山と川に挟まれた城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
桑折は「こおり」と読む。鶴館の別名も。大崎市内、旧三本木町の館山公園が城跡。三本木公民館のすぐ南側に位置し
車もその辺りに駐車できる。平山城を構成する台地が館山公園の敷地だが、この台地は南に位置する主山塊から北へ
派生した尾根の先端部となっており、すぐ北に鳴瀬川が流れ天然の濠を成している険要の地。地山は東西に長い地形で
東端の山頂(標高53m/麓からの比高約30m)一帯を啓開し主郭の平場を造成、そこから西側へ段を下って二郭・三郭が
連なる。また、主郭の北側にも一段の曲輪を突き出している地形となっている。主郭と二郭の間(城地のほぼ中心)には
大掛かりな堀切を穿ち、城山を分断する構造。各曲輪では要所要所に土塁の断片が見受けられ、それなりに見応えが
あるものの、“館山公園”と言いつつあまり綺麗な整備はされていないのが難点。また、公園領域からは外れるが、一列
南側の支尾根にも南館と呼ばれる出構えの曲輪が造成されてござった。北(背中)に鳴瀬川を背負い、南から山伝いに
侵入して来るであろう敵に対して逆襲曲輪を用意する構えで、しかも城地となる台地は全体的に麓から隔絶するような
急崖(写真)で囲まれており、必然的に緩斜面の西側からのみ出入を制約できるような構造になっていたと推測できる。
さほど大きな城ではないものの、なかなかに要点を押さえた作りだったようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■
大崎氏と伊達氏の綱引き■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さてこの城の歴史だが、築城年代は定かではない。大崎家中にて大崎四天王の一人と数えられる渋谷相模守が天文
年間から天正年間にかけて(1532年〜1592年)城主であったと伝えられ申すが、この渋谷氏というのも良く分からない。
とりあえずこの城の来歴として文献に現れるのは1588年(天正16年)の大崎合戦に於いてである。室町体制下、陸奥の
統治者として奥州探題の職にあった大崎氏でござるが、その名は実を伴わず、戦国乱世が進むにつれて衰退の一途を
辿っていた。他方、実力がモノを言う戦乱の中で台頭してきたのが伊達氏であった。時の伊達氏当主、独眼竜で有名な
左京大夫政宗は大崎家中の内紛に介入、大崎領への侵攻を開始する。ところが厳冬期にあって進退窮する伊達軍を
見て、大崎軍は領内各地でゲリラ戦を展開。こうした状況の中、伊達方であった筈の黒川左馬頭晴氏が形勢を斟酌し
大崎方へと寝返ってしまう。晴氏は桑折城主・渋谷相模の甥である為、それを助けるべく一族郎党を率いて桑折城へと
入城したのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし一方で、晴氏の娘は政宗の叔父・留守政景(るすまさかげ)に嫁いでいた。つまり晴氏は伊達家とも縁戚であり
政宗は黒川軍が伊達方に味方すると見越していたのだが、その当てが外れた訳である。しかも桑折城へと攻め寄せて
いたのは他ならぬ留守勢でござった。雪に阻まれ、さらに岳父の晴氏が敵に回った政景は桑折城へ使者を使わして
「親子敵対候わんは、浅ましくも又忍び難き候とも存ず。願わくば我が味方に来り、永く黒川の家運を開かるべし」と
降誘を訴えた。だが晴氏は「合戦は義を重んじ、私を軽んずるにてこそあれ。例え親子なりとも宥赦なく励むべし」と
政景の申し出を拒絶。老練の将と呼べる年齢になっていた晴氏は、伸張著しい伊達家にここで一撃を加え、増長を
抑え込む目論みだったのかもしれない。一方で戦況捗々しくなく反撃の機を望んでいた政景は、交渉決裂に総攻撃を
決意。まずは近隣にある中新田(なかにいだ)城(宮城県加美郡加美町)と師山(もろやま)城(宮城県大崎市)を攻め
落とし、余勢を駆って桑折城も攻略する算段に出た。ところが大崎勢は巧みに留守勢をおびき寄せ、中新田の戦線は
膠着。加えて突然の降雪で伊達軍は閉塞するに至る。地の利を得ていた大崎勢は当然この天候急変を読んでおり
機を見て晴氏が桑折城から出撃し、留守勢を背後から襲ったのだった。斯くして伊達軍は大敗を喫し、中でも政景の
一隊は袋の鼠となって全滅必至の状況に陥る。窮地の中、政景は晴氏へ「娘婿の縁を以て我等の危機を救い給へ」と
再度の使者を発したが、晴氏の回答は「貴殿一人のみには応じよう」と、にべもないものであった。事ここに決し、最早
覚悟を決めた政景は玉砕の心持ちで包囲する大崎勢へ強行突破を試み、その勢いに圧された大崎軍は遂に政景の
退却を許したのだった。結果として政景は生き延びたもののこうして大崎合戦は伊達家の敗北に終わり、勝敗の趨勢を
決したのが桑折城の存在だったと言えよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかしこの後、1590年(天正18年)豊臣秀吉によって天下統一が成る。その折、大崎家は秀吉への臣従を怠ったため
改易に処せられ申した。これによって桑折城も廃城になったと見られている。また、黒川晴氏も封を失い、その旧領を
引き継いだのは他ならぬ伊達政宗であった。政宗は大崎合戦の遺恨を忘れず晴氏を処刑せんと望んだが、誰あろう
留守政景がそれを引き留めて、晴氏は政景の下で余生を送る事になる。独眼竜と恐れられた奥州の覇王・政宗を
そこまで怒らせた晴氏も名将と言えるが、敵として死を覚悟させられながら岳父に孝を尽くした政景もまた、大器の
人物であったと評したい。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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