磐城国 白石城

白石城 復元大櫓

 所在地:宮城県白石市益岡町・大手町・沢端町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★☆
★★★★



平安期からの古城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
単純そうだが間違えやすい「白石」の読み。「しろいし」が正解で「しらいし」は誤りだ。そんな白石城の別名は地名から
「益岡城」、別の字を充てて「枡岡城」ともされるが、こちらは共に「ますおか」と読めば良い。白石市街地の中に小高く
盛り上がった小丘陵を城地とし、その周囲に城下町を広げた典型的な平山城である。■■■■■■■■■■■■
白石の地に初めて城が築かれたのは平安後期、刈田(かった)氏に拠るものとされている。時の東北地方を支配した
豪族・清原氏の内紛に源氏棟梁・八幡太郎義家が介入し大乱となった後三年の役に於いて、藤原経清の子・経元は
戦功著しく、義家から刈田郡・伊具(いぐ)郡を与えられた。これで経元は刈田氏を称し、刈田左衛門尉経元と名乗る
ようになった。ちなみに奥州藤原氏の祖・藤原清衡は経元の兄である。白石城の原型となる館はこの経元が1088年
(寛治2年)頃に築いたとされてござる。経元の後、刈田氏は連綿と血を繋ぐが平安末期の奥州は常に争いが絶えず
更に源平争乱まで加わり、いつも刈田氏は戦いの中にあった。1188年(文治元年)源頼朝による奥州征伐が行われ
時の当主・刈田秀信は伊達家初代となる伊達常陸介朝宗(ともむね)に従い従軍、藤原泰衡討伐で軍功を挙げる。
秀信の次代、秀長から白石氏と改姓。しかしその孫・長俊には子が無かった為、伊達氏4代目当主である伊達政依
(まさより、朝宗の曾孫)の子・宗弘を養子に迎えた。白石氏の独立は保たれていたが、こうして血脈的には伊達氏の
門閥に組み込まれたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国争乱激しくなる時代へと進むにつれ、地方豪族である白石氏は次第に周辺の大勢力に従わざるを得なくなり、
白石宗綱(経元を初代と数えて白石氏18代目)は遂に伊達家臣として従属。血族という事もあり、白石氏は伊達家
重臣として厚遇され、家中での功も挙げていった。しかしそれ故に、白石氏は慣れ親しんだ刈田郡から離れる事に
繋がる。宗綱の孫、若狭守宗実(むねざね)は主君・伊達政宗の命により1586年(天正13年)陸奥国安達郡宮森城
(福島県二本松市)へと加増転封するのでござる。替わって白石の地には屋代勘解由兵衛景頼(やしろかげより)が
入部。景頼は政宗の側近、彼の“政務代行者”として絶大な権勢を誇ると共に、数々の汚れ仕事も引き受けていた。
ところが伊達家は1591年(天正19年)豊臣秀吉から所領替えを命じられ、白石の地は蒲生家の領地に編入される。
この為、屋代景頼は名取郡北目城(宮城県仙台市太白区)へと移転。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
会津42万石の太守・蒲生飛騨守氏郷の領土となった白石に入ったのは蒲生源左衛門郷成(さとなり)石高は4万石。
白石城が城郭として本格的に構築されたのはこの時とされ、ゆえに築城年もこの年とする説が一般的だ。郷成は
城下町まで含めた整備を行い、蒲生家の家老に相応しい名城を築き上げた訳だが、1595年(文禄4年)2月7日に
主君・氏郷が40歳という若さで病没。氏郷の跡を継いだ嫡子・飛騨守秀行が幼少な上に家中の纏まりを欠くとされ
奥羽の要衝・会津92万石(氏郷は42万石から92万石まで加増されていた)を治めるのは無理と判断、豊臣政権は
秀行を宇都宮(栃木県宇都宮市)12万石へ減転封してしまう。斯くして会津には上杉左近衛権少将景勝が120万石で
入封。白石城には上杉二十五将の1人に数えられる智将・甘糟藤右衛門景継(あまかすかげつぐ)が2万石で入る。
彼は城を更に改修、白石城を近世城郭として完成させ申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

関ヶ原、北の焦点■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
景勝の会津移封の直後に豊臣秀吉が病没。天下の行方に暗雲がかかる中、新政権を立てようとする徳川家康と
旧来の豊臣政権維持を図る石田治部少輔三成の対立が激化していく。景勝は三成と気脈を通じ、領国・会津に
引きこもり家康を挑発した。領内に城や砦、軍事輸送用の街道や橋梁を整備し、それを家康が「謀叛の兆候」と
糾弾。これに対し、景勝の家老・直江山城守兼続が「文句があるならお相手致す」と言い放ったのだ。当然、五大老
筆頭である家康は反抗的な上杉家を討伐すると決定。上方から大軍を率いて会津征伐に発った。これは三成と
景勝が示し合わせていた計略で、会津で待ち受ける景勝と、大坂から挙兵した三成が挟撃して家康を叩こうとの
目論みでござった。よって会津では上杉勢が総動員され家康勢に備えていたのだが、しかし一方で家康もそれを
見越しており、三成が決起するのを予想した上で徳川に敵対する者を一気に叩き潰すつもりであった。こうして
1600年(慶長5年)天下分け目の大戦・関ヶ原合戦へと突入していく訳だが、徳川軍に備える白石城では、城主の
景継が景勝に呼び出され鶴ヶ城(福島県会津若松市)へ赴いていて留守、甥の登坂式部勝乃(とさかかつのり)
新左衛門兄弟が城代となり守備に当たっている。結局、三成の挙兵に対して家康は馬首を返し、会津へは来なく
なったが、その家康と盟約を結んでいた岩出山城(宮城県大崎市)の伊達政宗が、上杉領へと攻撃を仕掛けた。
政宗は自領の南端にある北目城を作戦根拠地とし、上杉領侵犯を開始。城主不在の白石城は、真っ先に攻略
対象として狙われ、7月24日の午後から伊達勢が襲い掛かる。城の大手に攻め寄せたのは誰あろう屋代景頼、
5年前までこの城を預かっていた人物である。他に二ノ丸側から亘理定宗、西からは政宗の懐刀・片倉小十郎
景綱、南からは山岡重長といずれも伊達家中歴戦の勇将揃い。城の内外を知り尽くしていた伊達軍は、難なく
白石城を攻略、翌25日には城方が降伏するに至る。ただ、城内には政宗に遺恨を抱く旧二本松家臣らも多く
籠っており(政宗は1586年(天正14年)二本松畠山氏を滅亡させている)、鹿子田右衛門は降伏に断固反対し
徹底抗戦を主張。この為、登坂勝乃は右衛門を殺害して開城の手筈を整えた。■■■■■■■■■■■■■
この時、降伏の取次を行ったのが石川大和守昭光と片倉景綱である。昭光は政宗の叔父。伊達軍は城攻めで
各所に放火し、城は破損してしまったが、接収するや直ちに修復を開始する。この後、家康勢が転進し上方へ
向かったと報じられた為、孤立する事を恐れた政宗は一時的に上杉家と和睦した。即ち家康の動向次第では
再戦もあり得る事を予想し、奪った白石城を早急に使える状態へと戻す必要があった訳で、和睦もその為の
時間稼ぎでもあった。8月14日、政宗は昭光を城代に任じ兵2000余を残して一旦北目城へ引き上げる。一方、
家康は何としても政宗に上杉攻撃を継続させたかった為、8月22日に所謂「百万石のお墨付」を与え、伊達軍
単独でも上杉と戦うようけしかけた。斯くして伊達軍と上杉軍の間には再び戦端が開かれ、一連の関ヶ原戦役
終幕まで各所での戦闘が続き申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

片倉家の時代■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その関ヶ原合戦は東軍・徳川家康方が大勝し、西軍・石田三成は敗北の上に斬首となった事は周知の通り。
東軍に味方した政宗は「お墨付」の通りに大幅な加増があるかと思いきや、裏では様々な策謀を巡らせた事が
露見し、家康から与えられた恩賞はたった4万石程度の加増に過ぎなかった。その加増分で与えられた領土が
刈田郡、この白石城であった。1602年(慶長7年)政宗は腹心・片倉景綱に1万3000石を与え白石城主に任じる。
但し当時景綱は病床にあったため白石に入ったのは1605年(慶長10年)の春でござった。以後、白石城は明治
維新まで片倉家代々の持ち城となっていく。特に、徳川幕府が豊臣氏を滅ぼし天下泰平となった後、幕府から
一国一城令(大名の居城以外の城は破却する命令)が出て、本来なら伊達家は仙台城(宮城県仙台市青葉区)
以外の城は認められない筈であったが、片倉家の白石城は特例として「城」のまま存続を許されている。■■■
一国一城令が発せられた直後の1615年(元和元年)10月14日、備中守景綱は病没。家督と城主の座は嫡男の
左門重長(しげなが)が継いだ。片倉家は初代・景綱から代々「小十郎」の名乗りを用い、その旗印には景綱の
異父姉・喜多(きた、政宗の乳母)が授けた黒釣鐘の絵柄を使っている。この黒釣鐘は片倉家の武勇を天下に
鳴り響かせる事を目指した謂れに拠るが、大坂の陣において武名を轟かせた2代目小十郎・重長も父と同様に
主家・伊達家から重用され1万7000石に加増されている。重長には男子が産まれず外孫の景長を養嗣子とし、
その景長は仙台藩の御家騒動「伊達騒動」において国家老として事態の鎮静化を指揮。政宗の軍師であった
初代小十郎、大坂の陣で武功を挙げた2代目小十郎に続き、御家の危機を救った3代目小十郎として名を上げ
片倉家は伊達家の柱石として不動の地位を確立。景長の代、1673年(延宝6年)大地震が発生し城内の石垣が
崩れたが、約10年後の1684年(貞享元年)に補修されている。時は移り、既に景長から村長(むらなが)の治世へ
代わっていた。その次代、村休(むらやす)の頃になる1697年(元禄10年)にも石垣が崩壊、1702年(元禄15年)に
補修を行う。村信(むらのぶ)の代を経て、村定(むらさだ)の時期に当たる1732年(享保17年)城の時鐘を設置。
以後、片倉家は村廉(むらかど)―村典(むらつね)―景貞(かげさだ)―宗景(むねかげ)と相続されていく中
1819年(文政2年)白石城は大火で全焼。翌1820年(文政3年)幕府に許可を取り再建を開始する。天守相当の
3重櫓(「大櫓」と称す)は1823年(文政6年)に完成、他の建造物も順次建て直され、復興が成ったのは1832年
(文政12年)の事でござった。そして幕末動乱の時期を迎え、片倉家最後の城主・邦憲(くにのり)の代となる。

奥羽越列藩同盟の結成■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜は鳥羽・伏見の戦いの後に江戸へ逼塞、謹慎して朝廷に恭順の意を示したが、
幕府を明確な形で打倒したい薩摩・長州の首脳陣はそれでもなお江戸への討伐軍を派遣し江戸総攻撃を狙うも
勝海舟・西郷隆盛の会談によって直前でこれは回避された。斯くして江戸は無血開城に至ったが、戦功を欲する
新政府軍は、その矛先を会津藩へと向ける。会津藩主・松平肥後守容保(かたもり)は京都守護職として長州藩と
長らく対立関係にあったからだ。それまでの正当政権たる江戸幕府に従い、かつ朝廷警護の任として京都守護を
務めていた会津藩に対して、私怨をすり替え“朝敵”の汚名を着せて槍玉に挙げるのは東北諸藩の同情を買い、
加えて恭順した慶喜や容保(容保も隠居の上に謝罪状を朝廷に提出していた)を一方的に討伐の対象とするは
「万国公法違反」であるとし、薩長の攻撃方針に異を唱えたのである。このようにして、東北地方の諸藩は会津の
赦免を嘆願する意向でおおよそ一致、具体的方策を協議する為に1868年(慶応4年)閏4月11日、代表者による
会議が執り行われ申した。その舞台となったのがここ白石城で、この会議を白石会議と呼ぶ。結果、列藩連署の
嘆願書を新政府の総督府へ提出する事になったが、これを新政府軍側が拒否した挙句「奥羽皆敵」との認識を
示した為、東北諸藩は一斉に新政府を敵視するに至った。これが奥羽越列藩同盟の結成に繋がる訳で、同盟の
契機となったのが白石城だったと言える。閏4月23日「白石盟約書」が調印され、東北地方は政軍共同体として
動き始めた。一般的認識では会津同情論に流された東北諸藩が朝敵の汚名覚悟で薩長に対立した軍事組織と
捉えられがちだが、実際の列藩同盟は政体においても構想を有し、謀略と不義で天皇を囲った薩長同盟を糾し
公議正論と国際法遵守を以って朝廷に奉仕する旨を志しており、決して朝敵と誹られるつもりは無かったようだ。
よって白石城には奥羽越公議府が置かれ、佐幕派の皇族・輪王寺宮公現(こうげん)親王(孝明天皇の義弟)も
盟主として迎え入れられている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

明治以後の白石城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし戦況は薩長有利に事が運び、会津藩は抗戦の上に降伏。奥羽越列藩同盟も瓦解し、特に主導的立場の
仙台藩は懲罰として62万石から28万石へと大幅減封されてしまった。当然それに応じて白石城主・片倉邦憲も
1万8000石(当時の石高)から僅か55石の蔵米支給へと壊滅的な処分を受けた上、城も没収された。生活が立ち
行かなくなってしまった片倉家は、家臣を引き連れて蝦夷地での開拓を新政府に志願。この為、多くの人員が
北海道に移住する。中でも現在の札幌市郊外で集中開拓を行い、そこで興した村が「白石村」と名付けられ、
今では「札幌市白石区」となっている。当然、その読みも「しろいし」でござる。■■■■■■■■■■■■■■
さて城主不在となった白石城には、列藩同盟から早々に離脱し新政府側へと寝返った盛岡藩(岩手県盛岡市)主
南部甲斐守利恭(なんぶとしゆき)が封じられた。南部軍は新政府側へ降伏したものの、一時的には戊辰戦争で
薩長軍と交戦していた為、盛岡20万石から減転封され白石13万石へと移されたのである。1869年(明治2年)4月、
白石城は片倉氏から南部氏へと引き渡され、同年6月17日の版籍奉還によって利恭は白石知藩事に任命される。
しかし利恭は父祖伝来の地である盛岡への執念激しく、新政府に対し多額の献金を行い盛岡への復帰を要望。
その結果7月22日に盛岡復帰が認められ、8月10日に盛岡知藩事を命じられる。故に白石藩領は新政府直轄地と
なり、白石県が発足した。10月、南部氏は白石から撤収し白石城が白石県庁となるも、直後の11月に県が再編、
角田(かくだ)県が発足し県庁も角田城(宮城県角田市)へと移ったのでござる。代わって白石城は新政府による
三陸磐城按察府(東北地方を統括する役所)が設置されるも、事実上機能せぬまま翌1870年(明治3年)10月6日
按察府制度そのものが廃止されてしまう。この為、城は兵部省・陸軍省・大蔵省と所管を転々とした挙句、遂に
1874年(明治7年)廃城とされた。城内の建築物は民間に払い下げられ、一部の売上金は片倉家中の蝦夷開拓
資金に充てられたとも云う。この時、いくつかの建造物は移築されたものの、大半は破却される運命を辿った。
城跡は長らく放置されていたが、1900年(明治33年)白石町(当時)による益岡公園として一般開放されている。
1915年(大正4年)には白石町が本丸跡に初代片倉小十郎を顕彰する頌徳碑を建て申した。■■■■■■■■

白石城の縄張り■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城址は白石市街地のド真ん中にある小山を中心とした一帯。白石市役所の西隣…と言うと分かり易いのだが、
往時は市役所敷地やその周辺も城地内であった。海抜75m/麓との比高25m程の山頂を啓開して本丸を造成、
その西側下段に二ノ丸を広げ、更に西へと中ノ丸、沼の丸(現在は野球場のあるあたり)などの曲輪が連なる。
本丸は帯曲輪が一周して取り巻き、北に厩曲輪(北の虎口を管制する大きめの蔀)、南は南ノ丸が封鎖する。
城の南は、自然地形では丘陵が繋がり本来は地続きで敵の侵入を許し易い状況にあったが、巨大は堀切を
掘削してこの尾根を断ち切っている。この堀切は現在も市内の車道(八幡町兎作線)として活用されている。
転じて東側を見れば、広大な三ノ丸(これが市役所敷地)に侍屋敷が並び、その外側に外曲輪までもが広がり
城下の名残は、現在も街路の形に踏襲されている。主郭部と言える本丸・二ノ丸・沼の丸まで含めた小山を
まるまる囲うように水路が一周、加えて三ノ丸や外曲輪などの外郭各所の区分にもその水路は接続して張り
巡らされ、水濠の役割を果たしていた。この水路も現存、白石城の外郭がどのような規模であったかが良く
分かる上に城下町の風情を情緒豊かに物語ってくれている。外郭部まで含めると、当時の規模は東西方向で
約1.2km(国道4号線バイパス〜東北本線線路)×南北900m(国道113号線〜宮城県道24号線付近)もあり
さすが仙台城に次ぐ「伊達家2番目の正規城郭」、いや「鬼小十郎の城」の面目躍如と言った雄大さだ。今は
埋め立てられているが、城の西端(野球場の西、白石高校の北側)部分には大きな溜池もあり、水利も抜群。
何より、白石の町の東には大河・斎川が流れ守りを固めており、北には白石川が横断。西は鉢森山の裾野が
往く者を遮り、南は水田つまり沼沢地で塞がれていた。白石城下はなかなかに険要の地であったと言える。
一方、本丸の中に注目すると北西隅に建っていた城内最大の三重櫓が巨大な事に驚かされる。幕府に憚って
この櫓は「大櫓」と称していたものの、事実上の天守と言える立派さだ。最上階に花頭窓をあしらい、風雅な
雰囲気を出しつつ下階に破風を重ね、その破風には白木の長押(なげし)を顕にして引き締まった印象を出し、
知勇兼備の初代小十郎になぞらえた風合いを感じるのは…これはまぁ個人的感想だとしても、存在感抜群!
本丸内には御殿殿舎が密集して建ち並び、白石の統治を行うと共に片倉家の居所になっていたのみならず、
主家である伊達宗家が参勤交代で江戸へ参府する際の宿所としても用いられていた。■■■■■■■■■■■

白石城、被災と復興の歴史■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その大櫓と、本丸大手虎口を固める大手一ノ門・同二ノ門や外周を繋ぐ土塀、それらの土台となる本丸石垣が
1995年(平成7年)に復元され、白石城往時の姿を見える形で紹介してくれている。木造で復元された大櫓は、
平成の城郭再建ブームの一翼を担い、史実に準えた本格復元は高く評価されている。一ノ門と二ノ門が塞ぐ
大手虎口は変形した封鎖空間が独特の形状を成すが、大櫓から丸見え。しかも、門を攻めようとする敵兵は
大櫓から眺めると背中を向けており、非常に効率よく撃破できるようになっている。何より虎口空間の中は狭く
見通しも悪い為、もし自分が攻め手の兵卒だとすると、こんな所には入りたくないと思わせる陰険さだ(笑)■■
東日本大震災でこれら復元建造物も壁面や瓦が崩落する被災をしたが、2011年(平成23年)7月6日に纏めて
白石市文化財に指定。再建から僅か15年にして文化財とするは、市の英断に賛辞を贈りたい。新品同様の
建物(しかも再建)に文化財として価値を認めるか異論もあろうが、既に大阪城天守(大阪府大阪市中央区)や
富山城天守(富山県富山市)など“史実に正しくない天守”でさえも登録有形文化財になる時代であり、歴史の
営みを証明する存在として後世に残す意義を汲み取るべきだろう。白石城の再建建築は、文化財に指定される
事で未来永劫の保全が約束された訳である。言うまでも無く、震災被害は翌2012年(平成24年)中に復旧されて
いる。だが、白石城は2021年(令和3年)2月13日に発生した福島県沖地震で大櫓壁面に亀裂被害を受け、それが
直されたと思ったら、2022年(令和4年)3月16日にも地震被害を蒙る事に。このように、白石城は何回も被災と
修復を繰り返している。なお、城址そのものは1982年(昭和57年)7月2日に市の史跡指定。城内各所には井戸跡が
散見される上、曲輪の形状や土塁なども綺麗に残っていて楽しめる。2017年(平成29年)4月6日には、財団法人
日本城郭協会から続日本百名城の一つに選出されてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

片倉小十郎と真田幸村の縁■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
他方、明治維新時に解体された古建造物のうち、いくつかの門と蔵が移築現存しており申す。元々の東口門
(二ノ丸大手二ノ門)は市内本町にある浄土宗功徳山当信寺の山門に、厩口門(厩曲輪の下、城の北口門)が
市内不澄ヶ池の真言宗瑞珠山延命寺の山門として、旧態不明(大手門か厩門と伝わる)の城門が宮城県名取市
増田にある曹洞宗谷田山耕龍寺山門にそれぞれ転用されている。また、焔硝蔵が市内の個人宅に現存。■■
当信寺・延命寺の山門は共に3間一戸で2階建瓦葺の形式。意匠はそれぞれ異なるが、いずれの門も眼象窓
(げんじょうまど)と呼ばれる独特な形の窓が開いているのが特徴的だ。耕龍寺山門は薬医門形式で、移築時に
両側を1間切詰めた3間一戸の切妻造桟瓦葺。1990年(平成2年)3月31日、名取市有形文化財に指定された。
加えて、城内で使われていた時鐘も残存。これも戊辰戦争後に福島県伊達郡桑折町にある浄土真宗浄光山
傳来寺へ払い下げられ、太平洋戦争中に金属供出令で鋳潰されそうになったものの古鐘の由来によって供出を
回避、1990年3月30日に桑折町指定有形文化財とされている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
余談だが当信寺は泰陽院と号し、“日ノ本一の兵(つわもの)”と称えられた勇将・真田左衛門佐信繁(幸村)の
3女・阿梅(おうめ)の方の菩提寺である。これは彼女の戒名が泰陽院殿松源壽清大姉である事に由来する。
阿梅は大坂落城時に片倉家の兵が生け捕りにしたとか、或いは伊達軍の武勇を見込んで信繁が政宗に託して
片倉家へ下げ渡されたなど諸説あるが、いずれにせよ2代目小十郎・重長の妻となっている。その重長は阿梅の
弟・大八(信繁の2男)や妹らも引き取って保護しており、片倉家は真田家との縁を重く見ていた。大八は後に
片倉久米之介守信として成長し、仙台藩士に取り立てられ仙台真田家の始祖となっている程だ。そんな阿梅の
寺に白石城の東口門が残る訳だが、この東口門は明治維新当時には浄土真宗高徳山専念寺(市内中町)へと
下げ渡されていた。ところが、1887年(明治20年)専念寺山門は東北本線開通によって移転を余儀なくされる。
行き場を失った旧城門が当信寺へと引き取られた経緯は、徳川幕府に仇為した真田一族が片倉家に匿われた
歴史の恩返しに見えるのは気のせいだろうか?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・石垣・郭群
《再建大櫓・大手門建築・土塀・石垣は市指定有形文化財》
城域内は市指定史跡

移築された遺構として
耕龍寺山門(伝白石城門)《名取市指定文化財》
傳来寺梵鐘(城内時鐘)《桑折町指定文化財》
当信寺山門(東口門)・延命寺山門(厩口門)・焔硝蔵




涌谷城(涌谷要害)  檜山城