鎌倉幕府重鎮の城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国時代に米沢伊達氏の本拠地として用いられ、江戸時代になると米沢藩上杉家の居城となった平城。だが、遡れば鎌倉時代に
長井右近将監時広(ながいときひろ)が1238年(暦仁元年)居館を構えた事が始まりだと言う。この時広、父は鎌倉幕府創業の重臣
大江陸奥守広元(おおえのひろもと)。広元は幕府の政所(まんどころ、政務を掌る役所)別当(長官)という重職で、大江氏の惣領を
引き継いだのが時広であった。時広は出羽国置賜郡長井荘(山形県長井市周辺)の地頭になった事で長井に改姓しており、米沢に
居館を設けたのも、そうした流れからであろう。以後、長井氏は甲斐守泰秀(やすひで)―宮内権大輔時秀(ときひで)―掃部頭宗秀
(むねひで)―兵庫頭貞秀(さだひで)―右馬助挙冬(たかふゆ)と続いて建武新政期を迎える。鎌倉時代を通じて長井氏は幕府の
評定衆となり、幕政に関与する重鎮であったが、挙冬は後醍醐天皇に与して倒幕に加担、更に足利尊氏へ従い北朝・室町幕府に
仕えるようになっていく。こうした経緯により、歴代の長井氏は米沢に館を構えていながらも鎌倉や京都に在住する事が多かった。
挙冬の後は氏元―氏広―兼広と代を重ねていくが、一貫して北朝方の勢力として在京、領国は留守にしていた。■■■■■■■
一方、南北朝時代の東北と言えば北畠親房(ちかふさ)・顕家(あきいえ)父子や義良(のりよし)親王(後の後村上天皇)が下向し
南朝方の一大根拠地となり、結城氏・南部氏ら有力諸侯がその勢力下にあった。陸奥国伊達郡を発祥とし、信夫(しのぶ)郡へと
所領を拡大していた伊達氏も同様である。南朝有数の軍事力を有する伊達弾正少弼宗遠(むねとお)は、北朝方である長井氏の
領土へ侵攻、置賜郡へと攻め寄せる。その攻撃は1380年(天授6年/康暦2年)頃に始まって、後に南朝が劣勢・消滅の道を辿ると
北朝へと帰順したものの、領土的野心は止む事無く、長井氏との戦いは続いた。長井方は領国不在による兵力不足もあり、遂に
1385年(元中2年/至徳2年)置賜郡は陥落、長井氏は滅亡する。斯くして伊達家は新たな領土となった置賜郡に一族を配し掌握に
努めていくが、年代については諸説あり(1403年(応永10年)、1413年(応永20年)など)判然としない。■■■■■■■■■■■
戦国期は伊達家の居城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、以後の米沢は戦国末期まで伊達家の支配下に置かれていく。この間、伊達家の本拠は梁川城(福島県伊達市)そして
桑折西山(こおりにしやま)城(福島県伊達郡桑折町)にあったが、伊達家15代当主・左京大夫晴宗(はるむね)が米沢へと居城を
移す。1548年(天文17年)の事である。晴宗は父である14代当主・左京大夫稙宗(たねむね)と外交方針を巡り対立、父子相克の
火種は家中や周辺諸家を巻き込む大乱になったが、その戦いを経た後に米沢を本拠に据えたのである。よって、当時の伊達家は
戦力が衰退し、しかも周囲は敵だらけという困難な時期にあった。米沢に居を移したのは家風刷新に加え、この頃に最も敵対して
いた最上家への備えを兼ねたものであろう。こうして晴宗そして左京大夫輝宗(てるむね)の代を米沢で過ごすようになり、輝宗の
嫡男である藤次郎(とうじろう)政宗はこの城で生まれている。そう、後の仙台藩始祖となる独眼竜政宗だ。但し、伊達氏在城期の
米沢城は現在のものではなく、別の城(舘山城、米沢市内にある山城)ではないかと推測する向きもあり、その場合は当然政宗の
生誕地もそちらと言う事になろう。ただ、現状の米沢城内には「政宗生誕地」の碑があり、一応はそちらが伊達家の本拠だったと
して話を進めるが、晴宗〜輝宗の時期に伊達家の本拠に相応しい大拡張が行われ、城下町も繁栄していく。雌伏の時代を過ぎ
政宗が当主となった伊達家は対外戦争に乗り出し、遂に1589年(天正17年)6月5日に摺上原(すりあげはら)の戦いで南奥州の
一大勢力・蘆名氏を撃破、同月11日には蘆名家の居城であった黒川城(会津若松城、福島県会津若松市)を占領した。これにて
蘆名領は伊達家が全て併呑する事になり、政宗はそのまま黒川城を居城としている。その為、米沢城には城代として一門衆の
伊達相模守宗澄(むねすみ、政宗の大叔父)が配された。程なく宗澄は没したようで、後任に梁川宗清(むねきよ)が充てられる。
宗清は宗澄の兄である。しかし、直後に豊臣秀吉が全国統一を完成させ、政宗が奪った旧蘆名領は全て没収という沙汰が下り
1590年(天正18年)政宗は米沢城へ戻る。さらに、秀吉の奥州再編によって伊達家は米沢領に代わり大崎地方へと移封された。
翌1591年(天正19年)、政宗は岩出沢城(宮城県大崎市)へ移り、この時に岩出沢の城名を岩出山城に変更している。■■■■
政宗が去った米沢城に入ったのは、蒲生四郎兵衛郷安(がもうさとやす)。旧名を赤座隼人と言い、蒲生飛騨守氏郷(うじさと)の
筆頭家老である。米沢の地は、秀吉の全国統一により会津若松城主となっていた氏郷の領地に組み込まれ、郷安が城主として
配されたのだ。この時に郷安が治める米沢領は3万5000石(従前の領地と合わせて7万石)とされてござる。また、郷安は近江国
松ヶ崎(滋賀県近江八幡市)の出身である事から、米沢城の名を松ヶ崎(松ヶ岬)城にしたとも伝わる。■■■■■■■■■■■
だが、氏郷は1595年(文禄4年)2月7日に急死。あまりに突然の死は、彼の才覚を恐れた秀吉が毒殺したとも噂された。蒲生家の
家督は嫡男の飛騨守秀行が継ぐも、幼少である事から会津92万石の所領は召し上げられ(これが秀吉陰謀説に繋がる)1598年
(慶長3年)3月、下野国宇都宮(栃木県宇都宮市)18万石へと減転封されてしまう。当然、米沢の地も取り上げられる事になった。
上杉家の入封■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
秀行に代わって会津120万石を領する事になったのは上杉左近衛権少将景勝(かげかつ)。そして米沢城主には彼の腹心である
直江山城守兼続(なおえかねつぐ)が任じられる。公称6万石とされるが、実高(家臣領含む)は30万石相当だったとか。こうして、
会津の上杉景勝・米沢の直江兼続という主従が“誘因役”となって秀吉没後の大権を争う1600年(慶長5年)の関ヶ原合戦が勃発
するのである。その結果、彼らは敗者の側になり、勝者となった徳川家康から大幅な領土の削減が命じられる事になった。■■
会津120万石と言う大封を失った上杉景勝に残されたのは、直江兼続の城であった米沢城だけであった。石高も30万石。上杉家
全体から見て収入が4分の1に減り、家臣の持ち城であった城が居城となる零落ぶりを味わう事となった訳だ。1601年(慶長6年)
8月の事である。ただ、通常なら石高を減らされるに応じて家臣も召し放って人員削減を図るものを、上杉家ではそれを行わずに
従来通りの家臣を抱え続けた。後年、上杉家は家督相続の不手際に因り更に石高を半減され15万石にまで落ちるが、それでも
同様であった。一見、家臣をリストラせずに扶持し続けた美談のように語られるが、実際にはこれが藩財政を圧迫し、米沢藩が
壮絶な貧困に喘ぐ原因となっていく。ともあれ、この時点では旧来の主従関係を維持する事で御家存続の窮地に家臣一丸となり
米沢での新生活に乗り出したとされ、米沢城も近世城郭に相応しい改造が施された。景勝入城と共に二ノ丸の改修普請を開始、
1604年(慶長9年)には門や堀の修繕、更に1608年(慶長13年)直江兼続に命じて三ノ丸構築や外堀の掘削、城下の河川付替、
馬場や二ノ丸寺院群・本丸御殿の造営などを行い、江戸時代を通じて米沢藩の本拠とするに相応な体裁が整えられた。■■■
米沢城の構造は中心に本丸、その周りを二ノ丸、更にそれを囲み三ノ丸が広がる輪郭式の縄張。水濠に囲まれた本丸は東西
約180m×南北およそ170mのほぼ正方形。これは鎌倉武士の方形居館を起源としているのだろう。近世城郭となった米沢城は
この方形館の基軸は変えず、石垣も用いず、更に幕府への遠慮から天守も揚げず、東北隅と西北隅に3重櫓を構える程度で、
30万石の大名が本拠とするにはかなり狭隘な敷地と言える。この中に本丸御殿があったのだが、それも比較的小規模なものに
抑えられていたのだろう。それを取り囲む二ノ丸にも2重櫓が4基あった程度とされ、決して重装備な城ではない。但し、三ノ丸や
外郭まで含めた城域は広大で、平城としての拡張性に優れた選地は良く分かる。城の西側には堀立川(人工的に流した川)が
東には羽州の大河・最上川が流れ、2つの川を外郭の濠として活用する事で防御性を高めていた。が、膨大な家臣団は城下に
納まりきらず、郊外の原野を開拓する形での居住を余儀なくされたと言う。結局、末端の武士は半農半士のような生活を送って
自活する道を取らざるを得なかった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
上杉家の困窮と米沢城の衰退■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
上杉家は景勝の後、2代藩主・弾正大弼定勝(さだかつ)―3代・播磨守綱勝(つなかつ)と続くが、この綱勝が1664年(寛文4年)
閏5月7日、嗣子の無いまま急逝してしまう。江戸幕府の統制上、これは無嗣断絶として上杉家は取り潰される事になるのだが
特段の計らいによって末期養子が許されて、綱勝の妹の子・吉良三之助が上杉弾正大弼綱憲(つなのり)として家督を継いだ。
但し、事前に後継者を定めなかった事が問題となり、上杉家の知行は半減され15万石になってしまうのである。なお、三之助の
父は吉良上野介義央(よしひさ)。あの忠臣蔵事件の敵役とされる人物だが、赤穂浪士が討入りを果たす際、上杉家の加勢が
有りや無しや…で盛り上がる筋書きはこうした親子関係に拠るものである。綱憲以降の上杉家は、民部大輔吉憲(よしのり)―
弾正少弼宗憲(むねのり)―民部大輔宗房(むねふさ)―大炊頭重定(しげさだ)―弾正大弼治憲(はるのり)―左近衛権少将
治広(はるひろ)―左近衛権少将斉定(なりさだ)―弾正大弼斉憲(なりのり)と続いて戊辰戦争を迎えた。米沢は東北の中核と
言える位置にある上、御家断絶にならず綱憲が家督相続できた恩義のある会津藩への助力で、奥羽越列藩同盟の総督として
新政府に敵対する姿勢を取る事になる。綱憲の相続が認められたのは、当時の大老・保科肥後守正之(会津松平家始祖)が
幕府に働きかけたためだったからだ。こうして、関ヶ原に続く日本を二分する大乱に挑んだ上杉家であったが、またもや時代は
彼らに味方せず、列藩同盟は瓦解の道を辿った。新政府に降伏する事となった斉憲は隠居に追い込まれ、1868年(明治元年)
12月18日に最後の藩主となる式部大輔茂憲(もちのり)が就任する。だが直後の1869年(明治2年)6月17日に版籍奉還で米沢
知藩事とされて、更に1871年(明治4年)7月14日の廃藩置県でその職も免ぜられる。結果、藩領は米沢県を経て置賜県となり、
米沢城は破却の運命に。二ノ丸にあった藩の役所が郡役所そして町役場へと転用されたが、それ以外の建物は軒並み滅失。
政府が発した1873年(明治6年)1月14日の廃城令でも廃城の扱いとされ、その頃には城内建築物は無くなっていた。■■■■■
廃城後の米沢城址■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
空き地となった城跡主郭部は1874年(明治7年)松が岬公園として市民に一般開放され、1876年(明治9年)には本丸跡に上杉
神社が遷地して来る。神社の社殿や郡役所・市役所等は1919年(大正8年)5月19日の大火で焼失し、更に城跡の改変が進む
事に繋がった。そして現在、本丸跡地は上杉神社の境内地、二ノ丸の部分的に残る区域が上杉博物館や旧上杉氏邸宅などの
所在地となり、米沢市の観光名所となっている。松が岬公園一帯には堀や土塁が残存してござる。一方、移築された建造物は
かつて本丸内の城内鎮守となっていた上杉謙信を祀る御堂(みどう)が、市内にある浄土真宗長命(ちょうめい)寺の本堂として
再利用されている。御堂は上杉氏の入封以来、城内に祀られていたが1849年(嘉永2年)12月20日に火災で焼失し、翌1850年
(嘉永3年)に再建されたもの。ただ、程なく明治維新を迎え城は破却となり、謙信の遺骸も郊外にある上杉家廟所に移された為
御堂の建物は使われなくなっていた。対する長命寺本堂は1875年(明治8年)12月27日に火災で失われたので、城内の御堂を
貰い受け、1877年(明治10年)に移築再興したのである。現在残る旧城由来の建築物はこの1棟だけだそうな。■■■■■■
舞鶴城とも称される優美な構えの城は、2017年(平成29年)4月6日に財団法人日本城郭協会から続日本百名城に選ばれた。■
ところで米沢上杉家と言えば軍神と崇められる謙信を筆頭に、関ヶ原西軍首脳の景勝、ケネディ米国大統領が崇敬したという
中興の名君・鷹山(ようざん、治憲の隠居後の号)など、名だたる人物が多い。景勝の義父・謙信は存命中に米沢を訪れた事は
無いのだが米沢藩の家祖として数えられ、また鷹山は昨今のビジネス書籍などでも紹介される名士にして破産寸前の米沢藩を
復興させた才人として知れ渡るようになった。だが、まだまだ隠れた名君が居るもので、廃藩時の米沢城主・上杉茂憲は維新後
政府に命じられ沖縄へ渡り第2代沖縄県令(県知事)の職に就く。彼の地に赴いた茂憲は沖縄本島のほぼ全域を視察して回り
県民から直接声を聴き、民意に沿った県政を図ろうと尽力している。されど、時代は明治政府が強権を以って沖縄を統治下に
置こうとしている頃であり、中央政府が茂憲の施政を認める事は無かった。結果、茂憲は2年弱の短期間で沖縄を去るのだが
離任の際に私費を投じて沖縄県の奨学制度を推進している。この善政は沖縄県民の側に大きな影響を与え、現代においては
沖縄県沖縄市の小学生と米沢市の小学生が相互訪問を行うようになっており申す。更に更に、学術と言うならば米沢上杉家の
現当主の右に出る者なし。米沢上杉家17代目(茂憲の曾孫)・上杉邦憲(くにのり)氏は日本の宇宙工学における第一人者で
ハレー彗星探査機「さきがけ」、月観測衛星「ひてん」、そして小惑星探査機「はやぶさ(初号機)」の打ち上げに関わっている。
景勝は天下分け目の戦に敗れ、斉憲も奥羽越列藩同盟の夢破れたが、20世紀から21世紀に替わる頃となって天下どころか
宇宙を手にした上杉家…と言うと壮大すぎる話になってしまうだろうか(苦笑)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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