陸中国 盛岡(不来方)城

盛岡城 本丸・二ノ丸間空堀

 所在地:岩手県盛岡市内丸・本町通・中央通

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★☆
★★★■■



「岩手」「不来方」地名の由来■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「むかしむかし、ここには人里を荒らす悪い鬼が出ておった。困った村の人々は三ッ石の神に祈ったところ、神様は鬼を
 捕まえて、たいそう懲らしめた。改心した鬼は大岩に手形を残し、二度とここには来ない証にして去って行ったそうな」
盛岡地方に残る民話である。三ッ石の神は盛岡市内にある三ツ石神社を指すとされ、鬼が岩に手形を残した由緒が
「岩手」の地名(岩手郡、ひいては現在の岩手県の名)となり、鬼がもう来ない方角という目印が「不来方(こずかた)」
盛岡の地の旧名になったそうだ。現在でも盛岡市の雅称として不来方の単語が用いられるようである。盛岡市街地の
中心を縦断して流れる中津川の畔に「不来方の岡」と呼ばれる小山があり、そこは盛岡御影石、つまり花崗岩によって
出来た岩山。冒頭の昔話にあるように、この地が岩の多い場所である事を体現した岡なのだ。■■■■■■■■■■
この不来方山に関する歴史は、平安後期に清原武則(きよはらのたけのり、前九年の役を平定した陸奥の武将)の甥・
橘太郎頼為なる者が本領とした「逆志方(こじかた、迂志方とも)」の事を指すと考える話が原初だが、信頼性に薄い。
鎌倉時代になると源頼朝の奥州征伐に功があった南部氏が岩手県〜青森県東部一帯に所領を与えられ入渠するが、
その折に南部氏の随臣として入った福士氏が不来方へと封じられた。この福士氏は三上氏・安芸氏・桜庭氏と並んで
「南部四天王」に数えられる南部家臣の重鎮で、遡れば清和源氏義光(よしみつ)流の血筋、即ち南部家と同族という
事になる名門だ。室町時代になって1391年(元中8年/明徳2年)、福士五郎政長が当主の頃に主家である南部家から
築城を命じられ不来方の岡に城を築いたと言う。また、政長は時の将軍・足利義満から不来方領有を認められたとも。
これが盛岡城の源流となる不来方城の始まりで、以後、戦国期まで福士氏が城主を務めた。伊勢守政長は隠居後に
出家し、慶善(けいぜん)と改名した為、不来方城の別名を慶善館(けいぜんだて)とも言う。ただし、後に不来方城が
拡張されてからは慶善館が北側部分のみを指していると理解される為、築城当時の城はまだその部分だけの小城で
あったとも考えられよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1404年(応永11年)南部大膳大夫義政から福士親行・秀行に不来方が任されたとの記録があり(「福士系図」)、1435年
(永享7年)には和賀・稗貫(岩手県南西部)で起きた乱を平定するため南部軍が動いた際、北奥勢2万は当城から出陣
したとされている(文禄年間に成立した私史書「稗貫状」に記載)。更に時代が進み戦国時代になると、不来方の岡には
福士氏の同族衆である日戸(ひのと)内膳や福士淡路、米内右近らも居館を構えた。概ね南北に細長い山が、彼らの
屋敷地で分割されていたらしく、その様子から慶善館の他にも日戸館(ひのとだて)・淡路館(あわじだて)・米内蔵前と
称される居館群が構成された“連合城館”といった状況になった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

「森ヶ岡」そして「盛岡」へ改まり、南部領の新首府に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、福士氏の主君である南部氏は南北朝期に南朝方の有力勢力として活躍し、室町幕府(北朝方)からも所領を安堵
された。強大な軍事力を有した南部家は、戦国時代になると益々勢力を拡大させ「三日月の 丸くなるまで 南部領」と
謳われる程に所領が増大する。しかし南部大膳大夫晴政(はるまさ)とその子・彦三郎晴継(はるつぐ)が没すると家督
問題が勃発、一族である津軽右京大夫為信(つがるためのぶ)や九戸左近将監政実(くのへまさざね)の離反を招いた。
津軽の独立は阻止できなかったが、九戸の反乱は天下人・豊臣秀吉により討伐令が出て、時の南部家当主・大膳大夫
信直(のぶなお)は中央政権から派遣された討伐軍の将である蒲生飛騨守氏郷(がもううじさと)や浅野弾正少弼長政
(あさのながまさ)らと共に鎮圧を行う。この戦いの後、南部家は元来の居城である三戸城(青森県三戸郡三戸町)から
落城させた九戸の城、名を福岡城と改められた九戸城(岩手県二戸市)へ本拠を移す。これは蒲生氏郷が堅城である
九戸城を近世城郭に改修し、東北の大大名である南部氏が用いるのに相応しい規模へと整えた事による。だが一方で、
浅野長政は南北に長い南部領の中で九戸は北に偏っている上、これからの世に必要な城下町を広げる余地が無い為
所領の中心に位置する新たな本拠城郭を構築すべきと提言し、特に不来方の地はそれに適うものと薦めた。その言に
従い、南部信直は1598年(慶長3年)秀吉から築城許可の朱印状を貰い、不来方の新城構築を開始したのだった。■■
福士氏は反乱を起こした九戸一族と縁戚だった事から、1593年(文禄2年)不来方から除かれ秋田へ追放されていた。
その後、南部家に召し返されたが鵜飼(岩手県滝沢市)に禄を与えられたので、不来方に新城を築く障害は無かったの
だが、南部氏は秀吉の朝鮮出兵に従軍したり関ヶ原戦役で戦ったりで築城工事を進める余裕はなく、しかも不来方山の
麓を流れる中津川の氾濫もあったりで、進捗は果々しくなかった。そんな中で信直は病没し、跡を継いだ信濃守利直は
「不来方」という字面が「心悪し」と嫌い、「森ヶ丘」と改める。これが更に「森ヶ岡」の表記に変わり、後に「森岡」「盛岡」へ
変化したのだと言う。「来ず」と言う否定的な語感の地名より、「盛える(栄える)岡」の方が確かに縁起は良さそうだ。
なお、「盛岡」の地名が定着するようになったのは利直の子・大膳大夫重信(しげのぶ)が1691年(元禄4年)連歌の会で
詠んだ「幾春も 花の恵みの 露やこれ 宝の珠の 盛る岡山」と言う歌に由来するという説もある。■■■■■■■■■■
兵学者の内堀四郎兵衛頼式(うちぼりよりしき)を普請奉行として進められた築城工事は、1615年(元和元年)頃に一応
完成し、南部利直が福岡城から居を移したとされる。ただ、城域すべての工事はまだ続き、全容が整ったのは1633年
(寛永10年)の事。築城の企画が動き出してから40年が経っており、信直・利直の代を越え南部藩主は3代目の山城守
重直(しげなお)になってござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかも、追い打ちをかけるように翌1634年(寛永11年)火災が起き本丸が焼失した。落雷に拠るものとも言われ、1636年
(寛永13年)もしくは1633年だとする説もあるが、本丸再建にまた時を費やす事となり、この工事が完了したのは1668年
(寛文8年)になったと言う(再建完了年にも諸説あり)。天守(御三階櫓)に於いては1674年(延宝2年)にようやく再建に
着手し、1676年(延宝4年)に棟上げとなったそうな。この他にも石垣の破損や度々の火災が頻発し、盛岡築城の工事は
いつ果てるとも知れない長期に及ぶようになっていた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

総石垣で築かれた盛岡城の縄張り■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
これだけ壮大な工事が行われた盛岡城であるが、その縄張りは不来方山の全域を総石垣で固め、南北に細長い山を
南から順に本丸・二ノ丸・三ノ丸に分けたもの。何せ元が岩山なのだから石垣の石材は現地調達が出来る訳で、東北
地方では稀な総石垣の城が作成可能だった。山の最高所が本丸なのは言うまでもないが、ちょうど上手い具合に北へ
なだらかな傾斜をしているので、これを堀切で分断し、二ノ丸・三ノ丸の曲輪を造成している。本丸〜三ノ丸は殆んど
一直線に並んでいるので連郭式と言った具合だが、本丸の麓は南側を腰曲輪と吹上馬場、東側を淡路丸、西側は榊山
稲荷曲輪が取り囲んでおり、重層的な防御構造も備えている。また、三ノ丸は東側へと拡張されており、淡路丸と挟み
込んで二ノ丸東側には巨大な閉鎖空間を作り出している。当時はここに台所があったが、戦時には武者溜まりや敵を
誘引し殲滅する大掛かりな枡形状の曲輪となった事だろう。更に、三ノ丸の北側には下曲輪(しもくるわ)が突出。この
曲輪は東に鶴ヶ池、西に亀ヶ池があって三ノ丸の前衛として北の守りを担っていた。城域の南東側には中津川が流れ、
鶴ヶ池や亀ヶ池に繋がっていた他、当時は城の西側にも北上川が大きく蛇行しており、盛岡城は全体を水濠(と川)で
囲まれていた事になる。ただ、川沿いにある事は防御に利点があるだけでなく水害にも晒される事を意味し、盛岡城は
築城中から石垣が流されたり、水没したりする被害も受けている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお、淡路館が盛岡城の本丸・淡路丸に相当し、日戸館が三ノ丸、慶善館は実は外郭部、今では岩手医大附属内丸
メディカルセンターとなっている辺りだったと推測される。そこで発掘が行われた際には慶善館の遺構と見られる掘立柱
建物の痕跡が確認されている。更に、遠曲輪と呼ばれる総構えとなると中津川の対岸にまでも広がっていた。■■■■
城域は各所に櫓や門が建ち並んでいたが、特に正方形をした本丸は四隅に重層櫓があり、北面(二ノ丸と面した側)は
多聞櫓で塞いでいた。南東隅には三重櫓。これは天守に相当し、鯱も揚げ、明治に撮られた古写真では花頭窓で装飾し
華やかな雰囲気を出していた。近世大名となった南部家の“権威”を示すに相応しい建築物…と云うか、統治者としての
徳や、文化的成熟度を表現したもののようにも見える。尤も、古写真は城下側から撮ったものなので、三重櫓が見えると
いう事は、逆に三重櫓から城外を監視できる訳でもある。即ち、軍事的な必要性も満たすものだった。ちなみに、現状の
本丸にある三角点が示す標高は142.9m。中津川の河畔が120m程なので、本丸内との比高差は20m以上、それに櫓の
高さが加わるのだから、城の南を防備する拠点となった事だろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

南部家の統治と盛岡城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
南部家は信直―利直―重直―重信の後、信濃守行信(ゆきのぶ)―備後守信恩(のぶおき)―大膳亮利幹(としもと)―
大膳大夫利視(としみ)―大膳大夫利雄(としかつ)―大膳大夫利正(としまさ)―大膳大夫利敬(としたか)―大膳大夫
利用(としもち)―信濃守利済(としただ)―甲斐守利道(としみち)―美濃守利剛(としひさ)―甲斐守利恭(としゆき)と
続く。城主の住処と言えば御殿だが、盛岡城の御殿は公用部の表(大書院)が二ノ丸にあって、私邸部の中奥・大奥が
本丸にあるという分割構造になっていた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
歴代城主が受け継ぐ中、盛岡城は地震・落雷・風水害・火災・経年劣化など度重なる被災により破損し、その都度修理や
改修を受けている。中でも1704年(元禄17年)1月2日の大地震では甚大な被害を出し、ほぼ全城域での石垣積み直しが
行われた。そのため、現在に残る盛岡城の石垣は時代変遷に応じた様々な様式が確認できる。また、石垣面の前に張り
出して「土留め」ならぬ「石垣留め」となるテラス壇のような「ハバキ石垣」もこれ以後各所に作られた。■■■■■■■■
南部家による領内統治は必ずしも安泰ではなく、家督争いや暗君による苛烈な政治が多く続いた。また、南部利用と言う
人物は実は2人おり、家督相続直後に早世した吉次郎利用に嗣子が居なかった事から、御家断絶をさけるため年の近い
親族の善太郎を替え玉に仕立てあげて“2人目の利用”とした。このように南部家の系譜は艱難辛苦の連続であったが
そんな中、1842年(天保13年)3月20日から、それまで幕府を憚って「御三階」と呼んでいた本丸三重櫓を「御天守」と公称
するようになった(盛岡藩家老日記「覚書」による)。これが盛岡城にとって最後の慶事だったと言えよう。■■■■■■■
幕末の戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加わり、最後まで新政府への抵抗を見せた盛岡藩は維新において領地没収の
危機に瀕したが、家臣団の奔走により減転封とされ、更にそれも減封のみで済まされた。■■■■■■■■■■■■■

武士の時代の終焉で■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
だが、敗北による困窮で政務は滞り、一般の廃藩置県に先立つ1870年(明治3年)7月時点で南部利恭は盛岡知藩事の
職を返上している。盛岡藩領は盛岡県となり、盛岡城二ノ丸に県庁が置かれたものの、1871年(明治4年)に藩主別邸・
広小路御殿(現在の岩手県庁敷地)に移転。そのため城地は兵部省(1872年(明治5年)からは陸軍省)が管轄する事に
なった。所謂「廃城令」では存城の扱いとされたが、東北鎮台は城内各所の建物を維持困難として大半を払い下げる。
1874年(明治7年)3月から入札が始まり、建物や樹木までもが撤去されていく。天守も然り。ただ、部材の一部は城内に
保管されたそうで、後にそれが城下各所の建物に転用された(詳細下記)とか。■■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、こうして城内から建物は消え、後に陸軍も移転した事で城跡は1890年(明治23年)旧主・南部家へと払い下げ
られた。1903年(明治36年)岩手県が公園整備計画を開始、1906年(明治39年)南部家が岩手県知事と土地使用契約を
結び9月15日に岩手公園として一般開放された。この後、1934年(昭和9年)には盛岡市が南部家から旧城地を買収して
公園敷地を拡大、1937年(昭和12年)4月17日には晴れて国史跡の指定も受けたのである。指定範囲は8万7051.07u。
戦前・戦中は史跡を利用して戦意高揚行事・食料増産が行われたが、戦後になると史跡整備が進められるようになり、
まずは公園内にあった民家・店舗の撤去に始まって、地下駐車場の整備、碁会所や飲食店・動物園など史跡に不要な
施設の移転、そして発掘調査が行われる。1984年(昭和59年)から2001年(平成13年)までは1997年(平成9年)と1999年
(平成11年)を除き毎年、それに2013年(平成25年)〜2022年(令和4年)まで行われた発掘により、建物の礎石、石垣の
内部構造や根石(石垣最下部の地中に埋められた石材固定用の石)、排水溝・雨水溝や暗渠、陶磁器・鉄製品・古銭、
鍛冶工房や漆器工房、土坑や船着場跡などが確認された。この他、石垣の修繕も随時行われ見事な史跡整備が進み
2006年(平成18年)4月6日には財団法人日本城郭協会から日本百名城の1つに選定された。■■■■■■■■■■■

移築建築と、天守復元の未来■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
移築された遺構として有名なのが彦御蔵(ひこおくら、彦蔵とも)。木造2階建の土蔵で、外壁は白漆喰で塗り固めており
白く輝く姿が美しい。元々は城内の道具収納庫だったらしく、1749年(寛延2年)に最初の創建がされたものの、1836年
(天保7年)の火災で焼失、翌1837年(天保8年)に再建された。本丸の西側下段、現在地の西およそ100mあたりの所に
置かれていたが、廃城後は改変を受け、瓦葺きだったものが1982年(昭和57年)頃にトタン瓦葺きとなっている。だが
1989年(平成元年)設置場所が道路拡幅の事業用地となってしまう。このため一旦は取り壊される事になったが、盛岡
城の貴重な現存建築である事から、移築するように変更。城内の米内蔵跡地へ曳家し、屋根も1992年(平成4年)から
1993年(平成5年)に行われた補修工事で瓦葺きへと戻されている。そして2011年(平成23年)3月24日、盛岡市の有形
文化財に指定。盛岡城で必見の建築物でござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ちなみに、移築建築という伝承は他にも多数あるそうだ。順に列挙すると、勘定所の一部が市内にある徳清商店の住居
部分(盛岡市景観重要建造物)、綱御門の部材が三ノ丸北側にある櫻山神社の神門に、御台所敷地内にあった薬医門
部材が曹洞宗朝前山清水(せいすい)寺の山門、旧位置不明の薬医門が曹洞宗鳩峰山報恩寺中門、同じく旧位置不明
棟門が岩手県紫波郡矢巾町にある昆(こん)家の住宅門、それに土蔵3戸前の古材がそれぞれ木津屋本店3号蔵・浜藤
(はまとう)ホール・旧岩山漆芸美術館D棟に使われているとか。伝承建築が様々にある一方で、盛岡市では将来的に
天守と二階櫓を本丸に復元する計画を構想中だそうで、今後にも期待したい城跡である。■■■■■■■■■■■■
城跡の場所は言うまでも無く盛岡市街地のド真ん中だ。岩手県庁の南側、盛岡駅からも徒歩圏内なので来訪するのは
簡単だろう。が、全て石垣で固められた壮大な城地を漏れなく見るとなると実に時間がかかるので、それ相応に覚悟して
見学すべし(笑) そして盛岡市内には他にも古建築などが多いので、それも見逃さないようにすると更に時間が(爆)■■
会津若松城(福島県会津若松市)・白河小峰城(福島県白河市)と並び、東北三名城の一つに数えられる。■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡

移築された遺構として
彦御蔵《市指定有形文化財》・徳清商店住居(伝勘定所部分)《市景観重要建造物》
櫻山神社神門(綱御門古材)・清水寺山門(伝御台所薬医門古材)・報恩寺中門(伝城内薬医門古材)
昆家住宅門(伝棟門古材)・木津屋本店3号蔵(伝城内蔵古材)・浜藤ホール(伝城内蔵古材)
旧岩山漆芸美術館D棟(伝城内蔵古材)




久慈城  仙台(千代)城・若林城・茂ヶ崎城