古から存在した村■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
大和久(おおわぐ)は江戸時代に奥州街道の宿場町であった。遡れば古墳時代の頃から人が定住していた形跡(大和久遺跡)があり
そこで1982年(昭和57年)に矢吹町教育委員会が発掘調査を行った結果、土坑の検出や土師器・須恵器・砥石などが出土している。
「大和久」という郷の名は鎌倉時代後期から生じており、白河庄(福島県白河市を中心とする庄)に含まれていたそうである。1318年
(文保2年)2月16日に発給された関東下知状には「可令早結城摂津守盛広領知 陸奥国白河庄内富沢・真角・大和久・葉太・大田河・
小田河・趺増・赤丑沢等郷 地頭職事」とあり、鎌倉幕府から大和久を含む白河庄北部一帯の地頭として結城盛広が任じられ領した
様子がわかる。この下知は、盛広の所領に関する手継証文が焼失した為、幕府が白川結城氏の頭・結城上野介宗広(むねひろ)の
申し出通りに領有するよう命じたものとの事。少し詳しく説明すると、鎌倉時代初頭に結城上野介朝光(ともみつ)は奥州出征の功を
源頼朝から認められ恩賞として白河一帯の領地を与えられ、朝光の孫・祐広(すけひろ)が実際に白河へ入って実効支配を始めた。
これで祐広は白川(白河)氏を称して白河庄南部を領し、その領地は子の宗広に継承されている。同様に祐広の甥(朝光の曾孫)で
ある盛広も入植、白河庄北部に領地を得たのである。盛広もまた、在地領主として地名から富沢姓を名乗るようになったが、元来は
結城姓なので、下知状には「結城盛広」と記されているのだ。即ち、この下知は富沢盛広の領地に関して白川宗広の意見に基づき
幕府が裁定を行ったというもので、盛広の領地の中に大和久村の名がある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この後、後醍醐天皇による倒幕が成功して建武新政の世に移るものの、1335年(建武2年)7月に鎌倉幕府再興を期した反乱である
中先代(なかせんだい)の乱(鎌倉幕府最後の得宗・北条修理権大夫高時(たかとき)の遺児である中先代時行(ときゆき)の挙兵)が
勃発するや、富沢氏と白川氏は対立。富沢盛広は時行に呼応して反乱に参加、石川郡長倉城(福島県石川郡平田村)で叛旗を掲げ
一方の白川宗広は後醍醐天皇に従う。結局、反乱は短期間で鎮圧されたため成功せず、宗広は同年9月24日の陸奥国宣案および
11月15日の太政官符によって建武政府から「白河郡内摂津入道々栄跡(除大和久郷)事」だと裁定された。盛広領のうち、大和久を
除いて宗広へ行賞する事となったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
近世の領地配分■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
このように大和久周辺は白川氏の勢力拡大における衝突地帯になっていた。大和久館の成立年代は全く不明だが、主郭は完全な
方形館の様相を呈している為、これくらいの年代に原型が築かれていた可能性は否定できない。戦国時代になると、白河市・矢吹町
近辺は更なる抗争の舞台と化す。白河郡(白河庄)の東側には石川郡があって、そこでは石川氏が勢力基盤を築き、その先からは
常陸国(現在の茨城県)の戦国大名・佐竹氏の行軍が迫っていた。また、北方にはこれまた有力な戦国大名・蘆名氏や二階堂氏が
控えている。白川氏の周辺には石川氏・佐竹氏・二階堂氏ほか数々の武力勢力が犇めいていたのだ。江戸時代中期に編纂された
「白河古事考」によると、永禄年間(1558年〜1570年)に白川氏と二階堂氏が戦闘を行い(1560年(永禄3年)の事か?)、石川氏や
佐竹氏の支援を受けた二階堂氏が大和久館を落としたとある。当時、大和久館には多賀谷左兵衛尉が居住していた。多賀谷氏は
結城(白川)氏の重臣。文献に残る大和久館の記載はこれだけのようだが、少なくとも実戦を経験した城館である事は間違いない。
おそらく館はこの後に廃されたと思われる。江戸時代になると大和久郷は最初に記したように奥州街道の宿場町となって、十返舎
一九の作品「金草鞋(かねのわらじ)」等にも記されている。当初は会津藩、1627年(寛永4年)からは白河藩の領地とされ、1742年
(寛保2年)に越後高田藩の飛地、1809年(文化6年)に天領へと組み込まれた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この郷の石高は、1594年(文禄3年)の検地帳である「蒲生高目録」に大和具(大和久)265石と記録され、「古領高長」では559石余、
「天保郷帳」「旧高旧領」では共に613石とある。明治維新後は大和久村として福島県に属し、1887年(明治20年)には戸数50・人口
319人を数えた。1889年(明治22年)合併により矢吹村の大字となる。現在は西白河郡矢吹町。■■■■■■■■■■■■■■■
今は「取り残された史跡」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その矢吹町教育委員会が大和久遺跡と同時に1982年、大和久館跡の調査を行って石臼が出土している。石臼は生活用具であると
共に火薬の調合などにも用いられるため、大和久館の存在意義を検証する好材料となろう。調査によると館は隈戸川と釈迦堂川の
両水系に依存していたと見られている。調査報告では館跡標高が310mとなっているが、現在館跡の直下に置かれている三角点が
317.7mを数えているので、これは誤りではないかと思われる。恐らく325m程ではなかろうか?■■■■■■■■■■■■■■■■
縄張りは50m四方程度の方形を主郭として、その東側にやや小ぶりな二ノ郭を有する梯郭式。曲輪の周囲は切岸として削り込まれ、
空堀や土塁も散見されるが、現状は完全な藪に覆われて立ち入るのが困難な状況である。館の北側は急傾斜で落ち込み、二ノ郭を
展開する東側は河岸段丘で緩傾斜を見せる。戦闘正面はこちら側を想定していた事であろう。ちなみに、北東側約1.6kmの位置には
袖ヶ館(そでがだて)城が眺望できる。大和久館の南面と西面は現在矢吹町の工業団地が造成され、完全に整地されてしまったが、
明らかに館の跡地だけを残すように形成されており、町が史跡保護に大英断を下した様子が見て取れる。惜しむらくは、それならば
館の内部も綺麗に整備して欲しい点だが…(苦笑)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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