遠野の古豪・阿曽沼氏の本拠■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「遠野には日本のふるさとがある」と評され、「民話の里」として有名な岩手県遠野市。その遠野を代々治めた土豪が
阿曽沼(あそぬま)氏であった。阿曽沼氏は平安期の武将である鎮守府将軍・藤原秀郷(ひでさと)の後裔として続く
藤姓足利氏(源氏の足利氏とは別家)の子孫と言う。秀郷の末裔、そして足利氏(栃木県足利市を本拠とした武家)と
されるのだから当然ながら関東の出身であり、その本貫地は下野国安蘇郡阿曽沼郷、現在の栃木県佐野市浅沼町
(浅沼=阿曽沼)だ。源平合戦期になると阿曽沼四郎広綱が源頼朝に従い鎌倉幕府御家人となり、後に陸奥国閉伊
(へい)郡の遠野保を与えられた。その結果、広綱の長男・朝綱(ともつな)が本領の下野国阿曽沼郷を継承し、広綱
2男である次郎親綱が遠野保を受け継いだ。横田城はこの親綱が築いたとされ、その年代は1189年(文治5年)又は
建保年間(1213年〜1219年)と言われるが、詳細は不明である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以後、親綱の系譜が遠野阿曽沼氏として代を重ね、横田城を受け継いだ。親綱―下野守公綱―四郎公郷―弥太郎
氏綱―下野権守朝綱(あさつな)―朝兼―安房守弘綱―秀氏―三河守光綱―左馬頭守親―親郷―親広―孫次郎
広郷という系図になっているが、この間の相続関係には様々に疑義もあり、どこまで正確なのかは分からない。■■
そんな阿曽沼氏、そして横田城に関する戦歴を挙げてみると、1221年(承久3年)承久の乱において親綱が鎌倉から
出兵し京都へ攻め上がった事に始まる。この時、親綱は幕府の出陣命令に即応しており、その為この当時の親綱は
遠野には居らず、鎌倉に近い下野阿曽沼郷に在住していた可能性が指摘されている。となると遠野の支配は代官に
任せていた(宇夫方広房なる者が代官)と考えられよう。横田城が阿曽沼氏の本拠として本格的に稼働するように
なったのは南北朝時代以降と推測されてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
敵の連合軍を辛くも撃退し■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
室町時代になると、1437年(永享9年)3月に気仙沼の岳波太郎(すわたろう)と唐鍬崎四郎(からくわざきしろう)と言う
兄弟が横田城を攻めている。当時、この兄弟は大槌城(岩手県上閉伊郡大槌町)の大槌孫三郎という武将と連合し、
閉伊郡の盟主となりつつあった千葉伯耆守に対し叛旗を翻そうとして阿曽沼氏にも加担を求めたのだが、時の当主・
秀氏は「不忠である」としてこの誘いを断った為、彼らに攻められたのだとか。ところが孤立無援であった阿曽沼氏は
横田城の守りに苦慮し、閉伊郡の更に向こう、糠部(ぬかのぶ)郡の南部氏に救援を求めた。このため南部大膳大夫
守行(なんぶもりゆき、三戸南部氏13代当主)が援軍を率いて来襲、横田城は救われたが、守行は大槌城の攻撃へ
赴き、そこで流れ矢に当たり戦死してしまった。勝負は時の運、とは言え援軍を率いた先で討ち死にしてしまったのは
不運としか言いようがない。なお、唐桑(からくわ)村(現在の宮城県気仙沼市唐桑町)に勢力を固めた唐鍬崎四郎は
相当に悪辣な人物だったらしく、江戸時代後期に編纂された盛岡藩の伝記集「聞老遺事(ぶんろういじ)」の記事中で
「唐鍬崎四郎ナル者我梟勇ヲ持チテ郡中ニ抜扈シ、其ノ主君ヲ蔑視シ、自ラ居城ヲ構ヘテ恣ニ威ヲ振フ」と書かれ、
傍若無人な振る舞いをしていた様子が見て取れる。そしてもう一人の当事者である阿曽沼秀氏という人物も謎めいて
いて、系図の上では弘綱の子となっているが、実際は養子入り?と考えられている。実は、遠野阿曽沼氏は鎌倉期の
成立直後、公郷の弟・光郷が安芸国にも所領を得て安芸阿曽沼氏を派生させた。秀氏はこの安芸阿曽沼氏の中から
遠野阿曽沼氏へ入り込んだ人物と見られている(遠野阿曽沼氏に「秀」の字は用いず、安芸阿曽沼氏での通字)。■
岳波・唐鍬崎・大槌(そもそも大槌氏は阿曽沼氏の分流である)らの攻勢に対し、遠野郷で味方が得られなかったのは
秀氏が他家からやってきた「余所者」だったからとも考えられるのだが、しかし南部氏の助力を得てこの攻勢を撃退し
声望を集め、むしろ秀氏以降の阿曽沼氏は隆盛していく事になる。そして戦国乱世の時流に乗り、刑部少輔広郷の頃
阿曽沼氏は最盛期を迎えるが、そうなると古くからの城である横田城は手狭となり、しかも洪水の被害に度々苦しめ
られてきた事から鍋倉山へ新たな城を築く事になった。これが鍋倉城(下記)で、新城への移転と共に横田城は役目を
終え申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
静かに佇む「民話のふるさと」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
横田城は遠野盆地の北西部に位置し、高清水山の南東裾野に派生した護摩堂山と呼ばれる丘陵に築かれている。■
遠野市内を蛇行する猿ヶ石川(これが廃城の原因となった洪水を起こす川)を渡る登戸橋を北へ向かい、突き当たった
山が城地である。この護摩堂山は南北を沢に囲まれ、ちょうど細長い帯状の山容となっていて防備は固め易い地形だ。
高清水山山頂の標高は797.1m、護摩堂山は321mなので最末端部の小ピークなのだが、山麓の平野部では標高260m
程度なので、それでも比高差60mを有する山城である。とは言っても、護摩堂山は北西の山頂からなだらかな傾斜が
綺麗に続き、これを造成して階段状の曲輪が3段程並ぶだけの単調な縄張りとなっている。梯郭式の城は上から主郭・
二郭・三郭となるのは当然として、三郭の下は崖となって隔絶、その更に下には居館跡?と思しき最下段の平場がある。
逆に主郭の奥には山を主山塊から切り離す堀切があるそうだ。山麓から急な坂道(これが三郭下の崖部)を登ると後は
平らな敷地が延々と広がり、二郭には写真の薬師堂が建つ。それ以外にはこれと言って目ぼしい構造物は無い。城跡
あるいは中世武家居館と言うならば多少は土塁や堀があっても良さそうなのだが、横田城内はだだっ広い敷地がただ
単に削平されているだけ。薬師堂の前だけは広場となっているが、それ以外の場所は雑木林や藪なので、奥の堀切と
やらを見に行くのも甚だ困難でござる。往時がどのような構えだったのかを想像するのも難しい。■■■■■■■■■
ただ、薬師堂の前には市指定天然記念物の彼岸桜と山桜の古木が生え、静かにかつての栄華を語っている。民話の
ふるさとの遠野市では、その情景に相応しい場所を独自に「遠野遺産」として制定しているが、横田城跡もその1つに
含まれている。周辺はのどかな田園風景が広がり、これぞ民話の世界といった風情は良く分かる。城跡を見るよりも
“日本の原風景”を眺めに行くような場所なのかも…?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
下記の鍋倉城も横田城と呼ばれていた時期があるので、区別のため護摩堂城と呼ぶ場合もある。■■■■■■■■
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