磐城国 浅川城

浅川城跡堀底道

 所在地:福島県石川郡浅川町浅川字城山

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★■■■
★☆■■■



近隣大勢力により翻弄■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名で青葉城。浅川氏代々の居城と伝わる。1189年(文治5年)、源頼朝の奥州征伐に従った甲斐国(山梨県)の国人
浅利与一義成(あさりよしなり、義遠(よしとお)とも)が出羽国比内(現在の秋田県大館市南部)を、その長男・浅利太郎
知義(ともよし)が陸奥国石川郡浅川庄1万9000石の地頭職を恩賞として与えられた。これによって、知義は浅川の姓を
名乗るようになり、浅川氏が発祥したのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
それ以前、石川郡には石川氏が勢力を築いていた。浅川氏は浅川城を築いて地盤を固めると共に石川氏との共存策を
採り、次第に浅川氏と石川氏は同族化していく。以来、400年近くに渡って浅川氏はこの城を維持。しかし、戦国時代の
抗争が激化するに従い、否応なしに浅川城も戦乱に巻き込まれていく。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国期、この地方は石川氏のほか田村氏や二階堂氏・白川氏らが拮抗し、それを取り巻くように会津の蘆名(あしな)
氏や信夫(しのぶ)郡の伊達氏、南からは常陸国(茨城県)の佐竹氏が勢力を伸ばして来ていた。このうち、石川氏は
田村氏と紛争を繰り返しており、田村氏は蘆名氏を後ろ盾としていた。そのために石川氏は会津の強豪・蘆名氏から
侵食を受けるようになる。こうした経緯により、浅川城は1569年(永禄12年)頃より数度の攻撃を受けている。■■■■■
1572年(元亀3年)劣勢だった石川氏24代当主・大和守晴光(はるみつ)は佐竹氏の調停により居城の三芦(みよし)城
(福島県石川郡石川町)を放棄させられて白石城(浅川町内)への移転を余儀なくされた。しかし晴光は納得できず、
翌1573年(天正元年)2月、佐竹氏への叛旗を翻したのである。この兵乱に対し、浅川城主だった浅川大和守義純が
和議に奔走。同年中に晴光の三芦城復帰を約束する形で佐竹への帰順が成立した。11月10日、晴光は帰城を願い
三芦城内にある八幡社に寄進を行う。一方で白石城には佐竹氏の家臣・和田安房守昭為(あきため)が入城。■■■■
斯くして石川氏・浅利氏・佐竹氏の間に和平が成った訳だが1574年(天正2年)1月4日、今度は白川氏が浅川へ侵攻。
白川軍は和田昭為・浅川義純と交戦、乗じた田村軍も2月5日から7日にかけて白石城を攻撃し落城させた。このような
騒乱があったため、晴光が三芦城に帰れたのは大幅に遅れた1574年10月頃になったらしい。■■■■■■■■■■■
その後も白川氏・蘆名氏・田村氏の侵攻は止まらず、二階堂氏も加わったため石川氏の領地は大幅に削られていく。
この頃、奥州情勢は激変を起こし佐竹氏は蘆名氏に接近、白川氏や二階堂氏もこれに準じていた。佐竹氏の態度に
不信を抱いたのか、1577年(天正5年)4月に浅川義純は佐竹氏へ反逆。だがこの反逆は失敗し義純は城を追われて
しまった。浅川城は石川大和守昭光(あきみつ、晴光後嗣)に預けられ、城代として矢吹薩摩守光頼が入っている。
1578年(天正6年)になると浅川城へは次々と攻撃が加えられる。3月に白川勢、6月〜7月には田村勢が攻勢をかけ、
石川昭光は浅川城で防戦に奔走。この間に三芦城が蘆名氏に奪われてしまい、とうとう石川氏も蘆名氏を筆頭とする
白川・二階堂・佐竹連合に服属。他方、田村氏は伊達氏との繋がりを深めてこの連合から離脱していった。■■■■■
これにより南奥州情勢は蘆名・白川・二階堂・石川・佐竹勢と伊達・田村連合の戦いに集約されていく。大連合同士の
対決を前に、石川昭光は蘆名氏から三芦城返還を許された。同時に浅川義純・次郎左衛門尉豊純父子も浅川城に
復帰している。これらは1581年(天正9年)〜1582年(天正10年)前後の事と見られている。以後、数度の集合離散が
あったものの概ねこの状況が続いて、1589年(天正17年)6月に会津磐梯山麓の摺上原(すりあげはら)で伊達軍対
蘆名軍の一大決戦が行われた。世に言う摺上原合戦だ。この戦いで敗けた蘆名軍は壊滅的打撃を被り、伊達氏が
会津を領有。その為、佐竹氏と二階堂氏を除く諸勢力は殆ど伊達家へ臣従するに至った。勿論、石川氏や浅川氏も
同じである。ところが翌1590年(天正18年)天下を統一した豊臣秀吉により奥州仕置が行われ、伊達氏に従っていた
小勢力は大半が改易(領地没収)されてしまう。石川氏・浅川氏はいずれも先祖代々の封を失い、後に伊達家の臣と
して生き延びた。浅川城はこれによって廃城とされたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

城山の風景■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
標高407mを数える城山山頂を主郭とし、そこから梯郭式にいくつもの曲輪を段々に重ねる縄張り。麓からの比高は
100m近くあり、鎌倉期を起源とする城としては破格の高さを誇る山城である。山は岩盤に覆われた急傾斜の地殻を
成しており、比高もあるために、人工的な構造物である土塁や空堀は要所を固める部分にだけ用いられた。よって、
複雑な縄張りや石垣等の構築物は必要とされなかった…と現地の案内板には記されているが、曲輪を隔てる堀切は
十分な深さがあり、特に主郭から北側へ連なる小曲輪群は(恐らく戦闘正面を意識して)しつこい程に多数用意され、
寄せ手の侵攻を阻んでおり申す。現在、この曲輪群を一直線に貫通する形で車道が舗装され、主郭直下の三郭へと
乗り付けることが出来る。三郭は駐車場になっていて、ここから眼下に見下ろす浅川の町は壮観だ。上がった二郭と
更に上の主郭は城山公園として整備され、芝生の広場になっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方、城の下段に目を遣れば城山の中腹に根宿と呼ばれる集落がある。この地方では集落を“宿”と呼ぶらしいが、
“根”の“宿”とは即ち“根小屋”の同義であり、根宿とは浅川城に詰める家臣団の集落だった訳だ。地方独自の城郭
様式が見受けられる好例と言えよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、浅川町は花火の町として有名。夏の花火大会は長い伝統を有すが、それを創めた時期には諸説あり、戦国
時代の伊達氏に対する軍事的威嚇行動、浅川城落城における戦死者弔い、江戸時代の農民一揆「浅川騒動」の
犠牲者供養などが挙げられている。正確な事情は分からぬが、この花火に弔意を持たせている事は確かなようで
花火大会の開催は町内の弘法山で行われる慰霊祭から始まる。そして最大の演目が、何と浅川城の城山で着火
される「大地雷火」との事。これは巨大な花火を“打ち上げる”のではなく“山中で爆発させる”ので、さながら城山が
火山の噴火を起こしたような状態になるそうだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
拙者が訪れた際にはもちろんやってなかったが、これは見てみたい…。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群








磐城国 棚倉城

棚倉城址水濠

 所在地:福島県東白川郡棚倉町大字棚倉字城跡

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★■■■
★★☆■■



築城の名手・丹羽氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国時代まで、棚倉周辺の拠点となる城郭は山城の赤館(下記)であった。ところが、江戸時代に入って城郭の使用
目的が領地支配の政庁たる面を重視する時代になると、全国的に山城は廃れて平城が主流になっていく。■■■
斯くして赤館が廃され、新たに築かれたのが棚倉城でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1622年(元和8年)丹羽五郎左衛門長重が前任地・常陸国江戸崎(現在の茨城県稲敷市江戸崎)2万石から当地に
5万石として加増転封された。長重の父は丹羽五郎左衛門尉長秀。織田信長股肱の臣にて、勤勉実直な人柄から
“米五郎左”と称されて、あの安土城(滋賀県近江八幡市)を普請した長秀である。その息子・長重は関ヶ原合戦で
西軍に加担したため、いったんは所領没収の改易処分を受けたが父に劣らぬ誠実な性格や家名を惜しまれ、徳川
家康から少録ながら大名への復帰を許された人物。関ヶ原で改易されながら再び大名に取立てられたのは、武勇に
秀でた高潔漢・立花左近将監宗茂(たちばなむねしげ)と丹羽長重の2人だけである。そんな彼は家康の期待に応え
大坂の陣では大いに奮戦し江戸崎を領していたのだった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
無論、長重も父譲りで築城の名手と言われていた。彼が江戸崎から棚倉へ入ったのは、時の将軍・徳川秀忠から
奥州諸大名(特に伊達陸奥守政宗)監視の密命を帯びての事と言われており、これに関連して1624年(寛永元年)
棚倉に新しい城郭を築く許可が下りた。武家諸法度が発布され、全国的に築城が堅く禁じられていた時代にあって
この許可は異例中の異例であったが、将軍家の御伽衆として近侍していた長重の性格や築城術は徳川幕府から
大きく買われていたようである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
築城地として選定されたのは近津明神(都都古別(つつこわけ)神社)の境内。この神社は807年(大同2年)に坂上
田村麻呂が社殿を造営したと言われる非常に古い由緒があったのだが、後背地には大きな低湿地を擁していて
(神社の西側一帯は段丘で、その下は水田だった)東側には奥州街道が縦貫する概容となっており、赤館を廃して
新たな統治拠点となる近世平城を築くには最適地であった。こうして1625年(寛永2年)神社が遷座され、跡地に
築城工事が開始される。横矢の入隅・出隅があるものの基本的には長方形の本丸を中心とし、その大きさは東西
60m×南北74mを数える。本丸の周囲全域を二ノ丸が囲う輪郭式の縄張。二ノ丸の北西部には林曲輪と称される
三日月形の三ノ丸が連結している。各曲輪の間はいずれも水濠で穿たれ、本丸・二ノ丸間の内堀は幅36m、総高
7.3m、水深3.8mと記録されている。鉄砲戦を意識した堀幅だ。二ノ丸外周の外堀は同様に幅14m、総高6m、水深
2mであった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
本丸は外周全部が巨大な土塁で囲まれ、その高さは6.4mとされる。この土塁上には延々と多聞櫓が廻らされて、
総延長604m、高さ3.8mとあり416もの狭間が切られた。その上、本丸隅部4箇所には2重櫓が建ち、本丸の北端と
南東端(こちらが大手側)に構えられた枡形門に対して睨みを利かせていたのだった。しかし、二ノ丸は塀のみで
外周を囲んで、櫓は一つも建てられていなかったとされる。三ノ丸に至っては敷地が用意されているだけで、その
中は手付かずの林であった。主要部のみを重防備で固め、外辺部らは最低限の構えで済まそうとしたのは、武家
諸法度の厳しい制約下で築かれた城の“苦肉の策”なのだろうか。しかし二ノ丸の土塁も平均で2mを越す高さが
ある上に、塀の総延長は何と1005m、高さ1.9mで、狭間は918箇所(!)もあったというのだから大したものである。
城地の総面積は約7万3000u。兎にも角にも、東国ならではの土塁城郭として圧倒的威容を誇る城だが、二ノ丸
西面(段丘に沿った場所)だけは部分的に石垣も用いられている事を忘れてはならない。現状、公園整備によって
残された跡地は本丸部分だけとなり、二ノ丸より外側は住宅地となってしまったが、この石垣は町立棚倉中学校に
隣接した旧位置にそのまま残されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
長重は城が完成する直前の1627年(寛永4年)陸奥国白河(福島県白河市)へ10万石を以って加増転封となった。
白河でもまた、彼の手により小峰城の大改修工事が行われており、幕命により“築城の名手”長重が東北地方の
主要城郭を次々と整備させられていた様子が窺え申そう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

内藤家の統治■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
長重に代わって棚倉へ入ったのは内藤豊前守信照(のぶてる)。内藤家は神君家康が三河時代から抱えていた
譜代中の譜代家臣だ。駿府城主や伏見城代、大坂城代までも歴任した名家で、棚倉5万石の藩主となってからは
領内の検地を断行、幕藩体制における領内統治の基盤を確立した。また、1629年(寛永6年)京都・臨済宗龍宝山
大徳寺の高僧である玉室(ぎょくしつ)和尚が紫衣(しえ)事件に連座して棚倉へ配流された際には、赤館南麓に
あった光徳寺(現在は廃寺)に建物を建立して、丁重にもてなしたとされる。ちなみに紫衣事件とは、高僧にのみ
許される紫衣の位の任免において朝廷が選任権を有していた事に対し、幕府が「禁中並公家諸法度」を定めて
統制を加え、朝廷や宗教勢力を支配下に置こうとした事件である。その結果、幕府権力は朝廷や諸宗派より上で
ある事が確定となり、幕府の許可無く紫衣の位を得た者はそれを剥奪され、関連した多くの者が処罰され申した。
玉室宗珀もその一人であり流罪となった訳だが、配流先が棚倉とされ、それを受け入れた信照は罪人と言えども
ひとかどの人物である玉室に畏敬の念を持って接したのだった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお、信照も父祖同様に1650年(慶安3年)〜1652年(承応元年)にかけて大坂城代の任を勤めたが、江戸にて
1665年(寛文5年)1月19日に74歳で死去。子の内藤豊前守信良(のぶよし)が跡を継いで、この年に棚倉城下の
市坂に愛敬稲荷神社を建立する。信良は棚倉の商業繁栄を目標に定め再度の検地を実行。更には久慈川での
水運計画を建議するものの領内は数度にわたる飢饉の発生で疲弊し、追い打ちをかける如く1672年(寛文12年)
城下一面を焼き尽くす大火が発生してしまった。現在の磐城棚倉駅付近にあった長楽寺近辺から発生した火で
武家屋敷136戸(北町・南町)、民家312戸(新町・古町など)を焼失。これで藩財政は重要な危機に立たされた。
もともと棚倉は名目上5万石であったものの、実高はそれより少なかったと言い慢性的赤字状態になっていた。
結局、信良の代ではこれを解消できず、1674年(延宝2年)11月16日に養子の紀伊守弌信(かずのぶ)へ家督を
譲った。財政建直しが急務だった弌信は、当時名うての財政家として知られていた松波勘十郎(かんじゅうろう)
良利(よしとし)を棚倉へ招聘し財政改革を担わせる。だが良利の策は大概にして農民へより一層のしわ寄せを
加える事となったため、成功しなかった。そのため良利は解任され、弌信もまた1705年(宝永2年)に駿河国田中
(静岡県島田市)へ移封されたのだった。結局、弌信の代に行われたのは宇迦神社の拝殿再建や浄土宗大泉山
蓮家(れんげ)寺で三十三観音堂の寄進、棚倉城の本丸内に鐘を造って朝夕に城下へ時刻を知らせるといった
“精神的な改革”だけであった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

“左遷人事の地”■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、弌信に代わり棚倉藩主となったのは太田備中守資晴(すけはる)。駿河国田中からの交換国替で、石高は
やはり5万石だ。1707年(宝永4年)に棚倉城の南門を日蓮宗高徳山長久寺(棚倉城下・花園に新設された寺)の
山門として寄進。以来、幕府内での出世を果たし1723年(享保8年)奏者番、1725年(享保10年)には寺社奉行、
1728年(享保13年)には若年寄にまで栄達したのである。実高の低い“奥羽の寒村”であった棚倉藩主の地位に
就く事は、江戸時代全般を通して「幕府内での懲罰(左遷)人事」である事が慣例化されてしまっていたが、その
中にあって資晴の出世は特異な事例でござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
若年寄となった年に彼は上野国館林(群馬県館林市)へ転封。代わって館林から棚倉へ5万4000石を以って松平
右近将監武元(たけちか)が入る。その年の内に1000石が加増され5万5000石となった武元は1739年(元文4年)
9月1日に奏者番となり、1744年(延享元年)5月15日には寺社奉行へと昇進。1746年(延享3年)5月15日、江戸城
西ノ丸老中となった事で棚倉を離れ旧領である館林へ復した。その為9月25日、遠江国掛川(静岡県掛川市)から
小笠原佐渡守長恭(ながゆき)が6万石にて棚倉へ入封。6万石の内訳は棚倉4万石、飛び地の近江国に2万石。
この時、長恭はわずか7歳であった。長恭が政務を取れない程の若年で家督を相続した事、また、旧領・掛川に
おいて盗賊団の摘発に失敗した事から小笠原家は棚倉への“左遷人事”を受けたと言われる。■■■■■■■■
これに対して小笠原家では、1749年(寛延2年)2月に隣の天領(戸塚郷)で発生した塙騒動に関して、翌1750年
(寛延3年)出兵し幕府への精勤に努める一方で、領内に殖産興業政策を推進し陶器の生産に力を注ぐなどして
棚倉藩の隆盛を図った。塙騒動とは、戸塚郷において百姓が代官を殺害し鎮圧に手間取った事件。棚倉藩は
塙(戸塚)代官の依頼により鎮撫した。しかし、そうした努力にも拘らず棚倉藩政は好転せず1776年(安永5年)
37歳の若さで長恭は死去してしまう。棚倉城主の座は17歳の長男・佐渡守長堯(ながたか)が継承。■■■■■■
1784年(天明4年)領地引替により塙代官から瀬ヶ野・中野・中塚・戸中・漆草・上手沢・下手沢・北山本・中山本
下山本・上渋井・大梅・小爪・強梨・川上・川下・福岡の各村を譲渡されている。天明の大飢饉において、被害を
最小限に食い止める行政手腕を見せたことから、長堯は1790年(寛政2年)3月、幕府奏者番に引き立てられて
寛政の改革にも参加。1800年(寛政12年)には浅川一揆を鎮圧すべく棚倉より出兵した。1812年(文化9年)3月
24日に長堯は隠居し6男の主殿守(とものかみ)長昌(ながまさ)が家督を継ぐ。この翌年、小笠原家は江戸城
(東京都千代田区)紅葉山の火防担当に就き、1817年(文化14年)肥前国唐津(佐賀県唐津市)へ転封された。
小笠原家に代わって棚倉藩主となったのは井上家だ。同年9月14日、井上河内守正甫(まさもと)が遠江国浜松
(静岡県浜松市)から棚倉への国替えを命じられた。実は正甫、この前年に農家へ押し入ってその家の女房を
手込めにしようとした事件を起こしており、それを知った幕府から懲罰として棚倉へ移封させられたのだ。しかし
正甫は江戸に留まり、病気を理由に1820年(文政3年)4月16日、家督を長男・河内守正春(まさはる)へ譲るまで
遂に1度も棚倉へ入府する事はなかった。ようやく正春が棚倉へ入った後の1824年(文政7年)、英国船が常陸国
大津浜(茨城県北茨城市)に上陸する事件が発生、棚倉藩は沿岸警備を幕府から命じられ海岸に陣屋を設けて
警備した。こうした地道な努力により父の汚名を雪ぎ、1834年(天保5年)正春は奏者番ならびに寺社奉行へ取り
立てられ1836年(天保7年)上野国館林へと転封。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その結果、棚倉へ来たのは松平周防守康爵(やすたか)。松平(松井)家は石見国浜田(島根県浜田市)からの
移封で、石高は6万400石を有している。康爵の父・下野守康任(やすとお)は浜田にて竹島を利用した密貿易を
行っていた。鎖国の世にあった当時、密貿易は国禁を犯す重罪である。これが発覚した為、康任は退任に追い
込まれ、跡を継いだ康爵も棚倉へ左遷された。またもや“懲罰人事”による棚倉入りでござる。■■■■■■■
1854年(安政元年)康爵は城主を辞し翌1855年(安政2年)に隠居。藩主の座は養子の周防守康圭(やすかど)
即ち康爵の実弟が継いだ。康圭は領内の殖産に力を入れ、蒟蒻や梨の栽培・瓦焼き・機織・放牧馬生産などを
奨励したという。その康圭は1862年(文久2年)8月22日に死去。長男の周防守康泰(やすひら)が藩主となって、
1864年(元治元年)に発生した天狗党事件(水戸藩の過激分子が尊皇攘夷を唱えて蜂起した事件)では棚倉と
江戸屋敷から鎮圧の兵を出している。ところが、その年に16歳で康泰も死去。11月20日、養子(従甥)の周防守
康英(やすひで)が継ぐ事になった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

城址公園として■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
幕末の混乱期、康英という人物は大活躍した。1865年(慶応元年)1月20日に奏者番兼寺社奉行へと任命されて
同年3月8日には下野国宇都宮(栃木県宇都宮市)へ移封が命じられるも、4月12日に老中、同月25日には外国
事務取扱に就任したため宇都宮への国替えは10月15日に撤回された。その代わりに、棚倉藩には2万石が加増
されている。この混乱でいったんは老中を辞すが、1ヶ月後に復帰。1866年(慶応2年)4月12日、海軍事務取扱も
兼任となり、それに伴って更に2万石が加増。棚倉藩の石高は総合計で8万400石になっている。天狗党事件の
後始末を行った後、6月19日に白河への国替えが命じられた。ところがこれまた白河藩での準備が間に合わず、
康英が棚倉から動けないままでいた為に中止され、結局10月27日に武蔵国川越(埼玉県川越市)8万443石への
移動となり申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
最幕末期に新たな棚倉藩主となったのは阿部美作守正静(まさきよ)、6月19日に国替えを命じられていた白河
藩主である。ようやく準備が整った1867年(慶応3年)1月に棚倉へ入った。翌1868年(明治元年)いったんは明治
新政府側の鎮撫総督から出兵を命じられるが、後に奥羽越列藩同盟(東北・越後諸藩による佐幕同盟)へ転向。
このため、棚倉藩兵は白河口での戦いに巻き込まれて55名の戦死者を出した。白河での戦闘から帰国した棚倉
藩兵はそのまま板垣退助率いる官軍800の総攻撃を受け、棚倉城や城下町は焼け落ちる。6月24日、僅か1日の
戦いで棚倉城は開城。城主・正静は新政府から罪を問われて4万石削減の上、隠居を余儀なくされた。■■■■
ここに棚倉城はその役目を終え、明治維新後には廃城となったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■
1948年(昭和23年)7月に県立公園へ編入されて以来、城址(本丸部分のみ)は亀ヶ城公園となっている。土塁や
堀の残存具合は良く、特に分厚い土塁が延々と続く様子は圧巻だ。ちなみに、棚倉城の別名を亀ヶ城と呼ぶが、
その由来は判然としない。この他、別名として近津城や新土(あらつち)城の名がある。近津城は近津明神跡地に
建てられた城である事からの命名であり、新土城の名は築城主・丹羽長重が工事完成直前に国替えとなり、壁を
荒土(=新土)のまま退去した事によると言う。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城址は特に史跡指定されていないが、そこに生えている大ケヤキの木が1976年(昭和51年)5月4日、福島県の
天然記念物に指定されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・石垣・土塁・郭群

移築された遺構として
長久寺山門(南門)








磐城国 赤館

赤館跡 赤館公園

 所在地:福島県東白川郡棚倉町大字棚倉字風呂ヶ沢

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★■■■
★★■■■



丘城の創始■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
近世棚倉城が成立する前に用いられていた山城でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
標高345m、鹿子山と呼ばれる山がその跡地で、周囲から屹立した小山ではあるものの山頂部一帯に限って申せば
比較的緩傾斜地となっていて、“丘城”の趣さえある。この城は赤館(あかだて)氏の城砦として成立したという説が
残るも、遡れば鎌倉時代初期、棚倉の地は伊達氏に与えられた飛び地であった。■■■■■■■■■■■
(伊達氏の本貫地は信夫郡、現在の福島市周辺)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その伊達氏の歴史において“中興の祖”とされる伊達大膳大夫政宗が(戦国末期の“独眼竜”17代目政宗ではなく
室町初期の9代目政宗)応永年間(1394年〜1428年)に鎌倉公方(室町幕府東国支配機構の長)から領土割譲を
迫られた事に対し兵を挙げ、この城に赤館源七郎なる人物を城代として置いたと伝わる。■■■■■■■
しかし、一方で江戸時代後期の地誌書「白河古事考」によれば白川結城氏の一族から赤館氏が成立したと言われ
(白川結城氏に関しては小峰城・白川城の頁を参照の事)更には建武年間(1334年〜南朝1336年/北朝1338年)に
赤館伊賀次郎が赤館城主であった記録も残る。文献に残る赤館の記録はこれが最も古く、この頃には既に城砦が
あったと判断して良いと思われるが、正確な築城年代や築城主は不明である。なお、赤館伊賀次郎は伊賀隆定の
2男・定澄の事で、名前から分かる通り伊賀国から下向した伊賀氏末裔の人物と見られている。■■■■■■
いずれにせよ赤館(棚倉)周辺は南北朝期を境に白川氏の直轄領に組込まれた。そして戦国時代に入ると、西に
会津の蘆名氏・北に米沢の伊達氏・南に常陸の佐竹氏といった面々が領地拡大の場としてこの辺りを虎視眈々と
狙い始めていく。現地説明板に拠れば1510年(その説明板には永正10年とあるが、1510年は永正7年が正しい)
佐竹氏が白川氏領土を侵食し依上保(大子地域をはじめとする茨城県北)を領有。白川氏は蘆名氏の助力を頼み
1560年(永禄3年)赤館には沢井へ領地替えとなった赤館氏に代わり、蘆名修理大夫盛氏から派遣された上遠野
(かとおの)美濃守盛秀(上台中丸館(棚倉町内)主)が城代として入って城の大改修を行った。赤館で、南面に
対する防備が強化されたのはこの時。南から攻撃する佐竹軍への備えが窺える。だがそれでも佐竹氏の侵攻は
止まらず、やがて東館・羽黒館(塙)・流館(近津)など(それぞれ棚倉町近域の城郭群)と赤館以南の九南郷館を
支配したのだった。1571年(永禄2年)佐竹氏から城主に任じられたのが車丹波守斯忠(義忠とも)、俗に車猛虎と
呼ばれる人物。斯忠は武勇に長じた武将であり、激闘が繰り返される赤館を守るに適した者とされたのだろう。
ただし、政には疎かったらしく後に統治の不備からその任を解かれている。■■■■■■■■■■■■■

佐竹家の攻勢■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、ここに領土奪還に燃える白川・蘆名連合軍と更なる進出を狙う佐竹軍は決戦を企図するに至り、同年
(1571年)に南郷地域一帯にて白川左衛門佐義親(よしちか)の軍と佐竹軍が交戦に及ぶ。ところが、この状況を
見た小田原後北条氏が南から多賀谷(茨城県下妻市、佐竹領)への攻勢を展開。南北に敵を抱える事になった
佐竹氏は、白川氏との戦に利在らずと見て赤館を放棄し和睦、兵を引く。とは言え、この和議は一時的なものに
過ぎず、以降毎年のように赤館をめぐる戦いは繰り返され1575年(天正3年)には佐竹軍が大規模に侵攻し青田
刈りを行い、赤館は陥落した。なお、赤館に置かれている説明板(上記)では蘆名側が青田刈りを行い佐竹軍を
撃退し赤館を守りぬいたとあるが、つじつまが合わないためここでは佐竹側の行動と結論している。■■■■
ちなみに、この青田刈りによって白川家の部将・斑目(まだらめ)兄弟が粛清される事態が発生している。即ち、
赤館の攻防戦において佐竹氏家臣・渋江兵部大輔氏光の娘が捕らえられたものの、武威に秀でた斑目信濃守
広基(ひろもと)はこれを佐竹方へと送り返し、その返礼として佐竹軍は斑目領内のみ青田刈りを行わなかったと
され、この行動を広基の主君・義親が内通と疑い広基とその兄である斑目広綱(ひろつな)を1576年(天正4年)
謀殺したという話である。時代は戦国末期、裏切りが裏切りを呼ぶ頃ゆえの悲話でござろう。■■■■■■■
ともあれ、白川氏と佐竹氏が奪い合いを繰り返した赤館はこの戦いの後からは佐竹軍の最前線城郭として機能
していく。赤館の城代として東義久(東家は佐竹氏一門、つまり佐竹山城守義久)が入り彼の手によって改修を
受けた赤館は、今度は北側を守りの重点とした縄張りへと改変された。■■■■■■■■■■■■■■■
一方、白川氏が頼りとした蘆名氏は歴代当主が次々と落命し一気に衰退。仙道筋を支配下に収め、米沢から
南下してきた伊達政宗(今度は“独眼竜”の方)が会津を制圧したため、白川氏はその幕下に組み込まれる。
これにより赤館を挟んで佐竹氏は伊達氏と接する事になった。1585年(天正13年)11月の人取橋合戦以来、
険悪な関係にあった両家は一触即発の状況にあり、1589年に伊達氏へ臣従するようになった石川昭光らの
軍勢が赤館に攻めかかった。城方は松野上総介を大将とし、鹿子畑三河守・鹿子畑三郎・上遠野隠岐守らが
防戦に当たる。なおも攻勢を強める政宗は、1590年の正月に「七草を 一葉によせて 摘む根芹」と詠んで赤館
周域への侵出を決意した。七草とはすなわち白河周辺7郡の事で、この歌は佐竹領からの領土奪取宣言だ。
伊達軍は赤館攻略に展開、現在も鹿子山南麓に流れる川はその時に伊達軍が城攻めの為に掘削したものと
伝わる。ところがこの年、小田原後北条氏が豊臣秀吉により滅ぼされ、豊臣家による天下統一が成る。関白
秀吉の奥州仕置が行われ白川家は取り潰し、伊達家も会津一帯を取り上げられ、赤館周辺は晴れて佐竹家の
領土であると公認されたのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以後、10年間はこの状態が続く。しかし秀吉没後の1600年(慶長5年)東軍・徳川家康と西軍・石田三成による
天下分け目の関ヶ原合戦が行われる。関ヶ原本戦に連動し全国各地でも東西両軍の合戦が発生していたが
当時、佐竹氏当主・佐竹右京大夫義宣は政情不安の東北地方を睨む為に本拠地の常陸国から進出、赤館に
本陣を構えた。だが、その姿勢はあくまでも中立に留め、会津の上杉軍(西軍)と伊達・最上連合軍(東軍)を
傍観するのみだった。この態度が戦後、家康から「東軍に味方しなかった」つまり「西軍に通じて動いていた」と
判断され、1602年(慶長7年)佐竹義宣は領土を召し上げられ出羽(羽後)国久保田(秋田県秋田市)へと転封
されてしまう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

西の日本一、立花宗茂の入城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
これで赤館周辺は天領(江戸幕府直轄地)となったが、1603年(慶長8年)に1万石を以って立花宗茂が棚倉へと
入府、赤館を居城とした。宗茂は筑後国柳川(福岡県柳川市)13万2千石の太守だったが、関ヶ原合戦で西軍に
属し、戦後も柳川城に籠城し一戦を構えようとした豪傑の将。その行いはひとえに熱烈な忠義心から筋を通した
剛直さ故であり、一旦は柳川を没収され浪人に落ちぶれたものの、そうした人柄が買われ江戸幕府成立直後に
徳川家康から5000石を与えられ御書院番頭(将軍直属の軍事部隊)に召し抱えられた上、なおも5000石を加増
され棚倉へと配されたのである。剛胆かつ高潔な宗茂は(関ヶ原の敵方であったにも関わらず)徳川家からの
覚え目出度く、翌1604年(慶長9年)には1万5500石を加増(合計2万5500石)となり、1615年(元和元年)大坂の
陣の戦功では9500石を追加(合計3万5000石)され申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この間、宗茂により赤館城下の統治が進められ1610年(慶長15年)には鹿子山の東に宇賀神社が創建される。
宇賀神社は現在に至るまで棚倉町の氏神として祀られており、地域の拠り所になっていく。こうした経緯を経て
1620年(元和6年)宗茂は10万9200石で旧領・柳川へと国替えされた。関ヶ原合戦で西軍に属して取り潰された
大名の中、旧領への復帰を果たした人物は宗茂ただ1人である。ちなみに彼は生前の豊臣秀吉から“西の日本一”と
評されてもいる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そして1622年、丹羽長重が棚倉へ。旧態依然とした山城の赤館を廃し、新たな近世城郭・棚倉城を築いたのは
上記の通り。斯くして、赤館は長きに渡ったその使命を終えたのでござった。■■■■■■■■■■■■■■
山の頂部を啓開した大きな平坦面が主郭で、その下に帯曲輪状の二郭・三郭が段々に連なる梯郭式の縄張。
これら中心曲輪群に連結するように、北側と南側にそれぞれ出曲輪のような腰曲輪群が構えられている。特に
南側の出曲輪は南端で桧木川(根小屋川)に接しており、この川が天然の外濠の役割を為す。各曲輪の間は
空堀や土塁、切岸で隔てられる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
廃城以来自然の山林へと戻った城跡であるが、明治時代に入り地元有志へ2万1900坪の面積が払い下げられ
殖産や観光、教養・祭典等費用捻出の為に植林作業を行うに至る。太平洋戦争後の1958年(昭和33年)、赤館
観光協会が結成され、観光登山道路が舗装され城跡が公園化されている。よって、城内各所はかなりの部分が
園地として改変されてしまったが、それでも“見る人が見れば”土塁・空堀等の遺構が随所に見受けられ、ここが
往時の山城跡だという事を推測できよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
余談であるが鹿子山の麓にはかつて根小屋村という村があった。根小屋とは、中世城郭の外縁部に設けられた
駐在武士の居住地を指し、主に東日本では「根小屋」あるいは「根古屋」と言った地名のある場所は大概が中世
城址である(「城下」の字を当て「ねごや」と読む事すらある)。ところがこの根小屋村は1783年(天明3年)天明の
大飢饉によって一村全部が滅んだとされ、当時の飢饉がいかに破滅的であったかを物語る。■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群




大和久館  二本松城