「村の小城」だが…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「おでもり」城と紹介する城郭頁が多いようだが、現地の案内板には「おてのもり」城と振り仮名が振られている。■■■■■■■■
全国的には殆んど無名の城だが、独眼竜・伊達政宗の事績の中における「800人撫で斬りの城」として非常に名が知られた城だ。
二本松市役所東和支所(旧東和町役場)から南南東へ約650m程の位置にある独立丘陵が城址。山頂に愛宕神社があり(写真)
その一帯が主郭。周囲は急峻な斜面で切り立っており、天然の要害となっていた。部分的には土塁や石垣の残欠と思しき遺構が
うっすらと見て取れる。ただ、基本的にはそれだけの城跡で、規模も然程大きくは無い。この山は北東方向へと尾根が伸びており
その部分が二郭、或いは大手道だったと推測する向きもあるが、これも定かではない。ともあれ、この規模や構造で山中に800が
籠っていたとは考えられず、もし本当だとしたら城中だけでなく周囲に野営していた人員も含めての数であろうが、そもそも政宗が
書状に記した「800人」と言う数字がかなり誇張されたものだと考えるのが自然でござろう。■■■■■■■■■■■■■■■
築城年代は不明。築城主を石橋氏とする説があるも、これも良く分からない。石橋氏は足利将軍家の縁戚である斯波氏の分流。
平安時代の武人・源頼義(八幡太郎義家の父)以来の権威ある官職「陸奥守」を称する程に権勢を誇り、室町幕府の草創期から
奥州に根付いている。安達郡における阿武隈川東岸部を塩松地方と呼ぶが、この塩松で国人化した為“塩松石橋氏”とも呼ばれ
京の幕府や、東国出先機関である鎌倉府の動向にも関わる有力豪族だった。ところが、幕府の権勢が凋落し戦国動乱が全国に
広まると、奥州から関東にまでその名を轟かせた石橋氏も徐々に衰退し、16世紀中頃には塩松周辺を維持するのみとなる。遂に
1550年(天文19年)、塩松石橋式部大輔尚義(久義とも)は家臣団の離反に遭い、大内備前守定頼に下剋上されてしまう。以後、
塩松地方は大内氏の支配下に入り、小手森城も大内氏の支城となった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
政宗の「撫で斬り」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
定頼の後は子の勘解由左衛門定綱が家督を継承。さりとて、下剋上を果たしたと言えども大内氏も一地方豪族に過ぎず、定綱は
周辺の大勢力である田村・蘆名・伊達といった大名の下を渡り歩く事に終始した。丁度その頃、伊達家では16代・左京大夫輝宗が
隠居し嫡男の藤次郎政宗が弱冠17歳の若さで家督を継承、17代目当主となる。定綱は政宗の代替わりに際し挨拶を述べ、以後
伊達家への奉公を申出る。これに気を良くした政宗は直ちに自身の本拠である米沢城(山形県米沢市)への移住を命じたものの
定綱は家族を呼ぶ為に一旦居城へ戻る事を要望した。それならばと政宗は帰城を許可するも、それ以来定綱は音信不通となる。
業を煮やした政宗が督促すると「やはり伊達には臣従できぬ」との返答。若造の政宗を試したのか、はたまた心変わりか、或いは
他家からの圧力で掌を返したのか、いずれにせよ面目を潰された政宗は大激怒し1585年(天正13年)8月に伊達軍は大内領へと
怒涛の侵攻を開始した。この時、手始めに攻撃を受けたのがこの小手森城である。定綱の甥である城主・菊池顕綱(あきつな)や
荒井半内・石川勘解由・小野主水・小形源五兵衛らの士卒、それに逃れてきた周辺農民らを収容していた(とされる)小手森城へ
23日、伊達軍の攻撃が始まった。この日は大内方の後詰め(援軍)もあり、伊達軍の攻撃と城方の防戦は痛み分けに終わったが
数日の睨み合いの後、27日に総攻撃を決行。結果、伊達軍は城内に居た者を老若男女構わず、それどころか犬や馬・牛などの
家畜まで生きとし生ける者すべてを斬殺するに至る。これが有名な撫で斬り(皆殺し)で、政宗は凄惨な殺戮を厭わぬ決意を見せ
付けて、定綱やそれに味方する勢力に対し戦意を挫く事を狙ったのだ。さながら、天下人・織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちし
敵対勢力を容赦なく一掃する態度を見せた如くでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
政宗は家臣の後藤孫兵衛信康に対して敵200を討ち取ったと書状に記しているものの、伯父・最上右京大夫義光(よしあき)には
500、学問の師匠である虎哉宗乙(こさいそういつ)和尚には800と報じており、実際に討ち取った人数ははっきりしない。ともあれ
小手森城の虐殺に恐慌を来たした定綱は領地を捨て逃亡、これにより事態は伊達家と二本松家への戦いへ移っていくのである。
(詳細は二本松城の項を参照)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
再落城、そして廃城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
落城後、政宗は小手森城主に石川弾正光昌(みつまさ)を任じて守らせた。光昌は塩松石橋氏の元家臣、当時は政宗の舅・田村
大膳大夫清顕(きよあき)に従っていた武将だ。ところが翌年に清顕が没すると、政宗は光昌を陪臣(家臣の家臣)として扱うように
なる。これに不満を抱いた光昌は、1588年(天正16年)伊達家と敵対していた相馬長門守義胤(よしたね)の調略に乗り、政宗から
離反。そのため政宗は同年閏5月12日から再度の小手森城攻撃を行い、約500を討ち取り16日に落城させた。光昌は城から逃げ
義胤の下に匿われたとの事だが、再落城に伴い小手森城は廃城となっている。なお、この時の城攻めには大内定綱が伊達家に
従い攻撃軍に加わっている。当時、蘆名家に寄宿していた定綱はまたも天秤にかけ、光昌の謀反に乗じて伊達家へと売り込みを
図ったのだった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在、愛宕神社が鎮座する山頂は標高464.0m。北東尾根を除きほぼ円錐状の形状をした山で、山中は鬱蒼とした森に包まれて
いる。この山の麓は標高360m前後となっており、比高差は約100m。山の南側を東西に走る道路があり、その路肩、山頂から見て
南西方向に愛宕神社の一ノ鳥居が置かれていて、そこが山への登り口だ。車もその辺りに数台停められる。鳥居から参道が伸び
それをひたすら進めば山頂に至る。途中、山腹を廻る細い道と交差するので「ここまで車で来れば良かった」と思わされるのだが、
そこには駐車余地が無く、近隣住民の方の御迷惑にもなるのであくまでも駐車は山麓に。藪道らしき部分もある上に、山頂までの
階段は猛烈な急勾配を直登するので登山にはなかなか難儀する事になろう。しかも登っても明瞭な遺構がある訳でも無く…(悲)
政宗の経歴を辿るに欠かせない城、という事のみを心の支えに攻略するしかない山城でござるな(苦笑)■■■■■■■■
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