本当に霞む城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
二本松市街地の北辺「白旗が峰」と呼ばれる標高345mの小丘陵に築かれた平山城。山頂に本丸、南側山腹に二ノ丸、その南麓一帯が三ノ丸と
大規模に要塞化した名城だ。山の名から「白旗城」の別称が。また、地形に伴う気象条件のため城全体が霧に霞み見えなくなってしまう事もあり
「霞ヶ城」の雅称もある。その様子は写真の通りでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
近世城郭として存続し、特に戊辰戦争での攻防戦が著名な二本松城であるが、その創始を辿ると室町時代中期にまで遡る。その城主は二本松
畠山氏。畠山氏は元々足利将軍家に連なる家系で、室町幕府の成立と共に畠山中務大輔国氏(くにうじ)が奥州管領(東北地方の統括役職)に
任じられ、その孫に当たる修理大夫満泰(みつやす)が1414年(応永21年)或いは嘉吉年間(1441年〜1443年)に築城したとされる。室町幕府の
重鎮であった畠山氏はいくつかの家系に分岐した中、この二本松に入った畠山氏は二本松畠山氏と称されて、単に二本松氏と呼ばれるようにも
なる。満泰以降、治部少輔持重(もちしげ)―修理大夫政国(まさくに)―右馬頭村国(むらくに)―右馬頭家泰(いえやす)―信濃守義氏(よしうじ)
修理大夫義国(よしくに)と代を繋げたが(代数・人名には異説あり)将軍家縁戚という権威は戦国争乱の中で失墜し、次第に勢力や所領を減衰
させていた。しかし一方で周辺諸勢力も抗争に明け暮れ、その中で同盟・婚姻政策を用いて互いに生き残りを図っていた訳だが、二本松義国は
近隣で対決していた伊達家と相馬家の勢力争いの中、両家の和議を取り持ち伊達左京大夫輝宗(てるむね)に“貸し”を作っていた。■■■
そんな経緯を経て、二本松家は右京大夫義継(よしつぐ)が家督を継ぎ、伊達家では輝宗が隠居し藤次郎政宗が登場する。一方、義継と縁戚の
小浜城(二本松市内)主・大内太郎左衛門定綱は所領を保つために田村・蘆名・伊達など近隣大勢力に対して次々と鞍替えを繰り返し、政宗にも
一旦は服従を申し出るもすぐに翻して離反する“二枚舌外交”を行った。面目を潰された政宗は激怒し、家督相続直後ながら1585年(天正13年)
閏8月、大内領への侵攻に踏み切った。大内家の城であった小出森(おてのもり)城(こちらも二本松市内)を同月23日に攻撃、27日に落城させ、
その時に城内に居た者を老若男女問わず全て斬殺する“撫で斬り”を行った。非戦闘員も含めお構いなしに虐殺する強硬な態度は政宗の怒りを
表し、それまで複雑な同盟・血縁関係で守られていた奥羽のしがらみを断ち切る決意表明であった。政宗の“本気度”に恐怖した定綱は逃亡し、
二本松城へと逃げ込む。当然、政宗は追撃を命じてこの城も攻撃目標とされたのである。これに対し義継は伊達家への降伏を申し出るが、血気
盛んな政宗は応じようとせず、窮した義継は隠居の輝宗に事態の取り成しを依頼する。借りを作っていた輝宗は何とか政宗をなだめようと周旋、
政宗は二本松家に5ヶ村だけ残し後は所領を召し上げるならば、と言う無理な和睦案を飲ませようとした。たった5ヶ村しか残らぬならば、もはや
二本松家は滅亡したも同然である。義継は何とか条件の緩和を頼むが、輝宗としてもこれ以上の譲歩は不可能であった。斯くして、無謀な和睦
条件を飲まされた義継は、それでも御礼言上と称して輝宗の居所・宮森城(二本松市内)を来訪したのだが、会談を終えて退席する際に逆上し、
輝宗を拉致して二本松城へ逃げ込もうと言う決起に及んだのである。抗う輝宗を引きずり、宮森から二本松へ逃亡する義継に対し、急報を聞き
追い付いた政宗は、止むを得ず父もろとも義継を銃撃するのだった。結果、義継も輝宗もその場で果て、政宗は義継の遺体を磔刑に処すという
報復を行った。この話には創作も含まれると言うが、概ねそうした経過を辿り、伊達父子を襲った「粟ノ巣の変」として有名でござる。■■■■
他方、義継を無残に殺害された二本松城では政宗への徹底抗戦を決意、義継の遺児・国王丸を新たな当主に立て籠城戦を覚悟する。伊達軍は
城への攻撃を行うが決意固い二本松勢は防戦に徹し、若き当主に代わり一門衆の新城弾正盛継(あらきもりつぐ)が巧みな指揮を執って戦況を
膠着状態に持ち込んだ。そのうちに冬が訪れ、雪に阻まれた伊達勢は撤退に追い込まれる。この時、二本松勢の救援に佐竹氏など奥州周辺の
諸勢力が反政宗の大連合を結成し攻撃を行う人取橋の戦いも惹起し、二本松城は辛くも救われたのであった。■■■■■■■■■■■■
次々と変わる城主■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし翌1586年(天正14年)伊達軍は再び二本松城を攻撃、遂に二本松氏も力尽きて開城に至る。7月16日に国王丸は退去するが、その折には
陸奥浜通りの強豪・相馬長門守義胤(よしたね)の周旋により会津の蘆名家へ落ち延びる事が認められ、命を取られる事は無かった。尤も、後年
蘆名家と伊達家の戦いによって国王丸あらため九郎義綱(よしつな)は落命するのだが、ともあれ伊達家のものとなった二本松城には城代として
政宗重臣の片倉小十郎景綱(かげつな)、次いで一門衆の伊達藤五郎成実(しげざね)が入っている。だが1590年(天正18年)8月、豊臣秀吉から
国替えの命を受け伊達家の所領は北に移された為、二本松城は会津の蒲生飛騨守氏郷(がもううじさと)が預かる事となった。氏郷は城主として
家老の蒲生源左衛門尉郷成(さとなり)を4万石で入れ、城代としては家臣の町野左近将監繁仍(まちのしげより)・玄蕃頭幸和(ゆきかず)父子が
石高3万8000石で配されている。ところがその蒲生家も1598年(慶長3年)3月、秀吉の命で下野国宇都宮(栃木県宇都宮市)へ減転封された事で
代わって会津の太守となった会津中納言上杉景勝が二本松城を領した。下条采女正忠親(げじょうただちか)や秋山伊賀守定綱らが城代に任じ
られたが、その上杉家も関ヶ原合戦にて西軍に与したために1601年(慶長6年)8月16日、会津の封を失った。翌9月、蒲生家が会津に再封される
事が決定、蒲生家臣・梅原弥左衛門が東城(松森館(まつもりだて))の、門屋(かどや)助右衛門が西城(新城館(しんじょうだて))の城代となる。
(城域については下記) 以後は蒲生家の城代が次々任じられ、東城は本山豊前守安政・河内守安行(安政の弟)、安行没後は外池信濃守良重
(とのいけよししげ)が、西城では門屋但馬守が継承しており申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが蒲生家は当主の下野守忠郷(たださと)が1627年(寛永4年)1月4日、後嗣の無いまま死去。御家断絶の危機を迎えたが特段の計らいで
弟の中務大輔忠知(ただとも)に家督継承が許されるも、会津60万石は召上げとなった。その結果、二本松城は一時的に幕府の番城となり酒井
右近太夫や太田原備前守晴清が在番となっている。翌2月、空白となった旧蒲生領には伊予国松山(愛媛県松山市)20万石を領有していた加藤
左馬助嘉明が43万5500石に大幅加増されて入封、二本松城にはその与力大名・松下右兵衛尉重綱が5万石で入城する。重綱は嘉明の娘婿に
当たり、それまで独立大名として下野国烏山(栃木県那須烏山市)2万800石の主だったのを加藤家の与力に組み込まれる形で加増転封された
訳だ。直後の同年10月2日に重綱は没し、その地位は長男の石見守長綱が継承。しかし若年であったので、1628年(寛永5年)1月に陸奥国三春
(福島県田村郡三春町)3万石へと移された。5月、嘉明の3男・民部大輔明利(あきとし)が二本松城主になる。一方、1631年(寛永8年)9月12日に
嘉明が没すると会津は長男の式部少輔明成(あきなり、明利の兄)が継ぐものの、明成は領国統治に失敗した上、家老との対立で御家騒動を
引き起こす。明利は1641年(寛永18年)3月25日に病没し二本松領は加藤家の代官支配に切り替わるが、時を同じくして明成は会津藩主を解任
され、二本松城は再び幕府が預かる事となった。この折に在番となったのは相馬大膳亮義胤。上記した伊達政宗と畠山国王丸の調停を行った
人物とは同姓同名の別人で、その孫に当たる者でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1643年(寛永20年)7月4日、丹羽左京大夫光重(みつしげ)が10万700石で城主に任じられる。前任地は陸奥国白河(福島県白河市)の10万石。
「丹羽」の姓でお分かりかと思うが、光重は織田信長の重臣にして安土城(滋賀県近江八幡市)の構築を取り仕切った丹羽五郎左衛門尉長秀の
孫である。安土築城以来の技術を買われた丹羽家は、徳川幕藩体制の時代にあっても奥州要地での築城を命じられ小峰城(福島県白河市)や
棚倉城(福島県東白川郡棚倉町)を築いたが、二本松への入封においても城の近世城郭化を執り行う事になった。二本松氏の城を蒲生氏郷が
拡張し、加藤家の時代にも山麓部に石垣を構築するなど折々の改修が行われていた二本松城だが、光重は街道の付け替えなど城下町に及ぶ
大改修を施し、城を現在の形に完成させたのである。無論、丹羽家による各地の築城は幕府の意向に沿っての事で、奥州南端で防波堤の如き
城郭を連ねる任を帯びた上での二本松移封であった。以後、明治維新まで丹羽家が二本松城主を継承。光重より後、左京大夫長次(ながつぐ)
―越前守長之(ながゆき)―左京大夫秀延(ひでのぶ)―左京大夫高寛(たかひろ)―若狭守高庸(たかやす)―左京大夫長貴(ながよし)―左京
大夫長祥(ながあきら)―左少将長富(ながとみ)―左京大夫長国(ながくに)の順である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
山城部と山麓部■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
丹羽家によって完成した二本松城の縄張は、山頂に歪んだ四辺形をした本丸を有し、その南側の山腹〜山麓に二ノ丸・三ノ丸ほか曲輪を多数
並べるもの。本丸の北東隅には3重(5重とも)の天守が揚がっていたと言われ、その天守台石垣が構築されている。この山は、山頂を中心として
南西と南東に尾根が伸び、弓なりの稜線を描いており、U字型をした山容を城郭化した“馬蹄型”と称する城になっている。当然、馬蹄の内側の
谷間が三ノ丸敷地になる訳だ。馬蹄型城郭と言うと上杉謙信が旗揚げした事で有名な栃尾城(新潟県長岡市)など、険阻な山城の定番であり、
尾根を長大な塁線として利用する事で戦闘縦深を大きく取れるのが利点であるが、それが戦国期のみならず近世城郭としても整備拡張された
二本松城は、ある意味「馬蹄型城郭の完成形」と言えよう。山麓(谷間)の三ノ丸から攻め上がるであろう敵兵に対し、左右両翼から兵を繰り出し
侵攻を阻止・翻弄するであろう作戦が目に浮かぶ。この両翼を固める曲輪が各尾根の先端部にあり、東の「松森館」と言う曲輪と、西の「新城館」
曲輪で、蒲生時代には各曲輪を預かる形で城代が据えられていたのだろう。麓から見上げれば、三ノ丸(下段と上段に分割)から二ノ丸を経て
焔硝蔵曲輪そして本丸に登る山道を、両側から新城館と松森館が包み込むという鉄壁の防御。三ノ丸入口(写真の撮影地点)は標高230m程、
本丸までは100m以上を登って行く事になる上、城内各所には関門となるような地形・構造物が構えられていたので、攻め登る敵軍はそれなりに
犠牲を強いられる訳だ(何せ中世城郭の段階で伊達政宗の攻撃を跳ね除けているのだから)。本丸の真下(二ノ丸の上)には大石垣が壁となり
その傍らには「日影の井戸」と呼ばれる井戸が。城内各所(山上部も含む)に井戸があり水利に困らない二本松城であるが、この日影の井戸は
千葉県印西市にある「月影の井戸」や神奈川県鎌倉市の「星影の井戸」と並んで“日本の三井”の1つに数えられるのだとか。日影の井戸は深さ
約16m、井戸底から北方へ14mの横穴がくり貫かれ、現在もなお豊富な水量を誇る。他方、大石垣は慶長初期の野面積みで、穴太流の技法で
築かれており、年代や特徴から蒲生時代に作られたと見られている。織豊政権で重鎮とされた蒲生氏の出身は近江国、穴太衆の本場だ。■
反対に、本丸の裏側は大きな谷で隔絶している。この山の奥にはもう1つ、更に高い山が連なるのだが、この谷が分断し北側からの侵攻を阻む。
本丸全周は近世城郭として打込接ぎの石垣で固められているが(加藤期の構築)、本丸の北西下部には2段構えの石垣があり、これは穴太流の
作りとなっているので加藤時代以前から北側の防備も石垣を取り入れていた事が分かる。本丸の外周を廻る道から下へ降りる事が出来、そこを
進むとこの2段石垣を見られるようになっている。現状、本丸は復元整備された精緻な石垣、その下にあるには風格を湛えた古風な穴太流石垣、
その対比がなかなかに面白い。2段石垣の下には「とっくり井戸」これは井戸の穴口より井戸底の方が大きく、まさしく「とっくり」の如き空間が中に
広がっているからなんだとか。なお、本丸から新城館へ下る道すがら、脇へ逸れると搦手口への脱出路となっている。搦手門は発掘調査の結果
2期の時代区分があり、古くは掘立柱建築の冠木門だったものを新たに礎石造りの高麗門へ変更したと考えられている。掘立柱建築は蒲生時代
以前、それを加藤氏が礎石建築に改めたようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この他、近世御殿が建てられた三ノ丸は排水施設なども完備、そこから上段へ登った所には本坂(もとさか)御殿(姫御殿)と呼称された新御殿も
あったそうで、とにかく広い城域内には見どころが満載、そして随所に石垣の遺構が付随していて見事な大城郭だった様子が窺える。また、城の
大手門(総構え)は二本松城本体から観音丘陵(二本松市街地の中で東西に横たわる丘陵地帯)を越えた更に南に置かれ、城下各所にも仕切
門が構えられており、近世二本松城が広大な地域を取り込んでいた事にも驚かされよう。「馬蹄型」の縄張は、この観音丘陵から二本松城本体
全てを含めての形状を指す意味もあるようだ(東に口を開いたU字型の山塊になる)。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
幕末の激戦とその後■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そんな二本松城を荒廃に陥れたのが幕末維新の大変革だ。徳川15代将軍・慶喜が政権を朝廷に返上、それでも旧幕府を叩き潰そうとする薩摩
長州は、京都守護職として敵対関係にあった会津藩をスケープゴートに選び戦争の途を選ぶ。会津に同情する東北各藩は新政府軍を阻止する
奥羽越列藩同盟を結成して、薩長の軍事侵攻を押し留めようとした。両者の対立は仙道筋(現在の福島県中通り地方)で開戦に及び、棚倉城の
奪取、小峰城の攻防戦、そして二本松城へと広がっていく。奇しくも丹羽家の築いた城が次々と戦場になった訳だが、二本松藩では主力部隊を
白河口へと派遣していたため城の守りは不十分な兵力であった。そうした中で1868年(慶応4年)7月29日に新政府軍の一大攻勢が始まり、藩は
病床の藩主・長国を米沢藩(山形県米沢市)へ逃した上で、老年兵・少年兵まで動員して戦う事になる。鉄砲も満足に扱えない老兵はものの役に
立たなかったが、逆に郷土防衛の責任を負わされた少年兵は最後まで奮戦して、それぞれ壮絶な戦死を遂げる悲劇を迎えた。斯くして二本松は
戦火に飲み込まれて城は落ちた。二本松の戦いに於いて、新政府軍の死者は僅か17人だったのに対し二本松藩側は337人。ただ、二本松藩の
決死の抵抗を評して新政府軍側の将で後に陸軍元帥となる野津道貫(のづみちつら)は「戊辰戦争中第一の激戦」と激賞している。二本松城が
落ちた事で新政府軍は会津への進出路を開き、会津若松城(福島県会津若松市)籠城戦の大攻防が始まるのでござった。■■■■■■■■■
戊辰戦役後、9月10日に丹羽長国は新政府に降伏謹慎。12月7日に隠居処分となり、家督は養子の長裕(ながひろ)が継ぐ事になったが、この折
所領は10万700石から5万石へと半減された。1869年(明治2年)6月19日、版籍奉還で長裕は二本松知藩事になるも翌1870年(明治3年)藩政を
参事に委託し、事実上丹羽家は城主の役目を終えた。1871年(明治4年)7月14日の廃藩置県で二本松藩領は二本松県になり、後に福島県への
統合が行われる。1873年(明治6年)1月14日に廃城令が出された事もあり、二本松城は廃城。城内に残存した建物は全て破却され、その年には
三ノ丸に二本松製糸会社が入渠、工場を建てて操業を開始している。この会社は1886年(明治19年)に解散し、双松館(そうしょうかん)が事業を
引き継ぐも、これも1925年(大正14年)に閉鎖された。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところで丹羽家5代城主・高寛は文治政治を進めた名君で、藩内子弟の教育のため儒学者の岩井田昨非(いわいださくひ)を招聘している。その
昨非は藩士への心得を説き、1749年(寛延2年)3月に二本松城内の大岩に碑文を刻ませる。曰く「爾俸爾禄 民膏民脂 下民易虐 上天難欺」即ち
「爾らが頂く俸禄は民衆の汗と脂(あぶら)の賜物である。下民は虐げ易くとも上天を欺く事などできぬ」愛民と綱紀粛正を訴える内容だった。幕末
戊辰戦争で二本松藩が玉砕しても幕府への忠節を貫いた如く、侍の義心を育むこの石碑は「戒石銘碑(かいせきめいひ)」と呼ばれており1935年
(昭和10年)12月24日、国の史跡に指定された。以後、二本松の“心の拠り所”であった城址は整備されるようになり、1949年(昭和24年)に霞ヶ城
公園は福島県立の自然公園として保全、1955年(昭和30年)からは秋の恒例行事である菊人形祭りが行われるように。更に1982年(昭和57年)、
写真にある箕輪門と附櫓が復元され(但し、建物の正確な史料はなく想定復興である)、1993年(平成5年)からは2年をかけて山上本丸の石垣が
修繕され、崩れた部分を綺麗に再現していった。並行して1990年代以降、城内各所で発掘調査を行っている。結果の一例として、新城館跡では
数次に亘る掘立柱建物や塀の痕跡を確認、中世以来数度に及んで建物が建て替えられていた様子が確認された他、曲輪の南端では直径約4m
深さ約2mの大穴を検出、そこには人為的に大量の炭化材と焼土が捨てられていた事が判明。恐らく、茅葺・土壁建物が火災に遭い、その残骸を
埋めて処分したものだと考えられている。記録に拠れば二本松国王丸が城を退去の際に城内建築を自焼させ、城を接収した伊達成実がそれを
後始末したとあり、この大穴こそその痕跡だと判断されている。となると、新城館は二本松時代に城主が在住?詰めた?可能性のある主要曲輪
だった事の証明にもなろう。中世城郭から近世城郭へと変貌する来歴の一端がこの穴で物語られている訳である。■■■■■■■■■■
昭和の“幻の天守”?!■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお、太平洋戦争後に発生した新興宗教の三五(あなない)教は一時期、二本松城の山頂主郭部一帯を入手して天守台上に1958年(昭和33年)
天文台を建てている。この天文台は天守を模した建物で木造3階建。三五教は神道系の新興宗教で、宇宙の摂理が教義であり、天文即宗教と
いう考え方から(よく分からんが)全国各地に天文台を建てている。二本松城内にもこのような経緯から天文台が建てられたそうだ。面白いのは
二本松城に天守風の天文台を建てるのは分かるとして、他の各地に建てた天文台も天守風の建物だと言う事だ。どうやら、昭和の高度成長期
全国の城郭で天守再建(一部は模擬もあるが)ブームが盛り上がる中、その流行りに乗った…というだけでなく、三五教は城郭と言う伝統文化を
天文観測と言う科学文化と融合させ、新たな文化的発展を図ろうとする考え方があったようだ。その考え方自体はなかなか良い着眼点だったと
思うのだが、次第に三五教は衰退、資金難などもあって二本松城の天文台は1991年(平成3年)撤去された。上記の本丸部整備事業はこうした
三五教天文台の解体を経て行われたものだが、あまり詳細な記録に残らない天文台の事を記憶している方々も多いようで、二本松城の頂には
「昔は城があった」と仰られる地元の方も。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城跡並びに総構大手門跡は1976年(昭和51年)7月21日に二本松市の史跡になっていたのだが、こうした保全・調査・復元や遺構から確認できる
来歴の証明が評価され、2007年(平成19年)7月26日に国史跡となった。2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災で石垣などで多くの被害を
蒙ったが、現在ではそれも補修され元通りの美麗な姿に戻っている。2006年(平成18年)4月6日には財団法人日本城郭協会から日本百名城の
1つにも選出。三ノ丸から本丸までの山登りが、比高差100mを越えるものでも随所に遺構や名所が現れて楽しめる城郭だ。何より、菊人形展や
二本松少年隊を追慕する像などは全国的な知名度。その少年隊像の後ろに、彼らを送り出した母の慰問像があるのも忘れずに見て頂きたい。
なお二本松市では三ノ丸御殿に関する文献・古文書などの資料を募集中だとか。何か新たな発見があれば、三ノ丸御殿も復活か?その行方を
見守りたいものでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
移築現存する建物は、城内の本宮館(もとみやだて、庭園曲輪)にあった茶室「洗心亭」。これはもともと「墨絵の御茶屋」と呼ばれていた茶亭が
1837年(天保8年)城外に移され藩主の釣茶屋として利用されていたもので、1907年(明治40年)城内の元の場所に再移築され今に至っている。
この建物は桁行5間・梁間2間の細長い茅葺の建物で、2004年(平成16年)3月23日に福島県指定重要文化財となっている。政宗の蹂躙、戊辰、
そして大震災と悲運の歴史を紡いだ二本松城にあって、歴史の証人となる建物が残るのは喜ばしい話である。■■■■■■■■■■■■
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