陸中国 大湯鹿倉城

大湯鹿倉城大手口

 所在地:秋田県鹿角市十和田大湯字古舘・十和田大湯字下ノ湯

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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地方領主の悲哀■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
単に鹿倉(かくら)城とも。あるいは、この地方の城館は軒並み「館(たて)」と表現されるので鹿倉館とも。■■■■■■■■■■■
平成の大合併ではなく、1972年(昭和47年)4月1日の合併によって成立した鹿角(かづの)市。この城の所在地である大湯温泉郷は
それまで鹿角郡十和田町だった。「十和田市」と云うと青森県なのだが「十和田町」という表現に聞き馴染みのある方も多いのでは?
十和田湖方面へ抜ける発荷(はっか)峠と、大館から三戸方面へと通じる鹿角街道が集約する交通の要所・大湯は古代から集落が
発達した地で、縄文時代の遺跡とみられる大湯環状列石(国の特別史跡)等、それを証明する遺構も数多く遺されてござれば、当然
城跡も在って然るべきだろう。鹿倉城は大湯氏の城と見られているが、この大湯氏は鎌倉時代中期に当地へ入部している。元々は
武蔵の名族・成田氏(忍(おし)城(埼玉県行田市)主として有名)から分流した鹿角奈良氏が、大湯村に入り大湯姓を名乗ったもの。
鹿倉城の創始は詳らかでないが、大湯氏の入部当初に遡るならば鎌倉期の築城と言う事になろう。室町時代になると、鹿角一帯は
東に南部氏、西に安東氏という二大勢力に挟まれ、在地武士らは両者の去就に右往左往する事となるが、大湯氏は概ね南部氏に
従属して家名を保った。だが1558年(永禄元年)時の当主・大湯五兵衛昌光(まさみつ)は安東氏と密かに通じるようになり、1566年
(永禄9年)安東氏が鹿角へ侵攻した際には、安東方に与して南部勢と対決した。されどその後、安東勢が退却すると再度南部方へ
帰参。この地方の国人が難しい舵取りを要求されていた様子がよく分かる。その極致と言えるのが、九戸政実(くのへまさざね)の
乱における対応であろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国大名として大勢力に発展していた南部氏は、戦国末期に家督相続で内訌を起こす。当時、既に豊臣秀吉が全国統一しており
南部氏は豊臣政権に従属する中央政権公認の大名となっていたが、南部大膳大夫信直(のぶなお)の家督相続に不満を募らせて
1591年(天正19年)1月に九戸左近将監政実が挙兵したのだ。九戸党は自身の居城・九戸城(岩手県二戸市)に5000の兵で籠城。
同時に、各地の有力武士に蜂起を促して信直方を攪乱しようとした。これが大湯氏にも波及したのである。大湯氏は所領2000石と
謳われた大身であったが、その動静は乱を左右する事にもなりかねない。しかし宗家・信直と実力者の政実、いずれに与するかで
大湯氏の存亡もかかっていた。この時、昌光の2男である四郎左衛門昌次(まさつぐ)は手勢を率いて大湯鹿倉城に籠城、九戸勢に
同調したのだ。昌次には嫡子の四郎左衛門、2男・次郎左衛門昌吉、3男・彦左衛門昌致の3子が居たが、彼らも行動を共にした。
鹿倉城が九戸側に就いたため南部信直は討伐軍を派遣する。毛馬内(けまない)城(鹿角市内)の毛馬内権之助政次(まさつぐ)、
花輪館(同じく鹿角市内)の大光寺佐衛門佐正親(だいこうじまさちか)らが鹿倉城を攻撃し、落城。昌次と3子は九戸城へと退いた。
一方で昌光とその長男・彦六(五兵衛)昌忠は信直方に参じ、信直直属の部隊に編入されて九戸城包囲に臨んでいる。結局、この
反乱は秀吉から討伐軍が派遣される大騒乱に発展し、“中央政権に叛した”九戸政実は無残に処刑される形で終了した。九戸城に
籠った大湯昌次と四朗左衛門は九戸方首魁として斬首され、昌吉・昌致兄弟は津軽へ逃亡している。後に兄弟は津軽家の家臣に
取り立てられ、彼の地に定着している。対する昌忠は信直から所領を安堵され大湯の地に戻ったが、猛攻を受けて落ちた鹿倉城は
放棄され、大湯氏は新たな館に入ったそうである。このように、九戸の乱において大湯氏は一族を両軍に分けて対応しいずれかが
負けても血脈が残るように謀ったのである。さながら、関ヶ原の戦いで東西両軍に分かれた智謀の将・真田一族のようでもあるが、
残念ながら昌忠の後嗣・多門之助昌邦は跡継ぎが無く、大湯氏は断絶したそうだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

分かり易い入口を往けば■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
大湯の街並みの中で国道103号線から分岐する秋田県道66号線を南下していくと、大湯盆地の西端部を塞ぐ坂道を登っていく事に
なる。城はこの坂の途中、大きく道がカーブするあたりに登城口があってそこから山へ入っていく形。道沿いには大きな標柱が立ち
入口自体は分かり易かろう(写真)。城地は鹿角市大湯支所から西南西650m程の位置にある。南にある標高250mの山から北側へ
緩斜面が広がる中に2つの小ピークがあり主郭は山裾末端側(北側)のピークを啓開したものだ。その標高は海抜240m、北東から
南西に向かって細長い敷地となっていて、その南側に下段曲輪が附属する構造。これら下段にある幾つかの曲輪が兵の駐屯地に
なっていたと推測される。山麓にある大湯集落との比高は80m強あり、場所から考えても大湯の町へ至る敵勢を封鎖するに適した
険要地形を利用したと思われる。但し城内に堀や土塁のような明確な防御構造物は少なく、どちらかと言うと立地恃みの古典的な
城砦だったようだ。もう十何年前になるか、たまたま通り掛かって城の標柱を発見、案内板を頼りにその様子を確かめようと試しに
突撃してみたのだが、これが凄い事に!下段曲輪部と思われる場所は直径1m以上ある巨大なシダ植物に覆われ、中世どころか
白亜紀にでも迷い込んだ感じ。いくら城好きと言えども、これには辟易してしまった。「保存=手付かず」と言うならばそれで良いの
かもしれないが…と、ちょっと考えさせられたものだ。されど近年、整備の手が入って遊歩道が整備され、比較的登りやすい経路が
確保された御様子。地域の古城が少しずつでも評価されるのは喜ばしい事でござるな。話に聞けば1992年(平成4年)には鹿倉城
落城400年記念鎮魂碑が建立された上に、それを題材とした楽曲まで制作されたとの事で、草木に埋もれた山城と言えども地域の
方々にはしっかり認知されているようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
史跡指定は特にされていないが、埋蔵遺跡地として秋田県が把握している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

郭群




大館城  秋田城・久保田城