岩代国 小手森城

小手森城跡 愛宕神社

 所在地:福島県二本松市針道字愛宕森
 (旧 福島県安達郡東和町針道字愛宕森)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★☆■■■
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「村の小城」だが…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「おでもり」城と紹介する城郭頁が多いようだが、現地の案内板には「おてのもり」城と振り仮名が振られている。■■■■■■■■
全国的には殆んど無名の城だが、独眼竜・伊達政宗の事績の中における「800人撫で斬りの城」として非常に名が知られた城だ。
二本松市役所東和支所(旧東和町役場)から南南東へ約650m程の位置にある独立丘陵が城址。山頂に愛宕神社があり(写真)
その一帯が主郭。周囲は急峻な斜面で切り立っており、天然の要害となっていた。部分的には土塁や石垣の残欠と思しき遺構が
うっすらと見て取れる。ただ、基本的にはそれだけの城跡で、規模も然程大きくは無い。この山は北東方向へと尾根が伸びており
その部分が二郭、或いは大手道だったと推測する向きもあるが、これも定かではない。ともあれ、この規模や構造で山中に800が
籠っていたとは考えられず、もし本当だとしたら城中だけでなく周囲に野営していた人員も含めての数であろうが、そもそも政宗が
書状に記した「800人」と言う数字がかなり誇張されたものだと考えるのが自然でござろう。■■■■■■■■■■■■■■■
築城年代は不明。築城主を石橋氏とする説があるも、これも良く分からない。石橋氏は足利将軍家の縁戚である斯波氏の分流。
平安時代の武人・源頼義(八幡太郎義家の父)以来の権威ある官職「陸奥守」を称する程に権勢を誇り、室町幕府の草創期から
奥州に根付いている。安達郡における阿武隈川東岸部を塩松地方と呼ぶが、この塩松で国人化した為“塩松石橋氏”とも呼ばれ
京の幕府や、東国出先機関である鎌倉府の動向にも関わる有力豪族だった。ところが、幕府の権勢が凋落し戦国動乱が全国に
広まると、奥州から関東にまでその名を轟かせた石橋氏も徐々に衰退し、16世紀中頃には塩松周辺を維持するのみとなる。遂に
1550年(天文19年)、塩松石橋式部大輔尚義(久義とも)は家臣団の離反に遭い、大内備前守定頼に下剋上されてしまう。以後、
塩松地方は大内氏の支配下に入り、小手森城も大内氏の支城となった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

政宗の「撫で斬り」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
定頼の後は子の勘解由左衛門定綱が家督を継承。さりとて、下剋上を果たしたと言えども大内氏も一地方豪族に過ぎず、定綱は
周辺の大勢力である田村・蘆名・伊達といった大名の下を渡り歩く事に終始した。丁度その頃、伊達家では16代・左京大夫輝宗が
隠居し嫡男の藤次郎政宗が弱冠17歳の若さで家督を継承、17代目当主となる。定綱は政宗の代替わりに際し挨拶を述べ、以後
伊達家への奉公を申出る。これに気を良くした政宗は直ちに自身の本拠である米沢城(山形県米沢市)への移住を命じたものの
定綱は家族を呼ぶ為に一旦居城へ戻る事を要望した。それならばと政宗は帰城を許可するも、それ以来定綱は音信不通となる。
業を煮やした政宗が督促すると「やはり伊達には臣従できぬ」との返答。若造の政宗を試したのか、はたまた心変わりか、或いは
他家からの圧力で掌を返したのか、いずれにせよ面目を潰された政宗は大激怒し1585年(天正13年)8月に伊達軍は大内領へと
怒涛の侵攻を開始した。この時、手始めに攻撃を受けたのがこの小手森城である。定綱の甥である城主・菊池顕綱(あきつな)や
荒井半内・石川勘解由・小野主水・小形源五兵衛らの士卒、それに逃れてきた周辺農民らを収容していた(とされる)小手森城へ
23日、伊達軍の攻撃が始まった。この日は大内方の後詰め(援軍)もあり、伊達軍の攻撃と城方の防戦は痛み分けに終わったが
数日の睨み合いの後、27日に総攻撃を決行。結果、伊達軍は城内に居た者を老若男女構わず、それどころか犬や馬・牛などの
家畜まで生きとし生ける者すべてを斬殺するに至る。これが有名な撫で斬り(皆殺し)で、政宗は凄惨な殺戮を厭わぬ決意を見せ
付けて、定綱やそれに味方する勢力に対し戦意を挫く事を狙ったのだ。さながら、天下人・織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちし
敵対勢力を容赦なく一掃する態度を見せた如くでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
政宗は家臣の後藤孫兵衛信康に対して敵200を討ち取ったと書状に記しているものの、伯父・最上右京大夫義光(よしあき)には
500、学問の師匠である虎哉宗乙(こさいそういつ)和尚には800と報じており、実際に討ち取った人数ははっきりしない。ともあれ
小手森城の虐殺に恐慌を来たした定綱は領地を捨て逃亡、これにより事態は伊達家と二本松家への戦いへ移っていくのである。
(詳細は二本松城の項を参照)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

再落城、そして廃城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
落城後、政宗は小手森城主に石川弾正光昌(みつまさ)を任じて守らせた。光昌は塩松石橋氏の元家臣、当時は政宗の舅・田村
大膳大夫清顕(きよあき)に従っていた武将だ。ところが翌年に清顕が没すると、政宗は光昌を陪臣(家臣の家臣)として扱うように
なる。これに不満を抱いた光昌は、1588年(天正16年)伊達家と敵対していた相馬長門守義胤(よしたね)の調略に乗り、政宗から
離反。そのため政宗は同年閏5月12日から再度の小手森城攻撃を行い、約500を討ち取り16日に落城させた。光昌は城から逃げ
義胤の下に匿われたとの事だが、再落城に伴い小手森城は廃城となっている。なお、この時の城攻めには大内定綱が伊達家に
従い攻撃軍に加わっている。当時、蘆名家に寄宿していた定綱はまたも天秤にかけ、光昌の謀反に乗じて伊達家へと売り込みを
図ったのだった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在、愛宕神社が鎮座する山頂は標高464.0m。北東尾根を除きほぼ円錐状の形状をした山で、山中は鬱蒼とした森に包まれて
いる。この山の麓は標高360m前後となっており、比高差は約100m。山の南側を東西に走る道路があり、その路肩、山頂から見て
南西方向に愛宕神社の一ノ鳥居が置かれていて、そこが山への登り口だ。車もその辺りに数台停められる。鳥居から参道が伸び
それをひたすら進めば山頂に至る。途中、山腹を廻る細い道と交差するので「ここまで車で来れば良かった」と思わされるのだが、
そこには駐車余地が無く、近隣住民の方の御迷惑にもなるのであくまでも駐車は山麓に。藪道らしき部分もある上に、山頂までの
階段は猛烈な急勾配を直登するので登山にはなかなか難儀する事になろう。しかも登っても明瞭な遺構がある訳でも無く…(悲)
政宗の経歴を辿るに欠かせない城、という事のみを心の支えに攻略するしかない山城でござるな(苦笑)■■■■■■■■



現存する遺構

土塁・郭群








岩代国 小浜城

陸奥小浜城跡石碑

 所在地:福島県二本松市小浜下館・小浜新町
 (旧 福島県安達郡岩代町小浜下館・小浜新町)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★☆■■
★☆■■■



「小浜」の大内氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
小浜(おばま)城と言えば福井県小浜市、若狭国の小浜城が有名だが、こちらは陸奥国(岩代国)の小浜城。と言っても若狭国の
小浜と無関係という訳では無い。この城の主は上記の小手森城で登場した大内氏なのだが、その大内氏は先祖を遡ると若狭国
小浜に在住しており、室町時代に大内晴継が塩松へ居を移し石橋氏家臣になったと言うのだ(諸説あり)。他にも、周防国の名門
守護大名・大内氏の傍流とする説などもあるが、この説では文明年間(1469年〜1487年)に晴継の子・備前守宗政が築城、その
地形が故郷の若狭小浜に似ていた事から小浜城の名を付けたとされている。なお、城を築いたのは1471年(文明3年)の事とする
説、或いは南北朝時代に既に築かれていたとする説などもござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
若狭出身の大内氏系譜とする説(福島県史)に拠れば、宗政の後は武政―備前守顕祐―備前守義綱(定頼)と続くが、この間に
地歩を固め、大内家は塩松石橋氏の家宰にまで取り立てられた。若しくは、大内氏の出自を石橋氏の分流とする説もあるので、
それならば石橋譜代家臣、家宰としての地位は当然と言う事になろう。家内を取り仕切る立場になった大内氏であるが、戦国の
世にあって野心を持てばそれで満足するものでもない。定頼は1550年、家中の諸将と謀って主君・石橋尚義を幽閉し実権を掌握
した事は上に記した通りだ。更に1568年(永禄11年)尚義を追放、1569年(永禄12年)3月には共に石橋家中での実力者であった
大河内備中を讒訴のうえ殺害した。石橋氏を追い落としたとは言えども大内氏はまだ独力で実効支配を行える程の力は無く、旧
石橋家中の同輩と競合・懐柔しつつの“暗中模索”という下剋上だった訳だ。その結果が蘆名や田村などの大大名を頼る政策で、
逆に言えば“裏切りを繰り返す”事となり、それは定綱の代に田村清顕からの攻撃を、更に伊達政宗の侵攻を呼び込む事となる。
それまで服従していた田村氏からの独立を画策した事で、1583年(天正11年)〜1584年(天正12年)にかけて塩松領へ田村軍が
度々攻略を行い、この折に小浜城も攻撃を受けるが定綱は何とか防ぎきる。しかし1585年に政宗は小手森城へ撫で斬りを行い、
恐怖した定綱は小浜城を自焼させ二本松城へ逃亡するのだった。政宗はこの城を兵を損なわずに入手し、二本松城攻略の前線
基地として1年ほど逗留している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
伊達家の城となった小浜城に政宗は城代として重臣の白石若狭守宗実(しろいしむねざね)を入れた。1588年3月に大内定綱は
伊達家へ再服従したが小浜城は返還されていない。政宗にとっては「父を失う契機を作った仇」である定綱に旧領を安堵する程
寛容にはなれなかったのだろうが、その反面、田村家との戦いに勝利した程の戦上手である定綱を配下にした益は大きく、後の
蘆名家との戦いや朝鮮出兵などで定綱は縦横無尽の活躍を為し、仙台藩成立後に大内家は御一家の家格を与えられている。

戦国の終焉、小浜城の終焉■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
されど1590年(天正18年)豊臣秀吉の天下統一により政宗はこの地域の所領を没収され、代わって会津に入部した蒲生飛騨守
氏郷(がもううじさと)が当地を治める事になった。氏郷は家臣の蒲生忠右衛門に2万5千石を与えて小浜城代としており、この時
小浜城では石垣が用いられる城郭へと改修される事となる。だが、蒲生氏の支配時期は長く続かずに1598年(慶長3年)会津は
上杉近衛中将景勝のものとなり、小浜城には景勝の家臣・山蒲源吾と市川左衛門がそれぞれ6000石を与えられ在城とされた。
ところが上杉景勝は関ヶ原合戦で西軍に与し敗者となり、徳川幕府から会津を召し上げられる事になる。1601年(慶長6年)再び
蒲生家(代替わりし、氏郷の子・飛騨守秀行が当主)が会津を領有、それに伴い蒲生家臣・玉井数馬助貞右(たまいさだすけ)が
この城の城代を命じられた。再蒲生時代は家中の争乱が多く頻繁に人事異動が行われた為、貞右がいつまで小浜城代の職に
あったかは分からないが、後に外池信濃守良重(とのいけよししげ)が小浜城に入ったとされている。1626年(寛永3年)外池から
本山河内に城代が交替、外池は二本松城を預かる事に。しかし翌1627年(寛永4年)蒲生家は無嗣断絶で改易。会津には伊予国
松山(愛媛県松山市)から加藤家が移封されるが、以後の小浜においては「旧城」という表現が地籍上で使われるようになる為、
蒲生家改易時に小浜城は廃されたと考えられており申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
二本松市役所岩代支所(旧岩代町役場)の北東330mにある山が小浜城址。支所の北側に、山を登る曲がりくねった道が延びて
おり、それを進めば下舘児童公園(本丸跡)へと至る。その道すがらに公園駐車場がある他、公園の脇(東郭との間、堀切跡)に
数台停める事も可能なので乗用車での来訪も簡単だ。西・北東・南東の3方向に広がる「Yの字」を横倒しにしたような敷地を有す
本丸は、東半分が上段、西半分が下段となる高低差がある。内部には御殿や櫓などの建築物があった痕跡を確認している上に
外周の一部が石垣となっており、非常に綺麗な整備が行われている。東・北・西のそれぞれに曲輪が連結して、その間は切岸や
堀切で隔絶するよう作られ、更にそれらの曲輪もその先にある曲輪が連なる縄張で、一説には実に18もの曲輪があるのだとか。
山のほぼ全域が城として啓開され、その領域は東西約400m×南北およそ350m、山頂の標高が297.7mなので麓との比高差50m
程になる。決して巨大な山城という訳では無く、村の小城としては適切な大きさだろうが、地形の険阻さで言うならば上記にある
小手森城の方が上か?だとすれば、彼の城が城が撫で斬りで全滅したと聞けば、この城を頼るより逃げるのが賢明だろう。石垣
造りとなったのは蒲生時代、つまり近世城郭としての構造物なので「戦いの城」と言うよりも「統治城郭」としての存在意義の方が
大きかったのかもしれない。1981年(昭和56年)3月、本丸跡で行われた発掘調査では伊達政宗在城時代の御殿址も検出。この
建物は桁行18.5m×梁行9.2m、南北に庇を有し、西側には正方形の附属建物が連結するものだが、それがあるのは本丸の西側
つまり下段側と、通常は城主の御殿とあれば上段側に置く定例に反するもので興味深い(上段側には物見櫓跡を検出)。2019年
(令和元年)には出丸での堀切を調査・整備も行われ、小浜城では少しずつ歴史遺産としての認知が上がっているようだ。同年の
2月18日には小浜城〜宮森(みやもり)城(下記)間の狼煙伝達を再現し、それを二本松城でも確認するイベントが行われている。
通称は下館(しもだて)。宮森城が上館(かみだて)と呼ばれるのに相対するものだが、距離感も含めて両城が2つで1つの機能を
有していたとする事の現れなのかもしれない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・石垣・土塁・郭群等








岩代国 宮森城

宮森城主郭跡 矢取八幡神社

 所在地:福島県二本松市小浜本町・小浜古明神・小浜字殿原
 (旧 福島県安達郡岩代町小浜本町・小浜古明神・小浜字殿原)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★☆■■■
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「下館」小浜城と「上館」宮森城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
上記の通り、小浜城が下館とされるのに対し上館あるいは上館城と称される城。但し、小浜城と宮森城が連動するようになるのは
大内氏・伊達氏の統治するごく僅かな期間のみなので、必ずしも一体化した城だとは言えない。そして何より、伊達輝宗が不遇の
死を遂げる「粟ノ巣の変」の舞台となった城としてあまりにも有名な現場である。宮森は宮守の字を充てる事も。■■■■■■■
場所は小浜城跡から南南西へ約1.9km、福島県道40号線と同118号線が合流・分岐する付近にある小山。現在、この山には矢取
八幡神社(写真)が建ち、山の南東側入口には模擬城門があって城の所在地を明示してくれている。この城門さえ見付けられれば
あとは道なりに登るだけなので、登城は簡単だろう。車も城門付近に数台なら停められる。神社のある山頂部一帯が削平された
主郭、そこから中腹を同様に削平して二郭、更に下段に同様の三郭が作られた典型的な梯郭式の縄張だが、後世の農地開拓に
よる改変もあるので、どこまでが当時の遺構かは判然としない。ただ、主郭内には礎石や庭石に使われたであろう巨石がいくつか
転がっているので、それなりに格式のある城として用いられていた事は想像できよう。山頂の標高は288m、山麓を流れる小浜川
(これが天然の濠となっている)河畔は230mなので比高差50m以上と言う事になるが、川のある西面に対して登城路がある東側は
傾斜が緩いので、然程の堅城だとは思えない。なお、小浜川の上流にあるのがこの城、下流域にあるのが小浜城なので、上館と
下館と言う通称の語源となっているそうな。南にある宮森城と北の小浜城で宮守村(当時の表記)を挟み込んでいる関係にある。

「宮杜(宮森)」の由緒■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城の創始は1396年(応永3年)、時の奥州管領(室町幕府初期に設置された東北地方の統治役職)だった宇都宮氏広(うじひろ)が
築いたものとされ、城内に宇都宮氏の氏神である宇都宮明神を祀ったとある。言うまでも無く宇都宮氏と言うのは下野国、現在の
栃木県に根を張る坂東の名族・宇都宮氏の事であり、氏広なる者は宇都宮宗家10代当主・下野守氏綱(うじつな)の2男である。
宇都宮明神と言うのも、下野国の一宮として名高い二荒山(ふたあらやま)神社の別称だ。氏広が築いた当時の城の名は四本松
(しほのまつ=塩松)城で、創建当初は幕府出先機関として、そして名門武将の居城として、塩松地方の府となる城が構想されて
いた様子が窺えよう。なお「四本松」の名を冠する城は他にもいくつかあるのみならず、小浜城でもそう呼ばれる事があったので、
つまり塩松地方の政治的中心となった城が時代毎に当て嵌められていたのだろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
だが1400年(応永7年)8月に氏広は鎌倉府(室町幕府による東国統治機構)との対立で戦死。塩松地方は小手森城の項で記した
塩松石橋氏が掌握する事になり、四本松城(宮森城)は一時的に廃絶したと見られている。旧城地に残ったのは城内鎮守であった
宇都宮明神だけになったようだ。“宮”森と言う城名や所在地の字(あざ)名にある“古明神”と言う地名などは、こうした由緒が引き
継がれたものではなかろうか。或いは“森”の字も“杜”つまり“社”を指している可能性もある。■■■■■■■■■■■■■
1471年、塩松石橋氏の重臣・大河内修理が宇都宮明神を別の山へ遷座させ、旧四本松城を復興する。この時、城名が宮森城と
された。小浜城に大内宗政が入ったのとほぼ同時期である為、塩松石橋氏が宮守村の南と北にそれぞれ重臣を配したという事
なのだろう。以来、宮森城は大河内氏の城として用いられたが、大内氏が戦国動乱に乗じて下剋上を行って主君・石橋氏を追い
落とし、1569年3月には大河内氏も滅ぼされたと言うのは上記した如くだ。大内定頼は石川弾正有信(光昌の父)や寺坂信濃らと
連合し宮森城を攻め落としたが、その落城譚に関連する史跡が宮森城の周辺にいくつか点在している。斯くて宮森城は大内氏の
手に落ちた。宮守村の南北が同じ城主で固まった事によって「上館」「下館」と呼ばれるようになり、一説には宮森城に大内定綱が
入り小浜城には子の太郎左衛門が残ったとも。然る後、大内定綱は伊達政宗の侵攻を受ける事となり1585年に国を捨てて逃亡。
小浜城と同じく、この宮森城も伊達家のものとなったのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

伊達輝宗の“遠征”城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
二本松城へ逃げた大内定綱を追うべく伊達政宗は小浜城を本陣に構えたが、同様に宮森城へは彼の父・輝宗が入城している。
輝宗は既に「隠居」の身とされ、現代人の感覚からすればそれは「第一線から退いた」という意味に取られがちであるが、隠居の
輝宗と新当主の政宗が上館と下館に入り、その距離は僅かに2km弱、しかも伊達家の本拠地である米沢城からは遥かに離れた
場所へとやって来ているのだから、むしろ輝宗は“政宗と共に二本松城攻略の遠征をしに来た”と考えるべきだろう。よく宮森城は
「輝宗の隠居城」と記されるのだが「隠居する為の城」ではなく「隠居が新当主の後詰めとして敵地を睨んだ城」なのだ。そもそも、
隠居したからと言って即引退ではなく新当主への緩やかな権力移譲を行うのが当時の通例で、輝宗は政宗の傍で適切な指導や
助言を行うつもりでいたのだろう。他家の例を見ても、小田原征伐時の後北条家も実権を握っていたのは隠居の4代目・左京大夫
氏政だし、天下人・織田信長も実は長篠合戦後の時点で家督を長男の秋田城介信忠に譲っており、輝宗もまだまだ現役として働く
状況にあった筈だ。故に政宗と輝宗の城、つまり小浜城と宮森城は2つで1つの城として機能する事となり、「上館・下館」の名称に
相応しい連携を行う環境に至ったと考えられよう。そして政宗は二本松城主・二本松右京大夫義継に対し苛烈な領土割譲要求を
出し、義継は輝宗に条件緩和の交渉を頼むという「硬の小浜城・軟の宮森城」という補完関係が生じる事となる。■■■■■■■
されども、血気盛んな政宗は条件緩和を認めず一方的な服従を要求するのみであった。追い詰められた義継は1585年10月8日、
輝宗への御礼言上と称して宮森城を訪れ、輝宗との会談を持った。その席上、矢庭に懐刀を輝宗へ突き付けて人質とし、義継は
二本松城へ輝宗を拉致しようとしたのである。人質を取られている以上、手が出せない伊達家臣。急報を耳にして、政宗も駆け
付けるが事態は膠着するのみであった。そうこうしているうちに一行は阿武隈川の近くまでやって来る。川を渡れば二本松領だ。
このまま二本松城まで輝宗を連れ去られては完全に手が出せなくなる政宗に対して、輝宗は自分ごと義継を討つように命じた。
苦悶の末、政宗は二本松勢への銃撃を下知し、義継と輝宗は果てる事になる。これが粟ノ巣の変と呼ばれる事件だ。■■■■■■

事変後の宮森城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
事変後、父を失った政宗は独力で二本松城を攻略、更に他の大名とも血みどろの抗争を繰り広げつつ所領を拡大した。小浜城に
入れた城代の白石宗実が宮森城も預かったとされるが、城番として桜田玄蕃元親(さくらだもとちか)が入ったとの説もある。この
桜田家は室町体制下で伊達家が奥羽での地盤を固める中、現地で取り立てられた譜代家臣の家柄である。特に元親は政宗が
行った各地での戦に悉く参戦、武功を挙げた“歴戦の叩き上げ”と言える武将であり、後に宇和島伊達家が成立する際に政宗が
藩政を託すようになった“信の置ける”人物だった。ともあれ、伊達家統治の末期は小浜城の支城として宮森城は存続した。
1590年、豊臣秀吉の奥州仕置で政宗は塩松地方を失い、代わって蒲生家、更に上杉家、そして再び蒲生家がこの地域を領有。
再蒲生時代に宮森城は玉井貞右が城代として入ったものの、貞右は1601年〜1602年(慶長7年)頃に宮森城を廃して、城下町を
小浜城下へ移転させ一極集中を図った。これが宮森城の終焉で、以後の城跡は山林化・耕地化していった。現在も、小浜城の
近辺は岩代支所はじめ住宅密集地となり往時の城下町・宿場町の形状を色濃く残しているのに対し、宮森城付近は閑散とした
山野が広がるのは、この集住施策の結果である。古地図と対査すると、当時の街並みと現在の市街地が見事に一致しており、
400年を経ても“宮守村”の姿が変わっていない事に驚かされる程でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
撫で斬りの小手森城、政宗が最前線として陣取った小浜城、輝宗が拉致された宮森城、その付近には粟ノ巣古戦場があり、更に
阿武隈川の向こうに二本松城。この頁に記した3城は決して大きい城でもなく傑出した構造でもないのだが、指呼の間にこれだけ
歴史的現場が並び、その距離感を体感すれば大内家・二本松家・伊達家の“異常な緊張感”を肌に感じられる筈だ。その一方で
小浜城址にも宮森城址にも石碑に記されているのは「宮森家祖大内氏城趾」の文字。旧岩代町にとって、地域の英雄は大内氏で
あって伊達家は“侵略者”という事なのであろうか…地元ならではの史観というのも、在って然るべきという話なのだろう。■■■■



現存する遺構

井戸跡・石垣・土塁・郭群等




二本松城  本宮城・郡山市内諸城郭