羽後国 出羽松山城

出羽松山城 大手門

 所在地:山形県酒田市
新屋敷・字北町■■■■
字片町・字内町
(旧 山形県飽海郡松山町新屋敷・北町・片町・内町)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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幕閣名門・酒井家のゴタゴタ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
話によれば「松山城」と名の付く城は全国に11ヶ所もあるそうだが、こちらはその中でも出羽の松山城。単に松山城と呼ばれる事もあるが、
それではどの松山城なのか分からないので、判別として出羽松山城と称されるのが一般的だ。幕末維新の改称により松嶺城とも。■■■
市町村合併前は飽海(あくみ)郡松山町、現在は酒田市となったこの地は「松山」とされる以前は「中山」と言う地名であった。その中山には
南北朝時代の1380年(天授6年/康暦2年)頃、佐藤伊勢守正信なる者が中山館(中山楯)を築いて居館にしていたとか。中山館の創建者や
由緒には諸説あるものの、この佐藤正信という人物、祖先は源平合戦期に九郎判官義経の忠臣であった佐藤三郎兵衛継信なのだそうな。
ただ、正信の没後その後継は帰農した為、中山館が長く用いられる事は無かったようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
時は移って江戸時代。庄内藩が立藩し、鶴ヶ岡城(山形県鶴岡市)主に譜代名族の酒井宮内大輔忠勝(ただかつ)が任じられる。忠勝には
嫡男の摂津守忠当(ただまさ)が居たが、これに対して忠勝の弟・長門守忠重(ただしげ)が横槍を入れ、忠当を廃嫡させた上で忠重の子の
九八郎忠広へ庄内藩14万石を相続させようと企んだ。この陰謀は幕府老中にして“知恵伊豆”との呼び声高い切れ者の松平伊豆守信綱が
裁定し阻止され、忠当は無事に家督を継いだが、それでも諦めきれぬ忠重は幕府に忠勝の遺領分配を讒訴するに至る。これに対し忠当は
2万石を忠重へ分与する代わりに絶縁する事とした。また、同様の相続問題が発生せぬよう、予め忠当は次弟の大学頭忠恒(ただつね)に
2万石を、末弟の備中守忠解(ただとき)に1万石を分け与えた。こうして1647年(正保4年)12月11日、忠恒は中山に封を得る事になる。■■

出羽松山城の築城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
入封当初、かつての中山館跡に陣屋を置いた中山陣屋を本拠にして、庄内藩の支藩となる出羽中山藩が創始された。中山陣屋は現在の
松山城地よりやや東側、小高い丘陵の山腹にあったようだ。この陣屋が整えられ、藩の経営が軌道に乗った頃の1662年(寛文2年)忠恒は
縁起を担ぎ「中山」の地名を「松山」に改めた。ここに中山陣屋は松山陣屋とされ、藩名も出羽松山藩となる。忠恒以後、家督は石見守忠予
(ただやす)―石見守忠休(ただよし)と継承。その頃に石高が増加し2万5000石となっている。この忠休は長年に渡り幕府で若年寄の職に
精勤した為、1781年(天明元年)に築城の許可が下りる。よってこの年から7年の歳月をかけて松山城の築城工事が行われ、松山陣屋から
藩政の本拠が移される事となったが、しかし築城工事は未完のまま終わっており、二ノ丸の半分ほどは外部との区分けが為されないままで
あった。改めて縄張を見てみると、西側へ大きな出隅を設けた長方形の本丸を中心とし、その外周を二ノ丸が囲う輪郭式の構造。二ノ丸の
西側には前衛となる三ノ丸が拓かれ、更に西側には上堰と呼ばれる水路が濠となり半円状の外郭線を構築していた。また、上堰からなお
西側へ1km強ほどの位置には羽州の大河・最上川が流れており、松山城下町全体を守る総構えとなっていたのだろう。反対に城の東には
かつての中山館が置かれていた山塊があり、背後を固めている。本丸・二ノ丸(半分未完だが)・三ノ丸の各曲輪はいずれも複雑な屈曲で
郭取りを行っており、恐らくは“太平の時代に築かれた、軍学に基づく城”だったのだろう。この点、甲州流軍学に立脚して築かれた赤穂城
(兵庫県赤穂市)の縄張を彷彿とさせるものがある。大手口は上堰に面した西面にあり、その前には丸馬出が構えられていた。これも軍学
理論に従った虎口構成だったと考えられる。こうした縄張は庄内藩の軍師(宮田流)・長坂十太夫正逸が手掛け、藩の執政・上野織右エ門
安邦が総奉行となって工事が進められた。なお、この築城工事に伴って上堰の流路は変更されている。城主の御殿は本丸に置かれたが
どうやら陣屋から移築した建物を「仮御殿」として使い続けたもののようだ。この仮御殿は廃城までそのままであった。天守は無かったが、
当初の計画では本丸に3間×4間規模の2重櫓を建ててその代用とする予定だったそうな。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
出羽松山藩主は、忠休の後に石見守忠崇(ただたか)―大学頭忠禮(ただのり)―石見守忠方(ただみち)―紀伊守忠良(ただよし)と続く。
忠崇の代に当たる1790年(寛政2年)10月10日の早朝、大手門に落雷し焼失する。これを憂いた庄内藩士や酒田の豪商・本間家らは門の
再建計画を出願、藩は幕府へ許可を貰い工事に着手し1792年(寛政4年)6月26日に竣工した。これが現在に残る大手櫓門である。門は
総欅白漆喰塗籠、入母屋造り桟瓦葺き。高さ12.75mもある立派な物で、棟には鯱が載っている。「多聞楼」との通称が。■■■■■■■

明治維新を迎えて■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
幕末、出羽松山藩は宗家である庄内藩に従って奥羽越列藩同盟に参加、旧幕府側として新政府軍と戦っている。庄内藩兵は精強にして
東北各所の戦いでは負け知らずの常勝軍であったが、他の同盟諸藩が次々と脱落してしまい、遂に1868年(明治元年)9月25日に降伏。
出羽松山藩もこれに従い、忠良は新政府に恭順の意を示した。だが明治政府は藩領を2500石減らした上に忠良を強制隠居の処分にし、
同年12月15日、家督は大学頭忠匡(ただまさ)へと譲られる。直後の1869年(明治2年)6月17日、版籍奉還が行われて忠匡は知藩事に。
この時、藩名を出羽松山から松嶺に変更した。のち、1871年(明治4年)7月14日に廃藩置県となり忠匡は職を解かれ、松嶺藩は松嶺県に
変わるが、これも酒田県・鶴岡県と改変され最終的に山形県へと編入される。その結果、松嶺城は廃城となって城内の諸建築は殆んどが
破却されてしまった。唯一残されたのが大手門で、城の破却作業中に松嶺を訪れた政府の按察使(あぜち、地方監督官)である坊城俊章
(ぼうじょうとしあや)が門の保存を許した為だとか。だが、残った大手門も用途を変え松嶺正心学校(後の山形県立松嶺高校)校舎として
使用される。この状態が長く続き、城の跡地はほぼ全域にわたって整地されてしまった。故に土塁や堀は殆んど残されていない。現状で
残存するのは大手丸馬出の土塁、本丸内の部分的な土塁、三ノ丸裏手の十三間濠(の一部)くらいでござる。■■■■■■■■■■■
一方、松嶺学校が移転(後に学校統廃合で消滅)した後の大手門は修繕され、1970年(昭和45年)2月4日に山形県の有形文化財に指定
されている。江戸時代以前の城郭建築物で山形県下に旧位置のまま残存するものはこの一例だけなので、非常に貴重なものと言える。
黒い門扉に白い壁、そして赤い瓦が葺かれた佇まいは実に優雅で目を惹く(写真)。山形県の城めぐりをするならば必見の建物であろう。
1992年(平成4年)4月には大手門再建200年を記念し補修が行われ、鯱瓦が新造されている。旧鯱瓦は隣接する松山文化伝承館の中で
保存・展示されてござる。また、断片的に残る本丸の土塁は1981年(昭和56年)4月10日、松山町(当時)指定史跡になっており、これは
現在、酒田市史跡として継承されている。城の周辺に広がる城下町は静かな佇まいで古都の雰囲気満点。城の縄張は窺えないものの、
松山の町は昔ながらの情緒をしっかり守っているようで、好感が持てる名所でござろう。城址一帯は歴史公園として整備されてござれば、
駐車場なども完備。最寄駅(羽越本線の余目駅か北余目駅)からはちょっと遠いものの、車で訪れれば簡単に散策できるのでオススメ。



現存する遺構

大手櫓門《県指定文化財》・堀・土塁・郭群等
城域内(部分)は市指定史跡




鶴ヶ岡(大宝寺)城  鶴ヶ城・允殿館・神指城