上山(武衛)氏の城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名で月岡城と呼ばれる平山城。鶴が足の傷を癒していた事から鶴脛(つるはぎ)の湯と謳われる上山(かみのやま)温泉で有名な
上山市街の真ん中にある小丘陵・天神森に築かれている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
元々、上山には高楯城と呼ばれる山城があった。高楯城が築かれたのは南北朝時代の事。山形城(山形県山形市)を築いた斯波
修理大夫兼頼(しばかねより)は最上氏の祖となったが、彼の孫・伊豆守頼直(よりなお)は分家して天童氏を興し、更に頼直の3男・
兵部太夫満長が上山に入部して上山(上ノ山)氏を名乗った。高楯城を築いたのはこの上山満長だと言う。以来、虚空蔵山にあった
高楯城は上山氏の居城だったが、戦国期の1508年(永正5年)米沢の伊達氏が攻め落とし、城主・上山義房は逃亡。しかしその後も
義房は伊達家に反抗し続けて、戦死するまで戦いを止めなかった。彼の志は子の武衛義忠(ぶえいよしただ)に引き継がれ、遂に
1535年(天文4年)義忠は上山の地を奪還する。この折、山深く不便な高楯城は廃され、平野部の中にある丘(天神森)に新しい城を
築いた(年代には1529年(享禄2年)説もあり)。これが上山城の創始でござる。義忠以降、上山城主は武衛義節―武衛義政と続き
義政は上山姓に戻して上山満兼(みつかね)と名乗るようになっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
上山は南に米沢の伊達氏、北に山形の最上氏が控え、両者の間に挟まれる位置となっている。上山氏は天童氏の分流である故、
必然的に最上勢力の中にあった訳だが、それは伊達氏が攻勢を加えて来る際、上山城が真っ先に狙われる位置関係にあった事を
意味している。そして何より、最上一門は総じて自立心が強く、天童氏も惣領である筈の最上氏に対抗して独立しようとする気風に
溢れていた。最上家の家督相続騒動に乗じて天童氏は反旗を翻すようになり、それを伊達氏が支援した事で火に油を注ぎ、出羽国
村山郡を巡る争いが最高潮に達する中、伊達家は満兼に近づき、天童氏と同調して反最上方に引き入れようとしたのである。既に
何度も伊達軍に上山城を攻められていた満兼は、それならばいっそ伊達に与すれば攻められずに済むと考えたのだろう。最上家の
家督を継いだばかりで四面楚歌の状況にあった左近衛少将義光(よしあき)に対しての攻撃を企図するようになる。■■■■■■■
出羽の驍将・最上義光の上山領有■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
されど、同族すら信用できない義光にとって、この程度の裏切りは御見通しであった。それどころか、上山家臣の里見越後守義近と
里見民部少輔(実名不詳)の親子を調略し、義光方として手懐けた。1580年(天正8年)里見越後と民部は満兼を暗殺して上山城を
奪う。しかも彼らは義近の庶子・内蔵助(民部の庶兄)をも殺害(内蔵助は満兼派であった)、一族内を血に染める暗闘を行って城を
乗っ取ったのである。もっとも、敵対勢力の家臣を味方に取り込んで主君を討たせる手法は義光の常套手段で、これくらいの事は
“朝飯前”であろう。斯くして里見民部が上山城主となり、義光配下の重臣として活躍するようになる。もともと、里見氏は上山満長と
縁続きの家である為、民部は上山里見氏を名乗って形式上は上山氏を継いでいる。里見氏時代、上山領は2万1000石を数えた。
民部は天正年間(1573年〜1592年)に子の権兵衛正光に家督を譲ったそうだが実権は握り続け、1600年(慶長5年)に起きた慶長
出羽合戦(関ヶ原合戦の地方戦)では4000の兵力で上山城を攻撃しようとする西軍・上杉勢に対し500の遊軍を率いて奇襲攻撃を
行い、見事に打ち払っている。戦後、その功績により長崎城(山形県東村山郡中山町)へと栄転した。■■■■■■■■■■■■
1603年(慶長8年)、長谷堂城(山形県山形市)主であった坂紀伊守光秀(さかあきひで)が上山城主を命ぜられ、1616年(元和2年)
彼が没した後は義光の5男・光広(あきひろ)が上山氏の後継となって入部。上野山(上山)兵部義直を名乗って3万石を領した。が、
主家である最上家は御家騒動を起こして1622年(元和8年)8月21日に取り潰されてしまう。当然、上山城も幕府に収公され、義直は
筑前国福岡(福岡県福岡市)へと配流されてしまった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
江戸時代の上山■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
最上氏が改易となった後は能見松平丹後守重忠が遠江国横須賀(静岡県掛川市)から入封。2万6000石から加増され4万石での
知行で、彼の死後は婿養子・丹後守重直(しげなお)が跡を継ぐものの家督相続の直後である1626年(寛永3年)3万石に減封され
摂津国三田(さんだ、兵庫県三田市)へと移された。代わって蒲生中務大輔忠知(がもうただとも)が上山城主になるが、翌1627年
(寛永4年)蒲生宗家を継承した事で伊予国松山(愛媛県松山市)24万石に移された。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この後、暫くは山形藩の預かり地となっていたが1628年(寛永5年)2月10日、下総国相馬(茨城県守谷市)1万石の領主であった
土岐山城守頼行(よりゆき)が1万5000石加増の2万5000石で上山藩主に就任した。その跡は庶長子の丹後守頼殷(よりたか)が
継いでいる。この土岐氏統治期、城郭・町屋などが完成され「羽州の名城」と謳われた。天守相当の3重櫓が揚げられていたとも
伝わり、豪華な庭園なども整備されたそうだ。なお、1629年(寛永6年)7月には高僧として有名な沢庵宗彭(たくあんそうほう)が
上山へ流罪とされ、土岐頼行は手厚く遇している。頼行は治世の指針を沢庵に師事し、上山城下の繁栄をもたらした。■■■■
ところが1692年(元禄5年)2月25日、土岐家は越前国野岡(福井県越前市)3万5000石へと移封。これで上山藩は廃藩となって、
城も幕命により破却・廃城とされた。天領期間を経た後、同年7月に飛騨国高山(岐阜県高山市)3万8000石から金森出雲守頼時
(よりとき)が同石高で入封したものの、城の再建は成らず二ノ丸跡に陣屋を設けて藩庁としている。1697年(元禄10年)金森家は
美濃国郡上(岐阜県郡上市)に転封、9月15日に備中国庭瀬(にわせ、岡山県岡山市北区)3万石の主だった藤井松平中務少輔
信通(のぶみち)が上山に入った。以後、藤井松平家が明治維新まで継承し、勘九郎長恒(ながつね)―安房守信将(のぶまさ)
山城守信亨(のぶつら)―山城守信古(のぶふる)―山城守信愛(のぶざね)―安房守信行―中務少輔信宝(のぶみち)―山城守
信庸(のぶつね)と継がれていたが、上山藩は奥羽越列藩同盟に加盟した事から、戊辰戦争後に信庸は新政府から強制隠居の
処分を受けた。これにより1868年(明治元年)12月7日、上山藩は3000石を没収された上、信庸の異母弟・信安が相続。しかも、
直後の1869年(明治2年)6月17日に版籍奉還、更に1871年(明治4年)7月14日には廃藩置県で松平家は東京へ移住する事に。
結局、金森時代から藤井松平家時代の間に城は再建されず、明治維新時に藩政の為の改修が行われた程度に終わった。上山
藩領は上山県になるが、これも直後に山形県へと統合された事で、城の存在意義は無くなった。明治政府が発した廃城令でも
上山城は存城とならず、残存建築は軒並み破却・解体されてしまった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
上山城の縄張り■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
小判型の敷地をした天神森の中央部、最頂部一帯を削平して本丸を形成。その北側が北ノ丸、東側下段が二ノ丸、更に南から
西を塞ぐように二ノ丸外郭部が繋がり、本丸を全周囲から囲い込む縄張となっていた。大手は南東側、二ノ丸から東へ出る道で
他に西側と北西側にも虎口が開かれていたようだが、破却時に堀の大半が埋め立てられ原形は留めていない。現状では本丸の
跡地が月岡神社の境内地、北ノ丸は月岡公園。そして二ノ丸跡には1982年(昭和57年)10月に開館した郷土歴史資料館である
模擬天守(写真)が建てられている。無論、藩政期の上山城がどのような天守(3重櫓)を構えていたか不明で、この模擬天守も
御約束と言える“犬山城(愛知県犬山市)コピー品(苦笑)”のような望楼型天守なのだが、今ではすっかり上山城の象徴となって
どっしりとした安定感のある容姿は現存天守にも負けない風格を醸し出している。とかく「コンクリ天守」はハコモノ行政の遺物と
悪し様に揶揄される傾向にあるが、むしろ上山城の模擬天守は“それがあってこその上山城”と思わせられる魅力を持っている。
加えて言うならば、これ以後の再建天守は木造で、史実に即した形状で建てられるのが通例になってきており、上山城の天守は
「昭和の城郭史観」を最後に表現したものとしてこれから貴重な存在になっていくのではなかろうか。なお、城内各所には僅かに
土塁や空堀の痕跡が残っているようだが、どうしても天守に目が行ってしまい…やはりハコモノでも天守は最強の存在だ(爆)
城域は1957年(昭和32年)4月20日に市指定史跡となっており、山形新幹線かみのやま温泉駅から徒歩10分ほどで登城できる。
移築建造物としては籾蔵が市内の鈴木家に、薬井門形式の門(来歴不詳)が山形県南陽市の旅館に残されてござる。この宿、
上山温泉と並ぶ山形の名湯・赤湯温泉街にあり…奇しくも城門が温泉を渡り歩いているかの如くである(笑)■■■■■■■■
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