磐城国 大越城

大越城址 主郭跡

 所在地:福島県田村市
大越町上大越・大越町上大越住王町
大越町上大越蟹沢・大越町上大越後作
(旧 福島県田村郡大越町上大越・上大越住王町・上大越蟹沢・上大越後作)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

★★☆■■
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田村一門・大越氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
2005年(平成17年)3月1日、それまで田村郡を構成していた中の大越(おおごえ)町・滝根町・常葉(ときわ)町・船引(ふねひき)町・都路
(みやこじ)村が合併して田村市が成立した。大越城はその内の旧大越町中心街に程近い標高562.7mの山にある。JR磐越東線の大越
駅から南西およそ760m地点の山頂を中心とした山城で、国の登録有形文化財となっている旧大越娯楽場の南側から西へと延びる道を
入ると、舗装路の行き当たり地点から左手に城の案内看板が現れる。そこから山道を歩けば、順番に曲輪や堀切などの遺構が登場し、
山頂の主郭まで登る事ができる。順路には遺構の案内表示が置かれ、主郭には写真の城址碑や東屋もあり、それなりに手入れされた
山なので然程の危険は無い。ただし、樹木や下草は旺盛に生えているので汚れても良いような恰好で登城すべきだろう。■■■■■■
この城が築かれたのは1566年(永禄9年)、大越紀伊守顕光(信貫(のぶつら)とも)の手に拠る。大越氏はそれまで下大越城(朝霧城)を
居城にしていたが、岩城氏の軍勢に攻められた折、城の水源に毒を投げ込まれ使えなくなってしまったため新しい城を築き移ったと云う。
これが大越城であるが、下大越城は大越城の真北およそ2.5km(同じく旧大越町内)にあり、城を移すにあたり牧野川を遡ってより険峻な
山を選択した格好だ。大越氏は田村郡の戦国大名・田村氏の家臣であるが、血縁を辿れば田村氏から分流した家だそうで、家史である
「大越家系勤功巻」によれば「田村二番の大家」と記されている。その田村氏は平安時代の征夷大将軍・坂上田村麻呂を始祖としており
(実際には藤原氏?平氏?の血縁と見られる)「田村麻呂」所縁の地で「田村郡」、同じくその末裔を称して「田村氏」となっている。大越の
地名も、坂上田村麻呂が現地の敵を討伐する際に大声を上げて部隊を突撃させた事から「大聲(大声)」の地とされ、後にそれが変化し
「大越」となったらしい。その大越を領した田村氏支族が大越氏という訳だ。なお、近現代の「大越町(大越村)」は江戸時代の上大越村と
下大越村(これが旧城を「下大越城」と称する由来)を合わせて成立したものだが、その「上下」大越村は1646年(正保3年)にそれまでの
大越村を分割(他に牧野村も成立)したものなので、戦国時代にはまとめて「大越村」でござった。■■■■■■■■■■■■■■■■
築城の後、田村勢が安積郡へ軍を侵攻させた1576年(天正4年)に手薄と見た岩城左京大夫親隆(ちかたか)が田村領へ攻めかかるも、
顕光は兵700で大越城に籠り岩城勢を退けたと伝わり、下大越城では防げなかった経験が新しい大越城で活かされたと見られる。■■

伊達勢も防ぎきる■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1586年(天正14年)10月9日、田村氏の当主・大膳大夫清顕(きよあき)が亡くなった。清顕には娘の愛姫(めごひめ)がおり、伊達藤次郎
政宗(あの独眼竜政宗である)に嫁いでいたが、他に子が無く田村家の後嗣問題が持ち上がる。田村家中では愛姫の婚姻から伊達家を
頼る意見が出た一方、清顕の正室(愛姫の母)・於北の方が相馬家の出身であった事から相馬家の庇護を求める一派も発生した。■■
顕光は相馬派だった為、志を同じくする於北の方・田村梅雪斎顕盛(あきもり、清顕の叔父)・田村右馬頭清通(顕盛の子)・郡司豊前守
敏良(ぐんじとしよし、田村家臣)らと謀って相馬家16代当主・長門守義胤(よしたね)の来援を要請。これを受けて義胤は田村家の本拠・
三春城(福島県田村郡三春町)へ入城せんとした。1588年(天正16年)閏5月12日の事だ。ところが三春城内では伊達派の田村月斎顕頼
(あきより、梅雪斎顕盛の叔父)や田村宮内顕康(月斎顕頼の子)・橋本刑部少輔顕徳(あきのり)・鹿山兵部秀季・門沢左衛門・石沢修理
(顕常?)らが義胤を亡きものにせんと待ち構えており、義胤が城内中段まで入ってきた所で一斉に銃撃を加えた。いきなりの不意打ちで
義胤は進退窮まるも、万一に備えていた顕光が手勢を率いて応戦。その隙に辛くも義胤は三春城を脱出できたが、顕光も多くの兵を失い
命からがら大越城へ逃げ延びたと言う。銃撃を行った月斎や顕徳に対し、顕光は彼らの屋敷を占領し妻子を人質に取るよう義胤へ進言
したそうだが、義胤は「男のいない屋敷に押し入り女子供を質とするのは武士の行いに非ず」と却下し相馬へと引き上げた。■■■■■
この戦いで相馬派は勢いを失い三春城内は伊達派で制圧されるが、唯一三春城を離脱した顕光は大越城に立て籠もった。形の上では
(伊達家へ服従する事を決した)田村家に対する逆心という様相を呈し、田村家は伊達家に顕光討伐を要請する。これに応えて、政宗は
腹心にして屈強の一門衆である伊達藤五郎成実(しげざね)を大越城へ差し向けた。斯くして6月5日、雨の中で伊達軍による大越城への
総攻撃が行われる。だが顕光は城下の者を引き上げさせ城内の曲輪で固く守らせた。この時、相馬義胤は家臣の泉田雪斎胤雪を城に
入れており、軍監あるいは軍師のような役割を負わせたのだろう。顕光と胤雪の協力でさしもの成実も決め手を失い観念、城下町を焼き
払うのみで城は落とせぬまま翌日には撤退していった。この後、相馬勢が田村領を窺う際には大越城が支援基地として用いられるように
なったが、結局は形勢変わらず時を費やすのみであった。なお、大越顕光の母と相馬義胤の母は姉妹なので、両者は従兄弟同士という
関係。その縁から顕光は田村家中で相馬派になったと考えられ、また義胤も大越城に智将として知られる泉田右近大夫胤雪を遣わすと
云う共助関係を築いたのでござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

奥州情勢の激変■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところで1588年と言えば、伊達政宗が仙道筋(福島県の中通り地方)への進出を活発化させ、南奥州の覇権を掴みつつある頃だ。一方で
それに抵抗する諸勢力も伊達家の領土拡大を阻もうと攻勢を強めていた。かねてから大越城の攻略を企んでいた岩城氏も、この当時は
反伊達側に与しており、目下のところ強大な伊達家に反抗している大越顕光は岩城左京大夫常隆(つねたか、親隆後嗣)の庇護を受ける
事になった。伊達・相馬の争いを横目にしつつ、自身も田村領(大越領もこれに含まれる)進出を狙っていた常隆は“両者の仲裁”の体で
鉾を収めさせ、漁夫の利を得る如く顕光を保護下に置いた。だが田村家は事実上政宗へ従属する事となり、その家督は田村孫七郎宗顕
(むねあき、亡き清顕の甥)が継ぐ。宗顕の「宗」の字は政宗に与えられた片諱である事から分かるように、宗顕(田村家)は伊達家臣との
位置付けで存続するようになった。こうなると顕光一人が田村家に抵抗し続けるのは困難で、「伊達治家記録」によれば1588年8月15日に
「大越紀伊在所を引き退く」古巣の大越城を退去して岩城家中に身を寄せたのである。追い打ちをかける如く、伊達家の拡張は郡山合戦
(仙道筋の覇権を懸けた同年3月〜7月の戦い)で政宗が辛勝した事によって決定的となり、顕光は次第に伊達家との和議(降伏)を模索
するようになった。1589年(天正17年)3月になると岩城常隆は伊達政宗との対決を図り各所で伊達家の城を攻撃し始めるが、そうした中
顕光は田村月斎顕頼・宮内少輔顕康を通じて政宗への取り成しを密かに行った。政宗としても、仙道筋から会津への進出を狙っていた頃
東から岩城氏が攻め寄せてきては苦しい両面作戦を余儀なくされるので、岩城方の戦力を削げる顕光の投降は渡りに船であった。
話は変わるが、顕光には本田孫市郎と言う寵臣(男色近習)が居た。孫市郎の父・本田孫兵衛は三春城内にあり、田村家臣として残留。
顕光は孫市郎から孫兵衛へ繋ぎ田村月斎との音信を図っていたのだが、顕光の妻は夫と孫市郎の関係を以前から嫉妬しており、ある時
顕光が懐から落とした文を拾い、それを孫市郎との恋文と思い込み兄(弟とも)の大越甲斐守に不貞の翰として届け出た。されど甲斐守が
中身を見てみれば、それは大越惣領たる顕光が伊達家へ寝返る書状であったのだ。甲斐守は義兄弟とは言え顕光と仲が悪かったとかで
この文を即座に岩城常隆へ提出する。常隆は激怒し、配下の北郷刑部(小川隆勝(たかみち)?)に命じ顕光を捕縛連行させた。果たして
顕光は事の次第を知らぬまま切腹させられ、常隆は北郷刑部の迅速な行動を賞し、そして大越氏の惣領は甲斐守が継ぐ事となった。故に
1589年4月大越城主に甲斐守が任じられたのだが、それは長く続かなかった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
同年6月5日、伊達政宗は会津磐梯山麓の摺上原(すりあげはら)で会津太守の蘆名氏と決戦に及んで大勝利を収め、防戦できなくなった
蘆名氏は10日に居城の黒川城(福島県会津若松市、現在の会津若松城)を捨てて逃亡。ここに蘆名家は滅亡し、伊達政宗は浜通りを除く
福島県の大半を手中に収めた。奥州最大の勢力となった伊達家にはもはや抗えず、岩城常隆は政宗と和議を結んだが、和睦の証として
大越城は田村家(つまり伊達家)へ返還される事になり、1589年11月27日に大越甲斐守は城を退去。政宗の命によって、新たな城主には
田村顕康が据えられた。ここに大越氏は父祖伝来の地を失い、岩城氏に従い居所を移す事となった。されど、政宗の差配も程なく変更を
余儀なくされる。1590年(天正18年)豊臣秀吉が全国を統一、伊達政宗も臣下の礼を取る事となり、1591年(天正19年)に伊達家は旧来の
本拠・米沢城(山形県米沢市)から岩出山城(宮城県大崎市)への移転を命じられた。それに伴い大越周辺は会津の新領主に任じられた
蒲生飛騨守氏郷の所領に加えられ、城は廃された。築城から四半世紀、奥羽の激闘を体現した城は用済みとなったのでござる。■■■

広大な山城の縄張り、そして大越氏のその後■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
大越市街地の西に聳える山の山頂が主郭。東西に細長い長方形をした形状で、山はこの主郭から四方八方に尾根が延びる広大なもの。
主郭の西に二郭、東に三郭を繋げ、その先は尾根に沿いいくつもの曲輪を並べ、谷戸の間も無数の帯曲輪が連なる。要所要所は虎口で
固めている上、曲輪ごとの切岸も高く非常に手の込んだ作りとなっている。しかも山中には巨石が散在し、訪れる者を威圧するかのように
城の威容を高めている。主郭裏手(二郭側)には馬場(とされる敷地)があり、そこにある駒石と呼ばれる岩は特に圧巻。真っ二つに割れた
岩の上には蹄跡とされる窪みがあり、何でも大越顕光の愛馬・朝霧号が付けたものなんだとか。まぁ実際にあの岩の上に馬が登る事は
無いのだろうが、そうした伝承が残る程に馬も城兵も屈強だったという意味だろう。一方、土塁で囲まれた主郭の中でも北西隅部は一段と
高くなっており(櫓台であろう)現在はそこに鳴神(なるかみ)神社の小さな祠が祀られている。この神社は城があった当時から城内鎮守と
して勧進されていたそうで、城が家臣領民の“心の拠り所”にもなっていた様子を伝える。故に、大越城の別名は鳴神城とされている。
広大な城域は東西南北それぞれ500m四方に広がるとされ、山中には湧水点(井戸)もあって長期の籠城に耐えられる備えとなっている。
もっとも、城主は日常の居館を山腹に置いていたようで、主郭に籠るのはあくまでも戦時の事だったようだ。■■■■■■■■■■■■
さて、惣領を“売った”大越甲斐守、家中での人気は芳しくなかったようだが岩城家に対しての忠誠は確かなものだったらしい。岩城常隆は
秀吉の全国統一と前後して急死し、岩城家の家督は佐竹氏から入嗣した忠次郎貞隆(さだたか)が継承する。ところがその貞隆は実家の
佐竹家と同調し関ヶ原合戦で徳川家康に与しなかったので1602年(慶長7年)禄を失って浪人となった。大越甲斐守はそれを契機に閑居し、
出家して未了(みりょう)と号し、最終的に武蔵国浅草(東京都台東区浅草)で没した。これには余談があり、実は常隆には亡くなる8日前に
産まれた男子がいて、出家した甲斐守はその幼子を養育していたと伝わるのだ。甲斐守の母は常隆の乳母であったそうで、2人は乳兄弟。
若くして病没した(享年24と言う)常隆の遺児を、甲斐守は自身が父親代わりに育てたと云う事だ。結局、実家の岩城家は滅亡し行き場を
失ったその幼子は、長じて伊達政宗に召し抱えられ伊達長次郎政隆と名乗るようになった。実は岩城親隆(政隆の祖父)は伊達左京大夫
晴宗(政宗の祖父)の子。つまるところ、政隆も政宗も伊達家の血筋なのである。天下泰平が成った江戸時代には、政隆の家系は岩谷堂
伊達家として伊達一門衆の柱石となっていく。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
父亡き後の子について話をもう一つ。常隆に誅殺された大越顕光の子は、従兄弟の相馬義胤が不憫に思い引き取った。義胤は大越家の
再興をその子に許し、大越権兵衛として相馬家臣に列せられている。甲斐守にも子が居り、そちらは岩城貞隆の縁を頼り佐竹家の移封先
秋田に根差した(秋田大越氏)が(他に甲斐守の甥・十左衛門茂世が伊達家に召し抱えられ仙台大越氏となる)、大越氏の“嫡流”なのは
大越権兵衛に始まる相馬大越氏だと言う。大越城を有した時の当主はいずれも不運な末路を辿ったが、彼らの子孫はかつての縁を繋ぎ
相馬・佐竹・伊達の各家に家臣として名を残しており申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群等








磐城国 常盤城

常盤城跡 模擬天守

 所在地:福島県田村市常葉町常葉字舘
 (旧 福島県田村郡常葉町常葉字舘)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★■■■
★★☆■■



分かり難い入口を往けば■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
旭城とも云う。「常盤」の字は「常葉」を充てる事もある。田村市の中でも旧常葉町、その中にある田村市立常葉中学校の校舎から東北東へ
約600mの位置に写真の模擬天守が建っている。この天守がある位置が主郭で、そこから概ね南側の山域が城跡の敷地。城の主郭部跡は
館公園の名で公園化されているので登城は簡単。駐車場も完備している。但し、公園敷地外は全くの手付かずで藪化しており、駐車場へと
入って行く道も細く狭く分かりづらいのが難点。福島県道154号線(常葉野川線)から城山へ向けて道が2本延びているものの、田村市常葉
保育所の「北側」の道を往くのが正解。南側の道では城山へ登って行かないので注意。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
模擬天守のある館山の山頂は標高536.4m、麓にある常葉の街並みとは比高差90m程ある立派な山城。駐車場は山腹(これも腰曲輪跡)に
あるのでそこからは徒歩で登る事になる。山頂部が歪んだ三角形をした主郭、これは東西50m×南北40mほどの大きさがあり、一段下った
東側に東郭が付属する。この山頂主要部から西・北・南の3方向へ尾根が延び(小さい支尾根が南西方向へも)それぞれ階段状に曲輪群が
造成されている。最も大きな尾根が南尾根で、東郭から一段上がる形で二ノ郭が作られている。この二ノ郭は主郭と並ぶ大きな曲輪なので
戦時には相互補完するような位置関係にあったのだろう。二ノ郭から更に南へは尾根沿いに段曲輪が広がり、要所毎に堀切で切断するも
現状では公園敷地外なので立ち入りは憚られよう。この尾根曲輪群の中には秋葉神社が勧進されているとか。主郭から南西に突き出した
支尾根と、二ノ郭の間にある谷間には井戸郭があったそうで、そこは現状でも池となっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
東郭の北側には大堀切があり、その向こうに阿弥陀堂と呼ばれる曲輪が。阿弥陀堂曲輪の先が北の尾根曲輪群。同様に、主郭の北端に
北ノ郭と称される腰曲輪が付き、そこから東へと東尾根曲輪群が延びる。東曲輪群の突端にあるのが三ノ郭だ。麓から駐車場へ入って来る
道は、この三ノ郭を突き抜けて城内に至るので、ついつい三ノ郭を通り過ぎてしまう感じになろう。見逃しそうな三ノ郭を含め、城内各曲輪は
見事な切岸で屹立し(公園化による造成もあるようだが)、土塁なども各所に残存。城址公園となっているおかげで、かなりの部分が見学し
易い環境になっている。だからこそ公園敷地外は藪だらけな訳だが(苦笑) 反面、曲輪の繋げ方は自然地形に任せた感じで、特に虎口など
“防御の要諦”になるような遺構は目立つものが無い。険峻な山容(高低差)に恃む“古い時代の山城”を使い続けた雰囲気である。城域は
東西×南北それぞれ約400m四方の範囲に広がるが、尾根伝いに曲輪が作られただけなのでそれほど巨大な城郭ではなかっただろう。
ともあれ、公園になっている範囲は快適な空間になっていて「分かりやすい」城郭となっているのが有り難い。■■■■■■■■■■■■

鎌倉期の築城?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
伝承では1274年(文永11年)に熊谷(くまがい)直則が居館を築いた事を城の創始とする。熊谷氏という事は、源平合戦の悲話“青葉の笛”で
有名な剛将・熊谷次郎直実(なおざね)の後裔である。直実の子孫は安芸・三河・陸奥(気仙沼)などに所領を得ており、気仙沼熊谷氏2代目
石見守直鎮(なおます)の子に直則の名がある。この人物が築城主であろうか?年代的には整合する感じであるが、ちょっと違うような…。
いずれにせよ、熊谷氏の支配が続いた後に南北朝時代から常盤氏が入部した。常盤氏というのは、播磨の名族・赤松氏の分流とされ、足利
尊氏の重臣にして室町幕府侍所長官である赤松次郎則村(のりむら、円心入道)の孫と言う赤松越前守顕則がこの地に入って、姓を常盤と
改めた事に始まる。この系図が正しいならば、常盤氏は顕則―持貞―家貞と続いていく。とは言え田村郡内は戦国大名として田村氏が台頭、
常盤氏はその配下国人という位置付けになった。そして常盤氏5代・甲斐守貞久は田村清顕の勘気を蒙り逼塞し、城を退去する事になる。
それに代わって田村家臣・石沢修理亮が城代となるが、上記の大越城で記した通り田村清顕の没後この地は伊達勢力と相馬・岩城勢力が
熾烈な争奪戦を展開、そうした渦中の1589年5月17日に相馬・岩城連合軍が常盤城を急襲し修理亮は奮戦するも討死し、士卒100騎が共に
果てたと言う。以後、この城は廃された模様でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1968年(昭和43年)城址に写真の模擬天守が建てられた。2重2階、内部が展望台となっているこの建物からは美しい里山の風景が眼下に
眺められるが、来歴を見れば分かる通り常盤城は純然たる中世城郭なのでこうした近世城郭のような建物は無かった。されど、紅葉や桜を
絡めて写真にすれば、それなりに良い被写体となるものである。“公園のシンボルとしては”適切な建物であろう。加えて2005年(平成17年)
4月18日、城址は田村市指定の史跡となっている。館公園は「ふくしま緑の百景」に選ばれており、地域の憩いの場でもある。更には、常葉
中学校の西側にある浄土宗光明山醫王院成願寺の山門は常盤城の裏門を移築したものだとか。山間集落の古城は来歴定かならずとも、
地元の心に生き続ける名所と云える。展望台は冬季閉鎖だそうなのでご注意あれ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群等
城域内は市指定史跡

移築された遺構として
成願寺山門(伝常盤城裏門)








磐城国 船引城

船引城址

 所在地:福島県田村市船引町船引字舘
 (旧 福島県田村郡船引町船引字舘)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

★★■■■
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於北の方、押し込めの城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
JR磐越東線の船引駅から南に約650m、真言宗愛敬山般若寺と曹洞宗金龍山東光寺に挟まれた小山が城域。この山は舘山公園となって一般
開放されており、南麓には秋葉神社が建立されている。公園と言っても常盤城のように園地が設定されている訳では無く、自由に出入りしても
良い山…と言う程度のものでほぼ手付かずの敷地だ。山容は概ね東西に細長く、周辺から切り立った崖の上に平面状の山頂があるような形状。
時代劇に出てくる小判の束(←表現が古い)を市街地の真ん中に置いたような山なのである。山頂部の平面を曲輪として利用するのだが、通常
山城ならば高低差を利用した切岸で隔絶すべきものを、この山では然程の段差が山頂部に無いので、土塁を仕切りとして曲輪を区切っている。
東西に細長い山頂部を大きく3つ程に分けた連郭式の縄張と言え、防御の根幹は山頂まで至る「山そのものの高低差」に頼った城である。山頂
最高所の標高は443.6m(凡そ440m平均の平場になっている)、山麓の市街地が407m〜408m程なので比高差35mと言った所か。その比高差を
稼ぐ切岸や山頂部に散在する断片的な土塁などは綺麗に残されている。山の北西側には(城山への登山路が通る箇所)一段下がった曲輪が
作られていた模様。また、秋葉神社の敷地は出曲輪(物見)的な役割だったか?山の大きさは東西140m弱×南北90m程で小さなものだ。■■
現在、城山の北側には船引の町を貫通する国道288号線が東西方向へ走っている。これが中世は都路街道と呼ばれた道で、田村氏の領土を
横に繋ぐ主要街道であった。郡山(仙道筋)〜三春〜船引と続き、その先の東は常葉〜都路そして太平洋(相馬領)に至る。船引城はこの都路
街道を監視・掌握するに丁度良い場所にある訳だが、創建の時期は不詳。1487年(長享元年)には船引朝国(ともくに)なる人物が在住していた
そうだが、田村起雲斎憲顕が築城したと言う説もある。憲顕は田村家23代・大膳大夫義顕の2男とされ、先に名前の出た梅雪斎顕盛の兄だとも。
義顕とその子・民部少輔隆顕(たかあき、清顕の父)は田村家拡大の原動力となった代と称され、彼らは領域に大量の支城網を整備した。100を
越えると言うそうした支城の中でも特に有力なものは「田村四十八館」と呼ばれるが、船引城(上記した大越城・常盤城も)はそれに含まれる為
船引朝国の城を田村憲顕が“築いた”とされるのは、それに匹敵するような大整備を行ったと云う事でござろうか。■■■■■■■■■■■■
さて、田村清顕没後に家中が伊達派と相馬派に割れたというのは大越城の項で記した。相馬義胤は1588年閏5月12日に三春城へ乗り込むが、
城内の反対派から急襲を受けたので城を棄て退却したと書いたが、義胤が逃げ込んだ城がこの船引城だったと云う。伊達方が攻勢を強める中
義胤は同月19日に自領へ撤退。船引城は大越甲斐守が守ったそうで、後年に主君を追い落とす甲斐守ではあるが、この当時は大越城の大越
顕光と連携して働いたらしい。伊達成実が大越城攻略の前(6月3日〜4日)に船引城を攻めたものの、江戸時代の軍記物「奥陽仙道表鑑」には
「此の城大越に一味するにより、成実之を攻めれども叶ひ難く、寄せ手の勢引き上る」とあり、攻めきれず撤兵した様子が描かれる。以後も大越
一門は伊達家に対立し続けるが、三春城内は伊達派勢力で統一されたため相馬派の筆頭にあった於北の方は強制的に排除されて、8月3日に
船引城へと押し込められた。伊達成実の攻撃を跳ね除けたものの既に大越甲斐守は退去しており、田村右衛門大夫清康がこの城を預かって
いたそうだが(清康も相馬派、梅雪斎顕盛の娘婿)於北の方の入城に伴い清康も城を退き、更に遠い小野城(福島県田村郡小野町)へ移った。
以後の経歴は詳らかでなく、田村家は事実上伊達政宗に乗っ取られた形となった事から、政宗が田村郡を手放した1591年頃に廃城になったと
考えられ申そう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城跡は特に史跡指定などされておらず、また「館山公園」とは言え駐車場なども無い。近隣住民の方々に御迷惑とならぬよう注意すべし。■■



現存する遺構

土塁・郭群等




向羽黒山城  三春城