名族・葛西氏の城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
寺池館、臥牛城、登米要害(要害の由来は後記)とも。旧宮城県登米(とめ)郡登米(とよま)町の中心部に存在した平山城。
現在は市町村合併で登米郡は登米市になってござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
元来、この地方は葛西氏の領土であった。遡ると葛西氏は源頼朝による奥州征伐の軍功によってこの地に封じられ、鎌倉
幕府から奥州総奉行に任じられた葛西三郎清重を祖とする。彼の父は豊島清元(としまきよもと)と言い武蔵国豊島郡の
有力豪族で、下総国葛西御厨(現在の東京都葛飾区〜江戸川区)を清重に分知した。故に清重は葛西氏を名乗る訳だが
豊島郡の名は言わずもがな今の東京都豊島区として残っており、豊島氏・葛西氏ともに東京都内を由緒とする氏族と云う
事になる。その清重が陸奥国登米郡に入封するも、当初は石巻日和山(宮城県石巻市日和が丘)に居を構えたとされ、
葛西氏累代の中でいつ、誰がこの寺池に城を築いたかは定かではない。ただ、通説では葛西氏による築城とされている。
一説には1536年(天文5年)、清重を初代として葛西氏15代目の左京大夫晴胤(はるたね)の手に拠るとも。その一方で、
内紛が絶えなかった葛西家中は系統が2分しており、既にそれ以前から日和山に居を置く一族と寺池に構えた一族が
並立していたと考える向きもござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
いずれにせよ「鎌倉以来の名門」という葛西氏は、その実、戦国乱世の中に在っては“実力なく名ばかりで”生き永らえる
のみになっていた。晴胤の後、その嫡子である16代・石見守親信(ちかのぶ)は家督相続わずか5年で死去し、彼の弟の
左京大夫晴信が17代目となったが、これが大名としての葛西家最後の当主となる。北に強大な軍事力を有した南部氏、
西には室町体制の有力者・大崎氏、そして南からは新進気鋭の伊達政宗が攻勢を掛ける状況下、更に中央政界では
天下統一に王手をかけた豊臣秀吉が台頭。名門意識あってか、葛西晴信は農民上がりの秀吉を軽視し、故に服従を
良しとしなかった。結果、1590年(天正18年)秀吉の奥州仕置によって領地没収、追放の憂き目をみたのでござる。■■
奥州仕置の果てに■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
豊臣政権の占領政策によって、葛西氏・大崎氏の旧領およそ30万石は木村伊勢守吉清の所領とされる。そして吉清は
ここ寺池城を居城として入城したのだが、苛烈な検地や乱暴狼藉を領民に働く悪政を施し申した。実は秀吉、吉清には
まともな統治能力が無い事を知っていながら30万石の大封を与えたと言われる。案の定、怨嗟に満ちた木村領内で同年
10月16日から一揆が発生、瞬く間に爆発的な広がりを見せた。これは木村一族、ひいては侵略者・豊臣秀吉への反抗で
浪人となった旧葛西・大崎家臣らも農民らと共に蜂起している。当然、木村吉清がこれを鎮圧する事は無理で、寺池城は
落とされ、彼は佐沼城(下記)へと逃げ込んだ。大混乱に陥った葛西大崎領内であるが、むしろこれこそが秀吉の狙いで
最後まで豊臣政権に従わなかった東北地方の反抗勢力を一気に集め、根絶やしにする目論みだった。斯くして、豊臣
政権に組み込まれた諸大名らの大討伐軍が雪崩込み、大殺戮が始まる。翌年7月4日、寺池城は伊達政宗の軍により
奪還されたが、しかしこの大一揆を裏で扇動していたのが政宗自身でもあった。政宗は誰の手にも負えなくなった一揆を
自分がコントロールし、秀吉から所領をせしめようと狙っていたのだが、結局その策略は潰え、最終的に政宗が一揆勢を
見殺しにする形で終幕したのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
だがその結果として政宗は旧領を半分削られ、代わりに木村領を宛がわれる事になった。政宗としては半分勝利し、半分
負けたようなものであったが、その後は秀吉が没し徳川家康によって政権が打ち立てられると仙台城(宮城県仙台市)を
新たな本拠として築城、伊達家の新体制を作り上げていく。1604年(慶長9年)、寺池には政宗の臣である白石右門宗直
(しろいしむねなお)が入り城の改修を行う。と同時に城下町の復興整備も進めている。白石氏の石高は公称1万5000石
だったが、実際には葛西大崎一揆によって荒廃しており復旧が急務でござった。宗直は見事にそれを成し遂げ、実高は
2万1000石にまで成長したと云う。その後も宗直は大坂の陣でも武功を挙げた為、伊達一門としての家格を認められ、
1616年(元和2年)伊達姓を名乗る事を許された。以後、寺池城は白石(登米)伊達氏の城となる訳だが、一方で大名の
居城以外の城は破却する法令「一国一城令」が幕府から発布されており、当然、仙台藩内では仙台城以外認められず、
寺池城は破却対象とされるところを政宗は巧みな政治力を発揮し、領内の諸城は「要害」という名目で存続させる事に
成功。寺池城は登米要害と名を変え幕末まで維持され申した。城主は宗直の後、刑部大輔宗貞―五郎吉(ごろきち)―
式部大輔宗倫(むねとも)―村直(むらなお)―村永(むらなが)―村倫(むらとも)―左京大夫村隆(むらたか)―村良
(むらよし)―村幸(むらゆき)―宗充(むねみつ)―邦寧(くにやす)―邦教(くにのり)と13代に渡って継承されている。
しかし戊辰戦争に敗れた仙台藩は62万石から28万石へと石高を大幅に減封されてしまい、煽りを受けて登米領は没収。
こうして寺池城(登米要害)は廃絶となったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
寺池城の縄張り■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城地は北から南へと細長く広がる小山を利用。この山は東西100mほど×南北300m程度の面積が城として活用されて
いた。北に偏った山頂部を啓開して本丸を造成、そこから南へ段を下って二ノ丸・三ノ丸が作られる梯郭式の縄張だ。
本丸跡地は現状で耕作地、二ノ丸は仙台地裁登米支部の敷地、三ノ丸は登米懐古館が建つ。往時は西側に突き出た
支尾根も出曲輪となっていて、ここには城主一族の廟所があったようだが、現在そこは登米小学校の校舎や体育館が
建っており当時を偲ぶ事はできない。要するに城山の傾斜地や坂の勾配に緊要地形を感じる程度の残存具合な訳で、
城山の南端に城址標柱がある事がせめてもの救いでござろう。その城址標柱のすぐ隣から切岸が立ち上がっていて
その高さには圧倒されるものの、そこを固めている石垣は見るからに現代の物で城の遺構ではない。南西側山麓には
城主の居館が建てられていたようだが、現在は登米懐古館に連なる寺池城址公園(写真)となっている。公園内には
井戸が現存。また、現在は跡形もないが城山の南半分を回り込むように堀が掘削されていた。本丸の標高は31m、
山麓の標高は10mなので比高20mほど。登米の町の東には東北地方最大の大河である北上川が流れ、天然の濠を
成していた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
移築された建造物として、市内にある熊谷弓麿氏邸の表門が葛西氏時代の寺池館搦手門であったと伝わる。この門は
控戸付き四脚門で、元は茅葺であったが銅板葺に改められている。さらに太白山養雲寺(単立宗派)の山門も寺池城の
城門を移築した物と言われ、これも茅葺を銅板葺に変更しているが2階建ての立派な櫓門であった威風は残されている。
共に1976年(昭和51年)5月27日に登米町指定文化財となり登米市に継承されており申す。■■■■■■■■■■■■
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