磐城国 小峰城

小峰城復元三重櫓

 所在地:福島県白河市字郭内・大手町 ほか

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★☆
★★★★



白川(白河)氏と小峰氏の相克■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
白河の地は古来より奥州の玄関口とされ、関所が置かれた要所でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城の歴史は1340年(興国元年/暦応3年)結城修理権大夫親朝(ちかとも)が小峰ヶ岡に館を構え、小峰城と名づけた事に始まる。
結城氏は元来、下野国の小山(栃木県小山市)から派生した一族で、北関東から奥州にかけて庶流を展開、各地で血脈を紡いで
いる。白河領有についても、鎌倉時代初期の1189年(文治5年)源頼朝の奥州征伐に従軍した功で得たものであり、その由緒から
白河に根を下ろした結城氏は、総領家である下総結城氏に次ぐ家格を有したとされる。よって、独自の力を維持した白河結城氏は
次第に白川(白河)氏(並びにその分家である小峰氏)を名乗った。親朝は白川氏の分家である小峰氏の当主だ。以来、小峰城は
小峰氏の城として用いられていく。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
小峰城が築かれた年代は南北朝の動乱が激化していた時代。白川氏・小峰氏は後醍醐天皇の覚え目出度く、遂には宗家である
下総結城氏に代わって白川氏が総領の地位を認められた。この為、白川氏・小峰氏は南朝方、結城氏は北朝方に与して争う事に
なる。当時、北関東や南奥州は足利氏の勢力と南朝から派遣された北畠氏やそれに従う伊達氏の軍が直接的に戦う激戦区で、
白川氏と結城氏の動向は南朝・北朝それぞれの軍事動員力に大きな影響を与えていたのだ。■■■■■■■■■■■■■■■
しかし大局的に見ると、南朝は序盤こそ優勢であったものの次第に没落する。とうとう白川氏も北朝方へと寝返り小峰氏もこれに
追従。更に伊達氏も北朝に付いたため、南朝の敗北は決定的となった。実に流動的な時勢の中、小峰城は奥州南端の関門として
重きを為していたのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国期になると、白川氏と小峰氏の間で下克上が勃発。本家である白川氏の家督を小峰氏当主である上野介義親(よしちか)が
奪取したのだ。これによって小峰城は白川本家の城という位置付けになる。しかし、白川氏と小峰氏の内訌を周辺勢力が見逃す
はずも無く常陸国(茨城県)の戦国大名・佐竹氏が介入。義親を服従させて佐竹常陸介義重の2男・喝食丸(かつじきまる)をその
養子にあてがった。結果、白川氏の家督は喝食丸あらため平四郎義広(よしひろ)が相続する。更に後、義広は会津の太守・蘆名
(あしな)家へと養子入りしたため白川氏は蘆名氏の保護下に置かれる形となった。勿論、総てを裏から牛耳ったのは佐竹義重で
ある。これで小峰城は“蘆名氏の配下である”白川義親の城となり申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

伊達氏・蒲生氏・上杉氏の入れ替わり■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが蘆名氏の家督問題は独眼竜・伊達藤次郎政宗との対立を引き起こした。実は政宗も蘆名家を乗っ取る計画をしていたの
だが、義重・義広により阻止されてしまったからだ。斯くして1589年(天正17年)6月5日、伊達軍と蘆名軍は会津磐梯山麓の台地
摺上原(すりあげはら)にて激突したのだった。この戦いで蘆名軍は壊滅的大敗を喫し、義広は国を捨てて実家の佐竹家へと落ち
延びた。旧蘆名領はそのまま伊達氏の領土に塗り替えられ、小峰城と白川義親も政宗の支配下に入った。■■■■■■■■■■
小峰城主の変転はまだ続く。翌1590年(天正18年)天下統一に王手をかけた豊臣秀吉が、小田原後北条氏を征伐する軍を発出。
同時に全国の諸大名へ小田原へ参陣し、豊臣政権の傘下に入れと命令を下した。これに対し白川義親は秀吉に馬などの進物を
贈ったが、自身は小峰城に留まった。伊達政宗が義親の参陣を差し止めた為だと伝わる。一方、その政宗は散々渋ったものの、
小田原へ向かった。この結果、秀吉は旧蘆名領を没収としたものの伊達家の存続は許した。かたや白川氏に対しては、領地召し
上げの改易処分を下す。ここに白川氏は名跡を絶たれたのである。この後、義親は数年の流浪生活を送ったが、最終的に政宗の
一家臣として召抱えられ、子孫は江戸時代に仙台伊達藩で伊達一門に準じられた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて小峰城だが、旧蘆名領は秀吉の命で蒲生飛騨守氏郷(がもううじさと)が領有する事になる。当初は42万石、後に加増されて
92万石の大封を得た氏郷は鶴ヶ城(会津若松城)を本拠に、4万8000石で与力大名の関右衛門佐一政(せきかずまさ)を小峰城に
入れたのである。程なく一政が信濃国飯山3万石へ移されると、町野吉高(まちのよしたか)が城代に。■■■■■■■■■■■
ところが氏郷は1595年(文禄4年)2月7日、会津入封わずか5年にして死去。後嗣であった蒲生飛騨守秀行は1598年(慶長3年)に
下野国宇都宮(栃木県宇都宮市)へ移封された。秀行に代わって会津を治めたのは上杉左近衛権少将景勝だ。景勝は小峰城に
城代として五百川縫殿介を置いた。この縫殿介なる人物、詳細は不明だが越後国飛島村(現在の新潟県長岡市富島町)を出自と
するようで、場所から推察するに景勝直属の家臣である上田衆に近い存在だったのではないだろうか。■■■■■■■■■■■
ともあれ、入府間もなく景勝は徳川家康と対立。1600年(慶長5年)豊臣政権五大老筆頭として上杉討伐軍を組織した家康に対し
景勝は領国で待ちうけ決戦を挑む準備を行う。このため最前線となる小峰城には縫殿介の他、平林内蔵助らが配された。しかし
家康は奥州の直前・下野国小山で反転、関ヶ原へ。天下分け目の決戦後、戦後処理で上杉家は会津を没収され再び蒲生秀行が
領有。秀行は小峰城代に町野氏吉を置いて3万7000石を与えた。秀行の次代・下野守忠郷(たださと)の頃になると2万8000石で
小峰城には平野日氏が。ところが1627年(寛永4年)1月4日に忠郷が病没、蒲生氏は嫡流が断絶し会津周辺の領地は幕府に収公
されてしまう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

近世城郭へと変貌■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その結果、小峰城には陸奥国棚倉(福島県東白川郡棚倉町)藩主だった丹羽加賀守長重(にわながしげ)が入った。長重は織田
信長の重臣・丹羽五郎左衛門尉長秀(ながひで)の後嗣。それまで棚倉5万石の大名であった長重は、白河5万石を加増され合計
10万石に。それに伴い、従来の居城であった棚倉城から居を移して小峰を本拠とし、城の大改修を行った。小峰城の改修は東北
地方の関門である白河の防備を固める為に幕府が命じたもの。長重はこの当時、一流の築城名人と称されていた事による抜擢
だった。1628年(寛永5年)から始まったこの工事は1632年(寛永9年)まで続けられ、同時に阿武隈川流路の変更、城下町整備も
行われている。城の名も白河城と改められ、現在に至る白河市の基盤がこれにより確立し申した。■■■■■■■■■■■■■
長重は1637年(寛永14年)閏3月6日に死去、左京大夫光重(みつしげ)が跡を継いだが1643年(寛永20年)7月4日、陸奥国二本松
(福島県二本松市)10万700石へと移封される。代わって白河城へは徳川譜代の榊原式部大輔忠次(ただつぐ)が14万石で上野国
館林(群馬県館林市)から7月に入封。しかし1649年(慶安2年)6月9日、15万石で播磨国姫路(兵庫県姫路市)に国替となり、同じく
譜代大名の本多能登守忠義(ただよし)が越後国村上(新潟県村上市)から12万石で入る。忠義は新田開発に力を注いで石高の
増大に成功したが、反面、年貢の取り立ても苛烈に行ったので領民からの大反発を招いた。1662年(寛文2年)11月25日に忠義が
隠居し嫡男の能登守忠平(ただひら)が相続したものの、この時に他の子息へ分知が行われ忠平次弟の山城守忠利(ただとし)に
陸奥国石川(福島県石川郡石川町)1万石、三弟の越中守忠以(ただもち)には浅川(同郡浅川町)1万石、四弟の弾正少弼忠晴
(ただはる)に白河領内2500石、五弟の伊予守忠周(ただちか)に同じく白河領から2500石が分けられた。これでほぼ増収分が差し
引かれ、白河藩領は10万石に。忠平もまた税の取り立てに厳しく、更には1681年(天和元年)7月27日に宇都宮へ転封となる際に
青田刈りを強行、入替わりで宇都宮から新たに15万石で白河城主となった松平(奥平)下総守忠弘に納入する年貢がないという
騒動まで引き起こしている。その忠弘は病に臥せっていて家中の統率がとれない状態にあり、しばらく後に御家騒動が勃発した。
1692年(元禄5年)幕府から藩主閉門のうえ出羽国山形(山形県山形市)へ転封という処断が下された。この為7月27日、山形から
越前松平大和守直矩(なおのり)が15万石で白河へ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
直矩は転封に転封を重ね「引越し大名」と揶揄された人物。こうした経歴の為、松平家は慢性的な財政難に陥っていた。直矩の
跡を大和守基知(もとちか)が継ぐも財政赤字はなお悪化し、1719年(享保4年)白河藩内で大一揆が発生する。基知の跡は養子
大和守明矩(あきのり)が1729年(享保14年)閏9月2日に相続し1741年(寛保元年)11月1日、播磨国姫路に国替えされる。■■■

白河の清き流れで老中に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
白河には11万石で越後国高田(新潟県高田市)から久松松平越中守定賢(さだよし)が。1770年(明和7年)7月12日に死去すると
嫡男の越中守定邦(さだくに)が継いだが、彼には嫡子が無く、しかも老齢であったため、田安徳川家から定信を養子に迎えて、
白河藩の政務を任せた。この人物こそ、後に寛政の改革を行う松平左近衛権少将定信である。定邦から実務を託され、1783年
(天明3年)には正式に藩主に就任した定信は、疲弊していた白河藩内の領民保護を積極的に行い、丁度この時期に起きていた
天明の大飢饉において餓死者を出さぬ実績を挙げる。質素倹約を徹底し、藩士子息のための藩校・立教館や庶民向けの郷校・
敷教舎を設置し領民教育にも力を注いだのだった。これらの働きが評価され、幕閣の中枢に上り詰めた定信は幕政の改革にも
着手するのである。白河領内においては1801年(享和元年)日本最古の公園である南湖公園を造り、庶民に開放した。この南湖
公園は現在でも白河市内の名所でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1812年(文化9年)3月6日、定信は家督を長男の越中守定永(さだなが)に譲って隠居し楽翁(らくおう)と号した。金沢城(石川県
金沢市)の庭園に「兼六園」の名を贈ったのはこの頃である。久松家は1823年(文政6年)3月24日、伊勢国桑名(三重県桑名市)
11万3000石へと移封され、阿部正権(まさのり)が武蔵国忍(埼玉県行田市)より10万石で入封。ちなみにこの時、桑名から忍へ
松平(奥平)下総守忠堯(ただたか)が移っており、白河・桑名・忍の間で三方国替えが行われた事になる。正権は入封直後の
10月6日に死去したので従兄弟の飛騨守正篤(まさあつ)が白河領を相続したが、正篤もまた病弱であった為1831年(天保2年)
11月20日に養子の能登守正瞭(まさあきら)が家督を継いでいる。以後、1838年(天保9年)に能登守正備(まさかた)が、1848年
(嘉永元年)5月10日には正定(まささだ)、同年の10月20日に播磨守正耆(まさひさ)、1864年(元治元年)3月2日に豊後守正外
(まさと、まさとうとも)が継承。榊原氏以後、阿部氏まで白河城主は全て親藩か譜代大名が任じられており、当城が東北地方の
外様大名を監視する要となっていた事を窺わせる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
正外は幕末の混乱期に老中に就任して公武の交渉や外交に奔走する。しかし、1865年(慶応元年)の神戸開港における責任を
取らされ、10月1日勅命により老中を免職される。さらに翌1866年(慶応2年)6月19日に隠居ならびに蟄居を命じられ、4万石減封
された。家督は嫡男の美作守正静(まさきよ)が継ぎ、1867年(慶応3年)1月に棚倉へと転封。この頃、棚倉は名目上の石高より
実高がはるかに下回る荒涼の地であり、彼の地へ移される事は左遷人事とされていた。阿部家が退去した事で、白河は天領に
組み入れられる。ただし、統治は二本松藩に委ねられたため白河城は事実上丹羽氏(二本松藩主)の支城となった。このような
状況の中、戊辰戦争へと突入したのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

壮絶、戊辰戦争■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1868年(慶応4年)閏4月20日、会津藩兵が白河城を占拠し、新政府軍襲来に備えた。これに対し薩摩藩・長州藩・大垣藩・忍藩を
主体とする新政府東山道軍が宇都宮を出撃、25日に白河郊外で両軍が衝突するも、緒戦は地の利を得た会津軍が優勢に動き、
一旦は新政府軍を撃退する。翌26日、会津藩の増援軍や仙台藩・棚倉藩・二本松藩らの軍が白河城へ入城。対する新政府軍は
薩摩藩の増援や土佐藩兵の合流を果たし、5月1日から白河城への攻撃を開始した。兵数は奥羽越列藩同盟軍が勝っていたが、
新政府軍は包囲殲滅の策を練って展開し白河城の占領に成功する。これ以後数日の間、散発的戦闘が両軍の間で発生。列藩
同盟軍は兵を再編し5月26日・27日・28日の3日連続で白河城奪還の攻撃を行ったが効果は無く、6月に入ると新政府軍は徐々に
増援部隊が到着していった。一方で列藩同盟軍は6月12日に再度白河城を攻撃するも失敗。兵数に余力が生まれた新政府軍は
24日に棚倉城をも陥落させ、列藩同盟軍の連携を崩す。明けて25日、さらに7月1日にも列藩同盟軍が白河城を攻略するも上手く
いかず、14日に最後の攻撃が行われたが、それでも白河城を奪い返すことはできなかった。この間、周辺諸地域は次々と新政府
軍の占領下に置かれ、戦線を維持できなくなった列藩同盟軍は会津方面へと撤退する。仮に白河城が列藩同盟軍の手に落ちて
いれば、新政府軍は関東への後退を余儀なくされたと思われるが、堅固な城は新政府軍によって守り切られた為、歴史が後戻り
する事は無かった。しかしこの戦いで白河城は荒廃し、特に5月1日の戦闘で殆んどの建築物が兵火に失したのでござる。■■■
然る後、白河城は下野国佐久山(栃木県大田原市)の交代寄合・福原家の預かりとなる。■■■■■■■■■■■■■■■■
この年の暮れ、12月に旧藩主・阿部正静が明治政府から再立藩を許されるも、戊辰戦争に加わった懲罰として、石高はかつての
10万石から大減封の4万石へ。しかも直後に棚倉への国替えとされ、結局白河藩領は再び明治政府の預かる地になった。1869年
(明治2年)8月、白河城内に白河県が設置され、二本松県を経て最終的には福島県へと統廃合を受けた。一方、1873年(明治6年)
1月14日の廃城令では存城の扱いとなっている。このため、近年まで本丸・二ノ丸と三ノ丸の一部が残されていた。■■■■■■

近世城郭としての構造■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
では改めて近世白河城の縄張りを検証してみると、城は阿武隈川の南岸微高台地を利用して築かれている平山城。丹羽長重の
大改修により、本来は城の北西を流れていた阿武隈川は北側一帯に東西方向で流れる事になり、かつて河川に面していた台地
最高所の小峰ヶ岡(標高370m)を本丸とした。その本丸を全体的に囲う帯曲輪(南東側は竹の丸と称す)が一段下がった所にあり
竹の丸の南側に清水門、そこから接続して本丸南面を守る二ノ丸が用意された。さらに二ノ丸を南〜東にかけて囲う三ノ丸があり
竹の丸東面にある矢の門は三ノ丸北端に繋がっている。この三ノ丸を西〜南〜東へと大きく囲っているのが三ノ丸侍屋敷地で、
全体的には五角形の縄張り。まるで藤堂和泉守高虎が設計した宇和島城(愛媛県宇和島市)の情景を連想させる。高虎も長重も
築城の名手なので、思想は共通したのだろうか。こうした外郭線の、更に北側が流路を変えられた阿武隈川。城の北面は大河を
利用した水濠で天然の要害とし、南面には広大な曲輪群を重ねて防備。各曲輪の出入口は全て門で塞がれている。流石は丹羽
長重、といった所だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
本丸内には合計6基の重層櫓が置かれていた。北東から時計回りに数えて矢の門二重櫓・竹の丸二重櫓・月見二重櫓・富士見
二重櫓・雪見二重櫓それに天守代用とされた三重櫓だ。3重3階、高さが約14mを誇る三重櫓は下見板張りの層塔型で、初重6間
四方・2重目4間四方・3重目2間四方と、各階2間ずつの規則的逓減率を測る。このため最上階の床面積はかなり小さいが、1階と
2階にそれぞれ石落しを兼ねた張出部分があるため偉容を大きく見せている。内部には通し柱が貫通し、当時の建築材は土台に
栗材、主要な柱には松材、他の部分は楢材や桂材を使用していた。屋根の上には1.2mの瓦製鯱を戴き、まさに天守そのもので
あった。しかし残念ながらこれらの櫓群は残さず戊辰戦役で焼失してしまった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
外郭部は土塁で固めていたが、本丸全周は総石垣造り。特に、外から目立つ南面数箇所には同心円状の模様となるよう石材を
配列する「鷹の目石垣」と俗称される組み方を行い、入城者を威圧する効果を狙っていたのが特徴だ。これはアーチ状に石材を
配置し、少ない石材を効率的かつ堅固に積み上げる意味も持っていた。打込ハギの堅牢な高石垣は、櫓台となっていた部分が
特に精緻な算木積みで隅部を強化され強烈な横矢が掛かるようになっていて、実に壮観!■■■■■■■■■■■■■■■■

「平成の築城ブーム」の嚆矢■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
三ノ丸より外側は市街地化され、鉄道・公的建造物や住宅がひしめくようになってしまったが、主郭部分は見事な状態で残されて
いたので1961年(昭和36年)3月7日、白河市の指定史跡に。さらに1987年(昭和62年)白河市制40周年記念事業として三重櫓の
復元計画が企画された。これを機に遺構の残存状況を確認する発掘調査が行われて、櫓の礎石が完全な形で検出された。また
丹羽家や阿部家の家紋が入った屋根瓦・鯱・陶磁器金属製品・漆喰などが出土し復元資料となっている。併せて、三重櫓再建の
史料となる正保城絵図や川越候所伝之図、各種古文書などが検証され全体の整合性が図られた。これらを踏まえ、再建工事に
着工。土台部分は現代的な深礎工法による6本の杭を打ち、建物基礎を鉄筋コンクリートによるスラブの上礎石敷きとしたものの
櫓の本体は伝統工法に則り、木造再建が行われている。使用した木材は松並稲荷山公園(戊辰戦争時の激戦地)にあった樹齢
400年の杉材。この木からは戊辰戦争で撃ち込まれた鉄砲の鉛弾とそれに伴う損傷が発見されており、その部分も含めて用材と
されたため、復元された櫓はまさに戊辰戦争を経験した建物となっている。この他、内壁は羽目板張り(一部漆喰塗り)、天井は
化粧板張りで屋根は本瓦葺き。延べ床面積は258.73u(1階部分170.48u・2階部分72.64u・3階部分15.61u)。それまで、全国
各地の再建天守は鉄筋コンクリート造りがほとんどで木造で旧態に忠実な再現をされる事は皆無だったが、小峰城はこれに挑み
1991年(平成3年)完成。木造高層建築を制限した建築基準法を脱法的手法で回避した点が問題となったが、この快挙は全国に
波及し城郭建築木造再建ブームの火付け役となったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1994年(平成6年)には前御門も木造で再建。三重櫓から前御門まで連なる勇壮な木造建築群は白河市の顔となっている。■■
2006年(平成18年)4月6日、財団法人日本城郭協会による日本百名城に入選。2010年(平成22年)8月5日には国の史跡に指定
されたが、2011年(平成23年)3月11日に起きた東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)で高石垣に大規模な崩落被害を受けて
しまった。白河市では入念に復興事業を行い、約10年を経て大半の復元が完成、城址公園は再び一般開放の運びとなる。また
2022年(令和4年)国道294号線バイパス(小峰大橋)開通に先立ち阿武隈川河畔に接した外郭部北東側の北面で、一帯に植え
られていた木を伐採した事によりそれまで埋もれていた石垣が出現。その長さは180mにも及び、小峰城の新たな名所となった。
今後、白河市では清水門の再建を目指して資料や資金の調達を行うそうである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
東北本線白河駅下車、駅の目の前が小峰城址公園である。駐車場も完備、来訪は簡単だ。先に記した国道294号線バイパスは
東北自動車道の白河中央SICに直結するので(ETC搭載車ならば)高速道路からの接続も良くなった。■■■■■■■■■■■
なお、二ノ丸太鼓門の西側に建てられていた太鼓櫓は1873年(明治6年)旧商家の荒井家に払い下げられ、三ノ丸の紅葉土手へ
移築された後に、1930年(昭和5年)白河市郭内へ再移築、茶室として利用される事になった。この櫓は2重櫓で、1間四方の寄棟
造り。1重目3.33m四方×2重目は3.23m四方という大きさであり、1重目には廂(ひさし)が付されていたと考察されている。1964年
(昭和39年)3月6日に白河市指定重要文化財となっており、改変が激しいものの、現存する唯一の小峰城旧建築物として貴重な
存在だった。年を経て老朽化、そして東日本大震災の被害を受けた事で荒井家は2015年(平成27年)この建物を市に寄贈する。
白河市は観光振興の為この櫓の再整備を行い、個人宅内にあった櫓を一般開放すべく場所を変え再々移築し、これまた2022年
三ノ丸石垣の出現と同時期に観光開放をするに至っている。設置場所は福島地方裁判所白河支所の東側。住宅地の中なので
少々分かり難いが、行ってみる価値はあるだろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群
城域内は国指定史跡

移築された遺構として
太鼓櫓《市指定文化財》








磐城国 白川城

白川城址

 所在地:福島県白河市
藤沢・藤沢山・藤沢窪・大舘山提ヶ入
大搦目ヶ入石切場・大搦目山・大美濃輪

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★☆■■
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白河結城氏の勢力拡大■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名で搦目城(からめじょう)、白河結城氏歴代の本城。白河駅前に小峰城(元来は白川氏の分家である小峰氏の城)があるため
一般に「しらかわ」城と言えば“白河城”であるそちらを指すが、鎌倉時代〜室町時代においてはこちらが“白川城”として機能して
いた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
上記の小峰城の項にて記した通り、1189年に源頼朝の奥州征伐へ従軍した功で結城上野介朝光(ともみつ)は奥州の関門である
白河の地を拝領した。朝光の母・寒河尼(さむかわのあま)は頼朝の乳母であり、朝光は頼朝に乳兄弟として可愛がられていた。
朝光もまた、武家の棟梁である頼朝の御恩に報いるべく忠勤に励んでおり、これが故に北関東に大勢力を誇る結城氏は、頼朝の
側近として重きを為していたのだ。朝光は鎌倉または旧領の下総に居を置いていたが、その孫である左衛門尉祐広(すけひろ)が
1289年(正応2年)頃に白河へ下向。白川城の正確な築城年は不明とされているが、恐らくこの時に築かれたと見られる。祐広が
白河に入り実効支配を始めた事から、白川氏の初代とするのが一般的だ(但し、白河庄の全土を治めた訳ではない)■■■■■
一方、白川結城氏系図によると祐広の父・大蔵権少輔朝広(ともひろ)の代から白川城に入っていたとしている。真偽の程は不明
だが、白川氏は祐広の後に上野介宗広(むねひろ)が家督を継承。この頃から鎌倉幕府倒幕の争いが表面化し、宗広は後醍醐
天皇の綸旨に従って倒幕に多大な貢献を為した。これにより白川氏は後醍醐帝から絶大な信任を受ける。宗広は下総結城氏に
代わって結城氏総領と認められ陸奥国諸奉行を任された。その子・親朝には糠部(ぬかのぶ)郡九戸(現在の岩手県九戸郡)の
領地が与えられている。朝親は小峰城を築いた朝親だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
更に南朝の後醍醐帝と北朝の足利尊氏が対立を始めると、宗広は天皇を守るべく畿内まで軍を率いて遠征しようとする。当然、
関東に勢力を持つ北朝方諸将はこれを阻止せんと防衛線を策定し、宗広の遠征軍は各地で転戦を重ねた。また、宗広の留守に
乗じて常陸国の佐竹氏や石川氏(いずれも北朝方)の軍が白川城への攻撃を行った記録もある。北朝の戦線を突破した宗広は
京都まで進軍、この戦果でいったんは後醍醐天皇が京都への還御を果たしている。天皇は宗広に多大な恩賞を与え、朝親には
下野守護職を任じる。その後も宗広は鎌倉や美濃国(岐阜県南部)などで戦い、1338年(延元3年/暦応元年)伊勢国(三重県)で
病没した。帰国した親朝は宗広の跡を継ぎ、継続して南朝を支持。小峰築城を機に家督を嫡子・弾正少弼顕朝(あきとも)に譲り
自らは別家の小峰氏を名乗った。斯くして白川・小峰2家の体制が成立、父の小峰親朝と子の白川顕朝は共同して東国における
南朝の総督・大納言北畠親房(きたばたけちかふさ)に従う。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

室町時代を生き延びる■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし、この頃から南朝は劣勢に陥る。南朝の軍勢は東北や九州に根強い根拠地を持っていたが、分断されている為に兵力の
集中運用が不可能だったのだ。北朝は敵対勢力を各個撃破、室町幕府の優位は揺るぎないものとなる。こうした情勢に1342年
(興国3年/康永元年)親朝はとうとう親房を見限り、白川氏・小峰氏は北朝へ帰順した。強大な軍事力を有していた2氏が南朝を
離れた事で、同じく北関東・東北に勢力を持ち、南朝の支柱だった伊達氏も継戦を放棄。ここに、東国における南北朝の争いは
終焉を迎えたのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
のちに白川氏は関東の重鎮として足利将軍家からも頼られるようになる。白川顕朝は1353年(正平8年/文和2年)室町幕府から
白河ほか奥州8郡の検断職(けんだんしき、軍事・警察権の統率職制)に任じられ、1367年(正平22年/貞治6年)には2代将軍の
足利義詮(よしあきら)へ反乱を起こした吉良氏の討伐に軍を出し勝利している。その顕朝は1369年(正平24年/応安2年)養子の
中務允満朝(みつとも)に家督を譲渡した。満朝は分家である小峰氏から白川氏に入った人物で、室町体制において東国支配の
実務を担当した関東管領との関係を深め、代々の関東管領を世襲していた上杉氏の命令に従っている。満朝の跡を継いだ弾正
少弼氏朝(うじとも)も室町幕府に出仕した。そして、小峰氏から氏朝の後嗣に入った修理大夫直朝(なおとも)の代には白川氏の
最盛期が築かれる。南北朝の頃には陸奥国諸奉行、室町幕府からは奥州検断職の職制を認められた白川氏は他の勢力よりも
抜きん出た家格と見做され、北関東や南奥州における盟主的地位を築いていたのである。そうした事で直朝は、領国を追われた
宇都宮下野守等綱(ひとつな)の保護、那須氏(下野北部の国人)内紛の調停、蘆名氏(会津太守)の救援、佐竹氏の援助、石川
一族の傍流に当たる蒲田氏の所領没収、文安年間(1444年〜1449年)岩城氏内訌への介入といった功績を挙げている。1454年
(享徳3年)子の弾正少弼政朝(まさとも)に家督を譲り出家したが、その後も直朝は政朝の後見として力を持ち続け、白河領では
平穏な時代を謳歌した。1481年(文明13年)3月、白川城下の鹿島神社で1日1万句という大連歌会が催され、直朝・政朝父子も
参加してござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
政朝も引き続き勢力を維持し、1470年(文明2年)に相馬氏・1474年(文明6年)に岩城氏と同盟を結ぶ。1484年(文明16年)には
石川氏一族の一部を白川氏一門として傘下に収める。更に1489年(延徳元年)伊達氏や蘆名氏・小山氏・下総結城氏らと連合し
佐竹氏を攻撃した。時は応仁・文明の乱を過ぎ、全国に戦国の戦火が広まる頃。己の軍事力がものを言い、一族縁者であろうと
裏切りが横行する世に変わりつつあった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

戦国時代に没落■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうした中の1510年(永正7年)政朝は分家の小峰氏と対立を引き起こす。小峰氏8代当主・修理大夫朝脩(とものぶ)を攻め2月
27日に自殺させたのだ。政朝には嫡男の左兵衛佐顕頼(あきより)が居たのだが、老いてから成した末子・五郎を溺愛したので
家督を譲らなかったのである。これに朝脩が反発したために政朝は朝脩を自害へ追い込んだ。しかし朝脩の父・三河守直常が
この年の9月に復讐の兵を挙げ、政朝は白川城を捨てて那須へと逃亡し行方知れずとなる。騒動の末にようやく顕頼が家督を
継承するものの、小峰直常やその協力者である岩城下総守常隆(つねたか)の台頭著しく、白川氏は急激に権勢や所領を失い
分家である小峰氏の方が大きな勢力を維持するようになった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
顕頼の後は左兵衛佐義綱(よしつな)、さらに左京大夫晴綱(はるつな)と代を重ねるが白川氏の没落は歯止めが掛からない。
特に晴綱は病弱であり、遂に分家の小峰氏当主・義親に実務を委ねた。この頃、南から迫る佐竹氏が白川の領土を続々と奪い
取っている。晴綱の病死後、わずか7歳の嫡子・治部大輔義顕(よしあき)が家督を継ぐ。しかし実権は既に義親が握っており、
1575年(天正3年)正月に白川城を追放された。これにより小峰義親が本家である白川氏の家督を簒奪、以後は小峰城が白川
氏の本拠となる。白川城の廃城時期は明らかでないが、おそらくこの前後と思われよう。なお、下剋上を行った義親は白川氏・
小峰氏の一族を糾合して迫り来る佐竹氏に対抗しようとしたが、結局それは果たせずに、佐竹家から養子が送り込まれたのは
小峰城の項に記した通りでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

城址のいま■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
白川城は東北本線白河駅より南東へ約3kmの藤沢山にある。社川の支流である藤野川が南に流れ、北には阿武隈川とその
支流の谷津田(やんた)川が天然の外濠を成す。南北の川に挟まれた標高400m程度の丘陵群を利用した山城で、御本城山
(館山)と呼ばれる部分に主郭が、その北にある藤沢山中段に二ノ郭が置かれている。主郭の東側には鐘撞堂とされる平場が
あり、これらの各曲輪が尾根道を利用して接続。また、それぞれの曲輪の周囲には帯曲輪があり、城域随所に空堀や土塁が
構えられている。山城と言ってもそれほど険峻な部分は見受けられない城なので、こうした人工物によって防備を固めていた
のだろう。主要な遺構が残存する部分、面積にして34万5885.41uが1953年(昭和28年)10月1日に福島県指定史跡になって
いる。ただ、近年の調査によって史跡指定地域の南西側丘陵にも遺構が検出されており、城域の再考が検討されている。■■
主郭近辺は公園化が図られて比較的良好に整備されている。しかし、その主郭へ至る道は福島県道232号線から分岐した後
未舗装部分があり、走行は注意が必要。乗用車でも大型のものはあまり進入する事を薦めない。駐車する場合は写真にある
城址碑の手前に数台の車を停める空間があるので、そこを利用するのが良うござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■
なお、白川城址の北東端部分(谷津田川と阿武隈川の合流点付近)には、近隣の搦目集落をまとめた大庄屋・内山官左衛門
重濃(しげたね)によって1807年(文化4年)に建立された「感忠銘碑」がある。内容は白川宗広・親光(ちかみつ)父子の忠烈を
伝えるもの。九郎大夫判官親光は宗広の2男、親朝の弟。宗広に従って進軍、敵の総大将である足利尊氏の暗殺を謀ったが、
返り討ちで殺害された悲運の武将だ。山塊の断崖に彫り込まれる磨崖碑形式の感忠銘碑は、高さ7.6m×幅2.7m。題字にある
「感忠銘」の字は時の白河藩主・松平定信が揮毫し、撰文は藩校・立教館教授の広瀬典(てん)こと広瀬蒙斎(もうさい)、書は
千里啓(せんのりけい、賀孝啓とも)。白河城址と併せて県史跡に指定。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群








磐城国 天王館

天王館(河東田城)跡 白旗神社

 所在地:福島県白河市表郷河東田字天王下
 (旧 福島県西白河郡表郷村河東田字天王下)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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“村の古城”■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
白河市南東部、かつての表郷村にある白旗神社境内が城館跡。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
天王館(てんのうたて)は天王寺館あるいは河東田(かとうだ)城とも呼ばれ、白川氏から分家した河東田氏が有したとされる。
主郭である神社の標高は340m、北側の山系から水田地帯の低湿地部に1箇所だけ突出した孤島状の低台地を利用している。
この台地の比高は10m程度。館の南側には社川が東から西へ流れ、水田の用水であると同時に館の外郭水濠を成していたと
思われる。館の規模はかなり小さく、曲輪としていた削平地の周囲に土塁や空堀の痕跡があるようなのだが、全体的な構造は
それほど技巧的でもなくて、遺構は不明瞭だ。経年風化や近年の改変による点もあろうが、元来の館自体が大して大掛かりな
土木工事を行っていなかったようである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この館の構築年代は不明だが、白川(小峰)顕朝2男(系譜には諸説あり)・朝重(ともしげ)の4代孫である重継(しげつぐ)が
河東田地方を領有して入り、河東田氏を名乗った事で築城されたと言われている。戦国時代になると、常陸国から侵攻する
佐竹氏と白川氏の攻防でこの城が最前線となっていた。1575年(天正3年)近隣にある赤館(福島県東白川郡棚倉町)が佐竹
軍に落とされたため翌1576年(天正4年)白川義親が河東田上総守清重(きよしげ)の館、すなわち天王館に兵を集結させて
赤館奪還の夜襲を決行、成功を果たした。しかし1579年(天正7年)5月に佐竹の大軍が来襲し、天王館を含む近隣の諸城を
次々と陥落させ、遂に白川義親は佐竹氏に降伏する。この後、蘆名氏滅亡に伴って白川氏は伊達氏に臣従するも最終的に
豊臣秀吉による奥州仕置が行われ義親一党は封を失った。天王館はこれで廃城となり、主の清重は義親に従ってこの地を
離れ、後に伊達家の家臣として召抱えられたのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1980年(昭和55年)3月14日、当時の表郷村が史跡に指定。平成の市町村合併により2005年(平成17年)11月7日、白河市に
編入され、現在は白旗神社鳥居の脇に白河市の設置した城址案内板が立てられている。■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群
城域は市指定史跡




鶴ヶ城・允殿館・神指城  大和久館