陸前国 多賀城

多賀城 政庁主殿部跡

 所在地:宮城県多賀城市
市川字城前・市川字大畑・市川字丸山
市川字坂下・市川字田屋場・市川字作貫
市川字立石・市川字六月坂・市川字金堀

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★■■■
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古代城柵の代名詞■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
日本史の教科書に必ず記載される古代城柵。多賀「城」とある通り、古代大和政権による蝦夷征伐の軍事拠点で
あるのは勿論だが、東北支配の政庁としての機能が重視され、陸奥国府や鎮守府として長く使われた。■■■■
奈良時代、時の大和政権は東北地方の領土化を進める為に北進政策を採り、それに従わぬ在地豪族らを征伐する
所謂“蝦夷征伐”を数度に渡って推し進めていた。領有化した地域を支配する為に古代城柵が各地に築かれた中、
724年(神亀元年)按察使(あぜち、地方行政を監督する令外官)の大野東人(おおののあずまびと)が築城したと
される多賀城。なお城名は「たがじょう」と読む他、古代城柵の通例から「たかのき」と読む場合もあり、これが故に
「多賀柵」の字を充てる事もござる。この年の3月、蝦夷で大規模な反乱が発生し東人らは都から鎮圧の遠征を行い
その渦中で多賀城が構築された事から、多賀城つまり多賀柵は確実に実戦城郭として用いられた訳だが、一方で
従前の国府などの政庁機能が多賀城へ集約され、朝廷による陸奥国支配の中心拠点として整備拡張されていく。
斯くして762年(天平宝字6年)藤原朝狩(あさかり)が改修。これに対して蝦夷の反乱も根強く、780年(宝亀11年)
伊治公砦麻呂(これはる(これはりとも)のきみあざまろ)の反乱で焼き払われてしまう。砦麻呂はこの後に失踪、
結局、朝廷からの追捕もうやむやに終わる状況下、同年中に多賀城は復興され申した。■■■■■■■■■■■
平安時代に入り、朝廷軍の勇将として知られる坂上田村麻呂が東北遠征を行う事によって徐々に状況は変化して
いく。征夷大将軍にして陸奥出羽按察使兼陸奥守に任命された田村麻呂は朝廷の支配地域を押し上げ、現在の
岩手県奥州市に胆沢城を構築。よって、最前線としての軍事駐屯地はそちらへ移り多賀城は後方支援の役に。
869年(貞観11年)5月26日、貞観地震と呼ばれる大地震が三陸沖で発生、その激震と津波被害によって多賀城と
周辺地域は壊滅的打撃を被った。こうして再度の復興が執り行われたが、既に朝廷と蝦夷の戦場はもっと北方域で
行われるようになっており、多賀城は軍事拠点よりも政庁としての意味合いが強くなっていく。よって、城の周囲は
大規模に啓開され儀式典礼の場を設けたり、国府に附随する寺社が置かれ、統治拠点となっていった。さりとて
10世紀以降は朝廷の公地公民制が崩れ、また東国では新興開拓武士団の自主独立が進み、東北地方で蝦夷系
旧豪族の自治放任など、政治的変動が起きていく過程によって陸奥国府の必要性は薄れてしまい、10世紀半ば
頃になると多賀城は事実上廃城状態となっていたようでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
記録に拠れば11世紀に起きた前九年の役・後三年の役において軍事駐屯地となった事があり、また南北朝期には
南朝から東北地方の糾合を目的として派遣された北畠親房(ちかふさ)・顕家(あきいえ)父子が義良(のりなが)
親王(後の後村上天皇)を奉じて多賀城に拠ったとされる。義良親王が親王宣下を受けたのは1334年(建武元年)
5月、多賀城に於いての事でござった。そのため義良親王を首班とする陸奥将軍府が多賀城を拠点に開かれたが
1337年(延元2年/建武4年)北朝方に攻められ親王は京都へ帰還、更に南朝の衰退と共に廃絶となり申した。■■

国の特別史跡■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以後、城跡は原野と化したものの古代城柵としての重要性は高く評価され1922年(大正11年)10月12日に国の
史跡に指定された。これは鎮守府として土塁・土壇・礎石などの遺構が残る他、国府附随の寺跡も含めての史跡
指定となっている。更に1966年(昭和41年)4月11日には特別史跡とされ、1993年(平成5年)9月22日まで都合7回
指定範囲が拡大されてござる。2006年(平成18年)4月6日には財団法人日本城郭協会から日本百名城の1つに
選出された。百名城選定は、城郭の主軸時代である戦国時代のみならず、広範な歴史変遷の中から選ぶ事を
志しており、多賀城は奈良〜平安期の“古代城柵を代表する城郭”として位置づけられている。■■■■■■■
そうした史跡保護の流れの中、1961年(昭和36年)から宮城県教育委員会により発掘調査が行われた。外郭は
東辺約1km・西辺およそ700m・南辺は約880m・北辺が860m程の大きさを有し、築地塀や柵木列が巡っていた。
その内部が政庁区画で、特に中心やや南寄りの部分が東西106m×南北170mで区切られ、築地塀で囲まれた
中に礎石や柱穴痕が多数確認されていて、ここが正殿と見られている。一方、1979年(昭和54年)に多賀城市
教育委員会が行った外郭南東隅部200m地点にある小丘陵を中心とした発掘調査では、古代の掘立柱建物
6棟と中世の建物18棟の痕跡が確認されている。このうち、古代建造物中3棟は規模こそ異なるが棟向きが全て
統一され、それは正殿部とも同調している事から多賀城本来の建造物と見て間違いない。しかし中世の建物は
古代の地勢を改変して建てられたと見られ、多賀城廃絶後も継続的に当地が在地武士の居住区域になっていた
様子を物語る。加えて、数次の発掘調査に基づき南大門と想定される地点や、数々の廃寺跡も史跡指定範囲に
含まれ、壮大な国府遺構の一端を垣間見せてくれている。これら発掘調査の出土品は、多賀城市内にある
東北歴史博物館などで保存されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところで、多賀城創建当初の歴史を伝える古碑として多賀城碑がある。この碑の建立は762年12月1日の日付と
なっており、藤原朝狩改修時のものと見られている。材質は花崗砂岩、江戸初期の万治年間(1658年〜1661年)
又は寛文年間(1661年〜1673年)の発見とされ、土の中から掘り出されたとか、草むらに埋もれていた等の説が
ある。この古碑は近代になって偽作ではないかと疑われるようになったが、現代では内容の整合性に間違いが
なく、真作と評価されている。また1997年(平成9年)碑の周囲の発掘調査を行った結果、古代の据え付け跡が
確認され旧来からここに建立されていた可能性が高まった。その為、1998年(平成10年)6月30日、この古碑も
国の重要文化財に指定されている。更に研究が進んだ2024年(令和6年)3月15日の文部科学省文化審議会では
国宝指定が答申され、同年8月27日に官報告示(国宝指定)となった。宮城県内に所在する遺物としては7件目、
23年ぶりの国宝指定になるのだとか。なお、群馬県高崎市吉井町にある多胡(たご)碑・栃木県大田原市にある
那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)・京都府宇治市の宇治橋断碑(うじばしだんぴ)と共に日本三古碑と
数えられている銘品だ(4つのうちいずれか3つで三古碑と数えられる)。松尾芭蕉も東北旅行でこの碑を目にし
感動のあまり涙を流したと紀行文「おくのほそ道」に記している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
遺構としては土塁の痕跡などがうっすらと。また、政庁正殿跡(写真)は復元整備されている。多賀城碑も必見。
建造物の再建も着々と進行中なので、数年のうちに見違えるような光景になっている…のかも?■■■■■■



現存する遺構

多賀城碑《国宝》・土塁・郭群
城域内は国特別史跡




仙台(千代)城・若林城・茂ヶ崎城  寺池城・佐沼城