せられている。甲斐守にも子が居り、そちらは岩城貞隆の縁を頼り佐竹家の移封先
秋田に根差した(秋田大越氏)が(他に甲斐守の甥・十左衛門茂世が伊達家に召し抱えられ仙台大越氏となる)、大越氏の“嫡流”なのは
大越権兵衛に始まる相馬大越氏だと言う。大越城を有した時の当主はいずれも不運な末路を辿ったが、彼らの子孫はかつての縁を繋ぎ
相馬・佐竹・伊達の各家に家臣として名を残しており申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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