羽後国 秋田城

秋田城址 復元門

 所在地:秋田県秋田市
寺内大畑・寺内焼山・寺内高野
寺内鵜ノ木・寺内児桜・寺内大小路
寺内神屋敷・土崎港南・将軍野南

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★☆■■■
★★■■■



古代城柵としての名城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
奈良時代から平安時代にかけて、大和朝廷が東北地方への征服拠点ならびに統治政庁として構えた古代城柵でござる。■■■■
畿内にあった朝廷が東国へと領土を広げていった奈良時代、東北地方は“蝦夷(えみし)”と呼ばれた先住民が自主独立して暮らし
まだ朝廷に服従していなかった。しかし徐々に支配地域を広げた朝廷は、708年(和銅元年)9月28日に出羽郡(いではぐん)を越後
国内に設置、同時期に出羽柵(いではのき)を構築。この出羽柵は当時の大和朝廷支配地域における日本海側での北限で、敵対
勢力つまり蝦夷との戦いに備えた防衛施設だ。正確な所在地は不明だが恐らく山形県の庄内地方に置かれたと考えられている。
その後、出羽郡は714年(和銅5年)9月23日に出羽国として分離され、朝廷の支配地域も北上。史書「続日本紀(しょくにほんぎ)」に
拠れば733年(天平5年)12月26日、出羽柵は秋田村高清水岡へ移設される。これが秋田城の創始であり当初は出羽柵だった事が
分かるだろう。なお、秋田城は「あきたじょう」と読むのが一般的だが、古代城柵の通例に当て嵌めるならば「あきたのき」とするのが
原初的な読み方だ。出羽柵が秋田城と改称されたのは760年(天平宝字4年)頃と見られ、文献上「阿支太城」の文言が登場する。
それまでに逐次改修・拡張されて、太平洋側の多賀城(宮城県多賀城市)と共に朝廷の支配拠点として活用されていた。多賀城は
陸奥国府、秋田城は出羽国府として機能していたようだが、これには異説を唱える学者もおり、真実は明らかでない。■■■■■■
朝廷は数次にわたって蝦夷討伐の遠征軍を派遣、それを令外官(りょうげのかん、律令制に定められてはいない役職)である鎮狄
将軍(ちんてきしょうぐん)や征夷大将軍が率いて現地で戦い、また支配の施政を行った。これが780年(宝亀11年)鎮秋田城国司の
職務に再編され、出羽介(国司に次ぐ二等官)が執り行う事とされるように。更に平安中期になり出羽城介という令外官に改められ
出羽介の兼任職とされるようになった。その後、秋田城自体は衰退し廃城になるが(詳細は下記)、鎌倉時代以降は秋田城介という
武家の名誉職として任じられるようになり、室町期からは秋田の有力大名・安東氏がその職を僭称、それを基に秋田氏と改姓する。
また、織田信長の嫡男である出羽介信忠(のぶただ)も、秋田城介の任官を1575年(天正3年)11月7日に受けている。■■■■■■

秋田城の年代的変遷■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところで、この秋田城は渤海使(ぼっかいし)の逗留地としても用いられる事があった。渤海使とは、当時の満州〜朝鮮半島北部〜
ロシア沿海州一帯に成立していた渤海という国から派遣された外交使節だ。本来は太宰府への来航を求められていた渤海使だが
当時の航海技術で日本海を九州まで南下するのは至難の業で、主に出雲国や北陸地方へ漂着する事が多く、秋田城もこのような
入港事例が散見されるとの事。城の外縁部には賓客を宿泊させる迎賓館のような客館があったと推定され、これが渤海使の供応
施設だったのではないかと考えられている。また、発掘によって客館域では水洗トイレ機能を有した厠の存在が確認されている為、
これも外国との交流によってもたらされた先進技術が活用された物と思われる。蝦夷対策の城だから辺境なのでは?と侮るなかれ
当時の日本海交易は独自の流通経路を発展させており、むしろ十三湊(とさみなと、青森県の十三湖にあった海外貿易港)や秋田
土崎湊(秋田城の目の前にあった交易港)の繁栄は大陸との交流によって都を凌ぐものとなっていた。こうした東北地方の経済圏は
蝦夷島(えぞがしま、北海道)や樺太を通じて大陸と直行するに至っていたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
斯くして出羽国における政治・経済・軍事の一大拠点となった秋田城は、年代によって改変が加えられ、政庁部においてはT期〜
Y期までの段階的発展が見られている。政庁の敷地(城の中心部)は東西94m×南北77mの長方形。中央に正殿、東面に東門が
あるのはどの段階でも共通しているもののそれ以外の建造物は年代によって異なり、城の成立〜隆盛〜衰亡という時代を物語る。
他方、外郭は政庁部を取り囲んで東西南北それぞれ550m四方の面積を有するが、北西部を切り欠いたような不定形な敷地であり
外郭においては年代的変化は殆ど無かったと推測されている。東西南北各面に門があったようだが、現在は東門が復元されており
(写真)往時の雰囲気を醸し出している。秋田城からは多賀城まで幹線道路が敷設されて、朝廷の東北経営に重責を果たしていた
様子が良く分かる。外郭が不定形なのは、高清水岡の元地形に合わせて敷地を構成した為であろう。■■■■■■■■■■■■

蝦夷との戦い、そして城の衰退■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
朝廷の威信を懸けて構築・維持された秋田城だが、その歴史は平穏なものではなかった。804年(延暦23年)秋田城は停廃されて
秋田郡を設置、統治体制の再編が行われる。もっとも、これは朝廷の支配地域がより北へと拡充して胆沢城(岩手県奥州市)等が
築城された為、秋田城の大改修を行い日本海側の支配力を強化する意図があったと思われる。逆に言えば、未だ蝦夷の脅威は
根強く、秋田城は最前線の城であり続けていた。830年(天長7年)出羽で大地震が発生、秋田城の諸建築が損傷したと記録され、
停廃が一時的なものだった事を裏付ける。また、この被害記録では城に四天王寺・四王堂などの宗教建築があったと記されており
秋田城が国府相当の設備を有していた文献史料と言える。そして878年(元慶2年)3月、秋田城は俘囚(ふしゅう)の襲撃を受けて
落とされる。元慶の乱(がんぎょうのらん)の始まりである。俘囚とは捕虜となった、あるいは服従を申し出た蝦夷の事で、朝廷から
生活の安堵を受ける一方、被支配民として過酷な軍役に従事させられていた民だ。この年、全国的な飢饉が発生しており、安住が
おぼつかなくなった彼らは、かねてから秋田城司による圧政にも苦しんでいた事もあって蜂起したのである。この為、城を守る城司
良岑近(よしみねのちかし)は秋田城を棄てて逃亡、出羽国司・藤原興世(ふじわらのおきよ)も逃げ出した。同時代の史料である
「藤原保則(ふじわらのやすのり)伝」でも、近の苛政を「聚め斂むるに厭うことなく、徴り求むるに万端なり(税の徴収に容赦なく)」
「貪欲暴_にして、谿壑も填みがたし(広い谷も埋めきれないほど貪欲)」と評した位だった。反乱も当然であろう。■■■■■■■
興世は「夷俘叛乱し、三月十五日、秋田城并に郡院の屋舎、城辺の民家を焼き損ふ」と朝廷に報告し、援軍を要請。既に反乱軍は
秋田城以北の各所で蜂起しており、特に米代川流域の諸集落では大規模な反抗を掲げている。興世は出羽国内の兵600を以って
「野代の営(能代市、米代川河口)」に布陣し対抗しようとするも、これは敵中に突出する無謀な策で「賊一千余人有り、官軍の後に
逸出して五百余人を殺略し、脱れ帰る者五十人なり」と記される大敗を喫してしまう。連戦連敗に驚愕した朝廷は、陸奥国・上野国
下野国の各国に出兵を命じると共に、鎮撫の責任者として藤原保則を派遣。保則はそれまで備中国や備前国で善政を施し、民から
慕われた“民政の達人”である。現地に到着した保則は興世を指揮下に監督し、各国から送られてきた援軍を適切に配置。更には
朝廷に武蔵国や常陸国からも増援を発するよう求め万全の防衛策を採ると同時に朝廷の備蓄米を俘囚に対して解放し、敵対よりも
話し合う姿勢をみせたのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
保則の到着以前、5月〜6月の段階で朝廷軍は散々に打ち破られていた上、秋田城は再度の襲撃を受けていた。それにて城内の
保管品である米穀・武器・馬・衣料品などは、蝦夷によって奪い去られている。また、彼らは秋田河(現在の雄物川)以北における
自主統治を要求。事実上の独立宣言である。このように強硬姿勢を貫き、かつ戦況優位だった蝦夷側であったが、保則の柔和な
和平路線によって次第に方針を転換。保則と共に現地へ派遣されて、鎮守府将軍として軍事の大権を握っていた武人・小野春風
(おののはるかぜ)も良く保則を補佐し、硬軟織り交ぜた適切な対応で蝦夷の懐柔に働いた。彼らの功績によって、8月には各地で
投降が相次ぎ、同月29日に最終的服属が果たされた。斯くして元慶の乱は終結したが、秋田城は築城から150年ほど経てもなお
戦の最前線であった事が分かる。乱後、保則は正式に出羽守と任じられ、戦後処理を担当。未だ抵抗する蝦夷も居たが、丁寧に
和を説き、また朝廷へも武力討伐を控えるよう具申した。この過程において秋田城は復興され、城介の職が常任のものへと変化
していくのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この後、938年(天慶2年)にも俘囚が反乱し、秋田城の兵と交戦したと史書「日本紀略」などに記されるが、詳細は不明だ。秋田城の
衰亡も良く分からず、11世紀前半には廃絶したとする説もある。1051年(永承6年)に起きた前九年の役(ぜんくねんのえき)では、
出羽城介が遥任制(都へ残り現地へ下向しない職制)になっていた事から機能していなかったと見られている。結果、中世以降は
城跡が風雪に埋もれ、江戸時代になるまで何も顧みられない地となっていった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

秋田城の考古学的検証■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そんな中、江戸中期の博物学者・菅江真澄(すがえますみ)は秋田へと赴いて高清水岡を実地調査。明治以降は郷土史家の大山
宏が地道に調査研究を行って、それが元で1924年(大正13年)には内務省考査員の柴田常恵(じょうえ)が考古学調査を成した。
そして1939年(昭和14年)9月7日、秋田城跡は国の史跡に指定される。1978年(昭和53年)3月22日には史跡範囲を追加している。
戦後の1958年(昭和33年)以降、城跡各所では発掘調査が継続して行われ、これは今なお続けられている。出土品は多岐に渡り
土器・小札甲(こざねよろい)・古銭・木簡・墨書・漆紙文書など。件の水洗便所からは排泄物の遺物も検出されており、大陸からの
渡来人が使用した(食文化の差異によって判別)事が確実視されている。城域は広大だが部分的に復元整備が行われ、先述した
外郭東門の他、水洗便所や庭園の沼池、政庁東門とそれに連なる築地塀が建てられている。また、政庁敷地内には歴代政庁が
どのように変遷していたのかを模型で展示していて、古代城柵の様態が分かりやすくなっている。■■■■■■■■■■■■■■
2017年(平成29年)財団法人日本城郭協会から続日本百名城に選出。多賀城が百名城なのだから、これは順当でござろう(笑)
なお、秋田城は外郭の外にも当時用いられた遺構(水洗トイレなどはその区域に当たる)が点在しており、国の史跡範囲は城の
敷地を取り囲んで大きく指定されている。故に「所在地」は秋田城に限り史跡指定範囲全てを網羅して記述した。■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・郭群
城域内は国指定史跡







羽後国 久保田城

久保田城 模擬本丸櫓

 所在地:秋田県秋田市
千秋公園・千秋明徳町・千秋北の丸
千秋矢留町・千秋久保田町・千秋城下町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★■■
★★★☆



近世城郭としての「秋田の」城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方こちらは江戸時代になってからの近世城郭。秋田城と呼ばれる事もあるが、それは上記の古代城柵を指す事が多いために
久保田城と称すのが通例。また、近代以降は城址が公園化されており、公園名の千秋(せんしゅう)公園と呼ぶのも一般的だ。
秋田は平安後期に起きた兵乱である前九年の役と、その後段戦となる後三年の役(ごさんねんのえき)を経て、中世は安東氏が
治めていた。この安東氏は大きく湊安東氏と檜山安東氏の2家に分かれ、互いに覇を競いつつ周辺豪族との闘争に明け暮れて
いたが、戦国時代後期に両家が統一され秋田氏と改姓、秋田の戦国大名として豊臣政権から公認される存在となった。しかし、
関ヶ原合戦後に常陸国宍戸(茨城県笠間市)へと転封され、平安期の豪族・安倍氏から約500年に及ぶ秋田氏(安東氏)支配は
終焉を告げた。それに代わって秋田に入封したのは、常陸の太守であった佐竹氏である。関ヶ原戦役の折、当主・佐竹右京大夫
義宣(よしのぶ)は中立の姿勢を取ったため、結果的に「徳川家を助けなかった」事は西軍に与したものと見做された。もともと、
佐竹家は関ヶ原西軍の首魁・石田治部少輔三成と親しい関係にあって、それが徳川領に隣接する常陸国に温存されたままでは
これから幕府を開こうとする徳川家康にとっては脅威でしかない。また、佐竹家は武家の名門・甲斐源氏の嫡流に位置する家で
征夷大将軍への任官を目指す家康(徳川家)に対して家格の差別化が図りにくく、こうした事情を勘案し佐竹家を「西軍方」として
処分する必要性があったと考えられる。斯くして常陸54万石(実質的には80万石近くあったと言われる)を召し上げられ、出羽国
秋田20万石へと大幅な減転封を1602年(慶長7年)5月17日に命じられたのだった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
同年9月17日、義宣は土崎湊城(秋田市内)へ到着。この城は安東氏時代に湊安東氏の本拠として使われた城だが、佐竹氏が
20万国の首府として用いるには手狭で、また設備も古かった。故に義宣は新たな本拠地となる新城を計画し、家中でいくつかの
候補地を検討させた。義宣の父・常陸介義重(よししげ)は肥沃な横手盆地を睥睨し開発も進んでいた横手城(秋田県横手市)を
推したと言うが、最終的には新進気鋭の若手官僚だった渋江内膳政光(しぶえまさみつ)らが企図した神明山への築城が決定。
古くは三森山(みつもりやま)とも呼ばれたこの山には、安東氏時代にはその家臣である川尻氏(三浦氏)が築いていた矢留ノ城
(鎗留ノ城とも)が置かれ、佐竹氏が入封した時点では佐竹家重臣・石塚大膳亮義辰(いしづかよしとき)の預かる地であった。
土崎湊城は秋田の大河である雄物川の河口に隣接するため水害の難があり、横手城は既に開発されており拡張の余地がなく
また、内陸にあるので水運の便に乏しかった。加えて横手城は山城の要諦で重防備となるため、ただでさえ目を付けられている
徳川幕府から謀反の口実を付けられかねなかった。その点、神明山は標高40m弱の丘陵で“甲斐源氏以来”の伝統を重んじる
佐竹家の武威を示すには適切な堅固さを有しながらも周辺には平地が広がって城下町を構築しやすく、統治拠点としての近世
城郭を構えるに有利な立地である。そして何より海や川が近く、平山城でありながら水運の利便性を享受できる築城好地と考え
られた。治世に長けた官僚である渋江政光はこうした点に注目して、将来性の高い神明山を推薦したのだった。なお、これらの
経緯は岩明均氏による歴史漫画「雪の峠」の中で存分に描かれており、戦国期から太平期への時代転換や、家臣団の中での
権力争奪戦など、当時の社会背景も含めた描写は見事なので、御一読をお勧めする。■■■■■■■■■■■■■■■■

築城から完成まで■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1603年(慶長8年)5月、提案者の渋江政光と、武略の将である梶原美濃守政景(かじわらまさかげ)を普請奉行にして神明山で
築城開始。この山は窪田の丘とも呼ばれており、それが窪田城という城名になったようである。翌1604年(慶長9年)8月28日に
本丸が竣工し、佐竹義宣は新城へ入居。これで土崎湊城は廃された。一方、元々客将であった政景は逐電し、後に福井藩へと
仕えるようになったが、これは政景が久保田築城案に肯定せず横手案を推していた事が原因とも言われている。また、渋江は
大坂冬の陣における戦闘で戦死している。様々な困難に直面しながらも、義宣は築城と内政を拡充。佐竹氏の入封当初、出羽
各所に一門や重臣を配置して民心慰撫に注力し、例えば義重は六郷城(秋田県仙北郡美郷町)に、角館城(秋田県仙北市)は
義宣の弟・蘆名主計頭義広(あしなよしひろ)、横手城には重臣・須田美濃守盛秀(すだもりひで)、大館城(秋田県大館市)には
分家の佐竹西家が入って各地に睨みを利かせた。後に幕府から一国一城令(大名の居城以外の城は破却する命令)が下ると
各地の城は廃されたが、佐竹氏は特例を引き出し横手城と大館城は存続を許され、そうした中で窪田城の築城は長く続けられ
最終的な築城工事完了は1631年(寛永8年)頃になったとか。ところが1633年(寛永10年)9月21日に火災が発生し本丸が全焼。
義宣の跡を継いでいた2代目城主・修理大夫義隆(よしたか)は、江戸住まいからこの年の5月に入国したばかりであったのだが
焼け出された為、三ノ丸にあった家老・渋江内膳光久(政光の子)の邸宅に身を寄せている。故に本丸の再建が着手され、この
工事は1635年(寛永12年)12月15日に成ったと言う。この頃から(寛永年間(1624年〜1644年)と見られる)、「窪田城」の表記が
文献上「久保田城」と書かれるように変化してござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

秋田の殿様、佐竹氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
義隆の後、城主の座は右京大夫義處(よしずみ)―大膳大夫義格(よしただ)―左近衛少将義峯(よしみね)―左兵衛督義真
(よしまさ)―右京大夫義明(よしはる)―右京大夫義敦(よしあつ)―右京大夫義和(よしまさ)―左近衛少将義厚(よしひろ)―
右京大夫義睦(よしちか)―左近衛中将義堯(よしたか)と継がれ明治維新を迎える。この間、1778年(安永7年)閏7月10日に
またも本丸が焼失、城主の義敦は三ノ丸の渋江敦光邸を仮御殿とし、1781年(天明元年)5月24日に新たな本丸御殿が竣工。
天明年間(1781年〜1789年)には城の表門付近でも火災が発生したとある。更に1797年(寛政9年)5月10日にも本丸の北部で
火事が起きて帯曲輪門上御隅櫓・新兵具御隅櫓や各所の多門櫓、塀などが失われた。戊辰戦争で久保田藩は新政府へ早い
段階から与していた為、近隣の庄内藩や盛岡藩などから領内へ攻め込まれており、久保田城下へ戦火が及ぶ危機に晒された
ものの、佐幕側の奥羽越列藩同盟が瓦解した事で城への攻撃は回避されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1869年(明治2年)7月25日に版籍奉還となり、佐竹義堯は知藩事に任命されるも、戊辰戦争において新政府側として参戦する
主導権を握ったのは家老の渋江内膳厚光(ひろみつ、渋江家12代)であったので、藩の執政は厚光が行うようになった。よって
久保田城は陸軍省の管轄下に入り、藩の政務は渋江邸で運営されるようになる。こうした改変中の1871年(明治4年)1月9日に
久保田藩は政府へ秋田藩と改称の願いを出し、13日から秋田藩が公称されるようになった。そして同年7月14年に廃藩置県、
以後、県庁の所在地は二転三転する。1872年(明治5年)3月13日に秋田城(久保田城から改称)の本丸に県庁を設置するも、
同年10月12日、城外にあった藩校・明徳館へと移転。ところが翌1873年(明治6年)8月24日に火災で全焼してしまったために、
再び渋江邸が用いられるようになった。結局、11月27日に城外の空官舎を県庁庁舎とする事で決着するが、県政機能は城の
内外を行ったり来たりという形を繰り返した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
明治政府が発した廃城令においても久保田城は存城の扱いとされていたのだが、1880年(明治13年)7月21日の夜半に本丸で
火災が発生し(日にちは諸説あり)、城内諸建築は殆どが焼失してしまう。残っていた御裏坂門も、1886年(明治19年)に城下の
曹洞宗義峰山鱗勝院へと解体移築され山門にされた。なお、古材を利用したが山門として再築する際に寺院様式へ改変され
旧態のまま建てられた訳ではなく、異なる形状での建立となった。斯くして衰退を極めた久保田城跡は、1890年(明治23年)に
陸軍省が旧主・佐竹家へ敷地を払い下げるに至る。このうち、本丸と二ノ丸部分を秋田市が借り受けて公園化したのが冒頭に
記した千秋公園の始まりである。後に公園は市から秋田県へ移管され、造園家・長岡安平(ながおかやすへい)の手で作庭が
行われた。戦後の1953年(昭和28年)4月1日からは再び秋田市が管理するようになっている。また、1984年(昭和59年)に公園
用地は佐竹家から秋田市へ寄贈されて、現在に至っており申す。この他に、秋田市内にある浄土真宗光明山休寶寺の本堂は
一条院書院を移築転用したとの伝承が残っている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

久保田城の地形と構造■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城址はJR秋田駅の西側一帯。千秋公園がそれなのは勿論、その周囲も外郭として区分けされ近世大名の居城として十分な
大きさを誇っていたが、現在これらの外郭部分は宅地や公共施設が並ぶ地区へと変貌しており、大半の濠は埋め立てられて
土塁も破壊され整地されてしまった。外郭部で残る遺構は秋田市文化創造館を中心に取り囲む濠が目立つものだが、往時は
旭川(城の西側を蛇行して流れる川)も外堀として機能していた事は言うまでもないだろう。その半面、千秋公園の中は比較的
手付かずのまま敷地が残されている。千秋公園の地形は、体育の授業で使う「飛び箱」のような形状をした丘陵になっており、
最上段の概ね長方形をした平場が本丸、それを取り囲むように帯曲輪が回り、更にその下段が二ノ丸となっていた。大手口は
南に向かって開いているが、堀を渡って主城域へ入るその虎口は本丸・帯曲輪・二ノ丸のどこからでも瞰射できる構造であり、
三段構えの多重防御は戦国乱世を渡り歩いた佐竹家の防衛思想が反映されたものと評価できる。実際にこの場所に立てば、
上から、そのまた上からも撃たれる感覚を味わえて恐怖を覚えよう。この構造は前述の漫画「雪の峠」でも描かれているので、
渋江政光が経済面だけを優先させた訳ではなく、防備にも抜かりなく(特に鉄砲戦を念頭に置いて)選地した事が実感できる。
当城に天守は無かったが、本丸の南西隅には張り出すように出書院と呼ばれる建築物が建てられ、城下を睥睨。この様子は
明治初期に撮影された古写真にも残り、久保田城の象徴的存在だった様子が分かる。無論、この建物からも大手側に睨みが
効いた事だろう。ただ、書院造りの風雅な建物だった事から戦闘向きの建築物ではなかったように思える。■■■■■■■■
本丸には城主の居館である御殿の他、塁線上に合計8棟の櫓があった。大半が平櫓か多聞櫓だったと言うが、中でも本丸の
最高所(標高45m)である北西隅には二重櫓にして城内最大の櫓である新兵具御隅櫓が建てられていた。1989年(平成元年)
秋田市制100年を記念して、その跡地に三重の御隅櫓(写真)が建てられた。しかしこれは模擬建築で、旧来の櫓を復元した
ものではござらぬ。この模擬御隅櫓は鉄筋コンクリート製3重4階建て、本瓦葺き入母屋造りで、高さは21.85m×間口19.7m×
奥行7.88m。総床面積は430.37u。最上階に朱色の高欄を付け、展望台として活用できるようになっている。■■■■■■■
本丸敷地は北側に帯曲輪門、西側に埋門、東側に御裏坂門(裏門)、そして南東隅に表門(本丸表門)と、4箇所の出入口が
備えられていた。表門を除く3門は食い違い虎口形式で、特に埋門は多聞長屋(多聞櫓)の階下土塁を潜り抜けて行く形状。
帯曲輪門と埋門は下段の帯曲輪に通じ、御裏坂門は急傾斜の階段を下りて二ノ丸に直結する。そして表門は桝形を開いて、
その桝形内には「御物頭御番所(おものがしらごばんしょ)」という警備詰所の建物が置かれていた。この建物は江戸時代から
変わらずに現存しており、久保田城内唯一の旧態を残す建築物。佐竹家の記録「国典類抄」などの史料に拠るとこの番所は
1758年(宝暦8年)に火災で炎上し再建されたとあるが、以後の史料で焼失した記録がない為18世紀後半の建築が残されて
いると推測されている。間口5.5間(約10.5m)×奥行5間(約9.5m)、切妻造り柿葺き、南側に庇が付く建物で、平面積は30坪
(約100u)の規模。1988年(昭和63年)3月に保存修復工事を行って、1990年(平成2年)4月10日には秋田市の有形文化財に
指定され申した。一方、肝心の表門も諸々の文献史料や残存していた礎石の配置などから形状を図り、2001年(平成13年)
木造再建されている。桟瓦葺き入母屋造り2階櫓門で、高さ12.46m×桁行9.1m×奥行4.8mの規模。近世城郭の櫓門としては
やや小ぶりながら、どっしりとした安定感のある建物で、重厚な趣は歳月を経て風格を増し、再建建築なのにまるで現存する
古建築の如き印象さえ与えてくれる。これも久保田城での必見項目でござろう。この表門桝形から下る道は、狭い屈曲を経て
長坂門へ通じる。表門が上位の門(一の門)なら長坂門が下段の門(二の門)を成し、2つの門で通路を封鎖する堅固な構え。
御物頭御番所は長坂門の開閉も担っていた。長坂門という名の由来は、そのまま“長い坂が繋がっていた”事による。長坂を
下った先には二ノ丸が広がり、そこには金蔵・馬場・厩や境目方役所、勘定所などの藩政諸役所が連なっていた。二ノ丸には
土門(つちもん)・不浄門・黒門・松下門と言った虎口が開いており、正式な登城口は東面の黒門であったが、通用口としては
西側へ抜けられる松下門が用いられた。この松下門は城下町や土崎湊へ向かう経路という利便性がある一方、大手口から
直結する関門でもあるため上位の曲輪から多重防御を図るようになっていた要所。当主・佐竹義宣自らがこの虎口の設計を
手掛け、自慢の縄張だったと言い伝えられている。二ノ丸の北に北ノ丸、東〜南を囲うように三ノ丸が隣接し、これらの曲輪は
主に重臣屋敷として使われ、何度も名の出た渋江邸は三ノ丸内に置かれていた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
天守も無く、石垣も無い久保田城は往々にして“地味”と評されて、その理由は幕府に遠慮したとか、築城技術が未熟だった、
はたまた予算不足など、酷な論に落ち着くことが多いものの、実際に当城を目にしてみれば「圧倒的な土の壁」に驚かされる。
百聞は一見に如かず。地味なのではない、これ以上余計な物は必要ない位の完成度なのだ。父祖伝来の常陸を500年に渡り
守り切った佐竹氏は、坂東武者なりの築城術を磨き上げ、それを出羽の地に移植したと言えよう。これだけの名城ゆえ、史跡
指定こそされていないが、日本城郭協会から2006年(平成18年)4月6日に日本百名城の1つに選定されている。更には2008年
(平成20年)3月25日、千秋公園が秋田市の指定名勝となっている。日本の歴史公園百選にも選出。■■■■■■■■■■■
川尻源五郎在城時代の城名で矢留城、旧名で窪田城、明治維新以降の名として秋田城、その他に葛根城という俗称も。■■



現存する遺構

御物頭御番所《市指定文化財》
井戸跡・堀・土塁・郭群等

移築された遺構として
鱗勝院山門(御裏坂門)・休寶寺本堂(伝一条院書院)




大湯鹿倉城  山形城