築城諸説あり…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
正確な築城年代や城主は不明ながら、通説では室町時代前期の応永年間(1394年〜1428年)から永享年間(1429年〜1441年)頃
二本松畠山氏の分流である畠山満詮(鹿子田満詮(かのこだみつあきら))が築いたとされる。と、さらっと書いてはいるが正長年間
(1428年〜1429年)を挟んで築城の時代に50年近い開きがある上、鹿子田満詮という人物についても謎が多い。そもそも、畠山氏は
足利将軍家の縁戚にして、室町体制の中では管領(将軍を補佐し、政務を統括する役職)を輩出できる3家の中の1つに数えられる
名家であるが(他の2家は細川家と斯波家)、それは全国各地に所領を有する事となり、結果的にそうした分国毎の畠山家が立つに
至るのである。その中で陸奥国に勢力を築いたのが二本松畠山家で、奥州探題(陸奥国の政務統括役職)職を得て陸奥南部での
平定に腐心する歴史を辿る訳だ。だが二本松家の武威は振るわず、室町時代から戦国時代へ世が変わるにつれ一国人の地位に
堕ちていく。満詮なる者は第3代(諸説あり)奥州探題・畠山治部大輔国詮の庶子(2男だとか)に当たる人物で、ここ本宮にて分知を
充てがわれ入府し、居館を築いたのが本宮城の始まりとされている。以後、鹿子田と改姓し子孫はその姓を名乗ったようだ。他方、
満詮の弟で嫡子であった修理大夫満泰(みつやす)は二本松城(福島県二本松市)を築城、これが「二本松」姓の由来となっている。
なお、異説として明応年間(1492年〜1501年)岩城正兼という人物が築城したとするものもあるが真偽不明。下に出てくる岩城氏に
事寄せる説なのかもしれない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところで、鹿子田氏は以後の動向が良く分からぬまま時が過ぎ、奥羽にも本格的な戦国動乱の波が到達した1532年(天文元年)頃
本宮城には二本松氏の重臣・川崎宗頼(むねより)が入城し本宮氏を名乗るようになったと言う。大井田姓も称した川崎氏は、遡ると
これまた国詮の庶子(こちらは長男、つまり鹿子田満詮の兄)・上野介満国(みつくに)を始祖とする家で、満国―持久―持勝―政兼
そして宗頼と代を繋いでいた。事情は分からないが、鹿子田氏の名跡・所領は川崎氏に併呑され、改めて本宮氏となったのである。
さて、天文期の奥州において“台風の目”となったのが伊達氏である。伊達家14代当主・左京大夫稙宗(たねむね)は積極的な外交
政策を採用し、自身の子女を他大名家へ数多く嫁がせ、また養子に出して、奥羽一帯を「伊達家族圏」にしようとしていた。ところが
あまりに急進的な縁戚政策は伊達家からの出費(特に人的支出)を増大させ、逆に伊達家自体の衰退を招く危険性も孕んでいた。
これを危惧した稙宗の長男・左京大夫晴宗(はるむね)は父の政策を止めさせようとし、遂に稙宗・晴宗間で父子対立が勃発する。
稙宗の婚姻政策で関係を持つ奥州の諸大名らは、当然この戦いに巻き込まれ奥羽全域で稙宗派と晴宗派の戦が発生してしまう。
二本松家では当主の信濃守義氏(よしうじ)が稙宗方に属したが、本宮城主の宗頼は晴宗に味方したため、1546年(天文15年)6月
本宮城は義氏の軍勢に攻められ、同月3日に落城している。宗頼は戦死、城を落ち延びたその子・直頼は浜通りの有力氏族である
岩城氏を頼ったと言う。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
落城させた本宮城に、二本松義氏は家臣の遊佐丹波守・氏家新兵衛などを城代として入れた。だが、二本松氏はいよいよ落ち目と
なり、伊達家は17代当主・藤次郎政宗(晴宗の孫)が日の出の勢いで勢力を拡大させる。脅威に晒された二本松右京大夫義継は
1585年(天正13年)10月8日、宮森城(福島県二本松市)にて政宗の父・左京大夫輝宗を拉致して人質に取ろうとしたが、この企ては
失敗、義継と輝宗は共に果てている。父の敵討ちに燃える政宗は二本松城を攻め落とそうと躍起になり出陣するが、それに対して
二本松家に同情した奥州諸大名は大連合を組んで城の救援に駆け付けた。11月10日、連合軍の接近に城攻めを中止した政宗は
二本松から南下し本宮城を接収、対決に備えている。同月17日、本宮城から僅かな距離にある人取橋(瀬戸川に架かる橋)を挟み
両軍は対決した。伊達軍は7000、連合軍が3万という大差だったが、政宗は辛くも撃退に成功し勝負は痛み分けに終わった。以後、
本宮城は伊達家の南進拠点として維持されて、瀬上中務景康(せのうえかげやす)・横田右衛門・中島伊勢守宗求(むねもと)・浜田
伊豆守景隆(かげたか)らが在城した(これは人取橋合戦時の布陣か?)そうだが、伊達家が領土を会津まで押し広げると戦略的に
無用のものとなり、1589年(天正17年)頃に廃城となり申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
本宮城の区画分け■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、ここまでひと口に「本宮城」という表現を用いてきたが、構造的には菅森館(菅森城)・愛宕館・鹿子田館の3区画に分かれると
されている。現在、JR東北本線本宮駅の北東750mに本宮市立本宮小学校が建てられているが、小学校校舎の北にある安達太良
神社境内とその西にある花山公園一帯が菅森館の跡地、反対に小学校の南に位置する愛宕神社の小山が愛宕館跡らしく、さらに
安達太良神社の北東側に付随する森が鹿子田館の跡だそうな。敷地の中心に位置する小学校も、館の腰と呼ばれる根小屋址で
城の全域は東西およそ260m×南北500m程を有した。城の北側に百日川、南には安達太良川が西から東へ流れ、2つの川は共に
城の東を南から北へ流れる大河・阿武隈川に合流している。つまり本宮城は西を除く3方が川に囲まれた地にあり、平野に単独で
屹立する比高差30m程の小山を上手く利用した立地であった。南に突出した愛宕館は物見であろうが(城代の遊佐下総守・丹波守
父子が在住していたとも)、菅森館は山頂部(現在、安達太良神社社殿がある)を主郭、そこから下段にいくつかの削平部を重ねた
重層の曲輪群を構成していた縄張りとなっている。鹿子田館跡とされる森(大黒山と称す)は鬱蒼とした原生林になっており、遺構は
不明。とりあえず、公園化されている菅森館跡では写真のような切岸や段曲輪が見て取れるのでそれを確認するのが良いだろう。
なお、1146年(久安2年)に創建の安達太良神社は元来別の山にあり、菅森館の麓に遷座され安達郡総鎮守とされたそうなのだが、
それまでは「本目(ほんもく)」だった地名が神社の設置により「本宮」に改称されたとの事。さらにこの神社は江戸時代後期の1806年
(文化3年)本宮宿場町の大火で延焼してしまい、1816年(文化13年)再建する際、現在のように山の上に建てられたそうである。故に
神社は火伏の祈りが込められており、境内にはそれを示す石碑も。神社も町も、もちろん城も、火災は大敵という事でござるな。■■
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