城主・氏家氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
旧名は岩出沢城と言う。室町時代の応永年間(1394年〜1428年)大崎氏の家臣であった氏家弾正が築城。大崎氏は
室町体制下において奥州探題の職にあり、東北地方を統括する地位だった。氏家氏はその配下で、大崎氏の宿老と
言える家柄である。元々、下野国(現在の栃木県)主・宇都宮氏の流れを汲む一族で、その中から越中国(富山県)へ
移住した系統が隆盛して行く。織田信長の美濃(岐阜県南部)攻めで重きを為した貫心斎卜全(ぼくぜん)こと西美濃
三人衆の1人・氏家常陸介直元もこの後裔に当たる訳だが、それはさて置き越中氏家氏は南北朝期に藤島の戦いで
南朝方の重鎮・新田義貞を討ち取る大功績を挙げ、それを賞して室町政権から奥州探題付きの家格を与えられた。
ところがその経緯や業績はあまり詳らかではなく、謎が多く、そもそも“氏家弾正”なる人物が誰に比定されるのかも
良く分からない(直益?詮継?とする説もあるが如何か?)。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
いずれにせよ氏家氏は大崎家中の有力者であり、それは徐々に自ら所領を実効支配して主家の大崎氏と対立の
度を深めていく。他方、戦国時代になり伊達家の勢力が及んでくると、氏家氏は次第に伊達側へ従うようになっても
いったが、その一例として1534年(天文3年)大崎義直の家臣・新田(新井田とも)安芸守頼遠が義直に叛旗を翻し、
これに氏家直継(景継の事か?)も同調し大崎家中を分裂する大内乱に発展した事件が挙げられる。独力では対処
できなかった義直は伊達左京大夫稙宗に援軍を要請し1536年(天文5年)ようやく鎮圧したが、その結果として義直は
稙宗の子・義宣を養子として受け入れざるを得なくなり、氏家氏に対しても伊達家が大きな影響力を行使するように
なる。この後、伊達家中でも内訌が起きて大崎氏は伊達家との手切れを画策するが、義直後嗣・左衛門尉義隆の代
1588年(天正16年)2月に再び大崎家臣内で離反が発生、これに伊達政宗や最上義光(よしあき)など近隣強豪が介入
時の岩出沢城主・弾正吉継は政宗に与して義隆・義光連合軍と敵対した。ところが1589年(天正17年)2月、厳冬期で
行軍は遅滞し、氏家軍は政宗と合流する事ができず単独で大崎軍と戦う羽目に。結果、伊達軍は撤退し各勢力間で
和睦が成立、吉継も義隆に再服従した。このような歴史の中、岩出沢城も数々の戦いに巻き込まれたであろう事は
容易に想像できよう。然るに1590年(天正18年)豊臣秀吉の全国統一によって奥州仕置が行われ大崎氏は滅亡、
吉継も秀吉によって改易されている。結果、吉継は伊達家臣として命を永らえた。なお、吉継退去の後に新城主が
決まるまで伊達政宗家臣の小成田又三郎重長(こなりたしげなが)が城代として岩出沢城を預かっている。■■■■■
伊達政宗の城に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、岩出沢城は吉継の退去に伴って木村伊勢守吉清の所領に加えられた。岩出沢城主として、吉清家臣である
萩田三右衛門が任じられてござる。吉清は秀吉家臣、奥州仕置によって旧大崎領を治めるようになった人物だが、
彼は治世の才能乏しく地縁・血縁に縛られた奥羽の地を統治する事など不可能であった。これは秀吉の目論見で、
旧態然とした東北の不満勢力を木村領内に集め暴発させ、一挙に根絶するつもりだったのである。斯くして同年、
検地や刀狩りを不服とした農民・浪人らが大一揆を起こした。いわゆる「大崎・葛西一揆」であるが、その着火点と
なったのは10月16日この岩出沢城での事で、苛烈な年貢徴収に耐えかねた百姓衆が城を襲撃し三右衛門を斬殺
したと云う。以後、約1年に亘りこの地方は混乱の坩堝と化したが、これを豊臣政権は容赦なく弾圧。一揆の裏には
伊達政宗の陰謀も見え隠れしたが、最終的にはその政宗も一揆討伐に動いて秀吉に逆らう者は一掃された。■■
騒動後の1591年(天正19年)木村吉清も改易され、旧木村領は伊達政宗の領土に加えられた。政宗入封に先立ち
奥州の検地を行っていた徳川家康は岩手沢城下の曹洞宗諸法山実相寺に8月18日〜9月27日の約40日間滞在、
その間に家臣・榊原康政に城の縄張りや修築を行わせ政宗へ引渡したと言われ、これを機に城名も「岩出山城」と
改められ申した。秀吉の意向を受け、政宗は仙台築城までのおよそ12年間、この城を居城とした。斯くしてこの時期、
政宗は「大崎少将」と名乗っている。とは言え、朝鮮出兵や上洛などで彼は領国を不在にする事が多く、実際に城を
預かっていたのは政宗側近たる屋代勘解由景頼(やしろかげより)であった。■■■■■■■■■■■■■■■■
関ヶ原合戦後、新たな天下人として徳川家康が政権を握ると新時代の到来に合わせ政宗は仙台へ居を移す。■■
これにより岩出沢城主には政宗4男の伊達三河守宗泰(当時は幼名の愛松丸(よしまつまる)と名乗る)が任じられた。
1603年(慶長8年)11月、3000石で城主となった愛松丸はこの時数え年で2歳である。当然ながら城主としての仕事が
出来る筈も無く、城代としてその傅役である山岡惣右衛門重長が実務を執り行った。この重長、先に名の出た小成田
重長である。既に奉行職(他藩の家老に相当)だった重長は岩出山に1200石を領し、傅役を兼任。愛松丸が長じると
重長は1613年(慶長18年)に岩出山を離れ転任、翌1614年(慶長19年)2月7日に宗泰が元服した。1627年(寛永4年)
12月には所領1万670石に加増され、江戸常勤の体制となり申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なおこの時期、幕府からは大名の居城以外の城を破却する命令「一国一城令」が発布されている。通常ならば、この
岩出山城も破却対象とされるべきものであったが、伊達政宗は巧みな政治力で支城を“要害”の名の下に残存させた。
故に岩出山城も岩出山要害と改められ、以後は宗泰後嗣の岩出山伊達家が幕末まで受け継いでいく。■■■■■■
岩出山伊達家の居城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
宗泰の後、和泉宗敏(むねとし)の代になると江戸詰めから国元在住へと変わり、1662年(寛文2年)岩出山要害の
二ノ丸に居館を造営。しかし1663年(寛文3年)2月1日にその二ノ丸で火災が発生、改めて仮居館を置くようになった。
岩出山伊達氏3代・大膳敏親(としちか)の時代となった1691年(元禄4年)前後に学問所の「春学館」が置かれ、後に
これが「有備館」と名を変えるが、その主屋は宗敏の仮居館を移築したものだと伝えられる。但し、最新の研究では
この移築説は否定の傾向にあるようなのだが、ともあれ藩校有備館は現在まで残されており、その敷地は国史跡、
庭園は国名勝に(共に1933年(昭和8年)2月28日指定、1972年(昭和47年)5月26日追加指定)。■■■■■■■■
建築物は2011年(平成23年)3月11日の東北地方太平洋沖地震で被災して(東日本大震災)倒壊・破損したものの
これも2016年(平成28年)迄に修復され、同年4月26日から一般公開の運びになっている。有備館主屋は現存する
藩校建築物としては最古のものと考えられている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
話を岩出山要害に戻すと、伊達敏親は1675年(天和3年)8月に加増を受けて知行高は1万4643石になった。これが
岩出山領の最終石高である。敏親の跡は養子の主馬村泰(むらやす)が継ぎ、それ以降は弾正村緝(むらつぐ)―
弾正村通(むらみち)―内蔵村則(むらのり)―讃岐宗秩(むねつね)―弾正義監(よしあき)―邦直(くになお)と続く。
中でも最後の城主となった邦直は戊辰戦役で果敢に戦い、特に山形方面で大功有ったのだが、最終的に仙台藩は
新政府へと降伏し、岩出山要害は没収されて邦直の家禄は65石にまで激減された。維新後、邦直率いる岩出山
旧家臣団は蝦夷地開拓のために彼の地へ移住して過酷な生活を余儀なくされたが、岩出山要害も廃城となり明治
初期に建物の多くが一般に払い下げられた。更には1876年(明治9年)に大火が起きて残る建物も焼失。城主共々
維新後の岩出山城は不幸な運命を辿ったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
岩出山城の縄張り■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
岩出山城は旧岩出山町の中心街を睥睨する小高い丘を利用した平山城だ。この小丘陵は、大きく見れば奥羽山脈の
末端に伸びた舌状台地となっているのだが、先端部の山塊が所謂“馬蹄型”の山頂部を構成している。城地は主に
馬蹄の東半分を活用したもので、南北に長い山頂一帯を啓開して本丸として、その西側の山腹部には二ノ丸が
帯曲輪状に隣接する。反対に、東側下段には東腰郭などの小曲輪群が防備を固める一方、本丸の南端から南へと
西腰郭が馬出状に突出して前衛となっている。また、二ノ丸の南端部は西腰郭の更に南へと回り込んで南腰郭を
構成。このように岩出山城の縄張りは複雑に曲輪が入り組んで、上段(本丸一帯)と下段(二ノ丸平面)が相互に
防御する上、要所要所は深い切岸や堀切などで穿たれ、険阻な防備となっていた。■■■■■■■■■■■■■■
現在、この城山全域は城山公園として整備・一般公開され、公園化に伴い一見すると長閑な散策を楽しめるような
雰囲気になっているが、よく見れば虎口や土塁など城址構造物の痕跡が垣間見えるので注意深く観察すべし。■■
城山公園の南西側は岩出山高校・岩出山小学校の敷地になっているが、これも旧来は城の居館部であった。■■■
この敷地全体を挟み込むように、直近の北には内川・南には蛭沢川が流れる上、岩出山の町全体を守るように大河の
江合(えあい)川も存在し、天然の濠を成していた。但し、城山山塊の最高部(標高108m)は馬蹄の西側に当たり、
城の本丸より5mほど高い点には注意が必要だ。城域の西側にも何かしら出曲輪があったのか?それとも馬蹄の基部
(城地北端)で塞ぐだけの防備が可能だったのか?なかなか興味をそそる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城の全域は東西およそ390m(山麓居館部を含む)×南北600m程の大きさを有する。遺構としての見処はやはり山上に
集中しているが、本丸まで車道が通じ、自動車で登る事が出来るので来訪はし易いだろう。ただし、車道の道幅は細く
曲がりくねっているので運転には注意が必要であろう。城址公園内にはSL(C58型)も展示されており、ちょっと楽しい(笑)
ところで岩出山城と言えば写真にある伊達政宗像の存在を欠かす事が出来ない。この像は仙台城(宮城県仙台市
青葉区)とも大いに関係がある。仙台城と言えば、有名な政宗の騎馬像が頭に思い浮かぶが、初代の政宗騎馬像は
戦時中の金属回収令で供出されてしまい(後に胸像部だけ残っている事が確認され、それは仙台市博物館に所蔵)
仙台城には政宗を偲ばせるものが無くなってしまった。よって1953年(昭和28年)政宗のセメント立像が再建されたの
だが、地元ではやはり騎馬像の復活を望む声が高く、1964年(昭和39年)に2代目の騎馬像が仙台城内本丸跡に
建立された。それによりセメント立像は撤去され、政宗が仙台城の前に居城としていたここ岩出山城に移設された
訳である。旧岩出山町(現在は大崎市)は当城に政宗が12年間在住していた事を誇りとし、毎年9月の第2土曜日と
翌日曜日に政宗公まつりを開催しており、この政宗立像が岩出山城跡にやって来た事が契機となっている。まさに
“地域の象徴”となるのが城と政宗なのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名で臥牛城とも。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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