近隣大勢力により翻弄■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名で青葉城。浅川氏代々の居城と伝わる。1189年(文治5年)、源頼朝の奥州征伐に従った甲斐国(山梨県)の国人
浅利与一義成(あさりよしなり、義遠(よしとお)とも)が出羽国比内(現在の秋田県大館市南部)を、その長男・浅利太郎
知義(ともよし)が陸奥国石川郡浅川庄1万9000石の地頭職を恩賞として与えられた。これによって、知義は浅川の姓を
名乗るようになり、浅川氏が発祥したのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
それ以前、石川郡には石川氏が勢力を築いていた。浅川氏は浅川城を築いて地盤を固めると共に石川氏との共存策を
採り、次第に浅川氏と石川氏は同族化していく。以来、400年近くに渡って浅川氏はこの城を維持。しかし、戦国時代の
抗争が激化するに従い、否応なしに浅川城も戦乱に巻き込まれていく。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国期、この地方は石川氏のほか田村氏や二階堂氏・白川氏らが拮抗し、それを取り巻くように会津の蘆名(あしな)
氏や信夫(しのぶ)郡の伊達氏、南からは常陸国(茨城県)の佐竹氏が勢力を伸ばして来ていた。このうち、石川氏は
田村氏と紛争を繰り返しており、田村氏は蘆名氏を後ろ盾としていた。そのために石川氏は会津の強豪・蘆名氏から
侵食を受けるようになる。こうした経緯により、浅川城は1569年(永禄12年)頃より数度の攻撃を受けている。■■■■■
1572年(元亀3年)劣勢だった石川氏24代当主・大和守晴光(はるみつ)は佐竹氏の調停により居城の三芦(みよし)城
(福島県石川郡石川町)を放棄させられて白石城(浅川町内)への移転を余儀なくされた。しかし晴光は納得できず、
翌1573年(天正元年)2月、佐竹氏への叛旗を翻したのである。この兵乱に対し、浅川城主だった浅川大和守義純が
和議に奔走。同年中に晴光の三芦城復帰を約束する形で佐竹への帰順が成立した。11月10日、晴光は帰城を願い
三芦城内にある八幡社に寄進を行う。一方で白石城には佐竹氏の家臣・和田安房守昭為(あきため)が入城。■■■■
斯くして石川氏・浅利氏・佐竹氏の間に和平が成った訳だが1574年(天正2年)1月4日、今度は白川氏が浅川へ侵攻。
白川軍は和田昭為・浅川義純と交戦、乗じた田村軍も2月5日から7日にかけて白石城を攻撃し落城させた。このような
騒乱があったため、晴光が三芦城に帰れたのは大幅に遅れた1574年10月頃になったらしい。■■■■■■■■■■■
その後も白川氏・蘆名氏・田村氏の侵攻は止まらず、二階堂氏も加わったため石川氏の領地は大幅に削られていく。
この頃、奥州情勢は激変を起こし佐竹氏は蘆名氏に接近、白川氏や二階堂氏もこれに準じていた。佐竹氏の態度に
不信を抱いたのか、1577年(天正5年)4月に浅川義純は佐竹氏へ反逆。だがこの反逆は失敗し義純は城を追われて
しまった。浅川城は石川大和守昭光(あきみつ、晴光後嗣)に預けられ、城代として矢吹薩摩守光頼が入っている。
1578年(天正6年)になると浅川城へは次々と攻撃が加えられる。3月に白川勢、6月〜7月には田村勢が攻勢をかけ、
石川昭光は浅川城で防戦に奔走。この間に三芦城が蘆名氏に奪われてしまい、とうとう石川氏も蘆名氏を筆頭とする
白川・二階堂・佐竹連合に服属。他方、田村氏は伊達氏との繋がりを深めてこの連合から離脱していった。■■■■■
これにより南奥州情勢は蘆名・白川・二階堂・石川・佐竹勢と伊達・田村連合の戦いに集約されていく。大連合同士の
対決を前に、石川昭光は蘆名氏から三芦城返還を許された。同時に浅川義純・次郎左衛門尉豊純父子も浅川城に
復帰している。これらは1581年(天正9年)〜1582年(天正10年)前後の事と見られている。以後、数度の集合離散が
あったものの概ねこの状況が続いて、1589年(天正17年)6月に会津磐梯山麓の摺上原(すりあげはら)で伊達軍対
蘆名軍の一大決戦が行われた。世に言う摺上原合戦だ。この戦いで敗けた蘆名軍は壊滅的打撃を被り、伊達氏が
会津を領有。その為、佐竹氏と二階堂氏を除く諸勢力は殆ど伊達家へ臣従するに至った。勿論、石川氏や浅川氏も
同じである。ところが翌1590年(天正18年)天下を統一した豊臣秀吉により奥州仕置が行われ、伊達氏に従っていた
小勢力は大半が改易(領地没収)されてしまう。石川氏・浅川氏はいずれも先祖代々の封を失い、後に伊達家の臣と
して生き延びた。浅川城はこれによって廃城とされたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城山の風景■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
標高407mを数える城山山頂を主郭とし、そこから梯郭式にいくつもの曲輪を段々に重ねる縄張り。麓からの比高は
100m近くあり、鎌倉期を起源とする城としては破格の高さを誇る山城である。山は岩盤に覆われた急傾斜の地殻を
成しており、比高もあるために、人工的な構造物である土塁や空堀は要所を固める部分にだけ用いられた。よって、
複雑な縄張りや石垣等の構築物は必要とされなかった…と現地の案内板には記されているが、曲輪を隔てる堀切は
十分な深さがあり、特に主郭から北側へ連なる小曲輪群は(恐らく戦闘正面を意識して)しつこい程に多数用意され、
寄せ手の侵攻を阻んでおり申す。現在、この曲輪群を一直線に貫通する形で車道が舗装され、主郭直下の三郭へと
乗り付けることが出来る。三郭は駐車場になっていて、ここから眼下に見下ろす浅川の町は壮観だ。上がった二郭と
更に上の主郭は城山公園として整備され、芝生の広場になっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方、城の下段に目を遣れば城山の中腹に根宿と呼ばれる集落がある。この地方では集落を“宿”と呼ぶらしいが、
“根”の“宿”とは即ち“根小屋”の同義であり、根宿とは浅川城に詰める家臣団の集落だった訳だ。地方独自の城郭
様式が見受けられる好例と言えよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、浅川町は花火の町として有名。夏の花火大会は長い伝統を有すが、それを創めた時期には諸説あり、戦国
時代の伊達氏に対する軍事的威嚇行動、浅川城落城における戦死者弔い、江戸時代の農民一揆「浅川騒動」の
犠牲者供養などが挙げられている。正確な事情は分からぬが、この花火に弔意を持たせている事は確かなようで
花火大会の開催は町内の弘法山で行われる慰霊祭から始まる。そして最大の演目が、何と浅川城の城山で着火
される「大地雷火」との事。これは巨大な花火を“打ち上げる”のではなく“山中で爆発させる”ので、さながら城山が
火山の噴火を起こしたような状態になるそうだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
拙者が訪れた際にはもちろんやってなかったが、これは見てみたい…。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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