羽前国 山形城

山形城二ノ丸東大手門(復元)

 所在地:山形県山形市霞城町・城北町 ほか

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★☆■■
★★★★



羽州探題・最上家の居城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
羽州の太守・最上家57万石の近世平城として完成を見た巨大城郭。現状では二ノ丸以内の敷地が残されているが、最盛期は山形市
主要部を全て囲い込む三ノ丸の総構えを有しており、そこまで含めた敷地面積では世界遺産の城である姫路城(兵庫県姫路市)をも
上回る。三ノ丸遺構は断片的に土塁や石垣があり、山形市街の各所にひっそりと埋もれている。■■■■■■■■■■■■■■■
1356年(正平11年/延文元年)に出羽按察使(あぜち、地方監督官の職)として山形へ入府した斯波修理大夫兼頼(しばかねより)が
翌1357年(正平12年/延文2年)頃に築城。南北朝の争いが地方に拡散、奥州では南朝方の北畠氏や南部氏が大きな勢力を築いて
いた為、北朝・足利一門斯波氏の中から兼頼が派遣され、南朝勢打倒と基盤確保を目指したのである。兼頼は民心の安定を図ると
共に各地を転戦、出羽での地固めを成し遂げた。その功績で1373年(文中2年/応安6年)幕府から最上屋形の尊称を許され申した。
これにて最上と改姓、最上氏の創始となったのである。これが戦国大名・最上氏の祖であり、最上家は羽州探題の職を補任した。
以後、最上氏当主は右京大夫直家(なおいえ)―修理大夫満直(みつなお)―修理大夫満家(みついえ)―右京大夫義春(よしはる)
右京大夫義秋(よしあき)―治部大輔満氏(みつうじ)―左衛門佐義淳(よしあつ)―修理大夫義定(よしさだ)と継がれていくのだが、
代を重ねるに従って出羽国内各所に分家を創立し、一門による支配浸透を図ろうとした。ところがこの策は裏目に出て、天童氏や
中野氏など各分家は独立の気配を見せ、最上宗家は一枚岩に固まる事が無かった。特に義定が没した後、後嗣が居なかった事で
家督相続は紛糾。米沢の伊達左京大夫稙宗(たねむね、義定の義兄であった)が介入する事態となり、義定の甥・中野義清の子で
当時わずか2歳であった長松丸を立てるようになる。これが出羽守義守(よしもり)になるのだが、状況を利用した稙宗は出羽安定を
名目に各地を蹂躙し、敵対勢力を打ち倒している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、累代の最上氏は山形城を本拠とし続け、幼くして家督を継いだ義守は結果的に歴代最長の山形城主となった。その彼が
隠居し、戦国乱世が最も激しい時期に最上家11代目当主となったのが左近衛少将義光(よしあき)である。義光の家督相続時にも
御家騒動が起き、彼は父親・義守を含む敵対勢力を次々と打倒して当主の座に就いた。こうして若い頃から荒波に揉まれた義光は
権謀術数に長じる事となり、最上家の家督を継いだ後もあらゆる謀略を用いて勢力を拡大して、米沢の伊達左京大夫政宗と並んで
最上家を奥羽有数の大勢力へと成長させた。時流を読むにも聡く、近隣の伊達氏・秋田氏・上杉氏らと覇を競いつつ中央政権にも
誼を通じ、関ヶ原合戦後は出羽57万石の大大名となった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

山形城の縄張り■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
慶長年間(1596年〜1615年)義光は山形城を大改修して近世城郭に変貌させる。方形の本丸を二ノ丸が取り囲む輪郭式の縄張は
恐らく室町以来の伝統である守護館を踏襲・拡張させたものだろうが、さらに広大な三ノ丸(総構え)が囲繞する規模は稀有壮大で
最上氏の威光を知らしめるのに貢献した事だろう。本丸は東西南北およそ250m四方の正方形(2.83ha)、二ノ丸は東西550m×南北
600m(27.99ha)を数え、これだけでも十分な大城なのだが、三ノ丸は山形県の調査報告により東西1480m×南北1880m(最大部)と
推測され、面積は234.86haもある桁違いの広さ。関ヶ原戦役の折、最上家は上杉家からの侵攻を受けあわや山形城を落とされる
危機に陥っており、大兵力を集中させると共に城下町まで取り込んだ巨大城郭を企図したのであろう。広大な三ノ丸には11箇所の
出入口が構えられ、「十一口」つまり「吉」の字に通じる意味合いから“吉字の城”との呼び名が。また、関ヶ原戦役時には霞が城を
覆い隠して上杉軍の眺望を妨げたと伝承され“霞城(かじょう)”或いは“霞ヶ城”との雅称も付けられている。こうした方形の曲輪は
随所に屈曲箇所を設けて横矢を十分掛けられるように配慮され、近年は発掘調査によって二ノ丸塁線上の土塀礎石が屏風折れ
(折れ歪(おれひずみ))の並びとなっていた事も明らかになった。折れ歪は土塀自体に屈曲の箇所を用意して塁線上からはみ出す
ような構造で、近世山形城が鉄砲戦を考慮した防備を固めていた証左でござる。二ノ丸は東西南北に東大手門(写真)・西不明門
南大手門・北不明門の4門が構えられて、本丸は南東隅に本丸一文字門と北面に本丸北不明門が開いていた。天守こそ揚げられ
なかったが、山形城はこのように強固な防備で守られ、随所に櫓や門が建てられていた。本丸内には御殿があったとされる。■■

最上家の改易処分■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
徳川家康の盟友として山形の地を安堵され、権勢並ぶものなき実力者となった義光であったが、彼の没後も最上家は家督騒動に
翻弄される事になった。義光の長男である修理大夫義康(よしやす)は義光存命時に落命しており、一説には義光が廃嫡を図って
暗殺したとも考えられている。義康が亡くなった事で家督は駿河守家親(いえちか、義光2男)が継ぐものの、彼も家督相続の直後
若くして没しており、子の源五郎家信(いえのぶ)が継いだ。しかし幼少の当主を家臣らが嫌い、家親の弟・山野辺右衛門大夫光茂
(義光4男)を担ごうとした。よって、最上家中は家信派と光茂派に分かれて争うようになり、幕府の裁定を仰ぐも決着しなかったため
遂に最上家は1622年(元和8年)8月21日に改易され山形57万石の大封を失った。家信は近江国大森(現在の滋賀県東近江市)に
たった1万石のみ与えられ、徳川将軍家から拝領した片諱「家」の字を返上して義俊(よしとし)と改名している。山野辺光茂も流罪と
なり、12年間を蟄居の身で過ごす事になった。羽州探題の名門にして“出羽の驍将”と恐れられた最上義光の後裔としてはあまりに
惨めな末路であろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
最上家が転出した後、陸奥国磐城平(福島県いわき市)10万石の主だった鳥居左京亮忠政(とりいただまさ)が22万石に加増され
山形城主に任じられた。彼の父・彦右衛門尉元忠(もとただ)は関ヶ原戦役において伏見城(京都府京都市伏見区)籠城戦を戦い
討死した“徳川幕府の元勲”と呼べる人物。名門たる鳥居家は山形城の改修を行い最終的な形態に完成させている。これは譜代
重臣の鳥居家を山形に配し、周囲の伊達氏・佐竹氏・上杉氏と言った外様有力大名を監視させる目的があったとか。但し、元々は
57万石の大封に相応しい規模で築かれた山形城の全域を維持するのは難しく、以後の山形城主を歴任する大名は何れも石高を
減じていっており、次第に城は荒廃するようになってしまった。ともあれ、忠政の後は伊賀守忠恒(ただつね)が相続する。ところが
彼は男子を成さぬまま1636年(寛永13年)7月7日に没したので、末期養子の禁に触れ鳥居家は改易されてしまった。ただし、鳥居
元忠の功績大なるを以って特別に御家再興が許され、忠恒の異母弟である主膳正忠春(ただはる)が信濃国高遠(長野県伊那市)
3万石の大名とされた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その高遠で3万石を禄していた保科肥後守正之(ほしなまさゆき)が入れ替わりで山形城主に抜擢された。石高は20万石の大躍進。
それもそのはず、正之は2代将軍・徳川秀忠の御落胤にして3代将軍・家光の実弟である。だが、正之は将軍縁者である事を驕らず
謹厳実直な人物であり、それを心強く恃んだ家光が特別に計らって大加増されたのだった。名君の誉れ高い正之を慕って高遠から
領民が山形へ移り住んだと言われる程の愛民家であり、これが後に江戸幕府大老にまで引き立てられる一因となっている。1643年
(寛永20年)7月4日に山形20万石から会津23万石へと更なる加増転封を受けた保科正之は、云うまでもなく幕末の戊辰戦争で会津
若松城(福島県会津若松市)の戦いを耐えた会津松平家の家祖である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

次々代わる城主■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
翌1644年(寛永21年)越前国大野(福井県大野市)5万石の大名だった松平大和守直基(なおもと)が15万石に加増され山形城主に
転任する。直基の父は徳川家康2男の結城左近衛権少将秀康でござる。保科正之に続き親藩大名が入部した訳だが、彼は1648年
(慶安元年)6月14日に播磨国姫路城主として移された。但し、姫路へ赴く途上で病死してしまった。それに代わって姫路15万石から
山形へ松平(奥平)下総守忠弘が入るものの1668年(寛文8年)8月3日に下野国宇都宮(栃木県宇都宮市)へ。入れ替わりで宇都宮
11万石の主であった奥平大膳亮昌能(まさよし)が2万石減封の9万石で山形城主になっている。これは奥平家臣の中に騒動があり
また、家臣の殉死(先に亡くなった主君を後追いし自害する事。当時、幕府は殉死を禁止していた)事件も発生したために懲罰として
減転封の処分が行われたのだった。以降、山形城主への転任は左遷人事として執行されるのが慣例となっていく。昌能の死後は、
養子の美作守昌章(まさあきら)が家督を継承。その昌章が1685年(貞享2年)6月22日に宇都宮へと移されると、今度は下総国古河
(茨城県古河市)から堀田下総守正仲(ほったまさなか)が入封。これまた13万石から10万石への減封である。正仲の父である大老
堀田筑前守正俊(まさとし)が江戸城(東京都千代田区)中で刺殺された事件を受け、騒動の処分として飛ばされたようだ。■■■■
翌1686年(貞享3年)7月、正仲は陸奥国福島(福島県福島市)へ。今度は豊後国日田(大分県日田市)7万石から松平大和守直矩
(なおのり)が10万石に加増され山形城主となった。直矩は直基の長男である。1692年(元禄5年)7月27日には更に5万石を加増で
陸奥国白河(福島県白河市)へ移され、その白河藩主になっていた松平忠弘が再び山形城に帰って来る事となるが、これもまた
懲罰人事の意味合いがあっての事だった。忠弘は家督を誰に譲るか決めかねており、それが元で家臣団が分裂する事態になって
おり、幕閣も巻き込んで解決案が図られるも功を奏せず、結局は山形への左遷ならびに15万石から10万石への減封という処分に
至ったのである。山形転任と同時に忠弘は隠居、家督は孫の左膳忠雅(ただまさ)へ譲られる事が決定。忠雅は1700年(元禄13年)
1月に備後国福山(広島県福山市)へ移されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
続いて山形城主になったのは堀田伊豆守正虎(まさとら)。陸奥国福島からの入封、正仲の弟として堀田家を継いでいた人物。この
後、堀田家は相模守正春―相模守正亮(まさすけ)と代を重ねて1746年(延享3年)5月に下総国佐倉(千葉県佐倉市)へ転出する。
1764年(明和元年)6月までは6万石で大給(おぎゅう)松平和泉守乗祐(のりすけ)、彼が三河国西尾(愛知県西尾市)へ転じてから
3年間は天領(会津藩預かり)となった後、1767年(明和4年)より秋元但馬守凉朝(すみとも)が同じく6万石で山形城主に。秋元家は
摂津守永朝(つねとも)―但馬守久朝(ひさとも)―但馬守志朝(ゆきとも)と4代続いたのち、上野国館林(群馬県館林市)へ1845年
(弘化2年)11月に転封された。それに代わって遠江国浜松(静岡県浜松市)5万石から水野和泉守忠精(ただきよ)が移されてくる。
忠精は越前守忠邦の長男。天保の改革を行って失脚した、あの忠邦である。言わずもがな、失政を咎められ水野家は懲罰人事を
食らい山形へ移されたのでござれば、石高は5万石のまま。歴代山形藩主の中でも最も少ない知行地であった。遡って松平乗佑は
山形藩主在任18年の間で僅か1年しか在国しておらず、城の荒廃は進むに任され、以後の城主もこれを顧みる余裕は無かったが
水野家の5万石という石高は山形城の衰亡を決定的なものとしたようだ。江戸時代最末期の1866年(慶応2年)9月29日に忠精が
隠居、長男の和泉守忠弘(ただひろ)が家督を継ぐも幕府の滅亡は決定的となり、忠精・忠弘父子は1868年(明治元年)閏4月12日
上洛し新政府への忠誠を誓う。ところが、藩主不在の国元では藩士が奥羽越列藩同盟(佐幕同盟)に加盟してしまい、水野親子は
政府と領国の板挟みに遭ってしまう。結局、戊辰戦役が終わってから親子は帰国。山形藩内では同盟参加の責めが負わされて、
1870年(明治3年)7月17日に忠弘は近江国朝日山(滋賀県長浜市)へ移された。その結果、山形藩は廃藩になり新政府領と化す。

廃藩後の荒れよう、そして復活■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
山形城は既に用を成さない程に荒廃しており、本丸は空き地になっていたと言う。城主の御殿は二ノ丸にあったが、これも無用の
ものになった。斯くして城地は売却処分を経て山形市有地、更に陸軍駐屯地へと変わっていく。明治政府が発した廃城令の上では
山形城は存城の扱いとされたが、これは陸軍用地として使用するという意味で城郭の保全を図るものではなかった。日露戦争後、
歩兵第32連隊が入営。この連隊は山形城の雅称から霞城連隊と呼ばれたとか。陸軍用地となった事で本丸の堀は全て埋め立て
られている。その一方、1906年(明治39年)この連隊の帰還兵が城の周囲にソメイヨシノを植樹して城跡は桜の名所となった。■■
戦後、旧軍が解体された事で1949年(昭和24年)から二ノ丸以内の敷地が霞城公園として一般開放されるように。以来、公園内は
山形市営球場や山形県体育館、山形県立博物館・山形市郷土館などの文教施設が建ち並ぶ事となった。他方、三ノ丸は完全に
市街地化されてしまっている。しかし1986年(昭和61年)5月28日に城址は国の史跡に指定され、1987年(昭和62年)7月9日には
史跡範囲の追加指定が行われた。これを契機に山形市では城址の史跡整備計画を策定させて、その先鞭として同年から二ノ丸
東大手門の復元工事が開始された。そして1991年(平成3年)3月に写真の東大手門が完成。明治期に撮影された古写真では、
部分修理を行った結果として両脇にある平櫓の間を繋ぐような櫓門が架かるような(つまり3連櫓のような)古態が残されているが
この再建では創建当初の形に戻すとして、一つの大きな櫓門が再現され申した。2004年(平成16年)には本丸一文字門の石垣が
築き直され(下半分は本丸堀の掘り直しで出土)、2006年(平成18年)にはそこに架かる大手橋が復元されている。また、同年4月
6日に財団法人日本城郭協会から日本百名城の1つに選定された。更に2013年(平成25年)一文字門の桝形に高麗門と土塀が
建てられて、翌2014年(平成26年)8月から一般公開されている。城の関門となる門が復元された事で、徐々にかつての威厳を
取り戻しつつある山形城であるが、広大な敷地全てを復活させるのは容易ならず、また復元史料も不足している事から、市では
30年計画の長期対応で霞城公園の再整備を行うようである。城好きとしても、むしろじっくりと時間をかけてより良いものを作り
上げて頂く事を切に希望するものでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
移築された建造物もいくつか。市内平清水にある曹洞宗千歳山萬松寺の山門は、最上義光が近世城郭化させる前の旧大手門
(南門)だったそうだ。同じく市内の八日町、天台宗妙円山形照寺宝光院の本堂は近世山形城の御殿建築を移築転用したものと
伝承される。詳しい来歴は不明ながらも解体修理の際に1688年(貞享5年)の墨書が発見された事から、それ以前から存在する
建物のようだ。こちらは1957年(昭和32年)3月1日に山形県指定有形文化財となっている。■■■■■■■■■■■■■■■
ところで全くの余談だが、霞城連隊は戦時中にシベリア・満州・サイパンと転戦し最終的には沖縄戦に投入された。苛烈極まる
沖縄本島の戦いにおいて、この連隊は最後まで生き残り、規律を以て米軍の武装解除に臨んだと云う。残存兵力は約300名。
太平洋戦争末期の戦禍となると、とかく玉砕とか特攻という話になるのだが、貴重な人命が無駄に失われる事なく生還したのは
喜ばしい限りだ。攻め寄せる敵に対して霞が隠してくれたという山形城の由緒が、霞城連隊も救ってくれたのか―――。■■■






現存する遺構

井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡

移築された遺構として
宝光院本堂(伝山形城御殿建築)《県重文》・萬松寺山門(旧大手門)




秋田城・久保田城  上山城