古代城柵としての名城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
奈良時代から平安時代にかけて、大和朝廷が東北地方への征服拠点ならびに統治政庁として構えた古代城柵でござる。■■■■
畿内にあった朝廷が東国へと領土を広げていった奈良時代、東北地方は“蝦夷(えみし)”と呼ばれた先住民が自主独立して暮らし
まだ朝廷に服従していなかった。しかし徐々に支配地域を広げた朝廷は、708年(和銅元年)9月28日に出羽郡(いではぐん)を越後
国内に設置、同時期に出羽柵(いではのき)を構築。この出羽柵は当時の大和朝廷支配地域における日本海側での北限で、敵対
勢力つまり蝦夷との戦いに備えた防衛施設だ。正確な所在地は不明だが恐らく山形県の庄内地方に置かれたと考えられている。■
その後、出羽郡は714年(和銅5年)9月23日に出羽国として分離され、朝廷の支配地域も北上。史書「続日本紀(しょくにほんぎ)」に
拠れば733年(天平5年)12月26日、出羽柵は秋田村高清水岡へ移設される。これが秋田城の創始であり当初は出羽柵だった事が
分かるだろう。なお、秋田城は「あきたじょう」と読むのが一般的だが、古代城柵の通例に当て嵌めるならば「あきたのき」とするのが
原初的な読み方だ。出羽柵が秋田城と改称されたのは760年(天平宝字4年)頃と見られ、文献上「阿支太城」の文言が登場する。■
それまでに逐次改修・拡張されて、太平洋側の多賀城(宮城県多賀城市)と共に朝廷の支配拠点として活用されていた。多賀城は
陸奥国府、秋田城は出羽国府として機能していたようだが、これには異説を唱える学者もおり、真実は明らかでない。■■■■■■
朝廷は数次にわたって蝦夷討伐の遠征軍を派遣、それを令外官(りょうげのかん、律令制に定められてはいない役職)である鎮狄
将軍(ちんてきしょうぐん)や征夷大将軍が率いて現地で戦い、また支配の施政を行った。これが780年(宝亀11年)鎮秋田城国司の
職務に再編され、出羽介(国司に次ぐ二等官)が執り行う事とされるように。更に平安中期になり出羽城介という令外官に改められ
出羽介の兼任職とされるようになった。その後、秋田城自体は衰退し廃城になるが(詳細は下記)、鎌倉時代以降は秋田城介という
武家の名誉職として任じられるようになり、室町期からは秋田の有力大名・安東氏がその職を僭称、それを基に秋田氏と改姓する。
また、織田信長の嫡男である出羽介信忠(のぶただ)も、秋田城介の任官を1575年(天正3年)11月7日に受けている。■■■■■■
秋田城の年代的変遷■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところで、この秋田城は渤海使(ぼっかいし)の逗留地としても用いられる事があった。渤海使とは、当時の満州〜朝鮮半島北部〜
ロシア沿海州一帯に成立していた渤海という国から派遣された外交使節だ。本来は太宰府への来航を求められていた渤海使だが
当時の航海技術で日本海を九州まで南下するのは至難の業で、主に出雲国や北陸地方へ漂着する事が多く、秋田城もこのような
入港事例が散見されるとの事。城の外縁部には賓客を宿泊させる迎賓館のような客館があったと推定され、これが渤海使の供応
施設だったのではないかと考えられている。また、発掘によって客館域では水洗トイレ機能を有した厠の存在が確認されている為、
これも外国との交流によってもたらされた先進技術が活用された物と思われる。蝦夷対策の城だから辺境なのでは?と侮るなかれ
当時の日本海交易は独自の流通経路を発展させており、むしろ十三湊(とさみなと、青森県の十三湖にあった海外貿易港)や秋田
土崎湊(秋田城の目の前にあった交易港)の繁栄は大陸との交流によって都を凌ぐものとなっていた。こうした東北地方の経済圏は
蝦夷島(えぞがしま、北海道)や樺太を通じて大陸と直行するに至っていたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
斯くして出羽国における政治・経済・軍事の一大拠点となった秋田城は、年代によって改変が加えられ、政庁部においてはT期〜
Y期までの段階的発展が見られている。政庁の敷地(城の中心部)は東西94m×南北77mの長方形。中央に正殿、東面に東門が
あるのはどの段階でも共通しているもののそれ以外の建造物は年代によって異なり、城の成立〜隆盛〜衰亡という時代を物語る。
他方、外郭は政庁部を取り囲んで東西南北それぞれ550m四方の面積を有するが、北西部を切り欠いたような不定形な敷地であり
外郭においては年代的変化は殆ど無かったと推測されている。東西南北各面に門があったようだが、現在は東門が復元されており
(写真)往時の雰囲気を醸し出している。秋田城からは多賀城まで幹線道路が敷設されて、朝廷の東北経営に重責を果たしていた
様子が良く分かる。外郭が不定形なのは、高清水岡の元地形に合わせて敷地を構成した為であろう。■■■■■■■■■■■■
蝦夷との戦い、そして城の衰退■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
朝廷の威信を懸けて構築・維持された秋田城だが、その歴史は平穏なものではなかった。804年(延暦23年)秋田城は停廃されて
秋田郡を設置、統治体制の再編が行われる。もっとも、これは朝廷の支配地域がより北へと拡充して胆沢城(岩手県奥州市)等が
築城された為、秋田城の大改修を行い日本海側の支配力を強化する意図があったと思われる。逆に言えば、未だ蝦夷の脅威は
根強く、秋田城は最前線の城であり続けていた。830年(天長7年)出羽で大地震が発生、秋田城の諸建築が損傷したと記録され、
停廃が一時的なものだった事を裏付ける。また、この被害記録では城に四天王寺・四王堂などの宗教建築があったと記されており
秋田城が国府相当の設備を有していた文献史料と言える。そして878年(元慶2年)3月、秋田城は俘囚(ふしゅう)の襲撃を受けて
落とされる。元慶の乱(がんぎょうのらん)の始まりである。俘囚とは捕虜となった、あるいは服従を申し出た蝦夷の事で、朝廷から
生活の安堵を受ける一方、被支配民として過酷な軍役に従事させられていた民だ。この年、全国的な飢饉が発生しており、安住が
おぼつかなくなった彼らは、かねてから秋田城司による圧政にも苦しんでいた事もあって蜂起したのである。この為、城を守る城司
良岑近(よしみねのちかし)は秋田城を棄てて逃亡、出羽国司・藤原興世(ふじわらのおきよ)も逃げ出した。同時代の史料である
「藤原保則(ふじわらのやすのり)伝」でも、近の苛政を「聚め斂むるに厭うことなく、徴り求むるに万端なり(税の徴収に容赦なく)」
「貪欲暴_にして、谿壑も填みがたし(広い谷も埋めきれないほど貪欲)」と評した位だった。反乱も当然であろう。■■■■■■■
興世は「夷俘叛乱し、三月十五日、秋田城并に郡院の屋舎、城辺の民家を焼き損ふ」と朝廷に報告し、援軍を要請。既に反乱軍は
秋田城以北の各所で蜂起しており、特に米代川流域の諸集落では大規模な反抗を掲げている。興世は出羽国内の兵600を以って
「野代の営(能代市、米代川河口)」に布陣し対抗しようとするも、これは敵中に突出する無謀な策で「賊一千余人有り、官軍の後に
逸出して五百余人を殺略し、脱れ帰る者五十人なり」と記される大敗を喫してしまう。連戦連敗に驚愕した朝廷は、陸奥国・上野国
下野国の各国に出兵を命じると共に、鎮撫の責任者として藤原保則を派遣。保則はそれまで備中国や備前国で善政を施し、民から
慕われた“民政の達人”である。現地に到着した保則は興世を指揮下に監督し、各国から送られてきた援軍を適切に配置。更には
朝廷に武蔵国や常陸国からも増援を発するよう求め万全の防衛策を採ると同時に朝廷の備蓄米を俘囚に対して解放し、敵対よりも
話し合う姿勢をみせたのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
保則の到着以前、5月〜6月の段階で朝廷軍は散々に打ち破られていた上、秋田城は再度の襲撃を受けていた。それにて城内の
保管品である米穀・武器・馬・衣料品などは、蝦夷によって奪い去られている。また、彼らは秋田河(現在の雄物川)以北における
自主統治を要求。事実上の独立宣言である。このように強硬姿勢を貫き、かつ戦況優位だった蝦夷側であったが、保則の柔和な
和平路線によって次第に方針を転換。保則と共に現地へ派遣されて、鎮守府将軍として軍事の大権を握っていた武人・小野春風
(おののはるかぜ)も良く保則を補佐し、硬軟織り交ぜた適切な対応で蝦夷の懐柔に働いた。彼らの功績によって、8月には各地で
投降が相次ぎ、同月29日に最終的服属が果たされた。斯くして元慶の乱は終結したが、秋田城は築城から150年ほど経てもなお
戦の最前線であった事が分かる。乱後、保則は正式に出羽守と任じられ、戦後処理を担当。未だ抵抗する蝦夷も居たが、丁寧に
和を説き、また朝廷へも武力討伐を控えるよう具申した。この過程において秋田城は復興され、城介の職が常任のものへと変化
していくのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この後、938年(天慶2年)にも俘囚が反乱し、秋田城の兵と交戦したと史書「日本紀略」などに記されるが、詳細は不明だ。秋田城の
衰亡も良く分からず、11世紀前半には廃絶したとする説もある。1051年(永承6年)に起きた前九年の役(ぜんくねんのえき)では、
出羽城介が遥任制(都へ残り現地へ下向しない職制)になっていた事から機能していなかったと見られている。結果、中世以降は
城跡が風雪に埋もれ、江戸時代になるまで何も顧みられない地となっていった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
秋田城の考古学的検証■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そんな中、江戸中期の博物学者・菅江真澄(すがえますみ)は秋田へと赴いて高清水岡を実地調査。明治以降は郷土史家の大山
宏が地道に調査研究を行って、それが元で1924年(大正13年)には内務省考査員の柴田常恵(じょうえ)が考古学調査を成した。
そして1939年(昭和14年)9月7日、秋田城跡は国の史跡に指定される。1978年(昭和53年)3月22日には史跡範囲を追加している。
戦後の1958年(昭和33年)以降、城跡各所では発掘調査が継続して行われ、これは今なお続けられている。出土品は多岐に渡り
土器・小札甲(こざねよろい)・古銭・木簡・墨書・漆紙文書など。件の水洗便所からは排泄物の遺物も検出されており、大陸からの
渡来人が使用した(食文化の差異によって判別)事が確実視されている。城域は広大だが部分的に復元整備が行われ、先述した
外郭東門の他、水洗便所や庭園の沼池、政庁東門とそれに連なる築地塀が建てられている。また、政庁敷地内には歴代政庁が
どのように変遷していたのかを模型で展示していて、古代城柵の様態が分かりやすくなっている。■■■■■■■■■■■■■■
2017年(平成29年)財団法人日本城郭協会から続日本百名城に選出。多賀城が百名城なのだから、これは順当でござろう(笑)■
なお、秋田城は外郭の外にも当時用いられた遺構(水洗トイレなどはその区域に当たる)が点在しており、国の史跡範囲は城の
敷地を取り囲んで大きく指定されている。故に「所在地」は秋田城に限り史跡指定範囲全てを網羅して記述した。■■■■■■■■
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