鎌倉武士の末裔、城主・猪苗代氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
全国第4位の面積を誇る大きな湖・猪苗代湖。そして会津の象徴となる名峰・磐梯山。会津地方の風景と言えば、この湖と山は
欠かす事が出来ない筈だ。仙道筋(福島県中通地方)から会津盆地へ至るには、山々に囲まれた湖を迂回し、磐梯山を横目に
見ながら、街道を往く事になる。そこには豊穣の大地、美しい山河、時には裏磐梯のように荒々しい自然の営みが存分にある。
猪苗代町は、その湖と火山が最も接近した合間にある町。その中で猪苗代城は、磐梯山が太古に噴火した際の溶岩流が行き
着いた突端部を利用した城。つまりこの城は、山と湖の僅かな隙間を睥睨し、即ち街道を監視・封鎖するのに最適な城なのだ。
ここに初めて城を築いたのは鎌倉時代(一説に1191年(建久2年)とも)佐原長門守経連(さわらつねつら)だとされる。佐原氏は
相模国三浦半島に勢力基盤を持つ名門武家・三浦氏の一族だ。源頼朝が平家打倒の旗揚げをした際、三浦一族は最初期から
味方し、石橋山合戦(伊豆を出撃した頼朝が初めて本格的に平家方と戦った合戦)に連動して三浦大介義明は平家の追討軍を
一身に引き受け戦死、その時間稼ぎが功を奏して頼朝や三浦一族は再起する事が可能となり鎌倉幕府創設に至るのだ。その
義明の子として十郎義連(よしつら)が居り、彼は佐原城(神奈川県横須賀市佐原)を守っていたので佐原の姓を名乗っていく。
佐原義連の嫡男(2男)が遠江守盛連(もりつら)、盛連の庶長子が経連だ。家祖・義連は頼朝の奥州征伐(奥州藤原氏殲滅)に
功を挙げ会津4郡を所領として与えられ、それが盛連へ、更に盛連の子へ受け継がれたとされる。盛連には6人の男子が居たと
され、その中で長男の経連が猪苗代を継承した訳だ。ただし、その話が真実だとすれば1191年の築城説は整合しない。単純に
義連が会津4郡を与えられた年という事だろう。本格的な築城はやはり室町時代になってからではないだろうか?爾来、経連の
家系は猪苗代氏を名乗るようになる。当然、猪苗代城は猪苗代氏の城として維持されていくのでござる。■■■■■■■■■
猪苗代家は経連より後、経泰―盛泰―宗泰―景盛―盛房―盛実―経実―経重―経元と続く。しかし経元には実子が出来ず、
会津の太守にして黒川城(後の会津若松城、福島県会津若松市)を本拠とする蘆名(あしな)家から養子を貰い受けた。蘆名氏
12代当主・下総守盛詮(もりあきら)の2男・盛元が猪苗代家に入り盛清と名乗るのだ。実は、蘆名氏も佐原一族で、佐原盛連の
4男(経連の弟)・遠江守光盛の系譜。蘆名というのも三浦半島にある地名(神奈川県横須賀市芦名)が元である。力関係では
蘆名家の方が本家とされて室町幕府では京都扶持衆(将軍と直接的に主従関係を結んだ在地武士)、しかも「会津守護」なる
役職を自称していた実力者だ(実際には会津守護という役は無い)。もともと佐原一族という同族ながら、“主家”の蘆名家から
“家臣”猪苗代家へ当主となる人材を「与えられた」構図になる養子入りである。だが猪苗代家は常々蘆名家への対抗心があり
不満の蓄積は盛清の子・盛国(もりくに)の行動で爆発する。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
蘆名家滅亡の起点■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
弾正忠盛国が猪苗代家の当主を継いだ頃、蘆名家はその最盛期を築き上げた16代・修理大夫盛氏(もりうじ)の代であった。
しかし盛氏晩年の頃から蘆名家は跡継ぎが次々と落命する不運に見舞われ、遂に盛氏も没した後の1586年(天正14年)には
当主不在という事態にまで追い込まれる。衰退著しい蘆名家中では新たな当主を急いで立てねばならなくなったが、候補には
近隣の大大名である伊達家から当主・藤次郎政宗の弟である小次郎か、同様に強豪である常陸の佐竹家から常陸介義重の
2男・白河平四郎義広(既に白河家の養子に入っていた)という2人が挙げられた。このうち、盛国をはじめ蘆名家臣団の大半が
伊達小次郎を推し、中央政権との繋がりを持つ一部重臣は義広を立てようという対立が生ず。結局、義広派が外交的根回しで
半ば強引に家督相続を決定させてしまう。また、これにより義広入嗣の支援と称し佐竹家や白河家から新規の家臣が入り込み
旧来の蘆名家臣は“蚊帳の外”へと追い遣られてしまった。小次郎入嗣に失敗し、蘆名家の“乗っ取り”は叶わなかった政宗は
この状況にむしろ蘆名家の“解体”を目論むようになった。政宗は蘆名旧臣に次々と調略の手を出し、それは猪苗代盛国へも
向けられる。と同時に、蘆名軍をおびき出す為に囮の攻略を安積郡内(現在の福島県郡山市近辺)で行った。案の定、安積を
取り戻そうと黒川城から蘆名義広が出陣。しかも、反抗的な猪苗代盛国を警戒してわざわざ猪苗代湖の南へ回り込む経路で。
この動きに「蘆名家中では統率が取れていない」状態を政宗は見抜き、それを証明する如く1589年(天正17年)6月1日、盛国は
政宗に内応した。実は猪苗代家、既に盛国は隠居し猪苗代城を嫡男・左馬介盛胤(もりたね)に譲っていたのだが、この前年に
盛胤への家督譲渡を翻し猪苗代城を奪還していた。盛国は蘆名家への不満を露にし、対する盛胤は主家への忠義を貫き黒川
城内での奉公に尽くしていたのだ。猪苗代父子の相克は政宗の調略に呼応し、遂に伊達軍を城内に呼び込んだのである。斯く
して黒川城への進出路が一気に拓けた政宗は風雨を押して蘆名領内へ侵攻する。6月4日、政宗は猪苗代城に大軍を率いて
入城を果たす。一方、政宗の狙いに気付いた義広は慌てて黒川城へと引き返し、両軍は翌6月5日に磐梯山麓の台地・摺上原
(すりあげはら)で激突した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
序盤戦は親佐竹家臣を中心とした蘆名勢が押したものの、やはり親伊達家臣らは動こうとせず、結局蘆名軍は伊達の陣中に
深入りした部隊が壊滅し、伊達側の反撃が始まると残りの部隊は散り散りになって戦場を離脱してしまう。この時、義広の実父
佐竹義重は蘆名家への援軍を用意していたものの、悪天候に伊達軍の動きを掴み損ね戦場に進めぬまま終わってしまった。
政宗の大勝に決着した摺上原合戦は、敗北した蘆名家が領国維持すら出来ない壊滅状態にまで陥り、義広は国を捨て実家
佐竹家へ逃亡、黒川城は無血開城に至り、残った家臣や蘆名支配下にあった諸国までも伊達家が併呑する。政宗が奥羽の
覇王という立場を築く「北の関ヶ原」と呼べる一大決戦になった訳だが、その端緒になったのがこの城の失陥だったのである。
猪苗代城が、会津への門番となっていた事の見事な証でござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戊辰戦争まで存続■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
家督を剥奪された猪苗代盛胤は蘆名方として参戦したが重傷を負い、蘆名義広と共に佐竹家の下に身を寄せるも、後に故郷
猪苗代郊外で隠棲して一生を終えたと言う。一方、盛国は伊達家臣に取り立てられ、家督は2男の宗国(盛胤の弟)が継承して
5000石を食んだ。だが、1590年(天正18年)豊臣秀吉の奥州仕置により政宗は手に入れた旧蘆名領を没収され、会津、そして
猪苗代城を手放す事になる。それらは秀吉の将・蒲生飛騨守氏郷(がもううじさと)が所有し、蒲生家の後は上杉家、関ヶ原の
戦い後に再び蒲生家、更に加藤家(加藤左馬助嘉明(よしあきら)家)へと続く事になるが、猪苗代城はいずれも会津若松城の
支城として存続している。江戸幕府は大名の居城以外の城を破却させる命令「一国一城令」を発していたが、猪苗代城はその
例外となっていた。氏郷は城代に玉井数馬助貞右(たまいさだすけ)を任じ、上杉期は水原常陸介親憲(すいばらちかのり)、
再度の蒲生時代には関十兵衛一利(せきかずとし)、次いで岡越後守定俊(おかさだとし)が就任。定俊は熱心なキリシタンで
猪苗代城下にも教会や神学校が作られたそうだが、幕府のキリスト教弾圧政策が強まる頃に彼は亡くなり、跡を継いだ甥の岡
左衛門佐清長(きよなが)は一転してキリシタン駆逐に動いたと言う。加藤家の時代には堀主水が猪苗代城代となった。なお、
猪苗代城では虎口や主郭外辺部などの重要区画に石垣が用いられているが、これは蒲生〜上杉時代の改修で作られた。■■
1643年(寛永20年)、会津23万石は保科肥後守正之(ほしなまさゆき)の所領となった。正之は保科姓を名乗っていたが、実は
2代将軍・徳川秀忠の実子である。“隠し子”として保科家に預けられた正之は、成長するにつれ名君として頭角を現し、それを
認めた3代将軍・家光(つまり正之の実兄)が徳川将軍家の補佐役に相応しい会津の太守として抜擢したのである。以来、幕末
戊辰戦争まで会津藩は保科家改め会津松平家の治める地となる。しかも、正之は自身の墓所を猪苗代城の奥にある見祢山
(みねやま)と定め、以後会津松平家歴代の廟所として土津(はにつ)神社となったため、猪苗代城は藩主墓所を守護する城と
なった。ますます重要性を増した猪苗代城であったが、幕末の戊辰戦争に於いては城代の高橋権大夫が猪苗代での抵抗を
早々に諦め会津若松城へ退却してしまう。この時、城は焼き払われ破却。これを以って鎌倉以来の古城・猪苗代城は廃絶して
いる。伊達家の侵攻に猪苗代城が転じた事で黒川城が落ちた如く、新政府軍の進軍に猪苗代城が防波堤とならなかった事が
会津藩が若松城での長期籠城戦を選択せざるを得なくなった一因となったのだろう。もっとも、天下泰平200年を経た近代戦に
対して戦国以来の猪苗代城が実戦の役に立つとも思えず、それを考慮しての撤退だったと考えられ申す。■■■■■■■■
猪苗代城址の姿■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
廃城後、城跡は荒廃を極めたが1905年(明治38年)小林助治・才治父子ら町内有志の手に依って公園整備が行われた。以後
「亀ヶ城公園」の名で一般開放されている。猪苗代城の雅称が「亀ヶ城」であった事に由来する公園名だが、そもそも亀ヶ城の
別名は会津若松城の雅称「鶴ヶ城」に相対するもの。やはり猪苗代城と会津若松城は一心同体の関係なのであろう。1998年
(平成10年)1月7日に亀ヶ城跡として猪苗代町指定史跡となり、2001年(平成13年)3月30日には下記の鶴峯(鶴峰)城と共に
福島県指定史跡になっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城の主郭部は南北に細長い丘を利用したもの。小丘陵の規模は東西190m弱×南北は260m程を有し、山頂の標高は552mで
山麓との比高差30mくらいと、それほど大きなものではない。往時はこの山を囲んで平野部にも二ノ丸・三ノ丸が広がっていた
そうだが、現在は市街地化・公園化されてその名残りは無い。半面、山の中は比較的昔の姿を留めており、山の標高に応じて
頂部が主郭、その下に二ノ郭が取り巻き、更に下段には方角に準じた南帯郭・西帯郭・北帯郭が構えられている。帯郭の無い
東面が大手となっており、本丸からほぼ真下の麓へと降る形で大手虎口が開く。この虎口は枡形となっており、しかも石垣で
固められて(写真)登城する者を圧倒。主郭外縁も石垣で固められており、近世城郭としての改造が為された事は明らかだ。
石垣で塞がれた虎口を突破し、見上げる主郭も石垣で固められ、そこへ登ろうとすると隠された裏側の帯曲輪から伏兵が繰り
出される。猪苗代城の構造は巧妙なものとなっており、しかも小山と思わせない程のスケール感があって驚かされる。そう、
この城の中を歩いてみると、数字では表せない“大きさ”が見え隠れするのである。まさしく「体感する城」それが猪苗代城だ。
言われてみれば山容も亀の如くであり、その甲羅が如何ほど固いのかを味わって頂きとうござる。■■■■■■■■■■■
桜の名所、そして紅葉の名所でもある猪苗代城。公園化されているので来訪も楽で駐車場も完備している。猪苗代町役場の
北にあるので、地図さえ見れば場所はすぐ分かる筈だろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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