陸前国 桑折城

桑折城址

 所在地:宮城県大崎市
三本木桑折字蛇沼山・三本木桑折沼下
三本木字西沢
 (旧 宮城県志田郡三本木町桑折字蛇沼山・桑折沼下・西沢)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★■■
★★■■■



山と川に挟まれた城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
桑折は「こおり」と読む。鶴館の別名も。大崎市内、旧三本木町の館山公園が城跡。三本木公民館のすぐ南側に位置し
車もその辺りに駐車できる。平山城を構成する台地が館山公園の敷地だが、この台地は南に位置する主山塊から北へ
派生した尾根の先端部となっており、すぐ北に鳴瀬川が流れ天然の濠を成している険要の地。地山は東西に長い地形で
東端の山頂(標高53m/麓からの比高約30m)一帯を啓開し主郭の平場を造成、そこから西側へ段を下って二郭・三郭が
連なる。また、主郭の北側にも一段の曲輪を突き出している地形となっている。主郭と二郭の間(城地のほぼ中心)には
大掛かりな堀切を穿ち、城山を分断する構造。各曲輪では要所要所に土塁の断片が見受けられ、それなりに見応えが
あるものの、“館山公園”と言いつつあまり綺麗な整備はされていないのが難点。また、公園領域からは外れるが、一列
南側の支尾根にも南館と呼ばれる出構えの曲輪が造成されてござった。北(背中)に鳴瀬川を背負い、南から山伝いに
侵入して来るであろう敵に対して逆襲曲輪を用意する構えで、しかも城地となる台地は全体的に麓から隔絶するような
急崖(写真)で囲まれており、必然的に緩斜面の西側からのみ出入を制約できるような構造になっていたと推測できる。
さほど大きな城ではないものの、なかなかに要点を押さえた作りだったようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■

大崎氏と伊達氏の綱引き■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さてこの城の歴史だが、築城年代は定かではない。大崎家中にて大崎四天王の一人と数えられる渋谷相模守が天文
年間から天正年間にかけて(1532年〜1592年)城主であったと伝えられ申すが、この渋谷氏というのも良く分からない。
とりあえずこの城の来歴として文献に現れるのは1588年(天正16年)の大崎合戦に於いてである。室町体制下、陸奥の
統治者として奥州探題の職にあった大崎氏でござるが、その名は実を伴わず、戦国乱世が進むにつれて衰退の一途を
辿っていた。他方、実力がモノを言う戦乱の中で台頭してきたのが伊達氏であった。時の伊達氏当主、独眼竜で有名な
左京大夫政宗は大崎家中の内紛に介入、大崎領への侵攻を開始する。ところが厳冬期にあって進退窮する伊達軍を
見て、大崎軍は領内各地でゲリラ戦を展開。こうした状況の中、伊達方であった筈の黒川左馬頭晴氏が形勢を斟酌し
大崎方へと寝返ってしまう。晴氏は桑折城主・渋谷相模の甥である為、それを助けるべく一族郎党を率いて桑折城へと
入城したのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし一方で、晴氏の娘は政宗の叔父・留守政景(るすまさかげ)に嫁いでいた。つまり晴氏は伊達家とも縁戚であり
政宗は黒川軍が伊達方に味方すると見越していたのだが、その当てが外れた訳である。しかも桑折城へと攻め寄せて
いたのは他ならぬ留守勢でござった。雪に阻まれ、さらに岳父の晴氏が敵に回った政景は桑折城へ使者を使わして
「親子敵対候わんは、浅ましくも又忍び難き候とも存ず。願わくば我が味方に来り、永く黒川の家運を開かるべし」と
降誘を訴えた。だが晴氏は「合戦は義を重んじ、私を軽んずるにてこそあれ。例え親子なりとも宥赦なく励むべし」と
政景の申し出を拒絶。老練の将と呼べる年齢になっていた晴氏は、伸張著しい伊達家にここで一撃を加え、増長を
抑え込む目論みだったのかもしれない。一方で戦況捗々しくなく反撃の機を望んでいた政景は、交渉決裂に総攻撃を
決意。まずは近隣にある中新田(なかにいだ)城(宮城県加美郡加美町)と師山(もろやま)城(宮城県大崎市)を攻め
落とし、余勢を駆って桑折城も攻略する算段に出た。ところが大崎勢は巧みに留守勢をおびき寄せ、中新田の戦線は
膠着。加えて突然の降雪で伊達軍は閉塞するに至る。地の利を得ていた大崎勢は当然この天候急変を読んでおり
機を見て晴氏が桑折城から出撃し、留守勢を背後から襲ったのだった。斯くして伊達軍は大敗を喫し、中でも政景の
一隊は袋の鼠となって全滅必至の状況に陥る。窮地の中、政景は晴氏へ「娘婿の縁を以て我等の危機を救い給へ」と
再度の使者を発したが、晴氏の回答は「貴殿一人のみには応じよう」と、にべもないものであった。事ここに決し、最早
覚悟を決めた政景は玉砕の心持ちで包囲する大崎勢へ強行突破を試み、その勢いに圧された大崎軍は遂に政景の
退却を許したのだった。結果として政景は生き延びたもののこうして大崎合戦は伊達家の敗北に終わり、勝敗の趨勢を
決したのが桑折城の存在だったと言えよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかしこの後、1590年(天正18年)豊臣秀吉によって天下統一が成る。その折、大崎家は秀吉への臣従を怠ったため
改易に処せられ申した。これによって桑折城も廃城になったと見られている。また、黒川晴氏も封を失い、その旧領を
引き継いだのは他ならぬ伊達政宗であった。政宗は大崎合戦の遺恨を忘れず晴氏を処刑せんと望んだが、誰あろう
留守政景がそれを引き留めて、晴氏は政景の下で余生を送る事になる。独眼竜と恐れられた奥州の覇王・政宗を
そこまで怒らせた晴氏も名将と言えるが、敵として死を覚悟させられながら岳父に孝を尽くした政景もまた、大器の
人物であったと評したい。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群







陸前国 千石城

千石城址からの眺め

 所在地:宮城県大崎市
松山千石本丸・松山千石花舘
松山千石松山
 (旧 宮城県志田郡松山町千石本丸・千石花舘・千石松山)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★☆
★★★■■



現存する遺構

土塁・郭群






陸前国 
上野館

上野館跡

 所在地:宮城県大崎市松山千石字松山
 (旧 宮城県志田郡松山町千石松山)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

■■■■
■■■■



現存する遺構

土塁・郭群

移築された遺構として
表門鯱瓦《市指定有形文化財》



遠藤氏の城として創建■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
千石(せんごく)城の所在地は古来、千石村と呼ばれ、「茂庭(もにわ)家記録」には文覚館(もんがくたて)と言う居館が
あったと伝わっている。この文覚館は文覚上人の築いた館とされるが、明確な構築年代は分からない。ともあれ、鎌倉
時代には何かしらの武家居館が建てられていたようでござる。文覚は平安末期〜鎌倉初期の人物だからだ。さりとて
文覚がこの松山の地へ至ったという話も無く、恐らくは居館造営後に文覚の事績を“後付け”的に結び付けたのだろう。
この地の統治に明確な記録が現れるのは室町時代、遠藤盛継が鎌倉公方(室町体制下での東国支配権者)の足利
満兼から志田郡・賀美(加美)郡・玉造郡の郡奉行に任じられ1401年(応永8年)現地へ入った事である。文覚の本名は
遠藤盛遠(もりとお)と言い、盛継はその後裔を称していた事から、自身の居館を遡って鎌倉初期から由緒あるものと
権威付ける為に文覚の名を使ったのではなかろうか。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以後、遠藤氏が累代に亘ってこの地を治めていくようになるが、入封した盛継は1404年(応永11年)に曹洞宗の寺院
萬年(ばんねん)寺を創建。その山号が嶺松山であった事から、次第に「松山」の地名が使われるようになっていく。
元々、盛継が入る以前には当地を「長世保(ながせのほ)」と呼んでいた。これが次第に「長世」と変わり、戦国期に
なると「松山」が地名として定着、千石城には松山城(陸奥松山城)との別称が付くようになっていく。一説に、全国で
“松山城”の名を持つ城は11ヶ所あるとされる中、この千石城もその1つに数えられる。尤も、千石城が武家居館から
本格的な城砦として軍事的な要素を強めるのは戦国後期になってからのようで、その頃になると遠藤氏は伊達家の
家臣団へ組み込まれるようになっていた。城が文献上に確認できるのは1588年の大崎合戦(上記、桑折城の項)が
最初で、時の城主は遠藤高康である。境目の城として伊達家・大崎家・葛西家などの領地を睨む要であった千石城、
この城に伊達家の軍勢1万数千が集結し軍議が開かれたと言われてござる。豊臣秀吉の全国統一後、陸奥国では
豊臣政権による苛烈な収奪への反発や旧態回帰を求める大崎・葛西一揆が勃発するが、この時にも千石城は伊達
政宗が入城し一揆討伐の前線指揮を執っている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

茂庭氏の時代に居館を分離■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
大崎・葛西一揆の壊滅後、1591年(天正19年)に伊達家の所領が再編され、登米(とめ、当時の読みは「とよま」)郡
石森(いしのもり、現在の宮城県登米市中田町石森)に遠藤氏は移された。代わって千石城を預かったのは伊達家
重臣・石川大和守昭光(いしかわあきみつ)、石高は6000石だったが、1598年(慶長3年)10月に2000石を加増された
事で角田(かくだ)城(宮城県角田市)へと移された。今度は伊達家臣・古田伊豆守重直(小梁川家分流)がこの城を
居城とするものの、これまた1603年(慶長8年)に江刺郡の岩谷堂(いわやどう)城(岩手県奥州市江刺区)へ移封。
(移封はその前年との説もある)重直に代わって、5000石で赤荻(あこおぎ)城(岩手県一関市赤荻)主を務めていた
茂庭周防守良元が5365石に加増され、千石城主になる。以後、明治維新まで茂庭家が城主を継承してござる。■■
伊達政宗の宿老・鬼庭石見守綱元(おににわつなもと)の嫡男(2男)が良元。鬼庭家の武勇は天下人・秀吉の耳にも
届き、召出された綱元は秀吉から「庭に鬼が居るのは不吉ゆえ、茂る庭とするが良い」と言われ茂庭に改姓。良元も
同様に改姓し、以後は茂庭氏として代を紡いでござる。良元も父と同じく伊達家中の柱石とされ、1630年(寛永7年)
2200石余を加増、更に1644年(正保元年)には石高の高直しによって所領1万石となっている。こうした中、1631年
(寛永8年)城山から谷を挟んだ西側の低台地に城主の居館・上野館(うわのたて)を築いた。豊臣家が大坂の陣で
滅び、天下泰平の世になった後は幕府から「一国一城令(大名の居城以外の城は破却する命令)」が出されており、
千石城も従前の本丸・二ノ丸部分を廃し、三ノ丸のみに規模を縮小した居館として存続していたが、それでは手狭な
上に山の上に所在する城は不便であった事から新たな下屋敷を構えた訳である。良元は隠居した1651年(慶安4年)
9月に居所を上野館へ移し、千石城三ノ丸には家督を継いだ定元(良元3男)が入る。その定元も、藩の許可を得て
1657年(明暦3年)には上野館を居館とし、山上の千石城は留守居役の家臣1人が置かれるだけになり申した。以後
松山領の統治実務と茂庭家の居所は上野館が担う。なお、茂庭家の最終石高は1万3000石にまで上がっている。
延宝年間(1673年〜1681年)に記された仙台藩編纂の地誌「仙台領古城書上」には“志田郡松山四城の一つ”として
千石城の記載があり、この頃には既に千石城が事実上の廃城となっていた様子を物語っている。また、製作年不明の
「寛永絵図」と呼ばれる地図には城山に本丸・二ノ丸・三ノ丸と千石城の縄張が描かれる一方で上野館を“下屋敷”と
記入しており、千石城の末期を伝えたものと考えられている。更に加えると、1681年(天和元年)に作られた絵図面
「志田郡松山之内千石村茂庭周防屋敷絵図」には上野館一帯の町割りが描かれ、貴重な史料となっている。■■■
2代・定元の後は3代・姓元―4代・嵩本―5代・元明―6代・苞元―7代・善元―8代・有元―9代・徳元―10代・升元
(なりもと)―11代・敬元と続く。8代目の有元は1829年(文政12年)に郷学の大成館を創建している。茂庭家は江戸
前期の「伊達騒動(仙台藩主4代・伊達綱村の相続前後における御家騒動)」に連座した経緯があり、歴代城主は
伊達家中の大身でありながら、藩政には殆ど関与しない事を旨としていた。さりとて幕末の動乱は茂庭家の孤高を
許さず、最後の城主・敬元は若年であった為に彼の庶兄・元功が名代として松山領兵を率いて出陣、浜通り(福島県
沿海部)で新政府軍と戦った。結果として仙台藩は薩長に降伏、茂庭家は1868年(慶応4年)12月6日に新政府からの
命によって所領を失ってしまう。斯くして千石城・上野館は役割を終えて廃絶したのでござる。■■■■■■■■■■

城の縄張、館の構造■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて千石城の縄張だが、標高70mの山頂から北へと尾根を伸ばす城山に、尾根の途中にある段ごとで曲輪を啓開し
山頂部に本丸、その80mほど北東に二ノ丸、更にそこから100mほど先に三ノ丸を置いている。各曲輪の位置からは
西に支尾根が繋がっている山容だが、この支尾根にも細かい段曲輪を造成。麓との比高およそ50m、城の全域は
東西およそ300m×南北500m弱とかなり広大なものであり、城の東面はほぼ全域に亘って急峻な絶壁となっていて
見事に“山全体を要塞化した”という様子が見て取れる。山頂の本丸は決戦場、二ノ丸は中核となる前線指揮所、
下段の三ノ丸は面積が広く、城兵を収容する駐屯地…との役割分担も良く分かる構造だ。写真にある通り、城から
望む松山の城下は非常に見通しが良い上、城内の経路も監視下に置ける為、仮に敵勢が侵入してもその動向は
常に把握できるようになっており、実に「使い勝手の良い山城」だったのではないだろうか?これだけ大きな規模を
擁する山城は、伊達家による大がかりな修築が行われたであろう事が容易に想像できる。この城山全域を利用し
現在は松山御本丸公園が造成されている。特に三ノ丸は明治百年の記念に集中整備され1983年(昭和58年)から
広大なコスモス園になっていて、松山地域の一大観光地となってござる。ここで注意して頂きたいのは、公園名は
「御本丸公園」となっているが、本丸のみならず城域のほぼ全域が公園化されている上、特に三ノ丸での施設が
中心的になっているので、城がまるで三ノ丸のみで構成されていたような印象を受ける事。城としての防御構造は
むしろ三ノ丸の上段、二ノ丸や本丸にこそ面白みがあるので見学の際にはそちらまで足を延ばす事を忘れずに。
上段へ登る道すがら、あちらこちらに堀切がザクザクと切られている点にも注目だ。公園として整備されているので
駐車場や御手洗も完備していて初心者にも来訪しやすい城郭でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方で上野館の跡地は現在、宮城県立松山高校の敷地になっていてあまり分かり易い遺構は残されていない。
古地図を見ると、千石城下の谷戸にあたる狭隘な平地の中、一段高い微高台地を利用して長方形の居館敷地を
造成しており、それがそのまま高校の校庭となっているのだ。強いて言えば、写真にあるように高校の外縁部が
そのまま館の切岸だった点から遺構を推測する程度。館の南には駒池と呼ばれる溜池があり、恐らく水ノ手として
用いられていたようだが、これも現在は消滅してござる(駒池を模した公園の池が復元されているのみ)。大成館の
跡地は現在、老人福祉センターになっているがこちらも特段の遺構は無し。上野館の表門鯱瓦だけが現存しており
これは1986年(昭和61年)4月1日に当時の松山町指定文化財、現在は大崎市指定有形文化財になっている。■■





岩出山城・名生城(名生館官衙)  涌谷城(涌谷要害)