岩代国 向羽黒山城

向羽黒山城址 長大な竪堀

 所在地:福島県大沼郡会津美里町字船場
 (旧 福島県大沼郡会津本郷町字船場)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★★
★★☆■■



看板に偽りなし!■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
会津盆地の南端を塞ぐ山に築かれた壮大な山城。この山は南北2つの山がくっついたもので、北半分が羽黒山、南半分がその向かいに
ある山として向羽黒山(むかいはぐろやま)と呼ばれており、城は向羽黒山の全域に及んで構築されている。「東日本最大級の山城」との
触れ込みであるが、なるほど確かにこれだけの領域を曲輪として造成しているのだから、その規模たるや尋常ではない。この向羽黒山は
岩崎山とも呼ばれるので、岩崎城とも。他に巌館(がんかん)なる別称もある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
古くからこの山には在地豪族の居館があったと言う説もあるが、向羽黒山城としての構築は1561年(永禄4年)の事だ。会津の太守にして
蘆名(あしな)家の最盛期を築き上げた16代・蘆名修理大夫盛氏(もりうじ)が隠居城として築いたとされる。この年、家督を嫡男の17代目
修理大夫盛興(もりおき)に譲り、蘆名家の本拠である黒川城(後の会津若松城、福島県会津若松市)から向羽黒山城へ居を移したので
ある。と言っても「隠居=引退」という訳では無く、実権は盛氏が握り続けた。むしろ、平野に置かれた黒川城から堅固な山城に腰を据え、
軍事的権能を強化したと考えるべきだろう。領国統治は黒川城の盛興に託すが、外交や何か事が起きた際の対応は盛氏が掌握し続け、
蘆名家の権力基盤を固める為の城、それが向羽黒山城だった訳だ。盛氏による築城工事は1568年(永禄11年)まで続き、一応の完成を
見た。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
だが、盛興は父に先んじて1574年(天正2年)6月5日に病死、二階堂家から人質として蘆名家に預けられていた平四郎盛隆(もりたか)が
急遽跡継ぎに立てられ蘆名家18代当主・左京亮盛隆となる。それを見届けて1580年(天正8年)6月17日に盛氏も世を去るが、何と盛隆は
1584年(天正12年)10月6日、家臣に殺害されると言う事件に遭う。以後蘆名家は当主の不運が続発して一挙に弱体化し、とうとう1589年
(天正17年)6月5日、伊達政宗との一大決戦・摺上原(すりあげはら)の戦いで大敗北を喫する。この戦いで戦力を使い果たした蘆名家は
領国を維持出来なくなり黒川城を退去、滅亡に至る。蘆名領国は全て伊達家のものとなった。蘆名家の支配期、向羽黒山城は黒川城の
“詰めの城”として整備拡張されていたようだが、全戦力を失っては如何に堅固な城とて用を成さない。結局、この城の出番は無かった。
6月11日に黒川城を無血占拠した伊達藤次郎政宗は、それまでの本拠であった米沢城(山形県米沢市)から黒川城へ居を移す。同時に
蘆名家と同様、向羽黒山城を黒川城の詰め城として確保した。が、翌1590年(天正18年)天下人・豊臣秀吉の奥州仕置きによって政宗は
旧蘆名家領であった会津の地を没収されてしまう。伊達家に代わり、秀吉は蒲生飛騨守氏郷(がもううじさと)を会津に入れ、氏郷没後は
上杉左近衛権少将景勝が預かる事になるが、蒲生家も上杉家も向羽黒山城を詰め城として維持・拡張した。黒川城、即ち会津若松城は
平野部の中にあり、しかも近接して山がある為に内部を見透かされ、更に大砲が主な攻城兵器として使われる時代になると砲弾が直接
城内に撃ち込まれる危険性も生じていた。このような会津若松城の弱点は、後世の戊辰戦争において現実の危難として直面するのだが
歴戦の強者である戦国武将らはそれを回避すべく、戦いの城としては向羽黒山城を用いるつもりでいたのだろう。なお、上杉家は新たな
居城として神指(こうざし)城(福島県会津若松市)を築こうとしていたが、こちらは新たな政庁城郭・大名の府城として構想したものであり
阿賀川の水運利便性を活用して、遮るものの無い大平野の中(つまり近隣に山が無い場所)に経済拠点となる平城を作るつもりだった。
故に、戦闘に供する城としてはやはり向羽黒山城を主眼としていたらしく、神指城築城よりも優先し向羽黒山城の拡張工事を行っている。
首府としての城郭は敵に接する事の無い神指城、戦時には敵を撃退し得る険峻な向羽黒山城を用い、会津若松城の機能を分化しようと
したのだろうが、直後に上杉家は関ヶ原合戦で西軍に与して敗北、天下の主となった徳川家康から会津の領地を没収されてしまう。その
結果、神指城は未完成のまま破却される事となり、向羽黒山城も廃城処分となっている。斯くして1601年(慶長6年)上杉家の退去と共に
この城の歴史は幕を閉じる。蘆名盛氏の築城から僅かに40年と言う、奥州の戦国末期にのみ存在した城郭でござった。■■■■■■

山全体を使った城郭■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
元々は盛氏の隠居城という事なので、創建当初は山中の部分的な活用が行われた程度の規模だったのだろう。とは言え、当時の記録
「巌館銘」には実城(主郭)・中城(二郭)・外構(外郭)の構成や城下に2000余の家屋が並んだとの盛況ぶりが記されているとかで、築城
初期の段階から相当にしっかりとした山城が作り込まれていたようだ。そして現状(城の最終段階)では山のほぼ全域で曲輪群が広がり
伊達・蒲生・上杉の各家が順次拡張していった様子が良く分かる。そう、兎に角この城は“デカい”のだ!■■■■■■■■■■■■■
岩崎山の山頂は標高408.6mを指す。山の東側一帯は磐越の大河・阿賀川が洗い、その畔は標高240m弱なので、比高差170m程もある。
当時の状況としては、阿賀川は相当な暴れ川であった筈なので、山の東から城へと接近する事は完全に不可能だった。実際、山の東側
斜面は急峻に切り立った断崖で、川の侵食で山が削り取られてきた環境が見て取れる。岩崎山という名も、まさに岩がそそり立つ山容を
評したものなのだろう、大自然の険しさが城の東の守りとなっていた訳だ。岩崎山は大きく見て南北に細長い山で、山頂の北に一段低い
小ピークがあり、更に北へ羽黒山との接続尾根が連なるのだが、山頂が主郭、小ピークが二郭、尾根が三郭という基幹となる防御拠点が
構築されていたのは言うまでもない。向羽黒山城の縄張が凄いのは、そうした主要曲輪の間がびっしりと堀切や段曲輪で埋め尽くされ、
しかも、川側を除く各斜面にも積み重なるような曲輪が並んでいる事だ。こうした曲輪群を踏破するとなれば、とてつもない時間が必要で
本気で向羽黒山城を探索するとなれば1日がかりとなろう。特に圧巻なのは山を縦貫する竪堀(写真)で、綺麗に整備されている事から
下から上まで一直線に延びる竪堀の長さ、そして見事さに感激する事請け合い。こんなにハッキリと見上げる事の出来る竪堀はそうそう
見かけない。これだけの竪堀が山中の至る所に存在し、しかも棚田のように折り重なる曲輪の間にも横堀が掘られ、向羽黒山城は堀が
縦横無尽に繋がる城としても特筆出来る。どうやらこうした堀が通路として使用されていたとも想像され、城内へ入る経路(堀底道)にも、
侵入者を惑わす迷路にも、そして敵軍を撃退する阻塞としても使われていた、すばらしい遺構なのである。その反面、主郭の南にもある
小ピークには何ら造成の手が入っておらず(堀切で切断するのみ)その部分をどう使うつもりだったのか?謎でもある。■■■■■■■
主郭跡からは掘立柱建物跡や石列を検出。二郭からは礎石建物跡が確認されている。三郭の東側(川からは離れた緩斜面)が往時の
盛氏屋敷と呼ばれて、ここが原初となる向羽黒山城の居館部だったとされるが、詳細は不明。三郭の北が羽黒山と向羽黒山の連結部で
ここには大堀切があり、山を分断していたようだが、実際はそれを越えた羽黒山側にも出曲輪があったとも。羽黒山の頂は標高344.0mを
示しその中腹に羽黒神社が鎮座しているが、その周辺が羽黒郭と称されていた。羽黒山〜向羽黒山まで合わせると、この連山は東へと
張り出した弓なりの繋がりを有しており、その内側(西側)の平地には一大城下町が広がっていた。これが「巌館銘」の序文に記載された
「根小屋宿町、向並甍二千余家」山麓には町場があり二千軒余りが向かい合って並ぶ、と言う部分であろう。この町屋は下野街道沿いに
展開していたようで、向羽黒山城は会津盆地を扼する要衝のみならず、下野方面へ向かう街道を監視する機能も果たしていた事になる。
となれば、現在では阿賀川の東側に国道118号線や会津鉄道と言った幹線路が走っているものの、その当時は川の西にある福島県道
72号線〜同131号線が主要街道であったと言う事になろう。実際、奥会津の宿場町として有名な大内宿はこの路線沿いに存在している。
もし向羽黒山城が廃城にならず、神指城や会津若松城の機能を集約し会津の首府になっていたとしたら、現代の国道や鉄道路線なども
経路が変わっていたのかも?そう考えると、1つの城の浮沈が後世の歴史を大きく塗り替える好例と言えるのかも…。■■■■■■■
現在、羽黒山から向羽黒山にかけての一帯は白鳳山公園の名で公園化されている。山中には散策路や東屋が置かれ、ハイキングにも
適した散策路となっている。駐車場もあり主要な曲輪を見るだけならば気軽に来訪できる城跡なのだが、細かい曲輪や堀跡などまで見る
ならそれなりに山歩きの出来る装備を用意したい。そして何よりも縄張図が必須。城の遺構は広大な範囲に広がっている為、見落としの
無いように見るならばきちんとした地図が必携だろう。そして時間にも余裕を(笑) 福島県道128号線「瀬戸町通り」の途中に会津美里町
本郷インフォメーションセンター(観光案内所)があり、その前から山へ登る道が折れているので、そこを進めば山の中へと一直線なので
迷う事もない。羽黒山から向羽黒山に渡った地点と、そこから進んで主郭と二郭の間に位置する地点に駐車場があるので、目当てとする
曲輪に近い場所を選んで車を停めるのが便利でござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
2001年(平成13年)8月7日、国の史跡に指定。2017年(平成29年)4月6日には財団法人日本城郭協会から続日本百名城にも選ばれた。
「続百にハズレ無し!」が昨今の城郭界で評判となっているが、この城も勿論大満足と断言できる感想を与えてくれるので、探訪するのは
必修と言える城跡だ。会津と言えば鶴ヶ城というだけでなく、ちょっと足を延ばして巨大な山城の名城も忘れずに訪れて欲しい。■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡




猪苗代城・鶴峯城  大越城・常盤城・船引城