陸前国 涌谷城(涌谷要害)

涌谷城址

 所在地:宮城県遠田郡涌谷町涌谷字下町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★☆■■
★☆■■■



宮城県下唯一の現存2重櫓■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
宮城県下唯一の現存2重櫓建築を有する城郭として有名な涌谷(わくや)城。この櫓が近世城郭としての象徴となる為
江戸時代以降の名称である“涌谷要害”としての名の方が通ってござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城の起源は不明だが、一説には1431年(永享3年)の事とも。年代は兎も角、涌谷氏の手に拠るものと考えられている。
室町体制下、この地域の盟主であったのが奥州探題職にあった大崎氏であるが、その大崎氏の分流にあたり配下と
なったのが涌谷氏と言われている。しかしその起こりも不鮮明で、大きく2つの説がある。1つは大崎氏初代・家兼の3男
彦五郎が百々(どど)城(宮城県大崎市)を居城として百々信濃守を名乗り、彼の2男が涌谷城を居城にし涌谷美濃守を
称して涌谷氏の祖となったとする説。もう1つは大崎氏5代・満持の弟である左近大夫高詮が百々氏を起こし、その2男
直信が涌谷氏を興し城を築いたと言うもの。1431年築城説は後者に合致するが、高詮は大崎氏8代・政兼の弟とも。
地方の中小豪族にありがちな、このように出自も不明な涌谷氏であるが、その所領は涌谷周辺の8郷村に及んでおり
大崎氏が1590年(天正18年)豊臣秀吉による奥州仕置で所領を失うまで、封を守っていた。■■■■■■■■■■
大崎氏の除封によって涌谷氏も土地を追われ、代わってこの地は豊臣政権により木村伊勢守吉清の所領となったが、
これは秀吉が旧体制の完全破壊を狙ったもの。統治に無能な吉清は、豊臣政権の支配に反抗的な旧豪族や農民らの
蜂起を惹起し、大崎地方は大混乱に陥った。それを中央政権軍が根こそぎ討伐する事で、不満分子を一掃するのが
秀吉の目論見でござった。結果、豊臣政権に反抗する者は討滅されたが、木村吉清も処分され、この地は伊達政宗の
所領に加えられる事となる。政宗は遠田郡に8850石で重臣・亘理美濃守重宗(わたりしげむね)を入れ、重宗は入部
当初に百々城を居城としたが、1591年(天正19年)冬に涌谷城へと居を移した。以後、涌谷城は幕末まで彼の後裔が
居城としていく。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

一国一城令の“例外”■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
重宗は1604年(慶長9年)10月、隠居して嫡男の安芸守定宗に家督を譲ったが、政宗から隠居領1000石を与えられ
高清水(たかしみず)城(宮城県栗原市)を隠居所とした。更に1606年(慶長11年)政宗の庶子・右近宗根(むねもと)を
娘婿に迎え、亘理家の名跡を継がしめた。この為、定宗は政宗から伊達の姓を名乗る事を許され、涌谷伊達氏として
伊達定宗と呼ばれるようになり申した。宗根が亘理を名乗る事になった為、その代償として定宗の家格を上げたのだ。
斯くして涌谷城は涌谷伊達氏累代の城となるが、一方で元和偃武(げんなえんぶ、豊臣家滅亡による天下平定)にて
幕府からは一国一城令、大名の居城以外の城は破却する命令が出される。当然、仙台藩領内で残される城は仙台城
(宮城県仙台市青葉区)だけと言う事になるのだが、ここで政宗は一計を案じ、領内要所の城郭を「要害」の名目にて
温存する政治工作を行ったのである。これは幕府にも黙認され、涌谷城も涌谷要害の名で残されるようになり申した。
改姓した定宗は1624年(寛永元年)1万石に加増。更に1644年(寛永21年)には2万2640石に。以降、涌谷伊達氏は
2代・宗重―3代・宗元―4代・村元―5代・村定―6代・村盛―7代・村胤(むらたね)―8代・村倫(むらとも)―9代・村常
(むらつね)―10代・村清(むらきよ)―11代・義基(よしもと)―12代・邦隆(くにたか)―13代・胤元(たねもと)と続く。
涌谷伊達氏は代々に渡って安芸守の官途名を名乗っているが、この中で最も有名な人物は2代・宗重でござろう。
仙台藩4代藩主・伊達綱村の家督相続時に起きた御家騒動「伊達騒動」における当事者の一人で、若年の綱村に
代わって藩政を欲しいままにした一門大名・伊達兵部大輔宗勝の専横を幕府に越訴したのが宗重であり、小説や
演劇でも良く採り上げられる為“伊達安芸”と言えば宗重の事を指すのが慣例にもなっている程。宗重は幕府大老
酒井雅楽頭忠清への弁明中、対立する宗勝派と目される原田甲斐宗輔(むねすけ)に斬りつけられ絶命。命を賭した
訴えが酒井に認められ、伊達宗家には御咎無しと言う裁定を勝ち取った。家中の功労者とされた事で涌谷伊達家も
宗元への家督相続が順当に認められている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
村元の代にあたる1689年(元禄2年)9月、涌谷要害は失火にて全焼。復興には数年を要したが、江戸時代末期には
櫓などの建築21棟・土蔵3戸前を並べ、堀や土塁・石垣を巡らせていた。冒頭に記した2重櫓「太鼓堂」は義基の代、
1833年(天保4年)に再建されたと言う。本来ならば「太鼓櫓」と称しても遜色ない、小さいながらもいぶし銀の風格を
有す建物であるが、「櫓」の呼称を控えて太鼓“堂”としたのは、前述の一国一城令に配慮した為だ。だが戊辰戦争で
仙台藩は敗北、涌谷伊達氏も封を失い、1868年(明治元年)12月に涌谷要害は土浦藩が接収。翌1869年(明治2年)
3月22日に涌谷県庁とされ鷲津宣光(わしづのりみつ、尾張藩出身の儒学者)が権知事になり赴任するも、同年8月
登米(とめ)県へと再編され、県庁は寺池(宮城県登米市)に移った。なお、涌谷県は土浦藩支配地における独自の
統治機構として作られたもので、明治政府による正式な県ではない。一方で登米県は正式な県なのだが、この地域の
県設置は後に水沢県・仙台県・一関県などが入り乱れ、1872年(明治5年)ようやく宮城県に統合されて決着した。
ともあれ、役所としての役割を終えた涌谷要害は1872年の内に太鼓堂を除いて全ての建物が破却されてしまう。
また、涌谷伊達氏最後の城主となった伊達胤元は維新後に旧来の姓である亘理に復姓、亘理胤元を名乗った。■■

涌谷要害の構造■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
JR涌谷駅から江合川(当時は涌谷川)を渡った対岸、城山公園として開放されている細長い河岸段丘丘陵が城地。
北西〜南東方向には380mもある城山だが、反対に北東〜南西方向へは最も広い所でも100m程しか無い。この山は
最北部の涌谷神社境内が最も高く、標高30m(麓との比高およそ20m)あり、そこから南へ向かって緩斜面が下る。
当然、この涌谷神社一帯が当時の本丸で、その下段(南)に二ノ丸が構えられていた。本丸の敷地は90m×40m程。
本丸の外周には帯曲輪が取り巻く。それに繋がる二ノ丸は250m×60m程度。本丸と二ノ丸は高さ5mほど隔絶する。
二ノ丸は徐々に傾斜し、麓とは10m程度の比高差がある。太鼓堂は二ノ丸の南隅、即ち城山の最南端を守る位置に
あり、当時は詰ノ門と言われた城の大手に睨みを利かせている重要な櫓なれば、城へ攻め上がる軍勢は必然的に
この詰ノ門の構え(写真)から矢玉を浴びせられる事になろう。詰ノ門入口は急崖で切り立っており、太鼓堂の下には
石垣がそそり立つ。現状では現代の石垣と混在する形になっているが、それでも旧来の石垣は一目で分かる組み
方になっており、オーバーハングした反り返り様は圧巻。2003年(平成15年)7月26日の宮城県北部地震に於いて
一部崩落などの被害を受けたと云うが、現在は積み直されてい美麗な外観を誇ってござる。こんな石垣の脇にある
階段を登って攻め入るのだから、詰ノ門の構えはなかなか厳重だ。その詰ノ門を突破しても、ダラダラと長く続く
二ノ丸を越え、更に上段の本丸まで一本道を突き進む事になるが、逆に一本道だからこそ、多重の障害を置いて
いけば敵勢の侵攻を足止めするのは容易でござろう。ただ、現状で城内には堀と呼べる掘削は見受けられない。
曲輪は平坦に整えられ、斜面にも竪堀などは無い。往時は各所に堀があったと言われており、公園整備によって
埋められたのだろうが、現在唯一明確なのは涌谷神社(本丸)の裏側、涌谷中学校との間に山を断ち切るような
堀切があるのみ。実はこの城山は中学校の敷地と地続きで、しかも中学校側は城山より標高が高く、搦手から
攻め入られてはひとたまりもない。故に山を分断し、そちらからは攻められないようにしている訳だ。■■■■■■
詰ノ門に目立つ太鼓堂を置いているのも、敢えてそちらに攻め手を惹きつけ搦手を気取られない目的なのかも?
太鼓堂の下には冠木門が建てられていたと言うが、大手を守るに冠木門だけでは少々心許ない。太鼓堂で敵を
おびき寄せておきながら、櫓門のように堅牢な建物ではなく簡易な冠木門だけがあったのならば、敵はむしろ罠を
勘ぐり、攻め込むのを躊躇する。涌谷要害は心理的にも有効な備えを用意していたと考えるのは、少々持ち上げ
過ぎでござろうか?(笑)まぁ、実際の所は「城」ではなく「要害」として簡易な構えをしていただけなのだろうが…。
なお、現在は市街地化されているが城山の南側一帯が三ノ丸武家地として造成されていて、涌谷大橋のたもと
付近が外郭まで含めた城の大手口となっていたそうだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
太鼓堂(写真右)の隣には、1973年(昭和48年)に建てられた天守風の建物(写真左)涌谷町立史料館が並ぶ。
本来ここは大手口なので、天守が建つことはあり得ないのだが、赤い高欄の高層建築はなかなかに目を惹く。
まるで史料館が大天守、太鼓堂が小天守のように勇壮な構えを思い起こさせるが、太鼓堂が2000年(平成12年)
6月28日に涌谷町指定有形文化財となったのに対し、史料館は東日本大震災の被災以後、長らく閉鎖状態に。
言うまでも無いが、往時の涌谷要害に天守は存在しなかったのだが、“現代の天守”は復旧工事を経て2013年
(平成25年)4月15日から再開館して栄華を取り戻している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城址敷地の約3万3554uは2008年(平成20年)4月2日、町史跡に指定。■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

太鼓堂《町指定有形文化財》・堀・石垣・郭群
城域内は町指定史跡




桑折城・千石城・上野館  白石城