岩代国 鶴ヶ城

鶴ヶ城 復元天守

 所在地:福島県会津若松市追手町・城東町・城南町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★☆
★★★★☆



鎌倉武士の名門・蘆名家による築城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在の正式名称は会津若松城、地元でよく用いられている名称は鶴ヶ城。国の史跡指定上での名称は若松城となっている、東北地方に
おける屈指の名城。その他に旧名で東黒川館・黒川城、小高木城との別名も。会津盆地内、会津若松市の中心街にある平山城である。
会津地方は鎌倉時代に源頼朝が佐原十郎義連(さわらよしつら)へ封を与え、以来その子孫が領有した地。義連は鎌倉幕府御家人衆の
中でも名門を誇る三浦氏の一門だ。会津を領した義連の子孫は蘆名(芦名)氏を名乗るようになったが、この「蘆名」という姓は三浦氏に
縁のある三浦半島(神奈川県)の字(あざ)名「芦名」からだと言われてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
鶴ヶ城の起源は1384年(元中元年/至徳元年)蘆名氏7代・遠江守直盛(なおもり)が小田木の地(現在は小田垣と記される)に東黒川館を
築いた事に始まる。小田垣は現在の鶴ヶ城三ノ丸付近に相当する。しかしこの館はまだ平易な館造りといった規模で、現状の如く広大な
敷地を有するものではなかっただろう。以来、室町時代を通じて蘆名氏は会津地方の経営に専心、次第に東黒川館の規模は拡張されて
いったと見られる。直盛以後、遠江守詮盛(あきもり)―修理大夫盛政(もりまさ)―修理大夫盛久(もりひさ)―下総守盛信(もりのぶ)―
下総守盛詮(もりあきら)―修理大夫盛高(もりたか)―遠江守盛滋(もりしげ)―遠江守盛舜(もりきよ)と続いて、戦国時代の後期になると
東北地方の血脈が乱れる中、蘆名氏最高の傑物とされる16代・修理大夫盛氏(もりうじ)が登場する。1541年(天文10年)に家督相続した
盛氏は東黒川館の大改修を行い黒川城へ拡張させると共に、政治・軍事において卓越した手腕を発揮し蘆名氏の最盛期を現出させた。
だが盛氏の晩年から蘆名氏は家督相続をはじめとする諸問題の解決に難渋、急激に衰退をみせていく。盛氏存命中の1574年(天正2年)
6月5日、蘆名氏17代を継いでいた修理大夫盛興(もりおき)が酒毒により29歳の若さで病没。盛興には男子が居らず、兄弟も居なかった
ため、血縁関係にあった二階堂氏から左京亮盛隆(もりたか)を急遽18代当主に迎え入れ、盛氏が後見人として政務を執った。■■■■
これにより蘆名氏の血筋は保たれたが、他家から養子に入った盛隆に対し家臣団からの不信は完全に払底できず、また周辺諸勢力との
攻防に伴い戦費が増大、蘆名氏は数回に及ぶ徳政令を発出する不安定さを見せた。こうした最中の1580年(天正8年)6月17日に盛氏が
死去。1584年(天正12年)6月には外遊に及んだ盛隆が留守にした隙を突いて反盛隆派の家臣である栗村下総守盛胤(くりむらもりたね)
松本左衛門行輔(まつもとゆきすけ)らが黒川城を占拠する事件が起きた。盛隆は慌てて取って返し翌月に城を取り返したものの、同年
10月6日には黒川城内で盛隆が家臣の大庭三左衛門に襲われて死亡する事態までが発生した。蘆名氏19代はわずか1歳の幼児である
亀王丸(盛隆嫡男)が継ぐも、彼もまた1586年(天正14年)11月21日に3歳で病死。いよいよ蘆名氏の後継は空位となってしまった。■■

伊達政宗の入城、そして国替え■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この状況に蘆名氏家臣団は再び他家からの養子を迎え入れ主家の存続を図り、その候補に伊達藤次郎政宗の弟・小次郎と佐竹常陸介
義重の子・白川平四郎義広の2名が挙げられた。言うまでもないが、政宗は当時の米沢城(山形県米沢市)主にして蘆名氏の北に聳える
大名、義重は常陸国を制圧し奥羽にも関東にも睨みを利かせた強豪である。が、義広は既に白川氏に養子入りして白川家の当主にある
人物であり、蘆名氏は旧来から伊達氏と血縁が深かった為、小次郎が優勢だった。家臣団も大半が伊達氏との縁組に傾いていたのだが
家老の金上遠江守盛備(かながみもりはる)が半ば強引に義広の相続を決定。佐竹氏と誼を通じれば、越後の上杉氏や当時天下統一に
王手をかけていた豊臣秀吉との友好関係が築けると言う外交戦略が裏にあった。ところが、これは隣国である伊達氏との断絶を生んで、
家督相続に不満を持つ家臣団の離反も招いてしまう。その結果、1589年(天正17年)6月5日、磐梯山麓の摺上原(すりあげはら)において
伊達軍と蘆名軍が戦闘。蘆名軍は当初優勢に圧したが政宗が絶妙の采配で反撃に転じるや、統制の取れない蘆名家臣団が崩壊し戦は
伊達軍の圧勝に終わったのである。遂に国を維持できなくなった蘆名義広は、翌日ごくわずかの近習のみを引き連れて黒川城を放棄し、
実家の佐竹家へ落ち延びる。6月11日、空城となった黒川城を伊達政宗が無血占領し、蘆名家の広大な領土はそのまま伊達氏の版図に
加えられた。ここに、鎌倉以来続いた蘆名氏の会津領有は終わりを告げ、政宗は120万石にもなる広大な領土を有する太守となったので
あった。余談だがこの日は雨の日で、その時に政宗が入城しながら歌った唄が民謡「さんさ時雨」であるという伝承が残る。以後、政宗は
米沢からここ黒川城へと本拠を移した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方、この戦果に豊臣秀吉は不快の念を貯めた。既に関白となり事実上日本の支配者の座にあった秀吉は、全国に向けて戦闘の即時
停止を命じていたにも関わらず摺上原の戦いが起きたからである。明けて1590年(天正18年)秀吉は小田原後北条氏討伐の軍を挙げると
共に、全国の大名へその参陣、即ち豊臣政権への服従を求めたのだが、政宗はこの対応に苦慮する。伊達家は遠交近攻の戦略に従い、
後北条氏との約定があったのである。家中を割る意見交換の後、ようやく政宗は秀吉への臣従を決定。これに対して秀吉は、小田原へと
参陣した事で伊達家の存続は認めたものの、摺上原合戦には厳しい裁定を行って、政宗が獲得した会津領の没収を命じた。よって、黒川
城主はわずか1年ほどで交代する。政宗は米沢に戻り、それに替わって秀吉に命じられた蒲生飛騨守氏郷(がもううじさと)が1590年8月、
黒川城に入ったのだった。氏郷は、この時35歳。織田信長からも才を認められたと言う気鋭の切れ者は、42万石のちに加増され92万石の
石高を与えられ関東・奥州諸大名の監視役を秀吉から期待されたのである。氏郷はこれによく応え会津の経営に尽力。氏郷の旧領だった
伊勢国松坂(現在の三重県松阪市)から商人を呼び寄せて楽市楽座を展開、商業を活性化させると共に漆器や酒造などの産業を奨励し
職工も発展させている。翌1591年(天正19年)にかけて、氏郷は奥羽全域で起きた大崎・葛西一揆の鎮定に忙殺されつつも鶴ヶ城の近世
城郭化を図り、1592年(文禄元年)からは城下町の再編工事にも着手している。これにより現在の会津若松市や鶴ヶ城の体裁が整えられ
1593年(文禄2年)には7重と伝わる巨大な望楼型の天守も竣工。この時期、氏郷は縁起を担いで黒川城下町の名を若松に改めた。また、
城名は氏郷の幼名(鶴千代)から採って鶴ヶ城とした。町の名は若松、城の名は鶴ヶ城である為、現在は混同されて若松城とも呼ばれて
いる訳だ。氏郷による改修工事で、鶴ヶ城は所謂“織豊系(しょくほうけい)城郭”へと変貌し、発掘調査の結果で金箔瓦も使用されていた
事が明らかになっている。つまりこの城は豊臣政権の権威を奥羽諸大名に喧伝する城郭となったのだ。なお1591年に千利休が秀吉から
切腹を命じられた際に、氏郷は利休の子・少庵(しょうあん)を会津に匿って秀吉に千家再興を願い出ている。氏郷の厚意に対して少庵は
茶室の麟閣(りんかく)を建立。氏郷が“利休七哲”と呼ばれる千利休の高弟であった故の縁である。この後、少庵は秀吉から千家茶道の
復活を認められてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

次々と替わる城主■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、切れ者の名を欲しいままにした氏郷であったが、1595年(文禄4年)2月7日40歳の若さで急死。あまりにも早い死は、氏郷の才覚を
恐れた秀吉が毒殺したとの噂まで呼んでいる。彼の死によって会津は嫡男・飛騨守秀行が継承したものの、若年の秀行には92万石もの
大封を統治する能力がないとされ、1598年(慶長3年)3月に下野国宇都宮(栃木県宇都宮市)18万石へ移され申した。蒲生家に代わって
会津へ入府したのは越後から国替えになった上杉左近衛権少将景勝(かげかつ)。景勝には会津の他、出羽3郡や佐渡3郡も加えられて
合計120万石の領地が与えられ申した。これまた、東北地方の要である会津から南の徳川家康・北の伊達政宗らを監視する任があったと
されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
豊臣政権五大老の一人だった景勝は、秀吉没後の不安定な情勢において領内の防備体制を固める事に専心。1599年(慶長4年)頃から
各地に砦や城を築き、軍事街道などの整備を盛んに行っている。こうした軍備増強に対して、政権首座にあった徳川家康が謀反の疑いを
かけた事から、上杉家には大坂から討伐軍が派遣される流れになっていく。1600年(慶長5年)2月に景勝は本拠となる城郭も鶴ヶ城から
移そうとして、新たに神指(こうざし)城(会津若松市内、下記)の築城に着手。鶴ヶ城は蘆名時代から会津の中心として用いられたが、東側
約1〜2kmの位置に小高い丘陵地帯があった事から、城下町の拡充に難を来たす予測が立てられたと共に、こうした丘陵部から城内を
見透かされる危険性を孕んでいた為だとされる。神指城は鶴ヶ城から北西4kmの位置。上杉家宿老・直江山城守兼続(なおえかねつぐ)と
彼の実弟である大国但馬守実頼(おおくにさねより)を普請奉行とし、8万人〜12万人と言われる人夫を動員して築城工事が進められたが
その途中に家康率いる上杉討伐軍が迫ったため工事は中断する。結局、小山評定で家康らは上方へ反転し関ヶ原合戦に至り、上杉軍は
家康に同調していた最上・伊達らと交戦するも敗退したのは周知の通り。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦後処理により、1601年(慶長6年)9月に上杉家は会津領を没収されて米沢30万石へと大減封。未完成の神指城はそのまま放棄され、
引き続き鶴ヶ城が会津の首府として機能し続け、一度は去った蒲生秀行が60万石で再封されたのだった。されど蒲生氏の治世は上手く
定まらなかった。会津に入った秀行は、仕置奉行に岡半兵衛重政を登用して城の整備や町屋の振興を図ったが、1611年(慶長16年)8月
21日の午前に大地震が発生し壊滅的被害を被っている。この心労が祟った秀行は病に伏し、1612年(慶長17年)5月14日に亡くなった。
享年30歳。その跡を長男の下野守忠郷(たださと)が継いだが、まだ10歳であったために実務は母の振姫(ふりひめ)が代行。振姫は徳川
家康の娘であり、会津地震被害の復興を寺社への信心に求めたが、藩財政を省みぬほどの寄付を寺院へ行った事で実務派の岡重政と
対立する。振姫と重政の反駁は遂に徳川将軍家の裁定を必要とする程になり、家康の娘に逆らった事から重政に切腹の命が下ったが、
夫亡き後の振姫も1615年(元和元年)会津から引き離されて、翌1616年(元和2年)4月に浅野但馬守長晟(ながあきら、広島藩主)へ再嫁
した後、1617年(元和3年)8月28日に死去する。母と離れた忠郷は菩提を弔うべく領内の融通寺に寺領を寄付したという。振姫と重政の
両者が居なくなった後も会津領内は騒動が絶えず、遂には1627年(寛永4年)1月4日に忠郷も26歳の若さで病没。継嗣がいなかった為
蒲生氏は断絶の危機に瀕するが、忠郷が家康の孫にあたる縁から特別な計らいを受け、同じく振姫が生んだ中務大輔忠知(ただとも)に
家督相続が許される。忠知は忠郷の弟で別家を立てていた人物だ。しかし会津領は没収され、伊予国松山(愛媛県松山市)24万石への
大減封であった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
代わって会津には松山から加藤左馬助嘉明(よしあき)が43万5500石で入封。彼は松山で20万石を有していたため禄高倍増の大加増で
あったのだが、心血注いだ松山城の築城工事が完成を目前にした時での転封だったので、落胆しての会津入りであったと伝わる。武勇を
鳴らした賤ヶ岳七本槍ならではの逸話といった所だろうか。1631年(寛永8年)9月12日に嘉明が没すると、長男の式部少輔明成が相続。
1611年の会津地震以来、傾いていた鶴ヶ城天守は明成の治世下において改修工事を施され、1639年(寛永16年)に5重の層塔型天守に
改められた上、西出丸や北出丸が構えられ現在見える城の形を整えたのである。鶴ヶ城天守建築が天守台よりも一回り小さい床面積に
なっているのは、かつて7重の天守があった石垣上に5重の天守を再築したからだ。一方で明成は暗愚の君であり、領民に過酷な重税を
課し、重臣が主を見限って出奔する騒動を起こしている。このため、幕府は明成に重大な問題ありと詮議を行い、遂に明成自身が1643年
(寛永20年)4月「大名の任に堪えられず領地を返上する」と申し出る事態に及んだ。これを受けた幕府は5月、加藤家を改易。世に言う
会津騒動でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

保科正之の入城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
同年7月4日、会津若松には出羽国山形(山形県山形市)20万石の主であった保科肥後守正之(ほしなまさゆき)が23万石を以って入る。
正之は徳川2代将軍・秀忠の庶子として生まれたが、嫉妬深い正室の怒りを恐れ甲斐武田家遺臣・保科氏の養子として育てられた人物。
英明の誉れ高い正之は、兄である3代将軍・家光に見い出されその絶大な信任を受け、会津藩主に大抜擢されたのだ。加藤家によって
荒廃した会津に善政を敷いて、目安箱制度や社倉制(災害に備えて穀物を備蓄する制度)を導入。朱子学に基づいた規律正しい政治を
目指すと共に産業育成にも力を注ぎ、江戸時代初期の四賢君に数えられている程であった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
(他の3名は水戸・権中納言徳川光圀(みつくに)、岡山・池田左近衛権少将光政(みつまさ)、金沢・前田加賀守綱紀(つなのり))■■■
律儀な性格ゆえ正之は(徳川縁者として松平姓を名乗る資格があったにも拘らず)養育してくれた保科家への恩義を忘れず生涯に亘って
保科姓を用いたが、将軍の弟として幕政に深く関与し、会津藩は親藩として重きを成していく。家光臨終の際には後事を託され、4代将軍
家綱の世に文治政治を推進。明暦の大火による江戸復興においては、幕府の中枢である江戸城(東京都千代田区)天守の再建よりも、
民生復興を最優先とする英断を下した傑物でもあった。家光の遺命を忠実に守るため1668年(寛文8年)に正之は会津藩の家訓を制定。
「会津家訓(かきん)十五箇条」と呼ばれるこの家訓は、何をおいても会津藩主は徳川将軍家への忠誠を第一とする事が定められており、
幕末の戊辰戦争で会津藩が徹底抗戦する遠因となっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
翌1669年(寛文9年)家督を嫡男(4男)の筑前守正経(まさつね)が継承。正経の代では城下に薬草園(後の御薬園)が設置され、領民の
疫病対策を行っている。正経には男子がいなかった為、弟の左近衛権中将正容(まさかた、正之6男)が1681年(天和元年)家督を相続。
1696年(元禄9年)12月9日、正容は幕府から松平姓と葵紋の永代使用を下命され、松平姓へと改姓。以後、東北の雄藩たる会津藩主は
会津松平家として代々の当主を紡ぐ事になり申した。その正容が1731年(享保16年)9月10日に没したため、4代目の家督を肥後守容貞
(かたさだ)が継承する。同様に1750年(寛延3年)9月27日に容貞が亡くなり、5代・左近衛権中将容頌(かたのぶ)が相続。容頌は会津藩
中興の祖であり、それまで飢饉などで破綻寸前だった藩財政を立て直すべく藩政改革に着手した人物でござった。改革にあたり、容頌は
田中三郎兵衛玄宰(はるなか)を家老に抜擢。玄宰は徹底した倹約提言や殖産興業の指導を行い、容頌もまた藩主自らこのような倹約を
率先して行い模範を示した。加えて、1803年(享和3年)に藩校の日新館を創設。ここでは藩士の子息のみならず庶民も学ぶ事が許され、
広く人材の育成に貢献している。日新館の履修科目は文学・礼式のみならず、兵学や水練などの鍛錬も入っており、徹底した精神修行と
即戦力を開花させる実学主義が見受けられる。折りしも北方ではロシアの脅威が高まった時期。会津藩は幕命により度々蝦夷地警備を
任じられており、日新館の修練は必要とされていたものであった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

幕末会津の受難■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1805年(文化2年)7月29日に容頌が死去すると、養子の若狭守容住(かたおき)が家督を継承。容住は3代・正容の孫だ。しかし同年12月
27日に没し、跡を2男・左近衛権少将容衆(かたひろ)が継いだ。その容衆も1822年(文政5年)2月29日にわずか20歳で亡くなってしまう。
ここに会津松平家は保科正之以来の男系直系が絶えて、高須松平家(尾張徳川家の分家)から養子に迎えられた左近衛権少将容敬
(かたたか)が8代家督を相続。同様に1852年(嘉永5年)2月10日、容敬死没に伴って高須松平家から9代当主として左近衛権中将容保
(かたもり)が入る。会津松平家当主として幕末の混乱期、徹底した佐幕派として行動した容保は、孝明天皇の時代に京都守護職として
朝廷警備に活躍した。ところが孝明帝が崩御し幕府が大政奉還を行うや、薩長の宿敵として朝敵の汚名を着せられる。それでも領土の
会津に戻った容保は、明治新政府軍との徹底抗戦を断行。戊辰戦争における会津の戦いは熾烈を極める事になった。■■■■■■■
1868年(慶応4年)8月21日、母成峠(ぼなりとうげ、会津藩境)での戦いを征した新政府軍が会津藩領に侵攻。会津藩側ではこの峠から
敵が入る事を想定していなかったため急遽、白虎隊などの予備役を招集して反撃するも効果は出ず、23日には若松の町を新政府軍が
包囲する状況になった。白虎隊二番隊のうち20名が転戦に転戦を重ね、飯盛山(若松市街地を望む山)にて自刃(19名死亡)した悲劇は
この時の話である。彼らは町に上がった煙を城が落ちて炎上したものと誤認し、もはやこれまでと自ら命を絶ったと言うのが通説であり、
若さゆえの過ちと忠義の心が人々の悲哀を呼び起こす。されど、実際には落城しておらず、城は健在。また、白虎隊士もそれは分かって
いたが、もはや手負いの体では帰城する事も叶わぬため、足手まといとならないように自決したというのが、近年の新資料発見によって
明らかになった。いずれにせよ、若者の悲壮な覚悟を物語る話に変わりはない。他にも、こうした悲劇が会津城下の随所で繰り返される
中で、鶴ヶ城では約1ヶ月間の籠城戦が継続されていく。新式兵装を施した新政府軍は盛んに鶴ヶ城へ砲撃を加え、天守にも数発の弾が
命中。こうした砲撃は、主に鶴ヶ城の東側にある山塊から撃ち込まれたもので、かつて上杉景勝が城の防備に難ありだと予想した通りの
結果になった訳だ。一方、会津軍も城内の備えを固めつつ時に城外へ討って出る攻防を重ね完全に事態は膠着したが、この間に頼みと
していた他の東北諸藩は続々と新政府に降伏していった為、遂に後詰の可能性が絶たれた。城兵の疲労は極まり、武器弾薬や兵糧の
備えもなくなったので、ここに城主・容保は英断を下し9月22日新政府軍に降伏。籠城中に改元され、年号は明治に改まっていた。一部、
継戦を主張する部隊は北上して箱館戦争に参加したものの、大半の人員はこの時に城を退去。松平容保は江戸で蟄居謹慎となって、
鶴ヶ城は新政府軍が接収した。また、会津戦争での戦死者に対しては新政府から埋葬が禁止され、腐敗するまま長らく放置されるという
凄惨な状態が続いた。この為、現代でも会津人は長州人に対して怨嗟の念を抱いているという。なお、会津松平家は後に明治政府から
許され斗南藩(青森県)を立藩したが名目上の石高3万石、実高は7000石程度に過ぎず、極寒の僻地であったため藩士・領民の生活は
苦難を極めた。これもまた、会津人の恨みを増す処置であったと言えよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

未来へ繋ぐ途■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて鶴ヶ城のその後であるが、砲撃を喰らった天守は壁面の損壊などはあったものの内部構造に深刻な被害が無く倒壊はしなかった。
創建からおよそ230年を経た木造高層建築でありながら近代兵器にも耐えたのであるから、江戸時代初期の建造物でも相当な耐弾性を
有していた証と言えよう。1869年(明治2年)に鶴ヶ城は兵部省へ移管され、後に陸軍仙台鎮台の管理下に置かれた。一方、民政面では
若松県が本丸内に構えられた為、実際の管理は若松県に委ねられている。1873年(明治6年)1月、明治政府より廃城令が発布されたが
鶴ヶ城は存城の扱いとされており申す。しかし同年12月に若松県は城内建築物の破却売却を明治政府に建言。このため、荒廃するまま
放置されていた天守ほか数々の建築物は、1874年(明治7年)陸軍省の命令で取り壊されている。なお、これに先立つ1870年(明治3年)
本丸内にあった「御三階」と呼ばれる楼閣と大書院玄関部分が城下の浄土宗正覚山阿弥陀寺に移築されている。よって、御三階が唯一
現在まで残る古建築物となり申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1890年(明治23年)旧城地のうち約29haが政府から払い下げられる事になり、元会津藩士の遠藤敬止(えんどうけいし)が私費2500円で
買い取って、旧主・松平家に寄付した。次いで1908年(明治41年)三ノ丸から城外にかけて陸軍の練兵場が設置されたため、その部分の
土塁や堀が整地されてしまう。一方それ以外の部分(本丸・二ノ丸など旧城中枢部分)約23haは残存と決まり、1917年(大正6年)これらの
部分を若松公園として整備する方針が持ち上がる。この方針に基づいて、1927年(昭和2年)にかけて当時の若松市による跡地の買収が
行われたが(この時、松平家所有地も市に譲渡された)、同時に公園化目的で石垣の破却なども為されたため、城域を保全すべく1930年
(昭和5年)福島県によって国史跡への仮指定が行われ、1934年(昭和9年)12月28日に本指定となったのである。また、御薬園は1932年
(昭和7年)10月19日に国の名勝となっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
太平洋戦争後の困窮期、本丸内に競輪場が置かれ公営収入源になっていたが、これは1957年(昭和32年)城外に移転。そして1965年
(昭和40年)9月17日、鉄筋コンクリート造りの外観復興天守が落成。建物の高さは25m、石垣を含めた総高は36mを有する。その内部は
郷土博物館となり会津地方の歴史を展示している。ちなみに、鯱の目には2カラットのダイヤモンドが埋め込まれていた。以来、城址は
会津の“心の拠り所”として整備されていく。1984年(昭和59年)鶴ヶ城築城600年記念式典が行われて、1990年(平成2年)9月16日には
戊辰戦争後長らく石州流茶人・森川善兵衛宅に保管されていた麟閣が再び元の場所へ戻された。これは若松市制90周年を記念しての
事業で、麟閣は一般公開されている。1993年(平成5年)10月29日に外堀をはじめとする外郭遺構の一部が国史跡に追加指定。それに
基づき、総合的な「史跡若松城跡総合整備計画」が1997年(平成9年)に策定され、史跡指定範囲内の駐車場や運動施設等を範囲外へ
移転させており、2000年(平成12年)12月5日に干飯(ほしい)櫓と南走長屋の復元工事が竣工した。これらは、翌2001年(平成13年)4月
1日から一般公開。鶴ヶ城の古建築は赤瓦が葺かれていたとの新たな研究結果に基づき、干飯櫓や南走長屋には赤瓦が載せられた。
また、1965年再建された天守と続櫓および鉄門(くろがねもん)は通常の瓦であった為、これも赤瓦に改める工事が2010年(平成22年)
3月末から開始され、1年後の2011年(平成23年)3月に葺き替えが完了した。さらに、御三階も本丸旧位置に復元する予定だ。■■■■
(阿弥陀寺から再移築するのではなく、新たに再建するとの事)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

東北地方、いや全国屈指の名城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
蒲生時代・加藤時代に整備された城の縄張りは、会津盆地の中に隆起した低台地の西端を本丸とし、その東麓に二ノ丸を繋げている。
現在は失われたが二ノ丸の東に三ノ丸が続き、全体的に梯郭式の構造。二ノ丸の北部には土塁で遮蔽された五角形の伏兵郭がある。
仮に三ノ丸から二ノ丸、二ノ丸から本丸へと敵が攻め寄せた場合、名前の通り伏兵郭から兵を繰り出す事で本丸へ進もうとする敵兵の
背後を衝く事が可能であり、逆襲拠点となる。本丸の北には北出丸、同じく本丸の西には西出丸があるが、これらはいずれも大規模な
角馬出だ。加藤時代に面積が拡大されたがそれ以前は小規模な構造で、いかにも「馬出」と呼ぶべき規模だったらしい。また、二ノ丸も
加藤時代に整備されたもので、以前は稲荷丸などの細かい曲輪がいくつか置かれていた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
各曲輪間はいずれも水堀で分割されて、本丸と二ノ丸の間は廊下橋(木橋)、他の曲輪間は土橋によって連結されている。本丸内部は
石垣で固めた堤で二分割されて、西側を帯郭とし、狭義の本丸は東側部分。堤の中央部、つまり全体的本丸の真ん中に天守が建って、
東側本丸の敷地に御殿や茶室麟閣、御三階などが並んでいた。この他、本丸全周を回る土塁上には合計7基の2重櫓を配置。二ノ丸に
面した部分では全面を高石垣で固め、戦闘正面となる部分の防備を強固なものにしている。北出丸や西出丸にも隅部に2重櫓を構え、
全体的な防衛力を向上させている。さらには城下町をも囲繞する総構えの土塁があって、主要な出入口は石垣を積んだ虎口で警戒。
こうした多重の防衛線を構えていた事により、戊辰戦争でも新政府軍は城内へ侵攻する事ができなかったのである。■■■■■■■■
数々観光名所がある会津地方の中でも最も有名な場所と言える鶴ヶ城。2006年(平成18年)4月6日に制定された日本百名城の中にも
もちろん数えられ、現在意欲的に復元整備作業が進行中だ。白虎隊が自刃した飯盛山からは町並みは変われど城の勇姿は変わらず
望め、ここが時代を超えて会津の中心である事を示し続けている。また、城址公園は桜の名所としても名高く、日本さくら名所100選にも
選出。そういえば土井晩翠作詞「荒城の月」のモデルとなった城の1つでもある。会津人の心は、やはりこの城と共にあるのだろう。孝明
天皇から絶大な信頼を受けていながら、時代の歯車が狂い朝敵とされてしまった会津士魂を慰める天守は、何物にも代え難く美しい。



現存する遺構

堀・石垣・土塁・郭群
城域内は国指定史跡

移築された遺構として
茶室麟閣《県指定重文》
阿弥陀寺仮本堂(本丸御三階)








岩代国 允殿館

允殿館跡 蒲生秀行廟

 所在地:福島県会津若松市館馬町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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蘆名家筆頭家臣・松本氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
読み方は「じょうどのだて」。「尉殿館」の字を充てる事も(読み方同じ)。蘆名家筆頭家臣・松本氏の居館とされる。もっとも、松本一族は
蘆名家の重臣でありながらしばしば主家に反抗し、時に御家乗っ取りを図る事もあった。当然、蘆名家側からの粛清・処分も多く、常に
両者は対立する関係にあったようでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
遡れば松本氏は信州の伊那氏という出自だそうな。その伊那氏は清和源氏満快(みつすけ)流を名乗り(諸説あり)信濃源氏として諏訪
伊那地方に根付いていたが南北朝時代に蘆名家臣へと取り立てられた、とされている。蘆名家臣となって後は“蘆名四天王(宿老)”の
筆頭格として扱われ(他は富田(とみた)氏・佐瀬(させ)氏・平田(ひらた)氏)、松本一族として分派しつつ黒川城下に集住する。そうした
松本一族の館の一つとして築かれたのが允殿館だ。松本の家を大きく分派させたのが筑前守輔明(すけあき)、その子らの中で対馬守
輔政が石塚館(中野館)、備前守輔豊が綱取館、藤右衛門輔忠が松岸館、輔忠の孫・備中守輔弘が関柴館を其々築いたとされており
輔明の長子・右馬允通輔(行輔とも)が允殿館を築いたと言う(関柴館以外はいずれも黒川城の近辺)。構築の年代は不明とされるが、
一説には1451年(宝徳3年)との話がある。後に通輔は子の輔之に家督を譲る。輔之も右馬允を名乗り、これが代々「右馬允殿の館」と
呼ばれるようになる館名の由来だろうか?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
会津坂下町にある心清水八幡神社の日誌「異本塔寺長帳(とうでらながちょう)」に拠ればその1451年、松本右馬尉(通輔の事か?)が
私怨から同じ蘆名家臣である多々良伊賀守政重の御山館(会津若松市内)を7月15日に襲撃し、政重は落ち延びるも逃げ切れず同月
21日に自刃したと言う。家臣の諍いを苦々しく思ったか、主君である蘆名盛詮は報復の機を狙い、1453年(享徳2年)松本筑前に命じて
允殿館を攻撃する。右馬尉は館を逃れ日光へ逃亡、後に盛詮への叛意のある猪苗代氏・河原田氏らの後援を受け逆襲の軍を発すも
結局、盛詮により鎮圧され右馬尉も自害した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
松本一族の叛乱はまだ続く。1492年(延徳4年)3月〜4月に松本輔忠・富田淡路守頼祐・猪苗代伊賀守盛頼らが謀反を起こし、1495年
(明応4年)11月19日には松本輔豊が伊藤民部と共に決起するものの鎮圧、落ち延びる途中で殺害された。そして1498年(明応7年)5月
松本右馬允(輔之か)が叛し、蘆名盛高はこれを討ち取り、連座責任として一族の松本豊前守行輔(1584年の謀反人物とは別人)を5月
26日に右馬允の館(つまり允殿館か)で誅し、松本丹後守の子息である大学頭輔治(すけはる)・小四郎輔任(すけこれ)兄弟も翌27日
処刑している。以後も松本一族の謀反は続発しており、このように允殿館は松本氏の“血塗られた歴史”に深く関わっていた館だったと
言えよう。ちなみに、所在地である館馬町(たてうままち)という町名は、この允殿館と“馬屋敷”と呼ばれていた松本対馬守の館である
中野館(対馬館)があった事に由来する合成地名なんだとか。この近辺に松本氏の館が建ち並んでいた様子が分かる。允殿館の廃館
年代は1521年(永正18年)?とする説があるも不明。いずれにせよ蘆名家の没落と同時に廃された事は確かだろう。江戸時代に入り、
1612年に蒲生忠郷が允殿館跡地に薬師堂を建立、真言宗妙覚山弘眞院と称し、そこに亡父・秀行の霊廟を創建した。以来、館の跡は
寺地となり現代まで残され申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

墓地?廟所??怪談の舞台???■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
場所はJR只見線/会津鉄道の西若松駅から南東へ約840m、鶴ヶ城の天守からは南西に1.1km程の地点。寺の境内であると共に薬師
公園と言う名の児童公園(都市公園)になっており、誰でも立ち入る事が出来る。但し、周辺は全て住宅地である上、寺の境内だけあり
墓地も広がっているので、あまり騒がしくするのは控えた方が良い。公園内まで車で乗り入れる事も可能なようだが、これまた道が細く
(未舗装)子供たちの遊び場でもある事からお勧め出来ない。かと言って、周辺に駐車できるような余地も無いのだが…。何はともあれ
薬師公園の敷地一帯だけが周囲の住宅街と別世界の小さな森になっており、南北に長い楕円形の敷地(東西80m×南北110m程)が
館の主郭跡であったと考えられる。この敷地、実は僅かながら周辺よりも標高が高い微高地で、それを利用した立地だったのだろう。
住宅に埋もれた現状の様子では分かりにくいが往時は北東側に丸馬出状の副郭(現在の館脇町会館東側の敷地)が付属していたと
思われる。館脇町会館の裏には水路が流れており、これが濠跡だろう。なお、国土地理院の航空写真を見れば、1970年代まで遡ると
周囲がまだ宅地化されておらず、田圃の中に館跡の敷地だけが島のように浮かんでいる様子が見て取れる。さらに、1960年代の航空
写真では主郭と副郭の間にあった濠跡(主郭の西側一帯を穿つ)までが残されており(現在は埋め立てられている)これが当時の館と
しての形状だったと言う事がハッキリと見て取れる。御時間のある方は是非その写真を年代別に見比べて頂きとうござる。■■■■■
館跡としての史跡指定はされていないが、建造物として蒲生秀行廟(写真)は1978年(昭和53年)7月10日に会津若松市指定文化財と
なり、1986年(昭和61年)3月31日には福島県重要文化財に指定されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところで、明治〜昭和にかけての文豪・泉鏡花が著した戯曲「天守物語」の中で、姫路城(兵庫県姫路市)の天守に巣食う富姫の所へ
妹で猪苗代城(福島県耶麻郡猪苗代町)に住み着く妖怪・亀姫が訪れる際、その従者として供をする朱の盤坊なる者は允殿館の主と
名乗る。ここでの允殿館は「いんでんかん」と読み上げられるが、猪苗代の亀姫の眷属という事なので、若松の允殿館が題材となって
いるのは間違いないだろう。また、会津地方の民話の中で、力自慢だった男が允殿館の前を通り過ぎる際に生白い妖に追い回され、
それ以来すっかり臆病者になってしまったというものも。兎角この館、何やら物の怪の類に縁があるようで…松本一族の“血の歴史”は
形を変えて今に語り継がれているのかも―――。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群








岩代国 神指城

神指城址 櫓台土塁

 所在地:福島県会津若松市
神指町本丸・神指町大字北四合・神指町高瀬
神指町大字高瀬字高瀬・神指町大字高瀬字五百地
神指町大字高瀬字大田・神指町如来堂
神指町大字中四合・神指町大字中四合字村添

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

★★☆■■
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会津の新府計画■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
鶴ヶ城の項で概略を記した通り、上杉景勝が会津の新府として計画した平城。鶴ヶ城は会津盆地の中でも東に偏った位置にあり、盆地を
囲う丘陵部に近かった事で城内を瞰視されたり、砲撃を受ける危険性があった(そしてそれは会津戦争によって現実のものとなる)。また、
中世の物流は河川舟運を主にしていたものの、鶴ヶ城は至近にそれを為す大規模河川が乏しく、更に盆地東部へと偏位していた事から
近世統治体制を成り立たせる広大な城下町を作り出す余地に不安も抱えていた。こうした問題を払拭すべく、景勝は新たなる統治城郭を
構築する事にしたのである。“豊臣政権の代行者”五大老の地位にあった景勝が、新たな時代を示す新城でもあったのだろう。■■■■
当初は北田(きただ)城(福島県河沼郡湯川村)が候補地であった。神指よりも北、湯川・溷川(せせなぎがわ)・日橋川(にっぱしがわ)が
立て続けに合流し、それが更に阿賀川へと流れ込む地。水運の利便性を考えるならばこれ以上ない場所であるが、それは同時に水害を
モロに受ける地点でもある。流石にその危険性を避けるべく再考されたのが神指ヶ原の地であった。ここは阿賀川に直結し(阿賀川東岸)
周囲には肥沃な大地が広がる。それでいて周囲には山も無い為、大規模な平城と広大な城下町を自由に建設できる地勢だった。斯くして
1600年、景勝は家老の直江兼続を築城惣奉行に任じて神指城の建設を開始。小奉行は大国但馬守実頼(おおくにさねより、兼続の実弟)
甘糟備後守景継(あまかすかげつぐ)・清水権右衛門・山田喜右衛門ら。割奉行には黒金孫左衛門泰忠、材木奉行は満願寺仙右衛門が
据えられた。築城に伴い、この地の13ヶ村の住人は強制的に移住させられている。反対に、工事の人足は延べ12万人が動員されたとか。
2月10日に起工され、3月18日からは本丸の構築を開始。本丸の石垣作りは6月1日まで続く。二ノ丸は5月10日から手が入った。かなりの
突貫工事であった様子が日数から想像できよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
縄張図から推測するに、ほぼ正方形の本丸を中心とし、その周囲にも一回り大きい長方形の二ノ丸が取り囲む典型的な輪郭式の城郭だ。
漢字の「回」の字そのままの形状だが、現在二ノ丸の南西隅は阿賀川に水没しており、そこが斜めに切り欠いた敷地となっている。本丸は
内濠部分まで含めて東西310m×南北340m、二ノ丸は同様に東西710m×南北780mを数え、敷地面積は55ha。これは鶴ヶ城全域の面積の
およそ2倍に相当し、神指城が会津の新首府として巨大な城館を企図していた事が分かる。現在は耕作地となり、水田の短冊割りが北西〜
南東方向へやや傾いているが、神指城の軸線は東西南北に準じたものであった。石垣の石材は会津若松市内、東山町の石切場で調達。
つまり石材は会津盆地の東端から鶴ヶ城を越えて運び込まれた訳である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
本丸は北・西・東の3面に対して虎口を開いた。このうち、東側が大手とされている。二ノ丸は東西南北それぞれに出入口があり、同じように
東側が大手口。但し、上記のように西口は現在失われていて名残は無い。計画が順調に進めば、更に外郭となる三ノ丸も作られたのか?
水運に直結した広大な城は、政治経済の中心となったに違いない。半面、戦国争乱の最盛期にあった16世紀末、こうした平城に要害性を
求めるのはいささか無理があっただろう。実は、上杉家は会津の防衛拠点として向羽黒山城(福島県大沼郡会津美里町)の整備も同時に
行っており、恐らく戦時の城塞としてはそちらを用いるつもりであっただろう。家康は「上杉家の城郭建設」を謀反の口実としたが、向羽黒山
城ならば兎も角、神指城は性格を異なるものと推測する。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さりとて、大量築城を続ける(そういう意味では、神指城もそれに含まれる)上杉家に対して家康の討伐軍が編成され、6月2日には陣触れが
発せられた。これに対して、上杉側も防戦の必要が生じ出陣を決定。建設途中であった神指城は6月10日に工事が中断され、結局そのまま
放棄される事になってしまった。上杉景勝が入城する事もなく廃棄された城は、後に加藤明成が鶴ヶ城の改修工事を行った際に石材などを
転用する為に持ち出し、更に風化が進んだ形で長き眠りに就くのであった。結局、未完成に終わった神指城は、正確には「神指城予定地」と
呼ぶべきでござろうか?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお、幕末の会津戦争において、会津藩に身を寄せた新選組の生き残り隊士らは神指城二ノ丸跡に陣所を構えたそうだ。当時すでに会津
藩は敗色濃厚、新選組隊士も会津を離れて箱館(函館)を目指す者も居たが、三番隊組長・斎藤一(さいとうはじめ)らは会津藩への恩義を
感じこの地に残留。当然、そこは新政府軍に狙われる事となり1868年9月4日に襲撃を受けた。多勢に無勢、会津残留新選組は壊滅するが
斎藤は辛くも脱出に成功、明治の世を生きて行く。図らずも神指城跡が実戦に用いられた唯一の事例は、伝説の剣士を彩る歴史の一頁に
なったのだった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
昭和までは土塁や堀跡が残されていたと言う神指城跡だが、その後の圃場整理によって殆んどが均されてしまっている。現状では、二ノ丸
北西・北東・南東の3隅と南辺の一部(ここが新選組陣跡と言う如来堂境内)に土塁が残り、本丸跡が雑木林のような状態。いずれも私有地
なので、観光地化されている訳では無い。ただ、二ノ丸北東隅の土塁には「高瀬の大木」と呼ばれる大欅の木があり(写真)それは国の天然
記念物に指定されている。この大欅、樹齢500年を越えると言い、つまり神指城の築城前からここに生えていた。未完成の城は、この大木が
全てを目撃しているのである。城跡を目指すには、この大欅を目印に訪れると良うござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・石垣・土塁・郭群等




出羽松山城  小峰城・白川城・天王館