羽後国 檜山城

檜山城本丸跡

 所在地:秋田県能代市檜山

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★★☆
★★■■■



“日之本将軍”安東氏の山城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
檜山安東(ひやまあんどう)氏の城でござる。典型的な山城。能代市街地からかなり山地へ入った所に位置しているが
当時、このあたり一帯には安東氏関連の居館・寺社などが数多く建てられていた。即ち、安東氏は険峻な山に城を構え
領内鎮撫の寺社を建立、平地に居館を構え、多層的な居館構成を作り上げたのだ。大館と呼ばれる居館は米代川畔に
建てられ、米代川は河口部に日本海交易の一大港湾を作っていた事から(河口から居館址まではほぼ10km)安東氏は
海洋交易から直接的に居館区域までの舟運を成立させていた様子が良く分かる。現代、能代市街地はその港湾部周辺
つまり海沿いの平野部が中心になっており、檜山の山間部は全くの寒村となってしまっているが、当時は逆に谷戸を切り
開いた、守りに適する位置に大都市を作り上げ、それは水運により世界へ開かれた経済圏を達成していたのでござる。
元来、安東氏は“日之本将軍”と称される程に北東北〜蝦夷地一帯で威勢を伸張し、その原動力となったのは大陸との
独自の交易に拠るものであった訳だから、水運に聡いというのは必然であったのかもしれない。が、能代の港湾が整備
されたのは1550年代の後半と戦国時代の中でも後半である事から、檜山城に根を張る安東氏の勢力拡大が必ずしも
順風満帆なものではなかった状況を考慮しなければならないだろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そもそも安東氏は、平安時代の蝦夷(えみし)豪族・安倍氏を祖とする一族と言われる。教科書に出る「前九年の役」に
関わる安倍氏だがその子孫は多岐に分かれ、中でも十三湊(とさみなと、津軽半島の十三湖にあった港)を拠点とした
下国(しものくに)家が後の安東氏に繋がる系譜とされている。下国家は十三湊交易で財を成し、鎌倉幕府執権からも
「蝦夷代官」と認められ、東北地方の日本海側から蝦夷地まで至る広大な所領を得て繁栄した。しかしそれ故、内部の
主導権争いも起き、更に太平洋側の覇者・南部氏からの侵攻も受け、一時期は十三湊を棄て蝦夷地へと退避せざるを
得ない状況にまで追い込まれる。こうした中、分家の潮潟安藤家(鎌倉時代までの表記は「安藤」が多い)出身である
安東政季(まさすえ)が蝦夷地から男鹿半島へと帰還を果たし下国家を再興。檜山郡(現在の能代市周辺)を領有して
いた葛西出羽守秀清なる者を滅ぼしたと云う。1456年(康正2年)政季は檜山城を修築し始め新たな本拠とし、これが
檜山城の築城と伝わるが、元々の築城は1432年(永享4年)安藤康季(やすすえ)の手に拠るとも言う。なお、康季の
従兄弟・重季(しげすえ)の子が政季にあたる。政季が康季以来の檜山城を再興した為、以後この系統が檜山安東氏と
呼ばれる事になるが、家系の整理上、檜山家の始祖は康季の父・安藤太郎盛季(もりすえ)が初代とされ、2代が康季
3代が康季の子で南部氏との抗争で敗死した義季(よしすえ)を当てる。義季の死後に家督を継承した政季が4代目、
その嫡子の忠季(ただすえ)が5代目であるが、政季時代から行われていた城の修理は1495年(明応4年)忠季の代に
完成した事から、この年を檜山城の築城とする説も根強い。忠季は檜山屋形と尊称されていた。■■■■■■■■■

湊安東家との合一■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
忠季の後、6代・尋季(ひろすえ)―7代・舜季(きよすえ)と代を重ねるが、檜山安東家の歴史は初代・盛季の頃から
秋田湊に勢力を根付かせた湊安東家との対立・共存の営みでもあった。先に能代湊は戦国後期の構築と述べたが、
つまり安東氏の主たる交易港は秋田湊(現在の秋田土崎港)であり、そこに権益を持つ湊安東家は同族と言えども
檜山安東家の強敵でござった。ところが戦国争乱が激しくなると、それまで室町幕府との関係を重視していた湊家は
後ろ盾となる幕府が没落していった事により衰退。また、当主であった湊安東堯季(たかすえ)には男子が産まれず
後継者断絶の危機に瀕したのである。一方で南部氏との抗争に明け暮れる檜山安東家としても、湊家との対立を
抱えたままでは後顧の憂いがあり戦力を集中できない。故に両家和解の雰囲気が醸成され、堯季の娘が舜季に嫁ぎ
産まれた男子の一人を湊家の世継ぎとする和睦案が成立したのである。斯くして、舜季には長男の愛季(ちかすえ)と
2男・友季(ともすえ)、3男の茂季(しげすえ)が誕生。愛季は檜山家の後嗣となり、友季が湊家に養子入りしたものの
彼は早世してしまった為、改めて茂季が湊家に入り申した。しかし実質的には檜山家の血縁で固められる事になった為
湊安東家に従う国人衆らは不満の念を抱いていた。実は秋田湊に於いて、それまで湊安東家は国人衆らに低額な
上納金だけで利用を認めていたのだが、富国強兵の集権化が必要とされる戦国後期、檜山安東家がそれを改めて
湊の独占化を図るのではないかという疑念が渦巻いていたからだ。1551年(天文20年)堯季が没した事で国人らは
一斉に蜂起、これに対し実弟・茂季の保護を名目として愛季が鎮圧に動き、安東領国内はこれ以後こうした争乱が
打ち続く事になる。しかし愛季は反乱の鎮圧を重ねる都度、結果的に集権化を達成する事になる上、湊安東家は
愛季の支配下に置かれるようになった。ここに湊・檜山両家は合一する事となり、愛季は安東氏の戦国大名化を
果たした名将として名を残すのでござる。勢いに乗った愛季は由利郡(現在の秋田県南西部)の領有化にも成功、
返す刀で比内地方(現在の秋田県北秋田市周辺)の浅利氏も打ち滅ぼした。そのまま角館城(秋田県仙北市)へも
攻め入り、彼の地の領主・戸沢氏を倒そうとしたが、その陣中で愛季は病没。惜しくも野望は達成されなかった。■■■
なお、愛季は湊家を併呑して以後、湊安東家の官職であった「秋田城介」に因み秋田氏へと改姓。よって、安東氏は
近世大名としては秋田氏を名乗るようになる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

近世大名としての苦悩■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1587年(天正15年)急逝した愛季の跡を継いだのはその嫡男(愛季2男)・実季(さねすえ)であったが、この時はまだ
12歳の少年に過ぎなかった。亡き愛季の急激な拡大政策は彼が没した事を契機に急激な反動を生み、その矛先は
実季へと向けられる事になる。代替わり以降、秋田領では各地で国人の離反が始まり、加えて幼少の君主が立つ
事に対して不満を抱いた一門衆の謀叛までが起こる。茂季の子、即ち実季の従兄弟にあたる通季(みちすえ)は
「湊安東氏の復興」を標榜して反檜山方の諸勢力を糾合したのであった。度重なる反乱に実季は、その都度兵を出し
討伐を試みるが、負け戦が続いて効果はなかなか出ない。敗れて城に逃げ込む事も多々あり、檜山城は実戦に
揉まれていく。特に1589年(天正17年)の籠城戦は城方の10倍以上の兵を擁した通季勢が城を囲み、対する実季は
鉄砲300丁を使って5ヶ月以上も檜山城に籠り続けた。この戦いでは実季が和を請い、国人衆らに秋田湊の利用料に
大幅な譲歩を約束して手打ちにしたが、檜山城は最後まで落ちずに不落ぶりを誇った。一方、和議により戦力回復の
時間稼ぎをした実季は僅か1ヶ月後に通季への攻撃を再開。今度は国人衆が実季側になびき、不利になった通季は
敗退を重ね、遂に戸沢氏を頼って逃亡してしまう。最終的に彼は南部氏の下に逃げ込み、その家臣に組み込まれて
しまったのだが、ようやく秋田領の再統一を果たした実季は豊臣秀吉に接近し1590年(天正18年)小田原征伐にも
参戦、晴れて豊臣政権から秋田領主を公認された。ここに近世大名・秋田実季は中央政権に認められた大名として
生き残ったが、しかし秀吉からは先の通季との一連の合戦を「惣無事令(秀吉による全国的な停戦命令)違反」と
疑われもした。結局、秋田氏の石高はそれまであった出羽国内7万8500石のうち5万2440石が安堵され、没収された
約2万6000石は太閤蔵入地(豊臣政権の直轄収入領)になっている。その蔵入地の代官を命じられた実季であるが
この処分には石田三成が秀吉に口利きし、秋田氏の存続を許されたものであったと云う。また、公称5万2440石と
される実季の領地であるが、実高は15万石程度あったと考えられている。なお、実季は1594年(文禄3年)に領内の
再検地を行い「秋田城之助殿分限帳」を作成、それによれば秋田領9万8500石・蔵入地2万9000石となっていた。
豊臣政権に認められ領内の支配権を確立した実季は、九戸政実の乱の鎮圧や朝鮮出兵などにも積極的に参陣。
また、秀吉による政権運営の城となる伏見城(京都府京都市伏見区)築城に関連し領内から木材を提供するなど
政権への依存度を高めていく。こうして安定した支配を行えるようになった実季は、1598年(慶長3年)に平城である
土崎湊の湊城(秋田県秋田市土崎港中央)へと居城を移したが、檜山城には重臣の大高相模守康澄が城代として
入り、引き続き維持されてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
秀吉没後、1600年(慶長5年)に行われた関ヶ原の戦いでは東軍・徳川家康側に味方した実季であるが、1602年
(慶長7年)常陸国宍戸(茨城県笠間市)に転封された。石高は5万石。事実上の減封である。東軍方に立ったのに
減封された形になったのには諸説あり判然としないが、代わって秋田へ入ったのは佐竹右京大夫義宣。前任地は
常陸国太田(茨城県常陸太田市)54万石で、秋田氏と入れ替わる形である。秋田での佐竹氏石高は20万石とされ
大幅な減封であった。これは関ヶ原の折に中立(事実上の西軍)を保ち家康に味方しなかった為と言われる。■■
義宣は入国当初に土崎湊城へ入るが、後に久保田城(秋田県秋田市千秋公園)を築いて居を移した。佐竹氏の
治世下、檜山城には一門衆の小場義成(おばよしなり、佐竹西家当主)が配され、領内で発生した浅利氏残党の
蜂起を鎮圧してござる。後の1610年(慶長15年)義成は大館城(秋田県大館市)へ移され、それに代わって白岩城
(秋田県仙北市)主であった多賀谷宣家(たがやのぶいえ)が檜山城代となり檜山1万石を領した。宣家は大規模に
城を改修したようだが、江戸幕府により一国一城令(大名の居城以外の城は破却する命令)が発せられた事により
1620年(元和6年)檜山城は廃城とされ申した。なお、多賀谷氏は城山の麓に陣屋を構え、檜山の統治を続けた。
以後、檜山は羽後北端における政治・文化の中心地として栄えたが、城山は放棄された状態となり、近代には農地
転用が幾らか行われた形跡がある。とは言え、城地全般は概ね旧状を留め保存状態は良好だ。■■■■■■■■

城の遺構■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
檜山城の所在地となる山は、東端にある「将軍山」と呼ばれる標高164mの山頂から西へ向かってほぼ一直線の
尾根が繋がり、将軍山から200mほどの地点にある標高146mの第2ピーク付近を主郭としている。この主郭から
更に西へと二郭、三郭が連なる連郭式の縄張であるが、大掛かりな平場を開削した主郭からは八方へ支尾根が
広がり、そこにも多数の段曲輪や堀切が造成されている。城の大手となる三郭西側方向への堀切は特に厳重で
二重堀切(しかも深く鋭い)を用意している一方、主郭の搦手となる将軍山方面への出入口も枡形虎口を構成
するなど、恐らく最末期に多賀谷氏が改修したであろう強力な防御遺構が散見され申す。将軍山からは南北にも
支尾根が延びており、ここにも城郭遺構の痕跡が残され、特に北の尾根には比較的大きな平場や虎口のような
土塁が築かれ、兵の駐屯地として使われた?ように見受けられる。なお、この北の尾根からは檜山城本体から
谷を挟んでもう一つ北側の山塊へ接続しており、そこにも北郭と呼べる曲輪が存在。城域は東西およそ1500m×
南北に1000m程もある巨大なものでござった。この他に、周辺には大館(上記)・茶臼館と呼ばれる出城・居館群や
国清寺などの寺院遺構も残されている。1980年(昭和55年)3月21日、檜山城本体と大館・茶臼館・国清寺跡が
一括で「檜山安東氏城館跡」として国指定史跡になった。1986年(昭和61年)8月12日には史跡範囲が拡大。■■
ただし、最近に至るまで発掘調査は全く行われず、国史跡指定外の多賀谷氏陣屋跡で1994年(平成6年)から
1996年(平成8年)にかけて遺構保全の緊急調査が能代市教育委員会によって行われたのみだった。この時は
敷地の整地痕、門の痕跡、土塁・井戸跡・溝跡・土坑などを検出している。そしてようやく2016年(平成28年)から
檜山城本体において発掘調査を開始。この調査は以降毎年行われたが、掘ってみればそこかしこに皿・壺など
焼物・陶磁器類、渡来の天目茶碗破片や青磁器、古銭、鏃・鉄製品などの生活用品や武器が出土。土塁や柱穴、
曲輪の削平面も検出され、海洋交易により日本各地は勿論、中国大陸・朝鮮半島・沿海州とも往来があった■■
安東氏の権勢が如何なものであったかが再確認される事となり申した。更に、曲輪内からは製鉄の痕跡も発見。
城内にて、ある程度の武器製造などが行われた可能性も考えられている。ちなみに出土物は中世のみならず、
古代の品々もあったようで、そもそも将軍山というのも元々は古墳だったとする伝承もあり、この地は古代から人の
営みが執り行われていた場所である事を物語る。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお、山麓にある浄土真宗善城山浄明寺の山門は檜山城の薬医門を移築した物と伝わり、1995年(平成7年)に
行われた解体保存修理工事の際、部材から「寛永11年」つまり1634年建立との墨書が見つかっている。こちらは
1987年(昭和62年)3月17日、秋田県指定文化財となっている。元々は柿葺であったが、現在は切妻作鉄葺屋根。
別名で霧山城。これは城の所在地である山が霧山と呼ばれる事に由来する。堀内城とも。■■■■■■■■■■
車で二郭あたりまで登れるが、現在は訪れる人も少ない静かな公園である。■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群
城域内は国指定史跡

移築された遺構として
浄明寺山門(旧檜山城門)《県指定文化財》




白石城  大館城