陸前国 仙台(千代)城

仙台城二ノ丸大手門隅櫓(復元)

 所在地:宮城県仙台市青葉区川内・川内追廻・青葉山 ほか

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★☆
★★★★☆



広瀬川流れる岸辺 瀬音ゆかしき杜の都■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
独眼竜こと伊達藤次郎政宗が築城、別名は言わずと知れた青葉城である。関ヶ原合戦後、伊達氏62万5000石の
新府として拓かれた城であるが、これは旧来「川内」或いは「千代」(読みは共に「せんだい」)と表記していた
ものを、吉祥縁起を担いで「仙人の守護する台地=仙台」と改めたものである。2001年(平成13年)は“仙台”開府
400周年に当る年であったが、それ以前からここには「千代城」が存在した事になる。■■■■■■■■■■■
ではその千代城についてだが、来歴は詳らかではない。源頼朝による奥州征伐の折、千葉五郎左衛門尉胤通が
その戦功として陸奥国宮城郡国分(こくぶん)荘の地頭となり青葉山に城を築いたと言うのが伝承での初出であり
この胤通(胤道とも)なる人物は下総国(現在の千葉県北部)の名族・千葉氏の一員で、国分荘を領した事で
姓を「国分」に改めたとされる。しかし、下総での本拠が葛飾郡国分郷(現在の千葉県市川市国分)であったため
陸奥での所領以前から国分氏を名乗っていたともされ、詳しい事はよく分からない。更には、彼の出自は坂東
八屋形の流れを汲む長沼氏(藤原北家秀郷流)であったとする説もある上に、鎌倉時代後期以降は島津氏が
千代に入ったとも言われており、国分氏の系譜がどのように繋がるものなのかは不明としか言いようがない。
なお国分氏の入封時、近隣に千躰仏が祀られており「千体」とされていた地名が、いつの間にか「千代」へと
変わっていったと伝わる。ともあれ、鎌倉〜室町〜戦国時代において彼の地は国分氏が統治する地だった。
国分氏は現在の仙台市域を中心として独立を保つ国人領主ではあったが、次第に米沢(山形県米沢市)の
伊達氏が勢力を拡大、領土を接するようになる。伊達氏と国分氏は数度に渡り干戈を交え、徐々に国分氏が
服属するよう変化、遂に伊達左京大夫輝宗(時の伊達氏当主)の弟・伊達彦九郎政重が国分家の養子に入る。
政重の縁組には国分家中でも反対論が多く順風満帆とは言えなかったのだが、紆余曲折の結果それが成り
国分三河守盛重(もりしげ)を名乗るようになった。されど盛重は当主としての器量に欠け、家中はなかなか
治まらない。輝宗の跡を継いだ政宗は彼の不手際を責め、対する盛重も甥である政宗とは馬が合わなかった
らしく、遂には所領を棄てて出奔してしまった。元々、盛重の頃には千代城は用いられておらず、荒廃の極みに
あったようで国分家の滅亡と共に一旦廃城となったのだった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
千代城の廃城から程なく、関ヶ原合戦が勃発する。当時、豊臣政権の意向により岩出山城(宮城県大崎市)を
居城とし、石高58万石とされていた伊達政宗は所領拡大を目論んで東軍の徳川家康方に与した。家康もまた、
奥羽の押さえとして政宗を厚遇し、勝利の暁には伊達家を100万石へと加増する約束状を発給する。こうして
家康は美濃国不破郡関ヶ原で石田治部少輔三成率いる西軍に大勝、政宗も東北にて西軍へ味方した上杉氏を
封じ込める活躍を見せた。ところが政宗は家康に内密で南部氏の所領をも侵犯する企みを謀り、更なる領土
拡大を画策。これが露見した為、家康から“百万石のお墨付き”を反故にされ、僅かに4万石の加増を受けるのみと
なってしまい申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

伊達の家名は「千の代」で終わらず、万の代でもなお続く■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
新時代の到来に合わせ、政宗は新府の開拓を企図して新城を築城する事を決意する。家康の許しを得て選んだ
候補地は、旧千代城の跡地であった。政宗がここを選地した理由としては、もしも“百万石のお墨付き”通りに
加増された場合にはこの辺りが領国の中心地となる推測があったとも言われるが、山間部の岩出山城よりも
近世城郭として必須である城下町を拓くのに必要な平野部へ面していた一方、未だ豊臣家の威勢が残る中で
徳川新政権との対立関係が悪化した場合は再びの戦乱が起こる可能性を危惧(政宗の場合は期待?)して
それに備えた堅固な城を必要としたからだった。それでいて政宗は家康に新城の構築を事前申請し、後々に
「徳川政権の許諾を得た」とする名分を欠かさなかったのが抜かりない。あわよくば自らが天下を獲ろうという
野望を抱きつつ、或いは豊臣方の挽回もあり得る政治動向の中、当面の権力者となる事が確実な徳川家に
“無断築城”の口実を与えなかった政宗の政治力も、この築城に見え隠れするのである。斯くして政宗は上記の
通り「千代」を「仙台」に改め、1601年(慶長6年)1月から新本拠となる仙台城を築城した。■■■■■■■■
仙台城の特筆すべき点は、慶長期の着工にも関わらず山城である事である。戦乱が終わり太平の世が訪れた
時代では、築城の立地は山城から平城・平山城へと移り、城塞としてよりも政庁として城の存在が重視された。
が、政宗は敢えて急峻な青葉山に城を構えたのである。しかも山上の制約された地形に、壮大な御殿まで建て
「政庁である山城」にしてしまった念の入れよう。その本丸御殿は崖にせり出して、支谷を跨ぐように建築された
「御懸造(おかけづくり)」と呼ばれる特異なもの。京都・清水寺の本堂、所謂“清水の舞台”と同じ構法だったと
言えば想像し易いだろうが、そのような目立つ御殿が建てられていたのである。その一方、この城には天守が
建てられていない。火災などで滅失した訳ではなく当初から建てられなかったのだが、天守に代わって懸造の
御殿から城下の街並みを睥睨したのだから、政宗の“風流ぶり”が感じられる。まさしく“伊達男”の面目躍如と
言った処か。尤も「伊達男」という言葉の語源は政宗ではないらしいが(笑)■■■■■■■■■■■■■■■

「近世山城」の縄張りとその拡大■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、下手に天守を造り幕府から危険人物と睨まれる危機を回避しつつ(これも政宗一流の政治力だろう)
御殿で代役を果たす“実を採る”築城をした仙台城。その縄張は前衛に広瀬川を天然の濠とし、背後は龍ノ口
(たつのくち)渓谷の断崖に守られた要害であり、城塞としては絶好の立地であるが、ここまでして巨城を造る
政宗の執念恐るべし!青葉山頂の標高は124m、その一帯は鬱蒼とした森のままで残されて、山頂の東側を
大規模に啓開して本丸敷地を造成。往時はそこに3重櫓が林立、更には先述の本丸御殿等も軒を連ね、仙台
62万石の首府に相応しい、かつ鉄壁の防備を固める城郭が作られたのである。この敷地は南に龍ノ口渓谷、
東面は城下の平野を望む断崖、北側は急傾斜地、そして西には青葉山の森が囲み、東西245m×南北267mと
いう広大な面積にして四方に睨みを利かせる築城好地であった。最初期の築城は1603年(慶長8年)頃には
一応の完成を見て政宗が入城。されども豪壮華麗な本丸御殿の造営は継続された状態で、大広間の完成は
1610年(慶長15年)頃に完成。この大広間には城主の座所である“上段の間”の更に奥に、それよりも格上の
“上々段の間”が備えられており、一説には政宗が仙台城に京の帝を招く腹づもりであったと言う事は、仙台
こそが武家政権の首都となる思惑があった?即ち、徳川幕府を打倒して天下を獲る計算が…?等々、様々な
憶測を呼ぶ構造となっていたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
政宗は1627年(寛永4年)に隠居城として若林城(仙台市内、下記)の築城を開始し、翌1628年(寛永5年)に
移居。そして1636年(寛永13年)5月24日に江戸屋敷で病没した為、仙台藩の2代藩主つまり新たな仙台城主と
なったのは嫡男の陸奥守忠宗(政宗2男)である。彼は太平の時代に即した仙台城の拡張を計画し、幕府の
許可を得て1638年(寛永15年)から二ノ丸の造営を開始した。これは本丸の北側、傾斜地の麓に広大な政務・
居住用の新敷地を確保し、そこに殿舎を並べたもの。また、青葉山への登り口となる位置に馬出状の東ノ丸も
存在し、二ノ丸や本丸への通行を管制する構造だった。本丸から城下へと至る登城路はこの東ノ丸と二ノ丸の
間を通る形となり、それを塞ぐ位置に豪壮な櫓門形式の大手門が置かれた。また、大手門に対し横矢を掛ける
脇櫓(写真)は、今や仙台城の象徴的存在として良く知られている。その大手口の先、広瀬川の河畔までは
外郭として家臣団屋敷が建ち並んでいた。広瀬川を渡った先は城下町。この橋の両端にも、警護の番所が
置かれていた。こうして仙台城の縄張が確定したのである。二ノ丸造営工事は1639年(寛永16年)6月に完了
したとされている。東ノ丸は後に三ノ丸と改称され、内部に仙台藩の米蔵が並べられていた。泰平の時代になり
山上の本丸は不便な為に二ノ丸が仙台藩政の中枢になっていく。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
二ノ丸御殿への入口は瓦葺で棟端に鯱を載せた詰門と呼ばれる門で、内側には玄関・遠侍・小広間・能舞台・
御座の間などの主要殿舎が建ち並んでいた。特に、対面等の儀式の場である小広間は総面積が145坪あり、
本丸大広間の約3分の2の広さを有す。こうした公的儀礼の設備だった二ノ丸御殿群に対し、二ノ丸北西部には
中奥と言う城主の私的建物群があり、藩主の日常生活の場として機能した。■■■■■■■■■■■■■
ところが1646年(正保3年)に地震が発生し、石垣に被害を受けた上に櫓3基が倒壊した。これに先立つ1616年
(元和2年)にも同様の地震被害を受け石垣の第U期工事が行われていたのであるが、1668年(寛永8年)にも
地震で石垣が破損した為、再び石垣構築を主眼とする改修工事が行われた。この時作られた石垣は第V期と
呼ばれ、第T期(政宗の築城期)は野面積み、第U期が打込み接ぎだったのに対し、第V期石垣は横目地の
通った切込み接ぎ布積みで組まれており、非常に美しい景観を有するに至った。だがしかし仙台城はこの後も
度重なる地震被害に悩まされ続けた。それは後述する東日本大震災まで、つまりは現代まで繋がる仙台城の
宿命となったのである。また、1804年(文化元年)には落雷によって二ノ丸が全焼。これは1809年(文化6年)に
再建を完了している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

城主・伊達氏の系譜■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この仙台城を舞台に、伊達家は14代に渡り家督を継承。2代藩主・忠宗の後、3代・左近衛権少将綱宗―4代・
陸奥守綱村(つなむら)―5代・左近衛権中将吉村(よしむら)―6代・左近衛権中将宗村(むねむら)―7代・
左近衛権中将重村(しげむら)―8代・左近衛権少将斉村(なりむら)―9代・周宗(ちかむね)―10代・左近衛
権少将斉宗(なりむね)―11代・陸奥守斉義(なりよし)―12代・左近衛権中将斉邦(なりくに)―13代・左近衛
権中将慶邦(よしくに)―14代・宗基(むねもと)の順である。宗基は伊達宗家の家督としては30代当主に当たる
人物。このうち、4代・綱村の家督相続に於いては有名な“伊達騒動(寛文事件)”が発生。5代・吉村は“伊達家
中興の祖”と呼ばれる英明の君主であった。また、6代・宗村は江戸城中で1747年(延享4年)8月15日に起きた
刃傷事件で熊本藩主・細川越中守宗孝(むねたか)が殺害された際、その死を上手く秘匿し、細川家の御家
断絶を回避させた機知の人として知られる。一方で、伊達家の相続は殆どが実子がない(或いは問題により
それが出来ない)為に養子を取る事が多く、特に周宗は幼児で家督継承、将軍とのお目見えも無いまま死去
(故に官位も無い)するなど、順風満帆なものではなかった。幕末には奥羽越列藩同盟の盟主として新政府と
対立した事もあり、慶邦は懲罰的に隠居させられて宗基へと家督相続、この時に仙台藩は28万石へと減封
(実高は10万石程度という非常に厳しい待遇)されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

明治以降の苦難■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1868年(明治元年)仙台藩が新政府に降伏、1869年(明治2年)仙台城二ノ丸御殿は勤政庁とされたが、1871年
(明治4年)7月14日の廃藩置県で仙台県が成立。この為、勤政庁が改められ仙台県庁となるも同年11月2日の
第1次府県統合直後に陸軍東北鎮台が仙台城二ノ丸へ入営する事となり、県庁機能は移される事とされた。
それにより同月8日から仙台城は兵部省の所管となり、県庁は旧仙台藩校である養賢堂(ようけんどう)跡地
(現在の宮城県議会議事堂敷地)へ移転させられる。城には陸軍が入渠、兵営設営のため本丸が開削された上
城郭建築の石材や木材が転用されている。この後、東北鎮台は仙台鎮台へと改称、さらに陸軍第2師団へと
改組されていくが、廃藩や軍施設設置に伴って次々と城の古建築は破却されていき、二ノ丸内に残されていた
建物も1882年(明治15年)9月7日の失火によって殆どが焼失してしまった。西南戦争の戦没者招魂祭にて打ち
上げた花火から引火した火災であった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1904年(明治37年)本丸跡地に招魂社(現在の宮城県護国神社)が建てられた。1920年(大正9年)には大手
登城路の中腹にある中門が取壊され、古材を転用し宮城県知事公館の正門とされている。1925年(大正14年)
仙台市が陸軍から城跡敷地の一部を借り受け青葉山公園を開園してござる。■■■■■■■■■■■■■
1931年(昭和6年)12月14日、大手門と脇櫓が国宝(旧国宝)に指定される事に。このうち、大手門は名護屋城
(佐賀県唐津市)大手門を移したものと伝わり、菊花紋・桐花紋の飾り金具で装飾された桃山文化を代表する
建築物である。二階部分は華頭窓を設け、華麗かつ優雅さを醸し出していた。国宝指定の理由では「秀吉の
肥前名護屋の陣屋に設けた門にして、後に政宗の所有に帰し、二ノ丸造営に方(あた)り、忠宗が此の処に
移し建てた」とされている。だが、近年ではこの説に疑義が唱えられ、政宗(或いは忠宗)が名護屋城大手門を
「写した(真似た)」のが「移した(移築した)」と誤伝したのではないかと考える向きもある。ともあれ、この門が
桃山様式の豪華な外観を誇った事は間違いない。なお、1890年(明治23年)に大修理が行われ、窓の突き上げ
戸を新設する等の改修を施されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
脇櫓は2重2階、本瓦葺で、L字形の敷地平面を有していた。大手門の脇を固め、忠宗が二ノ丸を造成した際に
建てられたものと推測される。城跡全域が近代化する中、ここ大手門周辺だけは江戸時代と同じ景観を維持
していたのだった。ところが太平洋戦争終盤の1945年(昭和20年)7月10日、米軍の空襲により大手門と脇櫓は
全焼。この為、国宝指定は解除されたのである。その他、残存していた古建築も軒並みこの日の空襲で焼失
したと言う。終戦後、二ノ丸跡地(陸軍用地)は進駐軍に接収された。米軍のトラックが通過できるようにする為
三ノ丸巽門も破却され(空襲で焼失したと言う説も)、江戸時代から残る古建築は大手門に隣接した土塀だけと
なった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし日本の主権回復後、1953年(昭和28年)都市公園として青葉山公園が開園し、1957年(昭和32年)には
米軍から二ノ丸の跡地が返還された。この敷地は東北大学のキャンパスとして利用される(後に移転)など、
徐々に戦後復興と関連し仙台城跡の再整備が行われるようになっていく。1967年(昭和42年)12月、復元された
大手脇櫓が竣工。1977年(昭和52年)中門石垣修復工事が行われ、1997年(平成9年)からは本丸北壁石垣の
修復工事に伴う発掘調査が開始された。そして2003年(平成15年)8月27日に国の史跡と指定され、翌2004年
(平成16年)本丸北壁石垣修復工事が完成する。宮城県を代表する城郭として、2006年(平成18年)4月6日には
財団法人日本城郭協会による日本百名城にも選定されてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■

東日本大震災を乗り越えて■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうした経緯を経た中、2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震、即ち東日本大震災は
仙台城にも数々の被害をもたらした。再建の脇櫓は壁面にヒビを生じた上、庇屋根が崩落。現存遺構である
土塀も部分的に破壊され、石垣も各所にて崩壊している。江戸時代を通じて何度となく地震の被災を受けた上、
近世以降においても1964年(昭和39年)6月16日の新潟地震をはじめ、1978年(昭和53年)6月12日の宮城県沖
地震などで石垣被害を出していた仙台城址は、今次の大震災によりまたもや崩落被害を発生させたのだった。
しかし平成に入ってから各種修繕工事が行われ、安定した石垣構造を取り戻た部分に於いては大きな被害は
出しておらず、幸いにして城址全域が崩壊するような大規模被災は免れた。それでも復旧工事には4年の歳月が
かかり、2015年(平成27年)にようやく石垣の積み直し工事が完了。同年、本丸跡地では御殿大広間跡の平面
展示整備も為されている。ちなみに、平成以降の修繕工事や東日本大震災からの復旧作業にて石垣の知見が
深まった功績もある。それに拠ると仙台城址での石垣造営は上記の通り大きく3期に分けられ、最新の第V期
石垣(切込み接ぎ)の内部に、旧来の第T期(野面積み)や第U期(打込み接ぎ)の石垣が埋没していたのが
発見された。つまり地震で被害を受けた石垣の上へ被せるように新たな石垣で埋めていったのだが、これは
政宗の築城当初における城郭が、後年の整備に伴って拡張されていた事になる。のみならず石垣内部からは
旧来の千代城遺構たる土塁や虎口の痕跡なども検出。これで千代城が仙台城へと発展した伝承が正しいと
確認できた訳である。ただ、震災復興の後も仙台は度々大きな地震に見舞われ、城の石垣はその都度被害を
受けている。復旧工事はその度に行われているが、不運としか言いようが無い。■■■■■■■■■■■■■
なおかつ、こうして真実が明らかになった分、それによって新たな問題も発生した。仙台城では政宗期3重櫓の
一つ、艮(うしとら)櫓を再建してかつての威容を復活させようと計画していたのであるが、発掘によって艮櫓が
建てられていた位置が現状の石垣とは一致しない場所だと判明したのだ。通常、城の櫓と云うものは石垣の
縁部に建てられるべきものだが、政宗期の艮櫓は後の石垣拡張により、現在となっては本丸敷地の内部に
存在していた事になってしまった。ここに櫓を建てても中途半端なものでしかない。かと言って、現状の石垣
隅部に建てたところで史実に忠実な再建にはならない。再建をどうすべきか様々な考慮が為された後、この
計画は城址が国史跡となった2003年に中止された。本丸3重櫓が再建されれば、天守の無かった仙台城に
おいてさぞかし壮観なものになったであろうが、さりとて史実に違う建築の造営は国史跡として許可される筈も
無く、また近年の城郭整備事業として禍根を残す事になった訳で、この英断は正しかったと言えよう。しかし
そうなると仙台城址において城郭らしい風情を醸し出す建造物は、1967年に再建された大手門の脇櫓くらいの
ものである。だが“脇櫓”に対する主役である筈の大手門は未だに再建されず、つくづく戦災で失われた事が
悔やまれるものである。恐らく、桃山風の意匠に飾られた大手門が現存していたならば戦後の文化財保護法に
おける国宝(新国宝)に指定されたであろうし、そうなると世界遺産になった姫路城(兵庫県姫路市)や二条城
(京都府京都市)でさえ有しない国宝城門を仙台城が維持した…と言う事になっていただろう。■■■■■■
その一方、僅かながら移築城門が市内各所に残存するのが仙台城の救いではある。先述のように、中門の
古材を転用して宮城県知事公館の正門が建てられており、これは1971年(昭和46年)11月9日に宮城県有形
文化財と指定されている他、二ノ丸勘定所板倉も現存、これも1978年5月2日に宮城県の有形文化財とされた。
加えて、本丸御殿に用いられていた飾り金具や、本丸・二ノ丸御殿の障壁画が数点現存する。これらは1985年
(昭和60年)9月4日、仙台市指定文化財とされ仙台市博物館に収蔵。なお、本丸搦手の辰ノ口門が市内泉区
曹洞宗大桂山満興寺山門として移築されていたが、数度の補修や茅葺から瓦葺への変更を経た後、2011年に
老朽化で解体され申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
最後に仙台城を讃える壮大な話を一つ。伊達政宗が家臣の支倉六右衛門常長をヨーロッパに派遣し、徳川
幕府とは異なる外交を密かに企んだ事は有名であろうが、それに先立ち仙台城へはスペインの探検家である
セバスティアン=ビスカイノが1611年(慶長16年)11月に来訪していた。2代将軍・徳川秀忠とは江戸城で、大御所
家康とは駿府城(静岡県静岡市)で会見していた彼をして、政宗の仙台城は「城は日本の最も勝れ、最も堅固なる
*ものの一にして、水深き川に囲まれ断崖百身長を越えたる厳山に築かれ、入口は唯一つにして、大きさ江戸と
*同じくして、家屋の構造は之に勝りたる町を見下し、また2レグワ(約8〜10km程度)を距てて数レグワの海岸を
*望むべし」と評した。すなわち、江戸城や駿府城にも劣らない堅固で稀有壮大な名城と讃えたのだ。当時この
3城を見比べる事が出来た者は政宗以外に彼しかおらず、またその評価に偽りはなかったであろうから、往時の
仙台城が如何に巨大な城郭都市を形成していたかが文献上で証明されるのでござる。■■■■■■■■■■



現存する遺構

土塀・堀・石垣・土塁・郭群
城域内は国指定史跡

移築された遺構として
知事公館門(中門古材を転用)・二ノ丸勘定所板倉《以上県指定文化財》
本丸御殿飾り金具・本丸および二ノ丸御殿障壁画《以上市指定文化財》







陸前国 若林城

若林城址碑

 所在地:宮城県仙台市若林区古城

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

★★■■■
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政宗の「隠居城」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一般的に「政宗の隠居城」として知られる平城。仙台市「若林区」の区名はこの城から採られているとの事だ。
遡れば当地域には古墳時代の南小泉遺跡集落があり、大型の前方後円墳である遠見塚古墳や、小型の
若林城内古墳(これはまさしく若林城内に位置している)という円墳が存在していた事が確認されている。
この集落は平安期まで継続して存在し、戦国時代には国分氏が小泉城を築いていた。但し、小泉一帯に
城館が複数存在していたと云われ、小泉城の実態がどうだったのかは不明。天文年間(1532年〜1555年)
「結城七郎」なる者が居住していたとされるが、これを国分宗政と比定する向きもある。その後は国分盛氏が
居城としたとか、或いは山城の千代城から平地に移った国分盛重の新城だったとか、諸説紛々。小泉城を、
結城七郎の城とは別の城(国分家臣である堀江家の城館)だとする説もある。いずれにせよ、政宗が仙台城を
構える頃には国分氏は国を棄てており、小泉城も廃城であっただろう。■■■■■■■■■■■■■■
さて、伊達家が関ヶ原合戦後の新たな時代に新たな本拠として仙台城を築いたのは上記の通りであるが、結局
徳川幕府による全国支配は盤石であって、大坂夏の陣が終了した後に天下が争乱するような事は無かった。
そうなると険しい山上にある仙台城(当時は本丸部分で生活)は日常の使用に不便でしかない訳で、1625年
(寛永2年)政宗は小泉城の故地を訪れ、以後しばしばここに逗留するようになっていく。ちなみに、この年に
嫡男の忠宗が初めて仙台に国入りしているので、政宗としては仙台城の移譲を見据えて隠居地の選定を
模索していたのかもしれない。斯くして1627年、幕府に「屋敷」の造営を申請。幕府はこれを審議した上で
2月23日に老中の土井利勝・酒井忠勝・井上正就・永井尚政の連署で許可を与えた。この時「屋敷」と云う
名目ではあったが、その絵図面は城構えそのものであり、幕府側も「心のままに普請あるべし」と返答した為
事実上の新城築城が許可された事になる。当時既に幕府からは一国一城令(大名居城以外の城は禁止)が
出されていたものの、政宗の新城は特例として認められ、なおかつ仙台藩領内には「要害」の名目で多数の
支城が築かれていたのだから、幕府は伊達家に対して余程気を遣っていた様子が築城から垣間見えよう。
なおこの経緯から当城の正式名称としては「仙台屋敷構」とすべきなのだが、一般的に「若林城」と呼ばれる
ようになっている。よって、以下の説明も若林城で統一する。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
幕府の許可直後から築城工事が開始され、同年5月27日付の覚書に普請の概略が指示されている。政宗の
重臣・石母田清三郎宗頼(いしもだむねより)へ築城や城下普請の仔細が命じられ、若林町奉行の職も設置。
伊達家の家臣には仙台城とは別に、若林城下にも屋敷が割り当てられている。1628年5月10日、普請中の
若林城において北の土塁が大雨被害で破損し、同月20日に萱を敷き詰めて再構築するよう政宗自身から
細かい指示が出される一件もあったが、概ね順調に工事は進んでいき11月16日に政宗が入居、祝の儀が
催されたとある。翌1629年(寛永6年)には西曲輪において茶会が催された記録もあり、政宗は仙台城を息子・
忠宗に譲り、国元在住時にはこの若林城を居城に切り替えたのだった。史実上、政宗は死ぬまで隠居はして
いないのだが、実質的に藩政中枢である仙台城を忠宗の居城とし、没するまで若林城が政宗の居館となった
事から「隠居城」だと捉えられるようになった訳である。若林城の周囲にも城下町が発展し、後世には仙台
城下町とも一体になる程に拡大していく。これは現在における仙台市街の町割りにも踏襲されているのだが
地図を良く見ると、青葉区(仙台城下町)の街路が南から北西方面へ延びているのに対し、仙台駅を境として
若林区や宮城野区(若林城下町)の道は北東方面を指している。このズレが、仙台城を基軸とする街路と
若林城から延びる道の差異であり、実は仙台の町が2つの城下町を合体させたものだという証左である。
政宗が「隠居していない」と言うのならば、若林城は「仙台副都心」として築かれたとも考えられよう。■■■■
なお、若林城の構築時に仙台城と街線を統一しなかったのは、旧来の小泉城の影響があった為らしい。

伝統ある単郭方形館と見えて■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城の縄張りは基本的に単郭方形館の様相を成しているが、四隅や虎口周辺には横矢を掛ける張出部がある。
敷地の大きさは東西420m×南北350m、その周囲を高さ5mほどの土塁が巡って、更に幅25m程度の水濠が
取り囲んでいた。曲輪内部の敷地は東西250m×南北200mと大きくて、仙台城の本丸や二ノ丸と比べても
遜色がない。大手は西に開いて、また北と東にも出入口を有したが、それぞれに食い違いの土塁で塞いだ
枡形虎口として防御性能を高めている。虎口の無い南面には出隅を設けて侵入者を監視・撃退する構造。
それでいて方形館は伝統ある守護館の形式を踏襲してもあり、戦国末期の激烈な攻防を勝ち残りつつも
本姓が藤原姓である“名族の”伊達政宗に相応しい威儀を整えた平城であろう。若林城の古絵図などは
残っていないが、文献では「若林普請覚(わかばやしふしんおぼえ)」に山里(庭園曲輪)や南之丸、的場と
言った敷地区画の指示があるため、政宗は城内を機能的に区分けし、庭園も造成したと考えられる。若林
城内には政宗が朝鮮出兵時に現地から持ち帰った臥龍梅(がりゅうばい)とも朝鮮梅(ちょうせんうめ)とも
呼ばれる梅の銘木が植えられたと言い、この古木は現在も城址に生きており1942年(昭和17年)9月19日、
国の天然記念物に指定されている。発掘調査の結果から推定するに、曲輪の南側や東側は庭園のような
広い空間が空けられ、回遊式の池泉などが存在したと考えられている一方で、御殿群は西側を中心として
広範囲に建てられ、それら建造物の合間にも中庭が構えられていたようでござる。このような殿舎の雨水
対策や池泉の維持管理に用いる石組の水路も張り巡らされていた。■■■■■■■■■■■■■■■■■
1636年4月20日、政宗は若林城を発ち江戸へ参勤。既に死期を悟っていた彼は、自身の死後に若林城を
「館の西南に杉を植え、城の周りの堀一重を残してその他は田畑とせよ」と遺命。果たして政宗は5月24日
参勤先の江戸で病没、遺言通り若林城は破却された。また、この年の12月1日に若林御帳蔵が火事で焼失、
領内の検地帳などが滅失した事件もある。但し、この御帳蔵がどこにあったものなのか、城内か城外かを
含めて不明。若林城内にあった建造物は、忠宗の家督襲職および仙台城改修に伴って仙台城二ノ丸へと
移された。また、伊達家重臣である茂庭(もにわ)家の仙台屋敷に門が移築されたとか、仙台城下の有力
町人・泉屋庄衛門の屋敷が若林城黒書院の移築、政宗廟所である瑞鳳殿の御供所が若林城の書院を移した
もの、仙台城下にあった曹洞宗五鋒山松音寺(しょうおんじ)山門が若林城の遺構だと伝えられており申す。
以後、若林城址と城下一帯は小泉村の領分と扱われたが、それでも曲輪敷地内は伊達家の公的施設が
置かれていたようで、忠宗の別荘である「御仮屋」が造営されたり、藩の薬草園が設けられた。ここには
仙台藩の焔硝蔵(火薬庫)も置かれている。もともと、仙台藩の焔硝蔵は仙台城下の琵琶首にあったのだが
1673年(延宝元年)5月15日の爆発事故により、ここへ移転したのだ。だがしかし、若林の焔硝蔵も1687年
(貞享4年)10月30日に大爆発を起こし、人足8名が死亡。鉄砲火薬1600貫が消し飛んだと言う。血生臭い話
だけでなく、1692年(元禄5年)には伊達綱宗が「御仮屋」を改めた別荘「小泉屋敷」を造営してもいる。
1741年(寛保元年)5月、仙台藩は若林城の遺構である堀の修繕を行ったが、幕府に対しては「下屋敷」の
修理として届け出ている。既に廃城とされ、そもそも“屋敷地”であった場所の修復に幕府の許可は不要な
筈なのだが、それでも後難を防ぐ根回しを怠らなかったのは流石と言うべきか。この修理は同年11月9日まで
かかり、これ以後は若林城を小泉村から仙台城下飛地の扱いに変更される。堀の修復は1856年(安政3年)にも
行われたと言うが、廃城以後の水濠が農業用水として使われ、貯水管理は城が無くなってもなお重要だった
為であろう。尤も、若林城では土塁も残存しており、廃城と言えども危急の際には再び仙台城の出城として
再利用する可能性を維持する意味もあっただろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

現代における“難攻不落の実用城郭”…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
江戸期全般を通じて若林城跡は古城・御仮屋・小泉屋敷・小泉古城・若林館・若林屋敷・若林薬園など様々な
呼び方がされていた。ところが明治維新後、その姿は一変してしまう。伊達家の私有地として桑畑になっていた
城跡が西南戦争後の1878年(明治11年)に警視庁が5800円で買い上げられ、西南戦争国事犯を収容する
監獄の建設が行われたのだ。翌1879年(明治12年)宮城集治監が開設され、この後1903年(明治36年)に
宮城監獄、1922年(大正11年)宮城刑務所と改称され現在に至っている。刑務所設置に伴い、土塁上には
木柵が設置され、1886年(明治19年)には煉瓦塀に増強されたが、更にコンクリート塀へと改修されている。
コンクリート化の際、基礎工事によって土塁上面が削られ申した。敵兵を防ぐ城郭の構えは、逆に言えば
城内を封じ込め密閉する事も出来る訳で、若林城は今なお難攻不落な「現役の城」として存在しているので
ある。当然、一般開放されている筈も無いため城内の見学は(特例を除き)不可能。現代に於いてもまだ
“侵入者を遮断する実戦城郭”の機能を残すのは、皇居となった江戸城と、この若林城くらいのものであろう。
宮城刑務所の航空写真を見ると、見事なまでに若林城の土塁を残しているのが良く分かる。また、堀の名残で
ある水路も周囲を巡っている。城内に入れないとは言え、この土塁を外周から眺めるだけでも見応えはある。
一方で若林城址においては1984年(昭和59年)以降、数次に及ぶ発掘調査も行われている。同年の第1次
調査では釘のような物が1本出土したのみ、1985年の第2次調査では円墳の痕跡と平安時代の竪穴式住居痕、
それに年代不明の瓦・焼物破片を出したのみだったが、1999年(平成11年)の第3次調査で城域が確定、江戸
時代の木製品が発見された。この他、縄文土器や土師器・須恵器・瓦が出土し、平安時代の溝跡と穴も検出
されている。そして2004年、宮城刑務所の建築物建替えに伴って大規模な発掘調査が行われ、劇的な進歩が
あった。この第4次調査で政宗時代の礎石建物跡(礎石そのものは撤去されて失われていた)や土坑、ピットを
発見。瓦や土師器、鉄製品も出土している。翌2005年(平成17年)の第5次調査でも4つの礎石建物跡や塀・
石敷・石組水路の跡が出ており、2006年の第6次・第7次調査では池泉や渡り廊下を確認。2007年(平成19年)
第8次調査に於いては第5次調査で全貌を確認できずにいた礎石建物跡の残存部分を発掘していった。こうした
調査の結果、少なくとも4棟の大規模礎石建物が存在していた事が確実で、その周囲には雨水溝となる石組
水路や石敷通路が張り巡らされていたようだ。瓦が出土していた事から、これら礎石建物は瓦葺で、廃城時
池泉に瓦を投げ捨てて埋め立てたとも考えられる。また、陶器や土師器が検出されており、城内でどのような
生活が営まれていたかも想像できよう。2008年(平成20年)には第9次、2010年(平成22年)第10次…と続き、
2013年(平成25年)の第13次調査では若林城造営以前(小泉城期?)の堀跡などが発見されるに至っている。
礎石建物跡も続々と確認されて、なお新発見も期待できそうだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
初期に検出された4棟の礎石建物のうち、1号建物と呼称される特に大きな建物は東西23m以上もあり、全容は
掴めていない。南北は15.8m、東西方向に長い建物で、西端中央部に幅3mの妻入玄関を開く。発掘面積内だけで
礎石跡が31ヶ所あった。次いで2号建物はL字形(鉤型)に曲がる建物で、東西22m程度×南北16.8mの規模。
南と西に幅1間半の廊下が回され、その南縁廊下が西に繋がる3号建物と接続している。礎石は発掘面積内で
54ヶ所、柱を置く間隔や位置から推測すると座敷を有する御殿形式の建物だったと考えられている。3号建物は
南北に長く東西10m×南北21.8m、全周に回縁があり2号建物同様に座敷部を有す。礎石跡は47ヶ所を確認
している。4号建物は、北の1号建物と南の2号建物の間に挟まれた比較的小型の建物で、東西5.9m×南北
3.9mであった。若林城から仙台城の二ノ丸へ移築されたと伝わる建物は御納戸・御用間・算用屋・茶道部屋・
小姓間・御鑓間・御鷹部屋・虎間・上台所・大台所・肴部屋・焼火間(たきびのま)・御風呂屋を数えるが、このうち
1号建物はその規模や形状から大台所、3号建物が焼火間だったと推定されている。なお、1号建物は政宗が
松島に造営した臨済宗松島青龍山瑞巌寺の庫裡(くり、台所の事)ともほぼ同様の構造な事からも大台所で
あると確認できよう。大台所・焼火間ともに仙台城二ノ丸御殿を構成する重要な建物でござった。■■■■
ちなみに、移築と伝わる松音寺の山門は現存し、1995年(平成7年)9月5日に仙台市の登録文化財となる。この
松音寺、1888年(明治21年)に移転して現在の所在地である若林区新寺4丁目に入居している。山門は
若林城から仙台城下へ移り、再び若林の地に戻った訳で、若林の歴史の生き証人と言えよう。■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群
臥龍梅は国指定天然記念物

移築された遺構として
松音寺山門(伝若林城門)《市指定登録有形文化財》







陸前国 茂ヶ崎城

茂ヶ崎城跡 平成19年発掘調査区域の土塁

 所在地:宮城県仙台市太白区茂ヶ崎

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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仙台藩の「隠し城」?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
仙台城のある青葉山から南東へ約2.2km、仙台市野草園のある大年寺山の山頂付近に存在した中世城郭。
(大年寺山は旧名で野出口山と言う)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
名取郡北方33郷の旗頭と呼ばれた粟野氏が初期の居城としていたと伝わる。1342年(興国3年/康永元年)
粟野駿河守重直が足利尊氏から名取郡2000貫を所領として与えられ、翌1343年(興国4年/康永2年)築城。
室町中期の寛正年間(1460年〜1465年)粟野氏5代当主・大膳亮忠重が北目(きため)城(仙台市太白区)へ
居城を移した後も、詰城として用いられていたと考えられる。この後、粟野氏は伊達氏や国分氏との抗争を
繰り返す中でそれらに服属を余儀なくされていき、1591年(天正19年)9代・大膳亮重国は伊達政宗に敗北。
歴史上から姿を消す事になるが、山の東麓にある曹洞宗青竜山宗禅寺には粟野大膳供養塔が建つ。■■
この後、茂ヶ崎の地は政宗が仙台城を築城する際の候補地ともなり、後に彼の廟所となった瑞鳳殿のある
経ヶ峰山から繋がる山である事から、野出口山に“鹿除けの土手”という名目で長塁が築かれた。そもそも
野出口山は仙台平野の南端を塞ぐ交通の要衝であり、ここが“首都防衛の最前線基地”となり得る場所。
仙台藩では徳川幕府から追討を受けた場合、経ヶ峰を本陣とし前線展開する作戦要綱が考えられていた。
軍事機密である為、仙台城から野出口山へ通じる山道は一般の者を通行禁止にしていたとも言われる。
が、現実的にそのような戦乱は回避され徳川幕藩体制は盤石なものとなる。太平の世を迎え、仙台藩4代
藩主・伊達綱村は当山に鉄牛和尚を招いて1696年(元禄9年)黄檗宗両足山大年寺を開いた。翌1697年
(元禄10年)に本堂が完成、綱村はこの寺を自身の墓所に定めている。仙台伊達家3代(政宗〜綱宗)は
経ヶ峰に豪壮華美な霊屋を構えて廟所としたが、綱宗以降は大年寺が墓所となった。野出口山の名が
大年寺山と改められたのは是が所以でござる。しかし時は移り、明治維新後の廃仏毀釈によって伊達家が
神式に宗祀を改めた事で大年寺は急激に衰退、江戸時代から残るのは1716年(享保元年)建立と伝わる
惣門のみとなった。この惣門も腐食が進んだため1985年と2000年(平成12年)に、加えて東日本大震災の
破損復旧により2012年(平成24年)に修理が行われている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
(大年寺惣門は1985年9月4日、仙台市有形文化財に指定)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

発掘調査をしてみたら…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在、大年寺山にはテレビ塔が3基も建っている。この中で最も西側にある仙台放送・エフエム仙台の
共用塔(通称「仙台スカイキャンドル」)の建つ一帯が茂ヶ崎城の主郭跡と云われ、曲輪の東西それぞれに
空堀の痕跡が残る。故に、一つ隣にあるNHK仙台放送局・東北放送・東日本放送の共同塔との間がこの
空堀によって隔てられており申す。地誌「仙台古城書上」は応永年間(1394年〜1427年)の状況として、
主郭を東西86間×南北61間とし、本丸(主郭)と二ノ丸の間は280間にして山続きの平地と記す。二ノ丸は
東西38間(83間とする写本もある)×南北40間とあった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方で大年寺山の南東側山麓には先述の大年寺惣門があり、そこから一直線の階段で山を登った所に
茂ヶ崎城跡の史跡標柱が立つ。その周辺には写真にある土塁状の遺構が見受けられ、階段の中腹には
「千人溜」と称する平場もあり一見するとこれが最も城らしい痕跡を醸し出している。故にその辺りを中心とし
2006年と2007年〜2008年に仙台市が発掘調査を行った。ところが結果として出土したのは17世紀の大甕
(甕棺?)や、その副葬品と考えられる寛永通宝(江戸時代の銭貨)、屋根瓦の破片などでござった。この
瓦には伊達家の紋である三ツ引両や牡丹紋、鴛鴦丸紋様(それに三ツ葉葵紋も!)が入っていた。即ち、
これは城郭遺構としての遺物ではなく、その後に造営された大年寺の遺物と言う事であろう。大年寺はこの
階段を上がった突き当り一帯に建てられており、発掘調査ではその時代の物証が得られたと考えられる。
さりとて、茂ヶ崎城の二ノ丸がこの辺りにあった(大年寺造営でその痕跡がかき消された)可能性もあり、
なお検証の余地は残されている。ただ、写真の土塁は恐らく大年寺の境内を囲繞するもので、茂ヶ崎城
時代の物ではないだろう。城郭愛好家からすると一寸残念な結果ではあるが、江戸時代末期に描かれた
地図「安政補正改革仙府絵図」と照合するとこの土塁や現在の道路・階段などが当時の絵図にピタリと
一致するので、これはこれで面白い(笑)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群




盛岡(不来方)城  多賀城