陸中国 横田城

横田城跡 薬師堂

 所在地:岩手県遠野市松崎町光興寺8地割

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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遠野の古豪・阿曽沼氏の本拠■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「遠野には日本のふるさとがある」と評され、「民話の里」として有名な岩手県遠野市。その遠野を代々治めた土豪が
阿曽沼(あそぬま)氏であった。阿曽沼氏は平安期の武将である鎮守府将軍・藤原秀郷(ひでさと)の後裔として続く
藤姓足利氏(源氏の足利氏とは別家)の子孫と言う。秀郷の末裔、そして足利氏(栃木県足利市を本拠とした武家)と
されるのだから当然ながら関東の出身であり、その本貫地は下野国安蘇郡阿曽沼郷、現在の栃木県佐野市浅沼町
(浅沼=阿曽沼)だ。源平合戦期になると阿曽沼四郎広綱が源頼朝に従い鎌倉幕府御家人となり、後に陸奥国閉伊
(へい)郡の遠野保を与えられた。その結果、広綱の長男・朝綱(ともつな)が本領の下野国阿曽沼郷を継承し、広綱
2男である次郎親綱が遠野保を受け継いだ。横田城はこの親綱が築いたとされ、その年代は1189年(文治5年)又は
建保年間(1213年〜1219年)と言われるが、詳細は不明である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以後、親綱の系譜が遠野阿曽沼氏として代を重ね、横田城を受け継いだ。親綱―下野守公綱―四郎公郷―弥太郎
氏綱―下野権守朝綱(あさつな)―朝兼―安房守弘綱―秀氏―三河守光綱―左馬頭守親―親郷―親広―孫次郎
広郷という系図になっているが、この間の相続関係には様々に疑義もあり、どこまで正確なのかは分からない。■■
そんな阿曽沼氏、そして横田城に関する戦歴を挙げてみると、1221年(承久3年)承久の乱において親綱が鎌倉から
出兵し京都へ攻め上がった事に始まる。この時、親綱は幕府の出陣命令に即応しており、その為この当時の親綱は
遠野には居らず、鎌倉に近い下野阿曽沼郷に在住していた可能性が指摘されている。となると遠野の支配は代官に
任せていた(宇夫方広房なる者が代官)と考えられよう。横田城が阿曽沼氏の本拠として本格的に稼働するように
なったのは南北朝時代以降と推測されてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

敵の連合軍を辛くも撃退し■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
室町時代になると、1437年(永享9年)3月に気仙沼の岳波太郎(すわたろう)と唐鍬崎四郎(からくわざきしろう)と言う
兄弟が横田城を攻めている。当時、この兄弟は大槌城(岩手県上閉伊郡大槌町)の大槌孫三郎という武将と連合し、
閉伊郡の盟主となりつつあった千葉伯耆守に対し叛旗を翻そうとして阿曽沼氏にも加担を求めたのだが、時の当主・
秀氏は「不忠である」としてこの誘いを断った為、彼らに攻められたのだとか。ところが孤立無援であった阿曽沼氏は
横田城の守りに苦慮し、閉伊郡の更に向こう、糠部(ぬかのぶ)郡の南部氏に救援を求めた。このため南部大膳大夫
守行(なんぶもりゆき、三戸南部氏13代当主)が援軍を率いて来襲、横田城は救われたが、守行は大槌城の攻撃へ
赴き、そこで流れ矢に当たり戦死してしまった。勝負は時の運、とは言え援軍を率いた先で討ち死にしてしまったのは
不運としか言いようがない。なお、唐桑(からくわ)村(現在の宮城県気仙沼市唐桑町)に勢力を固めた唐鍬崎四郎は
相当に悪辣な人物だったらしく、江戸時代後期に編纂された盛岡藩の伝記集「聞老遺事(ぶんろういじ)」の記事中で
「唐鍬崎四郎ナル者我梟勇ヲ持チテ郡中ニ抜扈シ、其ノ主君ヲ蔑視シ、自ラ居城ヲ構ヘテ恣ニ威ヲ振フ」と書かれ、
傍若無人な振る舞いをしていた様子が見て取れる。そしてもう一人の当事者である阿曽沼秀氏という人物も謎めいて
いて、系図の上では弘綱の子となっているが、実際は養子入り?と考えられている。実は、遠野阿曽沼氏は鎌倉期の
成立直後、公郷の弟・光郷が安芸国にも所領を得て安芸阿曽沼氏を派生させた。秀氏はこの安芸阿曽沼氏の中から
遠野阿曽沼氏へ入り込んだ人物と見られている(遠野阿曽沼氏に「秀」の字は用いず、安芸阿曽沼氏での通字)。
岳波・唐鍬崎・大槌(そもそも大槌氏は阿曽沼氏の分流である)らの攻勢に対し、遠野郷で味方が得られなかったのは
秀氏が他家からやってきた「余所者」だったからとも考えられるのだが、しかし南部氏の助力を得てこの攻勢を撃退し
声望を集め、むしろ秀氏以降の阿曽沼氏は隆盛していく事になる。そして戦国乱世の時流に乗り、刑部少輔広郷の頃
阿曽沼氏は最盛期を迎えるが、そうなると古くからの城である横田城は手狭となり、しかも洪水の被害に度々苦しめ
られてきた事から鍋倉山へ新たな城を築く事になった。これが鍋倉城(下記)で、新城への移転と共に横田城は役目を
終え申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

静かに佇む「民話のふるさと」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
横田城は遠野盆地の北西部に位置し、高清水山の南東裾野に派生した護摩堂山と呼ばれる丘陵に築かれている。
遠野市内を蛇行する猿ヶ石川(これが廃城の原因となった洪水を起こす川)を渡る登戸橋を北へ向かい、突き当たった
山が城地である。この護摩堂山は南北を沢に囲まれ、ちょうど細長い帯状の山容となっていて防備は固め易い地形だ。
高清水山山頂の標高は797.1m、護摩堂山は321mなので最末端部の小ピークなのだが、山麓の平野部では標高260m
程度なので、それでも比高差60mを有する山城である。とは言っても、護摩堂山は北西の山頂からなだらかな傾斜が
綺麗に続き、これを造成して階段状の曲輪が3段程並ぶだけの単調な縄張りとなっている。梯郭式の城は上から主郭・
二郭・三郭となるのは当然として、三郭の下は崖となって隔絶、その更に下には居館跡?と思しき最下段の平場がある。
逆に主郭の奥には山を主山塊から切り離す堀切があるそうだ。山麓から急な坂道(これが三郭下の崖部)を登ると後は
平らな敷地が延々と広がり、二郭には写真の薬師堂が建つ。それ以外にはこれと言って目ぼしい構造物は無い。城跡
あるいは中世武家居館と言うならば多少は土塁や堀があっても良さそうなのだが、横田城内はだだっ広い敷地がただ
単に削平されているだけ。薬師堂の前だけは広場となっているが、それ以外の場所は雑木林や藪なので、奥の堀切と
やらを見に行くのも甚だ困難でござる。往時がどのような構えだったのかを想像するのも難しい。■■■■■■■■■
ただ、薬師堂の前には市指定天然記念物の彼岸桜と山桜の古木が生え、静かにかつての栄華を語っている。民話の
ふるさとの遠野市では、その情景に相応しい場所を独自に「遠野遺産」として制定しているが、横田城跡もその1つに
含まれている。周辺はのどかな田園風景が広がり、これぞ民話の世界といった風情は良く分かる。城跡を見るよりも
“日本の原風景”を眺めに行くような場所なのかも…?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
下記の鍋倉城も横田城と呼ばれていた時期があるので、区別のため護摩堂城と呼ぶ場合もある。■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等







陸中国 鍋倉城

鍋倉城本丸跡

 所在地:岩手県遠野市遠野町・東舘町・新町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★■■
★★☆■■



遠野駅の真っ直ぐ南にある「鍋倉公園」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
JR釜石線の遠野駅、その南側目の前(駅から山頂まで約700m)に聳える山が鍋倉山、鍋倉城址である。この山は南にある
物見山(標高916.5m)から尾根で繋がっているのだが、主山塊部が綺麗に円弧を描いて纏まっている(ちょうど山裾に沿って
釜石自動車道が走っている)中で突出した細尾根の先に浮かぶ小山なので、殆ど独立峰に近い形状を成している。釜石道
鍋倉トンネルの北側が鍋倉山の領域だ。鍋倉山頂は標高343.5m、そこから大きく南と東へ支尾根が延び、この他に北側も
小さな尾根が付属する。当然ながら山頂部が本丸、南の尾根上に二ノ丸(南舘)が築かれ、東尾根には三ノ丸(東舘)。北の
小尾根には工藤屋敷・澤里屋敷と言った小曲輪が階段状に繋がり、現状ではここを下った先に遠野市街地(遠野駅)がある。
三ノ丸と澤里屋敷に挟まれた谷戸には南部神社が鎮座。現在は城山登山道入口となっており、奥へと進めば土塁・竪堀や
曲輪跡が次々と現れる。山を回り込んで車道もあり、本丸と三ノ丸の間(武者溜であった場所)まで車で登る事も可能。ただ、
車道は冬季通行止だそうで、それに従い城山公園も運営停止期間があるそうだ。東北や北陸の「冬季通行止」と言う表現は
難しく、「春になるまで入れない」と云うより「夏しか入れない」という場合もあるので来訪する時期には御注意を。■■■■■
新田屋敷の在った二ノ丸は遠野南部家(詳細下記)墓所となっていて、同様に福田屋敷・中舘屋敷が在った三ノ丸には鍋倉
公園という都市公園になった現在、城の櫓を模した公園展望台が建っている。そしてオススメはやはり本丸址。市街地との
高低差約80mの本丸広場はすがすがしいほどひらけた草原で思わず見とれてしまう。当然、ここから望む遠野市街も絶景!
この他にも山の随所に帯曲輪や腰曲輪、馬場などが散見され申す。主山塊との接続部(ちょうど鍋倉トンネルのあたり)には
大堀切があって山伝いの侵入を阻んでいる。山の東側に沿い南から北へと来内川(らいないがわ、猿ヶ石川の支流)が流れ
内堀の役割を果たし、地勢を大きく見れば猿ヶ石川や早瀬川(遠野市街地を横断する川)が外濠(外郭防衛線)となっていた。
築城当初(中世鍋倉城(横田新城))は西側を大手としていたが、近世城郭となった折に東を大手に改め、西は搦手となった。
よって、本丸の南西にある虎口が「旧大手門(搦手門)」と表現されており、少々分かりづらい(苦笑)「南舘」「東舘」の呼称も
中世のもの、近世は「二ノ丸(新田屋敷跡)」「三ノ丸(福田屋敷・中舘屋敷)」となるが、この新田屋敷と言うのは遠野南部家
筆頭家老である新田氏が構えた屋敷、福田氏や中舘氏も遠野南部家の重臣として三ノ丸に屋敷を有していた。■■■■■
本丸の大きさは長尺120m×短尺24m、二ノ丸は88m×45m、三ノ丸は135m×29mと数えられてござる。■■■■■■■■■

横田城(横田新城)として築城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
上記の横田城の項にて遠野が阿曽沼氏の治める地として歴史を紡いだ事を記したが、洪水被害や城郭増強のため阿曽沼
広郷は天正年間(1573年〜1592年)鍋倉山に新城を築き居を移した。築城当初は以前の城の名を引き継ぎ「横田城」とされ
阿曽沼氏の本拠である事を示したのだろう。この新城は本格的な戦国時代の山城であり、遠野十二郷を統べた阿曽沼氏の
権勢を見せつけた。この頃の阿曽沼氏は岩手県の南部を領有する“戦国大名”と言って良い実力を有したのだった。阿曽沼
氏は室町将軍に誼を通じ幕府直参の地位を得ていたし、広郷は織田信長にも接近し、中央政権との繋がりを確保していた。
戦国大名として領土拡張にも動き、落城させられなかったが江刺の岩谷堂城(岩手県奥州市)へも攻めかかり、近隣領主と
覇を競ったりしていた。その一方で、下剋上の嵐が吹き荒れる風潮の中、遠野領内では阿曽沼一族である鱒沢氏が不穏な
動きを見せ、家中統制に苦労してもいたらしい。広郷は鋭敏な時流感覚を駆使する中で防衛力強化の一環として横田新城を
築いたのだった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし農民から成り上がった豊臣秀吉に対しては侮りを持っていたらしく、1590年(天正18年)秀吉が天下統一の総仕上げと
して小田原討伐戦を起こし、東北の諸大名に対して参陣(即ち秀吉への臣従)を命じた際にはそれに従わなかった。遠野の
軍記物「阿曽沼興廃記」には「秀吉公の素性卑しきを軽んじ、永く天下の武将になるべからずと侮り、帰服の音信を絶し」と
秀吉の命令を黙殺した様子が描かれている。結果、秀吉の奥州仕置きにおいて阿曽沼氏は改易の沙汰を申し付けられた。
もっとも、家中に鱒沢氏のような不満分子を抱えている状態で小田原へ向かい、所領を留守にするのは難しかったのだろう。
そうした事情を考慮してか、蒲生飛騨守氏郷らが口添えし阿曽沼広郷は遠野の所領は安堵された。但し、独立大名としての
地位は剥奪され、南部家の家臣に組み込まれるようになったのである。これと前後して広郷から代替わりをし、阿曽沼家の
当主は孫次郎広長(広郷の子)となり申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

阿曽沼一族内訌■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
広長は南部家臣として九戸政実の乱討伐などに従軍し、1600年(慶長5年)関ヶ原戦役においても主君・南部信濃守利直に
従い遠野の兵を率いて山形最上氏の救援に赴いた。ところが広長留守の隙を突いて一族の鱒沢左馬助広勝が造反する。
広勝は留守居役の上野右近広吉や平清水平右衛門景頼と共謀し横田城を占拠してしまう。小田原討伐時の再現よろしく、
やはり遠野は主が留守にすると反乱が起きてしまったのである。鱒沢家は阿曽沼家の分流であるし、上野広吉は広長の弟
(叔父との説も)だったと言われ、阿曽沼家の権益は一族骨肉の争いで狙われていたようだ。また、広勝の妻は南部利直の
妹であり、この内訌は陰で南部氏が糸を引いていたと言う。秀吉の命で家臣にさせられた阿曽沼氏は南部氏を快く思って
おらず、南部氏もまたそんな阿曽沼氏に信を置いていなかった訳だ。横田城を奪われた報を聞いた広長は慌てて遠野へと
戻るが時既に遅し、横田城への帰城は叶わなかった。広長の妻子は城を逃れたが、追手に追い付かれ無残にも殺された。
行き場を失くした広長は、その妻の実家である気仙郡世田米(せたまい)城(岩手県気仙郡住田町)に身を寄せて、城主の
阿曽沼甲斐守信康に庇護された。信康は伊達家の家臣となっていたので、翌1601年(慶長6年)の春・夏・秋の3度に亘って
広長は伊達の援軍を頼りとして横田城奪還の兵を挙げるが、それは果たせず没落していく。ただ、この戦いの中で叛乱の
首謀者である鱒沢広勝も戦死している。広長としては、せめて一矢報いたと言う処であろうか。■■■■■■■■■■■■
この戦いの後、南部利直は鱒沢忠右衛門広恒(広勝の子)・上野広吉・平清水景頼らに遠野の統治を委ねた。ところが後年
広恒は謀反の疑いで切腹させられる。どうやら利直の妹(広勝の未亡人)を粗略に扱った事から主君との関係が険悪化し、
遂に彼女は実家へ舞い戻ってしまい、それを知った広恒は身の危険を感じて脱藩逃亡。封建社会の中で脱藩は重罪であり、
とうとう江戸で潜伏していた所を見つかって切腹になったそうな。また、平清水景頼も1615年(元和元年)不行状を理由として
切腹させられた。彼の娘婿である北十左衛門信景(きたのぶかげ)は大坂の陣において豊臣方へと身を投じ、別れの挨拶を
しに来た所、景頼は引き留めるどころか饗応して送り出したと云い、徳川幕府への反逆を疑われかねない危機を南部家に
引き起こした為であった。残った上野広吉も1621年(元和7年)に病没しており、南部家は遠野奉行として毛馬内(けまない)
三佐衛門を横田城代に任じたが、長く血生臭い戦乱に直面していた遠野ではなかなか治安が回復しなかった。■■■■■

遠野南部氏の成立■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
横田城は南部領南端を守る要衝で、独眼竜と恐れられた伊達陸奥守政宗の領土に近接する要地である。その遠野が政情
不安なままでは、藩の安定がおぼつかない。痺れを切らした南部利直は1627年(寛永4年)思い切った策に出る。それまで
根城(ねじょう、青森県八戸市)にあった南部一門・根城南部家を遠野へ配したのだ。南北朝以来約300年に亘り八戸に居を
構えていた一族の重鎮・根城南部氏を移封させるのは困難であったが、利直は遠野に自治権を認める事で承諾させたとか。
斯くして藩主と同等の裁量権を得た八戸弥六郎直義(はちのへなおよし)が横田城主となり、その際に鍋倉城へ改名。以後
根城南部氏は遠野南部氏と変わり、明治まで鍋倉城主の座を継承した。南部藩筆頭家老であった八戸氏(遠野南部家)は
南部家中の御三家(他は北氏(大湯南部家)と中野氏(花輪南部家))に数えられ、直義の後は弥六郎義長―弥六郎義論
(よしとき)―勘解由利戡(としかつ)―若狭信有(のぶあり)―弾正信彦(のぶよし)―弥六郎義顔(よしつら)―但馬怡顔
(ときつら)―但馬義堯(よしたか)―弥六カ義茂(よししげ)―弥六カ済賢(ただかつ)と代を重ねる。遠野南部家の石高は
1万2500石であった。なお、一国一城令(大名の居城以外の城は破却する幕府からの命令)により鍋倉城は廃止されるべき
処であったが、南部家では「鍋倉館」の呼称に改めて城を存続させている。また、通称で遠野城とも呼ばれた。藩内きっての
実力者となり、城も維持した遠野南部家は「陪臣にして陪臣に非ず」「藩中藩あり」と言われ、まるで独立大名の如くであった。
遠野南部家の入封に際し、城の防備を高めるため二ノ丸の南端に大きな堀切が掘削された。ここは固い岩盤質で、工事は
難航。故に昼夜を問わず作業が進められ、夜も提灯や行燈を点しての工事が行われた。そのため、この堀切は「行燈堀」と
呼ばれるようになる。また、上記のように大手の変更も行われた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
当初、本丸の建物は萱葺きだったのだが、1651年(慶安4年)に起きた火災で焼失してしまい、以後は柾葺きになった。また、
1787年(天明7年)2月にも遠野で大火が起こり城も全焼している。そして江戸時代後期の1847年(弘化4年)11月、南部藩の
度重なる重税に耐えきれなくなった三閉伊通(野田通・宮古通・大槌通)の民衆が大一揆を起こし、有力者の遠野南部家へ
訴えるべく11月29日に1万2000人が鍋倉城下へ押し寄せた。平定のため盛岡から鉄砲隊200人を率いた藩家老の南部土佐
済民(ただたみ)が急行したものの、一揆勢は武威を笠に着る相手を拒絶。よって遠野南部家の家老・新田小十郎が一揆の
代表者と交渉し、一揆側の要求26箇条のうち12箇条を受け入れ、残りは継続審議とする妥結を行った。これにより一揆勢は
遠野から引き揚げたのだが、南部藩では約束を守ることなく歳月を過ごしたので1853年(嘉永6年)2度目の三閉伊通一揆が
勃発する。5月19日に田野畑(岩手県下閉伊郡田野畑村)を進発した一揆勢は、今度は南部藩を相手にせず、仙台藩への
越訴(本来の訴上相手を飛び越えて起こす訴訟)を決行。当然、この行いは南部藩内で収まらず仙台藩や幕府の知れる所と
なってしまい、幕府から南部家へ追及が為される事となる。重税の原因は前藩主・南部信濃守利済(としただ)の放蕩にあり
予てからそれを諌めていた済賢は藩政から遠ざけられていたものの、この第2次三閉伊通一揆に対処すべく復帰を許され、
事態収拾に当たった。また、幕府からも利済に対する処分が行われた事で、ようやく一揆は沈静化する。仙台まで遠征した
一揆の首謀者らは、11月初旬に遠野を経て帰郷した。済賢は戊辰戦争に於いても佐幕を堅持する南部藩にあって只一人
新政府へ与する事を主張するなど(結局、その論は受け容れられず南部藩は新政府軍に敗北するのだが)、世情や時代に
敏い賢君であった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

廃城、公園化、そして国史跡■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戊辰戦争に敗れた南部藩。遠野には松本藩(長野県松本市)兵が駐留し、戦後の鎮撫を行う。こうした中の1869年(明治2年)
5月、鍋倉城は廃城処分を受け、松本藩兵により破却された。同時に遠野は花巻県に改変され、三戸県を経て岩手県へ集約
される。三戸県当時は一時的に遠野横田村(鍋倉城下)が県庁所在地となったが、ごく短期間の話であった。■■■■■■■
建物は取り壊されたが、城山の敷地は綺麗に保全されていた為、遠野市では1986年(昭和61年)4月1日から鍋倉公園として
一般開放しており、特に春は桜の名所として有名である。そんな城址では1990年(平成2年)度から1998年(平成10年)度まで
5次に亘って発掘調査が行われた。本丸では1651年の火災後に再建された屋敷(御殿)と推定される礎石建物痕、それよりも
前の建物と思われる礎石建物3棟、掘立柱建物1棟、柵列や通路の石垣、工房跡と見られる竪穴遺構、土蔵跡などを確認。
本丸屋敷と考えられる建物痕は江戸末期に作成された「鍋倉城本丸屋敷絵図」と合致するものであった。■■■■■■■■
山全体、そして細部に至るまで見事な遺構を遺す城址は、しかしそれでも史跡指定がされてこなかったのだが(よく考えれば
不思議な話でござるw)、2022年(令和4年)12月16日の文化審議会で答申を受け、2023年(令和5年)3月20日に国の史跡と
なった。鍋倉公園の敷地は約14ha(14万u)だが、国史跡指定範囲はそのうち10万7902.42uとなっている。中世に築かれた
大規模な山城が良好に残され、近世城郭化を経て明治まで存続した稀有な城郭との位置付けであるが、故に史跡指定は
本丸・二ノ丸・三ノ丸と言った主要部に限ったものとなったからだ。逆に言えば、新たな知見(発掘結果など)が得られたならば
史跡指定範囲も広がる可能性があるのかも?鍋倉城の新たな展望に期待したいものでござる。■■■■■■■■■■■■
横田城と同じく、こちらも遠野遺産にも認定されている。駅近物件でもあり、オススメの城跡だ。■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡





胆沢城  岩谷堂城・豊田館