広瀬川流れる岸辺 瀬音ゆかしき杜の都■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
独眼竜こと伊達藤次郎政宗が築城、別名は言わずと知れた青葉城である。関ヶ原合戦後、伊達氏62万5000石の
新府として拓かれた城であるが、これは旧来「川内」或いは「千代」(読みは共に「せんだい」)と表記していた
ものを、吉祥縁起を担いで「仙人の守護する台地=仙台」と改めたものである。2001年(平成13年)は“仙台”開府
400周年に当る年であったが、それ以前からここには「千代城」が存在した事になる。■■■■■■■■■■■
ではその千代城についてだが、来歴は詳らかではない。源頼朝による奥州征伐の折、千葉五郎左衛門尉胤通が
その戦功として陸奥国宮城郡国分(こくぶん)荘の地頭となり青葉山に城を築いたと言うのが伝承での初出であり
この胤通(胤道とも)なる人物は下総国(現在の千葉県北部)の名族・千葉氏の一員で、国分荘を領した事で
姓を「国分」に改めたとされる。しかし、下総での本拠が葛飾郡国分郷(現在の千葉県市川市国分)であったため
陸奥での所領以前から国分氏を名乗っていたともされ、詳しい事はよく分からない。更には、彼の出自は坂東
八屋形の流れを汲む長沼氏(藤原北家秀郷流)であったとする説もある上に、鎌倉時代後期以降は島津氏が
千代に入ったとも言われており、国分氏の系譜がどのように繋がるものなのかは不明としか言いようがない。■
なお国分氏の入封時、近隣に千躰仏が祀られており「千体」とされていた地名が、いつの間にか「千代」へと
変わっていったと伝わる。ともあれ、鎌倉〜室町〜戦国時代において彼の地は国分氏が統治する地だった。■
国分氏は現在の仙台市域を中心として独立を保つ国人領主ではあったが、次第に米沢(山形県米沢市)の
伊達氏が勢力を拡大、領土を接するようになる。伊達氏と国分氏は数度に渡り干戈を交え、徐々に国分氏が
服属するよう変化、遂に伊達左京大夫輝宗(時の伊達氏当主)の弟・伊達彦九郎政重が国分家の養子に入る。
政重の縁組には国分家中でも反対論が多く順風満帆とは言えなかったのだが、紆余曲折の結果それが成り
国分三河守盛重(もりしげ)を名乗るようになった。されど盛重は当主としての器量に欠け、家中はなかなか
治まらない。輝宗の跡を継いだ政宗は彼の不手際を責め、対する盛重も甥である政宗とは馬が合わなかった
らしく、遂には所領を棄てて出奔してしまった。元々、盛重の頃には千代城は用いられておらず、荒廃の極みに
あったようで国分家の滅亡と共に一旦廃城となったのだった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
千代城の廃城から程なく、関ヶ原合戦が勃発する。当時、豊臣政権の意向により岩出山城(宮城県大崎市)を
居城とし、石高58万石とされていた伊達政宗は所領拡大を目論んで東軍の徳川家康方に与した。家康もまた、
奥羽の押さえとして政宗を厚遇し、勝利の暁には伊達家を100万石へと加増する約束状を発給する。こうして
家康は美濃国不破郡関ヶ原で石田治部少輔三成率いる西軍に大勝、政宗も東北にて西軍へ味方した上杉氏を
封じ込める活躍を見せた。ところが政宗は家康に内密で南部氏の所領をも侵犯する企みを謀り、更なる領土
拡大を画策。これが露見した為、家康から“百万石のお墨付き”を反故にされ、僅かに4万石の加増を受けるのみと
なってしまい申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
伊達の家名は「千の代」で終わらず、万の代でもなお続く■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
新時代の到来に合わせ、政宗は新府の開拓を企図して新城を築城する事を決意する。家康の許しを得て選んだ
候補地は、旧千代城の跡地であった。政宗がここを選地した理由としては、もしも“百万石のお墨付き”通りに
加増された場合にはこの辺りが領国の中心地となる推測があったとも言われるが、山間部の岩出山城よりも
近世城郭として必須である城下町を拓くのに必要な平野部へ面していた一方、未だ豊臣家の威勢が残る中で
徳川新政権との対立関係が悪化した場合は再びの戦乱が起こる可能性を危惧(政宗の場合は期待?)して
それに備えた堅固な城を必要としたからだった。それでいて政宗は家康に新城の構築を事前申請し、後々に
「徳川政権の許諾を得た」とする名分を欠かさなかったのが抜かりない。あわよくば自らが天下を獲ろうという
野望を抱きつつ、或いは豊臣方の挽回もあり得る政治動向の中、当面の権力者となる事が確実な徳川家に
“無断築城”の口実を与えなかった政宗の政治力も、この築城に見え隠れするのである。斯くして政宗は上記の
通り「千代」を「仙台」に改め、1601年(慶長6年)1月から新本拠となる仙台城を築城した。■■■■■■■■
仙台城の特筆すべき点は、慶長期の着工にも関わらず山城である事である。戦乱が終わり太平の世が訪れた
時代では、築城の立地は山城から平城・平山城へと移り、城塞としてよりも政庁として城の存在が重視された。
が、政宗は敢えて急峻な青葉山に城を構えたのである。しかも山上の制約された地形に、壮大な御殿まで建て
「政庁である山城」にしてしまった念の入れよう。その本丸御殿は崖にせり出して、支谷を跨ぐように建築された
「御懸造(おかけづくり)」と呼ばれる特異なもの。京都・清水寺の本堂、所謂“清水の舞台”と同じ構法だったと
言えば想像し易いだろうが、そのような目立つ御殿が建てられていたのである。その一方、この城には天守が
建てられていない。火災などで滅失した訳ではなく当初から建てられなかったのだが、天守に代わって懸造の
御殿から城下の街並みを睥睨したのだから、政宗の“風流ぶり”が感じられる。まさしく“伊達男”の面目躍如と
言った処か。尤も「伊達男」という言葉の語源は政宗ではないらしいが(笑)■■■■■■■■■■■■■■■
「近世山城」の縄張りとその拡大■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、下手に天守を造り幕府から危険人物と睨まれる危機を回避しつつ(これも政宗一流の政治力だろう)
御殿で代役を果たす“実を採る”築城をした仙台城。その縄張は前衛に広瀬川を天然の濠とし、背後は龍ノ口
(たつのくち)渓谷の断崖に守られた要害であり、城塞としては絶好の立地であるが、ここまでして巨城を造る
政宗の執念恐るべし!青葉山頂の標高は124m、その一帯は鬱蒼とした森のままで残されて、山頂の東側を
大規模に啓開して本丸敷地を造成。往時はそこに3重櫓が林立、更には先述の本丸御殿等も軒を連ね、仙台
62万石の首府に相応しい、かつ鉄壁の防備を固める城郭が作られたのである。この敷地は南に龍ノ口渓谷、
東面は城下の平野を望む断崖、北側は急傾斜地、そして西には青葉山の森が囲み、東西245m×南北267mと
いう広大な面積にして四方に睨みを利かせる築城好地であった。最初期の築城は1603年(慶長8年)頃には
一応の完成を見て政宗が入城。されども豪壮華麗な本丸御殿の造営は継続された状態で、大広間の完成は
1610年(慶長15年)頃に完成。この大広間には城主の座所である“上段の間”の更に奥に、それよりも格上の
“上々段の間”が備えられており、一説には政宗が仙台城に京の帝を招く腹づもりであったと言う事は、仙台
こそが武家政権の首都となる思惑があった?即ち、徳川幕府を打倒して天下を獲る計算が…?等々、様々な
憶測を呼ぶ構造となっていたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
政宗は1627年(寛永4年)に隠居城として若林城(仙台市内、下記)の築城を開始し、翌1628年(寛永5年)に
移居。そして1636年(寛永13年)5月24日に江戸屋敷で病没した為、仙台藩の2代藩主つまり新たな仙台城主と
なったのは嫡男の陸奥守忠宗(政宗2男)である。彼は太平の時代に即した仙台城の拡張を計画し、幕府の
許可を得て1638年(寛永15年)から二ノ丸の造営を開始した。これは本丸の北側、傾斜地の麓に広大な政務・
居住用の新敷地を確保し、そこに殿舎を並べたもの。また、青葉山への登り口となる位置に馬出状の東ノ丸も
存在し、二ノ丸や本丸への通行を管制する構造だった。本丸から城下へと至る登城路はこの東ノ丸と二ノ丸の
間を通る形となり、それを塞ぐ位置に豪壮な櫓門形式の大手門が置かれた。また、大手門に対し横矢を掛ける
脇櫓(写真)は、今や仙台城の象徴的存在として良く知られている。その大手口の先、広瀬川の河畔までは
外郭として家臣団屋敷が建ち並んでいた。広瀬川を渡った先は城下町。この橋の両端にも、警護の番所が
置かれていた。こうして仙台城の縄張が確定したのである。二ノ丸造営工事は1639年(寛永16年)6月に完了
したとされている。東ノ丸は後に三ノ丸と改称され、内部に仙台藩の米蔵が並べられていた。泰平の時代になり
山上の本丸は不便な為に二ノ丸が仙台藩政の中枢になっていく。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
二ノ丸御殿への入口は瓦葺で棟端に鯱を載せた詰門と呼ばれる門で、内側には玄関・遠侍・小広間・能舞台・
御座の間などの主要殿舎が建ち並んでいた。特に、対面等の儀式の場である小広間は総面積が145坪あり、
本丸大広間の約3分の2の広さを有す。こうした公的儀礼の設備だった二ノ丸御殿群に対し、二ノ丸北西部には
中奥と言う城主の私的建物群があり、藩主の日常生活の場として機能した。■■■■■■■■■■■■■
ところが1646年(正保3年)に地震が発生し、石垣に被害を受けた上に櫓3基が倒壊した。これに先立つ1616年
(元和2年)にも同様の地震被害を受け石垣の第U期工事が行われていたのであるが、1668年(寛永8年)にも
地震で石垣が破損した為、再び石垣構築を主眼とする改修工事が行われた。この時作られた石垣は第V期と
呼ばれ、第T期(政宗の築城期)は野面積み、第U期が打込み接ぎだったのに対し、第V期石垣は横目地の
通った切込み接ぎ布積みで組まれており、非常に美しい景観を有するに至った。だがしかし仙台城はこの後も
度重なる地震被害に悩まされ続けた。それは後述する東日本大震災まで、つまりは現代まで繋がる仙台城の
宿命となったのである。また、1804年(文化元年)には落雷によって二ノ丸が全焼。これは1809年(文化6年)に
再建を完了している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城主・伊達氏の系譜■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この仙台城を舞台に、伊達家は14代に渡り家督を継承。2代藩主・忠宗の後、3代・左近衛権少将綱宗―4代・
陸奥守綱村(つなむら)―5代・左近衛権中将吉村(よしむら)―6代・左近衛権中将宗村(むねむら)―7代・
左近衛権中将重村(しげむら)―8代・左近衛権少将斉村(なりむら)―9代・周宗(ちかむね)―10代・左近衛
権少将斉宗(なりむね)―11代・陸奥守斉義(なりよし)―12代・左近衛権中将斉邦(なりくに)―13代・左近衛
権中将慶邦(よしくに)―14代・宗基(むねもと)の順である。宗基は伊達宗家の家督としては30代当主に当たる
人物。このうち、4代・綱村の家督相続に於いては有名な“伊達騒動(寛文事件)”が発生。5代・吉村は“伊達家
中興の祖”と呼ばれる英明の君主であった。また、6代・宗村は江戸城中で1747年(延享4年)8月15日に起きた
刃傷事件で熊本藩主・細川越中守宗孝(むねたか)が殺害された際、その死を上手く秘匿し、細川家の御家
断絶を回避させた機知の人として知られる。一方で、伊達家の相続は殆どが実子がない(或いは問題により
それが出来ない)為に養子を取る事が多く、特に周宗は幼児で家督継承、将軍とのお目見えも無いまま死去
(故に官位も無い)するなど、順風満帆なものではなかった。幕末には奥羽越列藩同盟の盟主として新政府と
対立した事もあり、慶邦は懲罰的に隠居させられて宗基へと家督相続、この時に仙台藩は28万石へと減封
(実高は10万石程度という非常に厳しい待遇)されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
明治以降の苦難■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1868年(明治元年)仙台藩が新政府に降伏、1869年(明治2年)仙台城二ノ丸御殿は勤政庁とされたが、1871年
(明治4年)7月14日の廃藩置県で仙台県が成立。この為、勤政庁が改められ仙台県庁となるも同年11月2日の
第1次府県統合直後に陸軍東北鎮台が仙台城二ノ丸へ入営する事となり、県庁機能は移される事とされた。
それにより同月8日から仙台城は兵部省の所管となり、県庁は旧仙台藩校である養賢堂(ようけんどう)跡地
(現在の宮城県議会議事堂敷地)へ移転させられる。城には陸軍が入渠、兵営設営のため本丸が開削された上
城郭建築の石材や木材が転用されている。この後、東北鎮台は仙台鎮台へと改称、さらに陸軍第2師団へと
改組されていくが、廃藩や軍施設設置に伴って次々と城の古建築は破却されていき、二ノ丸内に残されていた
建物も1882年(明治15年)9月7日の失火によって殆どが焼失してしまった。西南戦争の戦没者招魂祭にて打ち
上げた花火から引火した火災であった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1904年(明治37年)本丸跡地に招魂社(現在の宮城県護国神社)が建てられた。1920年(大正9年)には大手
登城路の中腹にある中門が取壊され、古材を転用し宮城県知事公館の正門とされている。1925年(大正14年)
仙台市が陸軍から城跡敷地の一部を借り受け青葉山公園を開園してござる。■■■■■■■■■■■■■
1931年(昭和6年)12月14日、大手門と脇櫓が国宝(旧国宝)に指定される事に。このうち、大手門は名護屋城
(佐賀県唐津市)大手門を移したものと伝わり、菊花紋・桐花紋の飾り金具で装飾された桃山文化を代表する
建築物である。二階部分は華頭窓を設け、華麗かつ優雅さを醸し出していた。国宝指定の理由では「秀吉の
肥前名護屋の陣屋に設けた門にして、後に政宗の所有に帰し、二ノ丸造営に方(あた)り、忠宗が此の処に
移し建てた」とされている。だが、近年ではこの説に疑義が唱えられ、政宗(或いは忠宗)が名護屋城大手門を
「写した(真似た)」のが「移した(移築した)」と誤伝したのではないかと考える向きもある。ともあれ、この門が
桃山様式の豪華な外観を誇った事は間違いない。なお、1890年(明治23年)に大修理が行われ、窓の突き上げ
戸を新設する等の改修を施されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
脇櫓は2重2階、本瓦葺で、L字形の敷地平面を有していた。大手門の脇を固め、忠宗が二ノ丸を造成した際に
建てられたものと推測される。城跡全域が近代化する中、ここ大手門周辺だけは江戸時代と同じ景観を維持
していたのだった。ところが太平洋戦争終盤の1945年(昭和20年)7月10日、米軍の空襲により大手門と脇櫓は
全焼。この為、国宝指定は解除されたのである。その他、残存していた古建築も軒並みこの日の空襲で焼失
したと言う。終戦後、二ノ丸跡地(陸軍用地)は進駐軍に接収された。米軍のトラックが通過できるようにする為
三ノ丸巽門も破却され(空襲で焼失したと言う説も)、江戸時代から残る古建築は大手門に隣接した土塀だけと
なった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし日本の主権回復後、1953年(昭和28年)都市公園として青葉山公園が開園し、1957年(昭和32年)には
米軍から二ノ丸の跡地が返還された。この敷地は東北大学のキャンパスとして利用される(後に移転)など、
徐々に戦後復興と関連し仙台城跡の再整備が行われるようになっていく。1967年(昭和42年)12月、復元された
大手脇櫓が竣工。1977年(昭和52年)中門石垣修復工事が行われ、1997年(平成9年)からは本丸北壁石垣の
修復工事に伴う発掘調査が開始された。そして2003年(平成15年)8月27日に国の史跡と指定され、翌2004年
(平成16年)本丸北壁石垣修復工事が完成する。宮城県を代表する城郭として、2006年(平成18年)4月6日には
財団法人日本城郭協会による日本百名城にも選定されてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
東日本大震災を乗り越えて■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうした経緯を経た中、2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震、即ち東日本大震災は
仙台城にも数々の被害をもたらした。再建の脇櫓は壁面にヒビを生じた上、庇屋根が崩落。現存遺構である
土塀も部分的に破壊され、石垣も各所にて崩壊している。江戸時代を通じて何度となく地震の被災を受けた上、
近世以降においても1964年(昭和39年)6月16日の新潟地震をはじめ、1978年(昭和53年)6月12日の宮城県沖
地震などで石垣被害を出していた仙台城址は、今次の大震災によりまたもや崩落被害を発生させたのだった。
しかし平成に入ってから各種修繕工事が行われ、安定した石垣構造を取り戻た部分に於いては大きな被害は
出しておらず、幸いにして城址全域が崩壊するような大規模被災は免れた。それでも復旧工事には4年の歳月が
かかり、2015年(平成27年)にようやく石垣の積み直し工事が完了。同年、本丸跡地では御殿大広間跡の平面
展示整備も為されている。ちなみに、平成以降の修繕工事や東日本大震災からの復旧作業にて石垣の知見が
深まった功績もある。それに拠ると仙台城址での石垣造営は上記の通り大きく3期に分けられ、最新の第V期
石垣(切込み接ぎ)の内部に、旧来の第T期(野面積み)や第U期(打込み接ぎ)の石垣が埋没していたのが
発見された。つまり地震で被害を受けた石垣の上へ被せるように新たな石垣で埋めていったのだが、これは
政宗の築城当初における城郭が、後年の整備に伴って拡張されていた事になる。のみならず石垣内部からは
旧来の千代城遺構たる土塁や虎口の痕跡なども検出。これで千代城が仙台城へと発展した伝承が正しいと
確認できた訳である。ただ、震災復興の後も仙台は度々大きな地震に見舞われ、城の石垣はその都度被害を
受けている。復旧工事はその度に行われているが、不運としか言いようが無い。■■■■■■■■■■■■■
なおかつ、こうして真実が明らかになった分、それによって新たな問題も発生した。仙台城では政宗期3重櫓の
一つ、艮(うしとら)櫓を再建してかつての威容を復活させようと計画していたのであるが、発掘によって艮櫓が
建てられていた位置が現状の石垣とは一致しない場所だと判明したのだ。通常、城の櫓と云うものは石垣の
縁部に建てられるべきものだが、政宗期の艮櫓は後の石垣拡張により、現在となっては本丸敷地の内部に
存在していた事になってしまった。ここに櫓を建てても中途半端なものでしかない。かと言って、現状の石垣
隅部に建てたところで史実に忠実な再建にはならない。再建をどうすべきか様々な考慮が為された後、この
計画は城址が国史跡となった2003年に中止された。本丸3重櫓が再建されれば、天守の無かった仙台城に
おいてさぞかし壮観なものになったであろうが、さりとて史実に違う建築の造営は国史跡として許可される筈も
無く、また近年の城郭整備事業として禍根を残す事になった訳で、この英断は正しかったと言えよう。しかし
そうなると仙台城址において城郭らしい風情を醸し出す建造物は、1967年に再建された大手門の脇櫓くらいの
ものである。だが“脇櫓”に対する主役である筈の大手門は未だに再建されず、つくづく戦災で失われた事が
悔やまれるものである。恐らく、桃山風の意匠に飾られた大手門が現存していたならば戦後の文化財保護法に
おける国宝(新国宝)に指定されたであろうし、そうなると世界遺産になった姫路城(兵庫県姫路市)や二条城
(京都府京都市)でさえ有しない国宝城門を仙台城が維持した…と言う事になっていただろう。■■■■■■
その一方、僅かながら移築城門が市内各所に残存するのが仙台城の救いではある。先述のように、中門の
古材を転用して宮城県知事公館の正門が建てられており、これは1971年(昭和46年)11月9日に宮城県有形
文化財と指定されている他、二ノ丸勘定所板倉も現存、これも1978年5月2日に宮城県の有形文化財とされた。
加えて、本丸御殿に用いられていた飾り金具や、本丸・二ノ丸御殿の障壁画が数点現存する。これらは1985年
(昭和60年)9月4日、仙台市指定文化財とされ仙台市博物館に収蔵。なお、本丸搦手の辰ノ口門が市内泉区
曹洞宗大桂山満興寺山門として移築されていたが、数度の補修や茅葺から瓦葺への変更を経た後、2011年に
老朽化で解体され申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
最後に仙台城を讃える壮大な話を一つ。伊達政宗が家臣の支倉六右衛門常長をヨーロッパに派遣し、徳川
幕府とは異なる外交を密かに企んだ事は有名であろうが、それに先立ち仙台城へはスペインの探検家である
セバスティアン=ビスカイノが1611年(慶長16年)11月に来訪していた。2代将軍・徳川秀忠とは江戸城で、大御所
家康とは駿府城(静岡県静岡市)で会見していた彼をして、政宗の仙台城は「城は日本の最も勝れ、最も堅固なる
*ものの一にして、水深き川に囲まれ断崖百身長を越えたる厳山に築かれ、入口は唯一つにして、大きさ江戸と
*同じくして、家屋の構造は之に勝りたる町を見下し、また2レグワ(約8〜10km程度)を距てて数レグワの海岸を
*望むべし」と評した。すなわち、江戸城や駿府城にも劣らない堅固で稀有壮大な名城と讃えたのだ。当時この
3城を見比べる事が出来た者は政宗以外に彼しかおらず、またその評価に偽りはなかったであろうから、往時の
仙台城が如何に巨大な城郭都市を形成していたかが文献上で証明されるのでござる。■■■■■■■■■■
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