陸前国 岩出山城

岩出山城跡 伊達政宗立像

 所在地:宮城県大崎市岩出山字城山・岩出山字二ノ構
 (旧 宮城県玉造郡岩出山町城山・二ノ構)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★☆■■
★☆■■■



城主・氏家氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
旧名は岩出沢城と言う。室町時代の応永年間(1394年〜1428年)大崎氏の家臣であった氏家弾正が築城。大崎氏は
室町体制下において奥州探題の職にあり、東北地方を統括する地位だった。氏家氏はその配下で、大崎氏の宿老と
言える家柄である。元々、下野国(現在の栃木県)主・宇都宮氏の流れを汲む一族で、その中から越中国(富山県)へ
移住した系統が隆盛して行く。織田信長の美濃(岐阜県南部)攻めで重きを為した貫心斎卜全(ぼくぜん)こと西美濃
三人衆の1人・氏家常陸介直元もこの後裔に当たる訳だが、それはさて置き越中氏家氏は南北朝期に藤島の戦いで
南朝方の重鎮・新田義貞を討ち取る大功績を挙げ、それを賞して室町政権から奥州探題付きの家格を与えられた。
ところがその経緯や業績はあまり詳らかではなく、謎が多く、そもそも“氏家弾正”なる人物が誰に比定されるのかも
良く分からない(直益?詮継?とする説もあるが如何か?)。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
いずれにせよ氏家氏は大崎家中の有力者であり、それは徐々に自ら所領を実効支配して主家の大崎氏と対立の
度を深めていく。他方、戦国時代になり伊達家の勢力が及んでくると、氏家氏は次第に伊達側へ従うようになっても
いったが、その一例として1534年(天文3年)大崎義直の家臣・新田(新井田とも)安芸守頼遠が義直に叛旗を翻し、
これに氏家直継(景継の事か?)も同調し大崎家中を分裂する大内乱に発展した事件が挙げられる。独力では対処
できなかった義直は伊達左京大夫稙宗に援軍を要請し1536年(天文5年)ようやく鎮圧したが、その結果として義直は
稙宗の子・義宣を養子として受け入れざるを得なくなり、氏家氏に対しても伊達家が大きな影響力を行使するように
なる。この後、伊達家中でも内訌が起きて大崎氏は伊達家との手切れを画策するが、義直後嗣・左衛門尉義隆の代
1588年(天正16年)2月に再び大崎家臣内で離反が発生、これに伊達政宗や最上義光(よしあき)など近隣強豪が介入
時の岩出沢城主・弾正吉継は政宗に与して義隆・義光連合軍と敵対した。ところが1589年(天正17年)2月、厳冬期で
行軍は遅滞し、氏家軍は政宗と合流する事ができず単独で大崎軍と戦う羽目に。結果、伊達軍は撤退し各勢力間で
和睦が成立、吉継も義隆に再服従した。このような歴史の中、岩出沢城も数々の戦いに巻き込まれたであろう事は
容易に想像できよう。然るに1590年(天正18年)豊臣秀吉の全国統一によって奥州仕置が行われ大崎氏は滅亡、
吉継も秀吉によって改易されている。結果、吉継は伊達家臣として命を永らえた。なお、吉継退去の後に新城主が
決まるまで伊達政宗家臣の小成田又三郎重長(こなりたしげなが)が城代として岩出沢城を預かっている。■■■■■

伊達政宗の城に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、岩出沢城は吉継の退去に伴って木村伊勢守吉清の所領に加えられた。岩出沢城主として、吉清家臣である
萩田三右衛門が任じられてござる。吉清は秀吉家臣、奥州仕置によって旧大崎領を治めるようになった人物だが、
彼は治世の才能乏しく地縁・血縁に縛られた奥羽の地を統治する事など不可能であった。これは秀吉の目論見で、
旧態然とした東北の不満勢力を木村領内に集め暴発させ、一挙に根絶するつもりだったのである。斯くして同年、
検地や刀狩りを不服とした農民・浪人らが大一揆を起こした。いわゆる「大崎・葛西一揆」であるが、その着火点と
なったのは10月16日この岩出沢城での事で、苛烈な年貢徴収に耐えかねた百姓衆が城を襲撃し三右衛門を斬殺
したと云う。以後、約1年に亘りこの地方は混乱の坩堝と化したが、これを豊臣政権は容赦なく弾圧。一揆の裏には
伊達政宗の陰謀も見え隠れしたが、最終的にはその政宗も一揆討伐に動いて秀吉に逆らう者は一掃された。■■
騒動後の1591年(天正19年)木村吉清も改易され、旧木村領は伊達政宗の領土に加えられた。政宗入封に先立ち
奥州の検地を行っていた徳川家康は岩手沢城下の曹洞宗諸法山実相寺に8月18日〜9月27日の約40日間滞在、
その間に家臣・榊原康政に城の縄張りや修築を行わせ政宗へ引渡したと言われ、これを機に城名も「岩出山城」と
改められ申した。秀吉の意向を受け、政宗は仙台築城までのおよそ12年間、この城を居城とした。斯くしてこの時期、
政宗は「大崎少将」と名乗っている。とは言え、朝鮮出兵や上洛などで彼は領国を不在にする事が多く、実際に城を
預かっていたのは政宗側近たる屋代勘解由景頼(やしろかげより)であった。■■■■■■■■■■■■■■■■
関ヶ原合戦後、新たな天下人として徳川家康が政権を握ると新時代の到来に合わせ政宗は仙台へ居を移す。■■
これにより岩出沢城主には政宗4男の伊達三河守宗泰(当時は幼名の愛松丸(よしまつまる)と名乗る)が任じられた。
1603年(慶長8年)11月、3000石で城主となった愛松丸はこの時数え年で2歳である。当然ながら城主としての仕事が
出来る筈も無く、城代としてその傅役である山岡惣右衛門重長が実務を執り行った。この重長、先に名の出た小成田
重長である。既に奉行職(他藩の家老に相当)だった重長は岩出山に1200石を領し、傅役を兼任。愛松丸が長じると
重長は1613年(慶長18年)に岩出山を離れ転任、翌1614年(慶長19年)2月7日に宗泰が元服した。1627年(寛永4年)
12月には所領1万670石に加増され、江戸常勤の体制となり申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なおこの時期、幕府からは大名の居城以外の城を破却する命令「一国一城令」が発布されている。通常ならば、この
岩出山城も破却対象とされるべきものであったが、伊達政宗は巧みな政治力で支城を“要害”の名の下に残存させた。
故に岩出山城も岩出山要害と改められ、以後は宗泰後嗣の岩出山伊達家が幕末まで受け継いでいく。■■■■■■

岩出山伊達家の居城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
宗泰の後、和泉宗敏(むねとし)の代になると江戸詰めから国元在住へと変わり、1662年(寛文2年)岩出山要害の
二ノ丸に居館を造営。しかし1663年(寛文3年)2月1日にその二ノ丸で火災が発生、改めて仮居館を置くようになった。
岩出山伊達氏3代・大膳敏親(としちか)の時代となった1691年(元禄4年)前後に学問所の「春学館」が置かれ、後に
これが「有備館」と名を変えるが、その主屋は宗敏の仮居館を移築したものだと伝えられる。但し、最新の研究では
この移築説は否定の傾向にあるようなのだが、ともあれ藩校有備館は現在まで残されており、その敷地は国史跡、
庭園は国名勝に(共に1933年(昭和8年)2月28日指定、1972年(昭和47年)5月26日追加指定)。■■■■■■■■
建築物は2011年(平成23年)3月11日の東北地方太平洋沖地震で被災して(東日本大震災)倒壊・破損したものの
これも2016年(平成28年)迄に修復され、同年4月26日から一般公開の運びになっている。有備館主屋は現存する
藩校建築物としては最古のものと考えられている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
話を岩出山要害に戻すと、伊達敏親は1675年(天和3年)8月に加増を受けて知行高は1万4643石になった。これが
岩出山領の最終石高である。敏親の跡は養子の主馬村泰(むらやす)が継ぎ、それ以降は弾正村緝(むらつぐ)―
弾正村通(むらみち)―内蔵村則(むらのり)―讃岐宗秩(むねつね)―弾正義監(よしあき)―邦直(くになお)と続く。
中でも最後の城主となった邦直は戊辰戦役で果敢に戦い、特に山形方面で大功有ったのだが、最終的に仙台藩は
新政府へと降伏し、岩出山要害は没収されて邦直の家禄は65石にまで激減された。維新後、邦直率いる岩出山
旧家臣団は蝦夷地開拓のために彼の地へ移住して過酷な生活を余儀なくされたが、岩出山要害も廃城となり明治
初期に建物の多くが一般に払い下げられた。更には1876年(明治9年)に大火が起きて残る建物も焼失。城主共々
維新後の岩出山城は不幸な運命を辿ったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

岩出山城の縄張り■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
岩出山城は旧岩出山町の中心街を睥睨する小高い丘を利用した平山城だ。この小丘陵は、大きく見れば奥羽山脈の
末端に伸びた舌状台地となっているのだが、先端部の山塊が所謂“馬蹄型”の山頂部を構成している。城地は主に
馬蹄の東半分を活用したもので、南北に長い山頂一帯を啓開して本丸として、その西側の山腹部には二ノ丸が
帯曲輪状に隣接する。反対に、東側下段には東腰郭などの小曲輪群が防備を固める一方、本丸の南端から南へと
西腰郭が馬出状に突出して前衛となっている。また、二ノ丸の南端部は西腰郭の更に南へと回り込んで南腰郭を
構成。このように岩出山城の縄張りは複雑に曲輪が入り組んで、上段(本丸一帯)と下段(二ノ丸平面)が相互に
防御する上、要所要所は深い切岸や堀切などで穿たれ、険阻な防備となっていた。■■■■■■■■■■■■■■
現在、この城山全域は城山公園として整備・一般公開され、公園化に伴い一見すると長閑な散策を楽しめるような
雰囲気になっているが、よく見れば虎口や土塁など城址構造物の痕跡が垣間見えるので注意深く観察すべし。■■
城山公園の南西側は岩出山高校・岩出山小学校の敷地になっているが、これも旧来は城の居館部であった。■■■
この敷地全体を挟み込むように、直近の北には内川・南には蛭沢川が流れる上、岩出山の町全体を守るように大河の
江合(えあい)川も存在し、天然の濠を成していた。但し、城山山塊の最高部(標高108m)は馬蹄の西側に当たり、
城の本丸より5mほど高い点には注意が必要だ。城域の西側にも何かしら出曲輪があったのか?それとも馬蹄の基部
(城地北端)で塞ぐだけの防備が可能だったのか?なかなか興味をそそる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城の全域は東西およそ390m(山麓居館部を含む)×南北600m程の大きさを有する。遺構としての見処はやはり山上に
集中しているが、本丸まで車道が通じ、自動車で登る事が出来るので来訪はし易いだろう。ただし、車道の道幅は細く
曲がりくねっているので運転には注意が必要であろう。城址公園内にはSL(C58型)も展示されており、ちょっと楽しい(笑)
ところで岩出山城と言えば写真にある伊達政宗像の存在を欠かす事が出来ない。この像は仙台城(宮城県仙台市
青葉区)とも大いに関係がある。仙台城と言えば、有名な政宗の騎馬像が頭に思い浮かぶが、初代の政宗騎馬像は
戦時中の金属回収令で供出されてしまい(後に胸像部だけ残っている事が確認され、それは仙台市博物館に所蔵)
仙台城には政宗を偲ばせるものが無くなってしまった。よって1953年(昭和28年)政宗のセメント立像が再建されたの
だが、地元ではやはり騎馬像の復活を望む声が高く、1964年(昭和39年)に2代目の騎馬像が仙台城内本丸跡に
建立された。それによりセメント立像は撤去され、政宗が仙台城の前に居城としていたここ岩出山城に移設された
訳である。旧岩出山町(現在は大崎市)は当城に政宗が12年間在住していた事を誇りとし、毎年9月の第2土曜日と
翌日曜日に政宗公まつりを開催しており、この政宗立像が岩出山城跡にやって来た事が契機となっている。まさに
“地域の象徴”となるのが城と政宗なのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名で臥牛城とも。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群
藩校有備館は国指定史跡・名勝

移築された遺構として
有備館主屋(伝岩出山城二ノ丸仮居館)







陸前国 名生城(名生館官衙)

名生城跡 史跡看板名生館官衙遺跡 史跡標柱


 所在地:宮城県大崎市
古川大崎城内・古川大崎名生舘・古川大崎名生北舘・古川大崎名生小舘
古川大崎名生中川原・古川大崎小野柄堂・古川大崎弥栄・古川大崎昭和
(旧 宮城県古川市大崎城内・名生舘・名生北舘・名生小舘 ほか各所)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★■■■
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古代官衙遺跡から始まり…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
名生は「みょう」と読む。室町体制下において奥州探題を務めた大崎氏の居城。元々、この地には古代官衙
(律令時代での地方統治役所、現代風に言えば市町村役場)があった。現在、名生館(みょうたて)官衙遺跡と
呼ばれるその官衙は、7世紀末〜10世紀に大崎地方西部を治めていた役所遺構と推測されている。即ち、
多賀城(宮城県多賀城市)や胆沢城(岩手県奥州市)のような古代城柵の類例がこの場所の起源でござる。
名生館官衙遺跡は1980年代の開墾時、田畑の中から多数の瓦が出土した事から遺跡と認定され、後に発掘
調査が行われた結果、古代律令制における東北地方経営の拠点とされた多賀城をも遡る古い起源であると
確認された稀有なもの。大崎地方は既に7世紀頃にして大和朝廷の支配下にあった事を物語り、東北地方の
古代史を書き換える重要な遺跡と考えられた為、1987年(昭和62年)8月17日に国史跡と指定された。出土
状況から類推すると、遺跡範囲は東西約700m×南北110m程で、官衙中心部は東西53m×南北61m程度の
規模を有し、そこには正殿・脇殿などで構成される瓦葺建物が数棟建てられていたようだ。典型的な官衙
遺構で、この場所が古代から地域の政治・経済的中心地となっていた状況が垣間見え申そう。■■■■■
そんな官衙遺跡の跡地に南北朝期築城されたのが名生城でござる。築城年は1351年(正平6年/観応2年)、
斯波式部大輔家兼の手に拠るとされる。家兼は足利氏一門で、南北朝の争乱や観応の擾乱を一貫して足利
尊氏方として戦い抜いた。その過程で奥州平定に尽力、この名生城を築城し1354年(正平9年/文和3年)には
奥州管領に任命される。但し、彼が居城としたのは近隣の中新田(なかにいだ)城(宮城県加美郡加美町)で
あったと言い、名生城へ移ったのは後年の事だとか。程なくして(1356年(正平11年/延文元年)6月13日)
家兼は没し、嫡男・治部大輔直持が家督を継ぎ、更にその嫡子・詮持へと継承されていくが、この2代目か
3代目の頃に大崎の姓を名乗るようになったとされている。家兼の祖先である足利家氏が領していた下総国
香取郡大崎(千葉県香取市大崎)に因んだもので、以後は室町体制における東北の要・奥州管領の職制が
大崎氏歴代に受け継がれるという認識が定着していった。なお、東北地方は陸奥国と出羽国に分かれており
出羽に於いては羽州探題の職を置き最上氏が継いでいく訳だが、最上氏初代となる斯波兼頼(かねより)は
家兼の次男。つまり東北地方を統括するのは直持・兼頼兄弟の子孫という事になるのでござる。■■■■■

奥羽の草刈り場■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、大崎氏の家督は詮持の後に満詮―満持―持詮(もちあきら)―教兼(のりかね)―政兼―義兼―高兼
(たかかね)と続き、高兼は子が無く没した事から11代目はその弟・義直が跡を継いだ。しかし室町の職制に
頼る旧家は、現実的には実力なき名ばかりの家であり、教兼以降は勢力を衰退、左京大夫義直の代には
岩出山城の項で記したように新井田頼遠らの叛乱を招き、伊達氏の介入を受けるようになってしまう。その
経緯あってか、義直は居城を中新田城へと変えたが、次代・義隆は再び名生城が用いられるようになった。
こうした歴史を紡ぐ中、名生城が度々の戦いに巻き込まれたであろう事は想像に難くない。1590年、義隆は
秀吉の奥州仕置により封を失い城を退去、大崎氏は滅亡する。旧大崎領は木村吉清に与えられ、彼の息子
木村弥一右衛門清久が名生城を居城とした。その翌年の1591年に大崎・葛西一揆が発生、対処の相談で
清久が城を離れる間に一揆勢は名生城を占拠し豊臣政権軍と激戦を繰り広げている。蒲生氏郷によって
城は落とされたが、今度は伊達政宗の陰謀を恐れた氏郷が籠城するなど、刻々と変わる戦況の緊迫感を
如実に表した名生城でござったが、一連の一揆騒動が落ち着いた後に廃城となり申した。文献においては
大崎・葛西一揆の後始末に徳川家康がこの地を検分、その際に名生城へ立ち寄った事が最後の記録だ。

史跡としての名生城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城址はJR陸羽東線の線路沿い、東大崎駅の北側に位置し、線路が渋井川を渡るあたりの西側一帯。この
渋井川は城の後ろを固める天然の濠を成し、当時はもっと水量も多かった上に周辺は湿地帯となっていて
水辺に浮かぶ微高地が城館を構えるに適した地形だったのだろう。城域の規模は東西約500m×南北およそ
1kmという広大な面積を有し、この中が土塁や堀で区分けされた多数の曲輪に分割されていた。北から順に
(大きいものだけでも)北館・内館・大館(本丸、官衙遺跡もこの内部)・軍議評定所丸・小館と言う曲輪に
細分化され、これら連郭式曲輪群の西面を塞ぐように二ノ構(北半分)・三ノ構(南半分)という帯曲輪状の
前衛曲輪群が並んでいる。各曲輪の形状は不定形なものばかりで、多分に地形をそのまま利用して然程
人為的な造作は加えられていないようだ。また、こうした曲輪の配列は主郭に対して求心的とも思えず
官衙跡の広大な敷地を維持した「足利一門の名族」という面と、実際は名ばかりで「家臣に君臨できない」
大崎氏の実情を垣間見える縄張になっている。中世の武家居館を成り行き的に拡張した城だったのだろう。
但し、「仙臺領古城書上」「名生村風土記御用書出」「仙台領内古城館」等の諸書には「軍場(ぐんじょう)」と
記された曲輪の存在も記されており、間違いなく名生城は実戦城郭だったのは窺えよう。廃城以後の開拓や
近年の宅地化、それに治水事業によって城跡一帯は農地化されており、一見すると目立った遺構は確認
できないが、それでも渋井川の堤防に繋がる部分や城域北端の浄泉院といった寺の敷地、逆に南端部の
大崎神社付近にはかつての曲輪取りと思える地形が残る。また、街路や小字の区分は往時の曲輪を踏襲して
おり、よく見れば土塁の断片が要所要所に残存してござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
官衙遺跡が確定的となって、1980年(昭和55年)から宮城県多賀城跡調査研究所や古川市教委が数度に
渡って学術調査を行ったが、目立った建物遺構は発見されていなかった。その一方で、堀跡や溝跡は縦横に
走っていた事が確認されている。そして1996年(平成8年)〜1997年(平成9年)古川市教育委員会の発掘で
内館跡から中世の柱穴を検出。この穴からは大量の炭化米が出ており、兵糧庫であったと考えられる。
更には、大館の跡地で1998年(平成10年)から2000年(平成13年)にかけて古川市教育委員会が行った
総面積1584uにも及ぶ発掘調査の結果、遂に総柱建物の跡を検出する。これは東西17.14m×南北9.44m
(桁行9間×梁行5間)の大きさで、南面と西面に庇か縁が付属する構造と推測される。加えて、その建物の
西にも桁行5間×梁行1間、桁行3間以上×梁行1間の2棟があったと確認されてござる。この他、発掘により
青磁碗や常滑産の甕、古瀬戸の折録深皿・小皿、茶臼、炭化米・北宋銭・板碑と言った物が出土している。
官衙遺跡が国史跡となっているのには及ばないが、名生城跡としては1970年(昭和45年)12月5日に当時の
古川市指定史跡になっている(現在は大崎市に継承)。別名で義隆館、或いは御所館とも。■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群
城域内は市指定史跡
官衙遺跡は国指定史跡




寺池城・佐沼城  桑折城・千石城・上野館