岩代国 本宮城

本宮城(菅森館)跡 切岸

 所在地:福島県本宮市本宮字舘ノ越
 (旧 福島県安達郡本宮町舘ノ越)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★☆■■■
★★☆■■



築城諸説あり…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
正確な築城年代や城主は不明ながら、通説では室町時代前期の応永年間(1394年〜1428年)から永享年間(1429年〜1441年)頃
二本松畠山氏の分流である畠山満詮(鹿子田満詮(かのこだみつあきら))が築いたとされる。と、さらっと書いてはいるが正長年間
(1428年〜1429年)を挟んで築城の時代に50年近い開きがある上、鹿子田満詮という人物についても謎が多い。そもそも、畠山氏は
足利将軍家の縁戚にして、室町体制の中では管領(将軍を補佐し、政務を統括する役職)を輩出できる3家の中の1つに数えられる
名家であるが(他の2家は細川家と斯波家)、それは全国各地に所領を有する事となり、結果的にそうした分国毎の畠山家が立つに
至るのである。その中で陸奥国に勢力を築いたのが二本松畠山家で、奥州探題(陸奥国の政務統括役職)職を得て陸奥南部での
平定に腐心する歴史を辿る訳だ。だが二本松家の武威は振るわず、室町時代から戦国時代へ世が変わるにつれ一国人の地位に
堕ちていく。満詮なる者は第3代(諸説あり)奥州探題・畠山治部大輔国詮の庶子(2男だとか)に当たる人物で、ここ本宮にて分知を
充てがわれ入府し、居館を築いたのが本宮城の始まりとされている。以後、鹿子田と改姓し子孫はその姓を名乗ったようだ。他方、
満詮の弟で嫡子であった修理大夫満泰(みつやす)は二本松城(福島県二本松市)を築城、これが「二本松」姓の由来となっている。
なお、異説として明応年間(1492年〜1501年)岩城正兼という人物が築城したとするものもあるが真偽不明。下に出てくる岩城氏に
事寄せる説なのかもしれない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところで、鹿子田氏は以後の動向が良く分からぬまま時が過ぎ、奥羽にも本格的な戦国動乱の波が到達した1532年(天文元年)頃
本宮城には二本松氏の重臣・川崎宗頼(むねより)が入城し本宮氏を名乗るようになったと言う。大井田姓も称した川崎氏は、遡ると
これまた国詮の庶子(こちらは長男、つまり鹿子田満詮の兄)・上野介満国(みつくに)を始祖とする家で、満国―持久―持勝―政兼
そして宗頼と代を繋いでいた。事情は分からないが、鹿子田氏の名跡・所領は川崎氏に併呑され、改めて本宮氏となったのである。
さて、天文期の奥州において“台風の目”となったのが伊達氏である。伊達家14代当主・左京大夫稙宗(たねむね)は積極的な外交
政策を採用し、自身の子女を他大名家へ数多く嫁がせ、また養子に出して、奥羽一帯を「伊達家族圏」にしようとしていた。ところが
あまりに急進的な縁戚政策は伊達家からの出費(特に人的支出)を増大させ、逆に伊達家自体の衰退を招く危険性も孕んでいた。
これを危惧した稙宗の長男・左京大夫晴宗(はるむね)は父の政策を止めさせようとし、遂に稙宗・晴宗間で父子対立が勃発する。
稙宗の婚姻政策で関係を持つ奥州の諸大名らは、当然この戦いに巻き込まれ奥羽全域で稙宗派と晴宗派の戦が発生してしまう。
二本松家では当主の信濃守義氏(よしうじ)が稙宗方に属したが、本宮城主の宗頼は晴宗に味方したため、1546年(天文15年)6月
本宮城は義氏の軍勢に攻められ、同月3日に落城している。宗頼は戦死、城を落ち延びたその子・直頼は浜通りの有力氏族である
岩城氏を頼ったと言う。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
落城させた本宮城に、二本松義氏は家臣の遊佐丹波守・氏家新兵衛などを城代として入れた。だが、二本松氏はいよいよ落ち目と
なり、伊達家は17代当主・藤次郎政宗(晴宗の孫)が日の出の勢いで勢力を拡大させる。脅威に晒された二本松右京大夫義継は
1585年(天正13年)10月8日、宮森城(福島県二本松市)にて政宗の父・左京大夫輝宗を拉致して人質に取ろうとしたが、この企ては
失敗、義継と輝宗は共に果てている。父の敵討ちに燃える政宗は二本松城を攻め落とそうと躍起になり出陣するが、それに対して
二本松家に同情した奥州諸大名は大連合を組んで城の救援に駆け付けた。11月10日、連合軍の接近に城攻めを中止した政宗は
二本松から南下し本宮城を接収、対決に備えている。同月17日、本宮城から僅かな距離にある人取橋(瀬戸川に架かる橋)を挟み
両軍は対決した。伊達軍は7000、連合軍が3万という大差だったが、政宗は辛くも撃退に成功し勝負は痛み分けに終わった。以後、
本宮城は伊達家の南進拠点として維持されて、瀬上中務景康(せのうえかげやす)・横田右衛門・中島伊勢守宗求(むねもと)・浜田
伊豆守景隆(かげたか)らが在城した(これは人取橋合戦時の布陣か?)そうだが、伊達家が領土を会津まで押し広げると戦略的に
無用のものとなり、1589年(天正17年)頃に廃城となり申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

本宮城の区画分け■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、ここまでひと口に「本宮城」という表現を用いてきたが、構造的には菅森館(菅森城)・愛宕館・鹿子田館の3区画に分かれると
されている。現在、JR東北本線本宮駅の北東750mに本宮市立本宮小学校が建てられているが、小学校校舎の北にある安達太良
神社境内とその西にある花山公園一帯が菅森館の跡地、反対に小学校の南に位置する愛宕神社の小山が愛宕館跡らしく、さらに
安達太良神社の北東側に付随する森が鹿子田館の跡だそうな。敷地の中心に位置する小学校も、館の腰と呼ばれる根小屋址で
城の全域は東西およそ260m×南北500m程を有した。城の北側に百日川、南には安達太良川が西から東へ流れ、2つの川は共に
城の東を南から北へ流れる大河・阿武隈川に合流している。つまり本宮城は西を除く3方が川に囲まれた地にあり、平野に単独で
屹立する比高差30m程の小山を上手く利用した立地であった。南に突出した愛宕館は物見であろうが(城代の遊佐下総守・丹波守
父子が在住していたとも)、菅森館は山頂部(現在、安達太良神社社殿がある)を主郭、そこから下段にいくつかの削平部を重ねた
重層の曲輪群を構成していた縄張りとなっている。鹿子田館跡とされる森(大黒山と称す)は鬱蒼とした原生林になっており、遺構は
不明。とりあえず、公園化されている菅森館跡では写真のような切岸や段曲輪が見て取れるのでそれを確認するのが良いだろう。
なお、1146年(久安2年)に創建の安達太良神社は元来別の山にあり、菅森館の麓に遷座され安達郡総鎮守とされたそうなのだが、
それまでは「本目(ほんもく)」だった地名が神社の設置により「本宮」に改称されたとの事。さらにこの神社は江戸時代後期の1806年
(文化3年)本宮宿場町の大火で延焼してしまい、1816年(文化13年)再建する際、現在のように山の上に建てられたそうである。故に
神社は火伏の祈りが込められており、境内にはそれを示す石碑も。神社も町も、もちろん城も、火災は大敵という事でござるな。■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群








岩代国 安子ヶ島城

安子ヶ島城跡石碑

 所在地:福島県郡山市
熱海町安子島南町・熱海町安子島字舘前
熱海町安子島字町・熱海町安子島字桜畑

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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「熱海」の城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
阿古島、安子嶋などの字を充てる事も。読み方はいずれも「あこがしま」だ。遺構湮滅により史跡指定はされていないが、郡山市では
埋蔵遺跡包有地として登録しており、その遺跡番号は20360050、JR磐越西線安子ヶ島駅の北側一帯に大きく包有地範囲が広がる。
地図上で遺跡包有地の距離を測れば、南北230m(最大)程なのに対し東西は600mを越す大きさ。実際にこの全域が城だった訳では
ないが、それにしてもかなりの面積を有した事は想像に難くない。しかも1970年代の航空写真を見れば当時の地形が綺麗に確認でき
どうやら写真の石碑がある付近を中心に輪郭式の本丸・西郭・南郭が作られ、その東側に大規模な東郭が連結する縄張りであった。
曲輪の間は自然の谷を利用した深い堀で区切られていたのだが、圃場整理によってそれが完全に埋め立てられてしまい、現状では
曲輪の形や堀の深さを垣間見る事は出来ないのが残念だ(ごく断片的に堀跡が残る部分もあるが、私有地なので入れない)。台地の
上にあった城は谷下より10mほど高く、城下町となる会津街道を見下ろす形になっていた。その街道は現在もそのまま使われており、
城の北を東西に走る道(郡山市立安子島小学校の北側〜安子ヶ島郵便局前〜二ツ橋へ至る道)がそれである。■■■■■■■■■
この城の所在地は郡山市西部の熱海町。熱海と言うと静岡県の?温泉がある??伊東氏に近しい???と、伊豆半島の話ばかり
思い浮かぶ方も多かろう。こちらは同じ温泉場と言えど、磐梯熱海温泉の熱海である。さりとて、伊東氏に関連するのは間違いなく、
伊豆の伊東氏の分流たる安積(あさか)伊東氏(郡山伊東氏)から派生した安子ヶ島氏が城主である。安積伊東氏と言うのは、曽我
兄弟の敵討ちで有名な工藤左衛門尉祐経(すけつね、曽我兄弟に討たれた人物)の2男・六郎祐長(すけなが)が鎌倉幕府から陸奥
安積郡を所領として与えられ、安積に改姓したものが始まりだとされる。安積祐長が実際に安積郡へ下向した証跡は見られないが、
子孫が安積伊東氏一族として同地に根付いた。この中の1家が安子ヶ島氏なのだろう。必然的に、城の創建は鎌倉時代中期以降と
いう事になる。室町期の1404年(応永11年)7月に書き起こされた「仙道諸家一揆傘連判状」には「阿古島藤原祐義」の名も。これは
鎌倉府(室町幕府の東国統治機関)が奥州の支配権強化を図り直轄化を進めようとした事に対し、現地の豪族らが団結して対抗の
姿勢を表明したものだが、そこに安子ヶ島氏の名がある事は彼らが自主独立を志向していた状況を物語る。実の所、安積伊東氏は
一族内でのまとまりを欠き、それが後々戦国大名化(権力の一極集中)を阻む足枷となっていき、結果的に彼らは大名にはなれずに
単なる一地方豪族のまま戦国時代を迎える事となってしまった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

伊達の城攻め vs 孤高の城主■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
自然と安子ヶ島氏は周辺の大勢力に追従して生き延びる道を模索するしかなくなり、戦国時代初頭は奥州探題の名族・二本松氏に
従い、二本松氏が伊達政宗に滅ぼされると会津の太守・蘆名家を頼るようになる。その蘆名家に対して政宗が矛先を向け、1589年
4月になると会津への入口を扼する安子ヶ島城への包囲が始まった。伊達軍の攻勢に一戦を覚悟した城主の安子島治部大輔祐高
(すけたか)であったが、既に周辺諸城は伊達軍に恐れをなし軒並み降伏しており、落城は必至。5月4日、伊達軍の城攻めが始まり
外郭部や城下の町は占拠されてしまう。ここで政宗はいったん人馬の休憩を取らせ戦闘が中断するのだが、それを見て祐高は伊達
藤五郎成実(しげざね、政宗の腹心)に開城降伏の使者を送った。城兵の命を助けてくれれば城を明け渡すと言う申し出に、成実は
警戒しつつも城から兵を遠ざけたのだが、祐高は騙し討ちなどせず威儀を正して退城し会津へ落ち延びる。どこぞの上田城(長野県
上田市)攻防戦では全く逆に降伏の言葉に謀られ、徳川秀忠の軍が延々と泥沼の攻城戦を続けさせられたのと対照的な話だ。
この開城により伊達家のものとなった安子ヶ島城は、以後廃城になったとする説が一般的であるが、他方、豊臣秀吉の奥州仕置後
会津を蒲生飛騨守氏郷(がもううじさと)が領有すると家臣の蒲生源左衛門尉郷成(さとなり)がこの城の城代となり、更に後、会津が
上杉近衛中将景勝の所領に変更となると、その家臣・安田上総介能元(やすだよしもと)が「浅香城」の城代になったと続く説もある。
「浅香城=安積城」つまり安子ヶ島城の事を指し、1600年(慶長6年)天下を分ける関ヶ原戦役の際には景勝の宿老・直江山城守兼続
(なおえかねつぐ)が徳川家との対決に備えて安子ヶ島城に入り前線指揮を執ったとされるのだが、この説に於いては西軍・上杉家は
徳川と戦う事なく敗北が確定、会津の所領を失い1601年(慶長7年)安子ヶ島城も廃城になったという結末を辿るのでござる。■■■■
圃場整備に先立ち、1992年(平成4年)5月〜1993年(平成5年)2月にかけて発掘調査が行われた。調査面積は1万2000uに及び、
4300基以上の柱穴・井戸跡・竪穴状遺構・土坑・堀を検出。出土品は青磁・白磁・青白磁・陶器を始め土器・火鉢・石臼・硯・砥石など
生活用品、釘や漆器も。更には木簡5点も発見されている。どうやらこれは御経(妙法蓮華経)を書写したものらしい。城郭の経歴を
判別する遺構としては、最初期(13世紀か?)・15世紀・16世紀後半という3期に及ぶ改変があった事が確認されている。とは言え、
現在の城址は写真にある石碑が1つ建てられているのみ。蘆名家への忠義を貫き、伊達家へ寝返らなかった祐高の高潔奮闘ぶりも
夢のまた夢である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構









岩代国 片平城

片平城址 主郭跡

 所在地:福島県郡山市
片平町上舘・片平町字上館西
片平町字上山川

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

★☆■■■
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これまた伊東氏の城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
安子ヶ島城の項で安積伊東氏を紹介したが、こちらもその安積伊東氏を由来とする城郭。正確な築城年代は不明なれど、鎌倉時代に
安積六郎左衛門祐長つまり伊東祐長が築いたと云われる。祐長は1189年(文治5年)源頼朝による奥州藤原氏討伐、或いはその後に
起きた1213年(建暦3年)泉親衡(いずみちかひら)の乱を平定した功績で安積郡を与えられた。祐長は片平の地に居館を構え、それは
片平館(片平城の東隣、片平町域内)と呼ばれたが、平時の居館に対する詰めの城を必要として築いたのが片平城であったとされる。
館と城を区別する為、片平館は「片平下館」片平城は「片平上館」とも称される。下館が完全な平地に築かれたものであったのに対し、
上館はそれなりに起伏のある地形を利用した山城(と言っても、比高差20m程度のなだらかな丘)だった。それ故、下館は現在において
完全な住宅地となり、街区の町割りや字名(所在地は福島県郡山市片平町下館、片平町字外堀など)にしか名残は無い。一方で上館
即ち片平城は住宅地の外れに曲輪跡が残され、そこには写真のような標柱が立てられている。■■■■■■■■■■■■■■■■
伊東祐長がこの地を得た経歴から逆算すると、築城は1189年以降〜13世紀前半くらいと云う事になろう。とは言え、安子ヶ島城の項で
記した通り祐長が本当にこの地へ入部したという確証は無い。祐長以後の代が片平館(片平城)を使い始めたと考えるのが自然である。
安積伊東氏は祐長より後、祐能―祐家―祐宗―祐政―祐朝―祐治―祐信―祐時―氏祐―宗祐―祐里―祐重―重信と続き、当初は
片平の地が本拠となっていた。だが、いつの頃からか安積伊東氏は居を移し、片平城は分家である片平伊東氏(片平氏)の城となって
いく。安子ヶ島氏もそうだが、このように伊東氏は分流を多数派生させ領土を拡大させた一方、諸家分立した事で一族を掌握するような
強大な“宗家”と言える存在がなく、結果的に地方豪族の地位から脱する事が出来なかった。よって、戦国期になると近隣の大大名へと
従属する“国衆”として、各家は集合離散を繰り返した。安子ヶ島氏は蘆名家に従ったと書いたが、祐長直系の肥前守重信は伊達家に
従属し、1588年(天正16年)の郡山合戦で伊達政宗の身代わりとなって戦死している。その大功を以って、伊達家臣安積伊東家は後に
仙台藩の重臣として名を馳せる事になる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

戦国期城主・片平氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて肝心の片平氏であるが、こちらは安子ヶ島氏と同じく蘆名家に臣従。だが、片平の地は蘆名勢力圏の中でも南端部に偏っていた為
東の田村氏から攻撃を受ける事が多々あった。1550年(天文19年)6月、蘆名修理大夫盛氏(もりうじ)と田村民部少輔隆顕(たかあき)が
戦いに及び、翌月に和議を結んだ。この和議の条件として、安積伊東氏宗家の家督を田村家が掌握し、その「名代(相続人)」を隆顕の
2男と決め、それを蘆名氏の名の下に立てるというものであった。ただ、この時すでに安積伊東氏の当主・祐重は伊達氏の下へと逃れて
おり、この和睦条件がどこまで有効だったのかは分からない。いずれにせよ片平は蘆名・田村の“綱引きの場”になっていた様子が想像
できよう。そして1576年(天正4年)蘆名家が郡山方面へ攻勢をかけ、それに対して田村勢は小浜城(福島県二本松市)の大内氏と共に
片平城を攻めた。この攻略で片平城主・伊東大和守祐時(すけとき)は会津へと脱し、大内氏当主・備前守義綱(よしつな)の2男である
助右衛門が片平氏の家督を襲った。斯くして助右衛門は片平親綱(ちかつな)と名乗るようになり、大内家の家督を継いだ兄・備前守
定綱(さだつな)と行動を共にするようになる。この大内定綱、後に田村氏と決別して蘆名氏に与し、それも見限って伊達政宗への臣従を
表明したかと思えば掌を返して政宗を激怒させ、有名な小手森城(福島県二本松市)撫で斬りを起こさせた人物である。政宗の常軌を
逸した攻撃に恐怖した定綱は二本松氏を頼り、更に蘆名家へ再服従するという“風見鶏”のような豹変を重ねていくが、弟の片平親綱も
定綱と同じ去就を採っていたようだ。最終的に、蘆名家も弱体化した事で定綱・親綱兄弟は伊達政宗に許しを請うて服従、彼らは伊達
家臣として生き延びる事になったが、その政宗が1590年(天正18年)に天下人・豊臣秀吉の奥州仕置きに従った事で片平城は伊達家
(片平家)から取り上げられてしまう。城はこの時に廃されたとする説がある一方、伊達家に代わり当地を治める事になった蒲生氏郷が
1591年(天正19年)蒲生式部を城主に入れたとする説もある。しかし、蒲生家の支配も長くは無かったのでどちらにせよ江戸時代に入る
迄には廃城とされたようでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
写真の標柱がある城の主郭は、片平公民館(片平ふれあいセンター)から西北西に約430mの所、恐らく畑地に改変されていたであろう
現状では空き地となっている場所である。この空き地に入るには南側の虎口を通る形になるが、その手前には明瞭な土橋が現在でも
綺麗に残されている。と云う事は、主郭を囲う切岸や空堀もしっかり現存している訳だ。ただ、土橋の外側は途端に耕作地化や宅地化が
激しくなり、遺構の残存具合は不明確になる。どうやら、往時は片平公民館の北西200m程の所にある愛宕神社の辺りまでが城域だった
ようなので、その話が正しければ東西300mを越える大きさを誇った城となるのだが、現状ではそこまでの規模感は感じられない。どうも、
主郭と愛宕神社の間ではこれまで土取りが盛んに行われたそうで、元地形がかなり変わってしまった模様である。城の縄張りとして取り
込まれていた地形ならば(何せ戦国末期まで存在していた城郭なのだから)本来はもっと険要であって然るべきなのだが、今では全く
その面影が無いのが残念だ。史跡指定はされていないが、これまた郡山市では埋蔵文化財包蔵地として登録しており、その遺跡番号は
20360102。同様に、下館は20360104となっている。なお、下館と上館の間に中館の存在も想定されているようで、そちらは20360103。
史跡指定はない分、地元では城跡の観光活用を検討しているそうで、城址へと続く細道にはささやかな案内標識が設置されている。
今後の整備に期待? (^ ^;■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等








磐城国 守山城

陸奥守山城址 石垣

 所在地:福島県郡山市
田村町守山字三ノ丸・田村町守山字城ノ腰
田村町守山字殿町・田村町守山字中町
田村町守山字大町・田村町守山字上河原

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★☆■■
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「田村氏」の本拠地■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
郡山市の領域は東西に長いものとなっているが、これは昭和の市町村大合併により周辺町村を多数飲み込んだ事による。その結果、
市の西半分は安積郡、東半分は田村郡を元とする地域を混在させたものとなった。上記の安子ヶ島城や片平城は安積郡の城だったが
この守山城は田村郡だった領域に属しており、それは磐城国に含まれる地域である。ただし、田村郡と安積郡が分けられたのは江戸
時代になってからだし、「磐城国」と言うのも明治維新直後から分地された令制国なので、戦国時代にはそれほど厳格な区分があった
訳ではござらぬ。守山城という名の城は他国にもある為、「陸奥守山城」と称するのが一番分かり易いだろう。■■■■■■■■■■
伝説では平安時代の征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷討伐の際に築いた砦だとされるが、これは信憑性に乏しい。その田村麻呂が
現地に子を為し、それが田村氏となり田村郡を統治する名門武家となる訳だが、実際の所その話も「田村郡に君臨する正当性」を作り
上げる粉飾のようだ。しかしながら“古代からの名族”という看板は効果絶大で、平安期〜鎌倉期に成立した田村庄司家は、その名の
通り陸奥国田村荘(現在の福島県郡山市東部〜田村市〜田村郡一帯にあった荘園)を「田村麻呂末裔の田村氏」として管理した。が、
血縁的には藤原氏系だったようで、実際に田村麻呂の血を引いていたかは怪しい。それでも田村庄司家はこの城を本拠に勢力を広げ
室町時代初頭まで、威勢を誇った。となると、守山城が築かれたであろう年代は平安後期か鎌倉時代と考えられる。■■■■■■■
田村庄司家は南北朝の争いで南朝方に与したが、次第に北朝方室町幕府が優勢になるとそれに服従するようになる。ただ、南朝から
転じた経歴は室町体制下で不利に働き、次第に勢力を弱めていく。この頃、北関東の下野国では同様の名門武家・小山(おやま)氏が
鎌倉府と対立しており、田村庄司家も鎌倉府(を背景にした白河結城氏)に圧迫を受けていた。窮した小山・田村氏は1395年(応永2年)
田村則義・清包父子を首謀者として反乱を起こし、鎌倉府らの討伐を受ける事になってしまった。いわゆる「田村庄司の乱」である。この
乱の経緯には諸説あって一概に解説できないが、翌1396年(応永3年)鎮圧され田村庄司家は滅亡に至った。■■■■■■■■■
さて、この乱の平定に一役買ったのが「御春の輩(みはるのともがら)」つまり三春田村氏である。こちらも「田村麻呂の末裔」を称した
田村氏だが、実際には平氏系の血筋だったらしい。三春田村氏は田村庄司家に代わって田村荘の権益を奪い、守山城も手に入れて
田村郡の新たなる主となった。この新しい(?)田村氏が、戦国大名の田村氏へ繋がっていく。田村庄司の乱を鎮めた時代の三春田村
氏は遠江守直顕(なおあき)の代と見られ、左衛門大夫盛顕(もりあき)―大膳大夫義顕(よしあき)と継承されるが、具体的に守山城が
いつ、どのように入手されたのかは分からない。義顕は1504年(永正元年)又は1516年(永正13年)に三春城(福島県田村郡三春町)へ
本拠を移した事が確実なので、それまで使われていたという事であろうが、三春城へ移転した後も恐らく支城として用いられていたので
あろう。1582年(天正10年)近隣勢力である二階堂氏が守山城を攻略すべく軍を進めたが、田村勢は撃退に成功してござる。■■■■
三春城移転以後の田村氏については三春城の項を御覧頂くとして、田村大膳大夫清顕(きよあき)が没した後に田村家は事実上伊達
政宗の臣下として扱われる事になった。この時、守山城には伊達家重臣の片倉小十郎景綱(かたくらかげつな)や白石右衛門大輔宗実
(しろいしむねざね)が入っている。程なくして豊臣秀吉の仕置により伊達家は田村郡を失い、蒲生氏郷の領土に入ると蒲生家臣・田丸
中務大輔直昌(たまるなおまさ)が三春城主になるが、直昌はすぐに居城をこの守山城へ移した。彼は守山城を大改修して、この時に
現在まで残る石垣などが構築されている。氏郷が1595年(文禄4年)2月7日に急死すると、嫡子・飛騨守秀行(ひでゆき)は若年であった
事から会津92万石の大封を任せるに能わずと判断され1598年(慶長3年)に下野国宇都宮(栃木県宇都宮市)18万石へ減転封となった。
代わって会津を領したのが上杉景勝である。景勝は守山城に2万石で須田大炊頭長義(すだながよし)、それに続いて本庄越前守繁長
(ほんじょうしげなが)を1万石で、更に2100石で竹俣左京進利綱(たけのまたとしつな)を入れて守らせたと言う。されど上杉家は関ヶ原
戦役において西軍の主力を担い、戦後は徳川家康に会津を追われた。1601年に再び蒲生家が会津へ入り、守山城には蒲生家重臣の
蒲生郷成が4万5000石(一族領含む)で配されている。だが郷成は蒲生家中の権力闘争に敗れ1609年(慶長14年)出奔してしまう。既に
田村地方の中心となる城郭は三春城が整備されており守山城は事実上これで役割を終えたと見られるが、正式には1615年(元和元年)
江戸幕府が大名の居城以外の城を廃する命令「一国一城令」を出した事で破却されたと言われており申す。石垣を伴う守山城の姿は
1591年の田丸直昌入城〜1609年の蒲生郷成逐電までの間に整えられたものだろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
蒲生氏が再び転封となり、松平氏が領有する時代になると守山城の三ノ丸外部(現在の福島県道54号線と同182号線の交差点付近)に
守山陣屋が置かれたそうだが、城は復興されず全く別の役所として使われた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

城の遺構の美しさ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
JR水郡線の磐城守山駅から東へ行くと、郡山市立守山小学校があり、更にその東には守山八幡神社(城山八幡宮)がある。八幡神社の
境内は周囲から隆起した小山となっており、ここが守山城の主郭であった。山の南側から東を回り北へと黒石川(阿武隈川支流)が流れ
この城は川を背にして西側にだけ拓けていた立地。山を中心に、扇状の敷地を梯郭式に造成し二ノ丸・三ノ丸が作られた。守山小学校は
三ノ丸跡地に当たる。三ノ丸の出口、現状で八幡神社の参道と国道49号線が交わる付近には枡形虎口があったようで、遺構は湮滅して
いるものの地籍図を見るとその名残が確認できる。この他、三ノ丸の北側(小学校の北側一帯の低台地)が北出丸だったとの事で、堀や
切岸の断片が残されているそうだ。八幡神社境内(山の最高地点)は標高257m、黒石川(当時は上石川と称したらしい)河畔は236mで
比高差およそ20m、川に面した部分は急崖となっており戦闘正面は西側に限定できた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この城跡で最も注目すべきは写真にある二ノ丸石垣であろう。野面積み(穴太積み)で構築された石垣なので、明らかに蒲生氏時代に
作られたもの。これが二ノ丸の西面、三ノ丸に対した部分に残されており、残存部分だけで高さ6m程、長さ約70mが一直線に伸びている。
天端が全体的に崩落しているのは破城の痕跡であろうか?そしてその石垣の外縁には見事な空堀も。堀幅はおよそ25mを数え、弓でも
鉄砲でも有効射程に収まる大きさだ。この石垣は長らく埋没していたのだが、2000年(平成12年)7月に発見され、2003年(平成15年)に
かけて第1次〜第4次までの発掘調査が行われている。それによれば城内から礎石建物跡や陶磁器類が見つかり、当城が戦国時代に
どのような使われ方をしていたかを推測する手掛かりとなった。城址は2016年(平成28年)12月1日、郡山市指定史跡になっている。
埋蔵文化財包蔵地としての遺跡番号は20360696。この登録ではどうやら守山陣屋跡まで含めた範囲が包蔵地とされており、上記した
所在地住所はそこまで入れて列記してある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
八幡宮の麓(二ノ丸跡地)に車を数台停められる敷地があるので、自動車での来訪は簡単だが国道の交差点が見付け難いので注意。
見どころの石垣も、季節によっては猛烈な藪に覆われてしまい確認し難い事が多いとか。幸いにも拙者が訪れた際には草刈りをして
頂いたばかりの時だったようで、写真の如く綺麗な状態を見学できた。また、紅葉の季節には八幡宮の森が素晴らしい色合いに染まり
古城の雰囲気をより一層盛り上げてくれる。郡山市の中心街からはかなり離れており訪れるのが面倒な位置に思えるが、この石垣や
情景を目にすればその苦労も吹っ飛ぶような名城でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は市指定史跡





小手森城・小浜城・宮森城  猪苗代城・鶴峯城