律令国家の最前線■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
平安時代に用いられた古代城柵。陸奥国胆沢郡胆沢、現在は市町村合併で奥州市となった佐倉河地区にある。
通常「いさわじょう」と読むが、古代城柵の通例から「いさわのき」とも称される。別名で「方八丁」とも呼ばれるが、
市内には別に「方八丁」という地名(奥州市胆沢小山方八丁)が存在するので混同しなよう注意が必要。■■■
(胆沢城の所在地とは全く別)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
律令制度による国家体制を築こうとしていた奈良時代の大和朝廷は蝦夷(えみし、東北の在地衆)の豪族と係争
中で、東北地方の支配権は判然としていなかった。幾度となく蝦夷征討軍を派遣し、対する蝦夷側も己の土地と
民を守るために奮戦、両者は一進一退の攻防を繰り返している。「胆沢」の地名が史料上に現れるのは776年
(宝亀7年)、朝廷の正史「続日本紀(しょくにほんぎ)」に「陸奥の軍三千人を発して、胆沢の賊を伐つ」と記され、
ここは蝦夷の一大根拠地と捉えられた。以後、朝廷は数回に及ぶ胆沢討伐を行って征服しようとする。■■■■
第1回目は789年(延暦8年)、征東大将軍・紀古佐美(きのこさみ)が率いる朝廷軍は5月に蝦夷軍への総攻撃を
仕掛けたが北上川を利用した地形戦術に阻まれ大敗した。朝廷の兵は多くが溺死したと言う。この時、蝦夷軍を
率いたのが勇将として名高い阿弖流為(あてるい)で、地の利を活かし、また蝦夷の民の心をまとめ上げ見事な
勝利を挙げたのである。次いで793年(延暦12年)〜794年(延暦13年)にかけ大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)を
征夷大将軍に任じて討伐軍を派遣、此度は副将である坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が大活躍し蝦夷
軍に勝利する。そして801年(延暦20年)今度は田村麻呂を征夷大将軍に任じて朝廷軍が出陣。勝利の凱旋に
帰京した後、翌802年(延暦21年)1月9日に征服地を支配するための根拠地を構築する命を帯びて田村麻呂が
再征に赴くのである。造陸奥国胆沢城使たる彼は諸国から労役4000人を徴発して胆沢に到着、この地に朝廷の
城柵を築く。こうして出来たのが胆沢城だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
阿弖流為の悲劇と、その後も続く東北の戦乱■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
連勝の名将・田村麻呂が赴任し城まで築いたとあって、さしもの阿弖流為もこれ以上の戦いは不利と悟りこの年
4月15日、田村麻呂に降伏する。田村麻呂としても無益な戦を繰り返すは本意ではなく、申出を快諾した。さらに
朝廷への帰順を明確にして両者の和睦を図る為、田村麻呂は阿弖流為に上洛を勧めた。都へ上れば反逆者と
して処罰される恐れもあったが、田村麻呂は朝廷に助命嘆願を求め、命の保証をする。■■■■■■■■■■
ところが都では想像した通り、阿弖流為を蛮族の長と蔑み、再起の可能性を忌避して彼を処刑してしまう。田村
麻呂の願いは聞き入れられず、阿弖流為は悲劇の英雄として散ったのだ。以後、現代に至るまで阿弖流為は
“地域の自尊自立を求めた傑物”として語り継がれ申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて胆沢城のその後であるが、完成に伴い804年(延暦23年)胆沢郡が設置された。即ち、この城により朝廷の
支配が当地に浸透し、新たな郡が編成された事を意味する。一方、田村麻呂の蝦夷征伐は更に北上し、803年
(延暦22年)志波(しわ)城(岩手県盛岡市)が造成された。とりあえず志波周辺が朝廷支配地域の北限となった
訳だが、しかし志波城は水害に見舞われる事が多く実用に耐えない統治拠点であった事から、811年(弘仁2年)
岩手県紫波郡矢巾町に徳丹(とくたん)城を築き直し、そこを前線基地とする。されど、徳丹城は小規模で防備に
手薄であった為、結果として胆沢城が陸奥北辺の最重要拠点に位置づけられた。■■■■■■■■■■■■
それまで、多賀城(宮城県多賀城市)を国府ならびに鎮守府としていた朝廷機能は、築城直後の802年ないしは
志波城〜徳丹城の転遷を経た812年(弘仁3年)頃までに、胆沢城が担うようになったようである。■■■■■■
815年(弘仁6年)からは軍団兵士400人と健士300人の計700人が駐屯する事になっている。兵士は60日、健士は
90日の交代制で勤務に当たっていたとされている。以後、およそ150年に渡りこの地における朝廷の出先機関と
して重きを成した。後に胆沢郡から江刺郡が分置されて(841年(承和8年)に初見)、朝廷支配が浸透していった
様子を物語るが、しかし平安中期になると前九年の役や後三年の役が発生して、東北地方は再び現地の豪族が
割拠する時代となり、胆沢城の役割は形骸化。やがて廃絶したと考えられる。■■■■■■■■■■■■■■
胆沢城の構造と、発掘・史跡整備■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
敷地は約670m四方の方形、その外周は築地塀(ついじべい)で囲繞しており、塀の内側には幅2m〜3mの溝が
(排水溝か?)、外側には5m〜7m程の大溝(堀)が掘られていた。塀内敷地には儀式典礼を行う政庁や、糧物を
管理する官衙などが建てられていたという。いわゆる“古代政庁城郭”としての体裁を整え、有事の際にはここが
軍兵の出征拠点となった。しかし平坦な土地に役所としての城郭を築いているので、例えば山岳地形を利用した
要害性や、河川を天然の濠と見立てるような防御性は伴っていない。これは奈良〜平安時代にかけての政庁
城郭として特有の構造であるため当然と言えるが、中世になってからの技巧的な防備を有する城砦とは一線を
画す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
外郭南面の中央に楼門形式の南門があり、そこから幅12mの南大路が南方に延びるのも、平城京や平安京と
いった都城形式を踏襲するもの。外郭の北面中央には北門、また東西の門もあったと考えられている。南門は
十二脚門と豪壮だった一方、北門は桁行5間×梁行2間の八脚門と、やや小ぶりだった様子が確認されている。
貴重な古代遺跡として1922年(大正11年)10月12日、国の史跡に指定。1954年(昭和29年)からは発掘調査が
行われ、土師器・須恵器・瓦のほか具注暦(ぐちゅうれき、朝廷の陰陽寮が作成した公式の暦)や解文(げぶみ、
下級身分の者による上申書)などの漆紙文書や木簡も出土している。2005年(平成17年)9月3日には政庁から
約400m南に離れた伯済寺(はくさいじ)遺跡で「政所」の文字を書いた墨書土器が見つかった。この為、政庁の
実務は城内ではなく隣接した役人官舎で行われていた可能性を指摘されている。2011年(平成23年)9月21日と
2015年(平成27年)3月10日、国史跡範囲を追加指定。その時点での指定面積は55万4472.14uに及んでいる。
場所は北上川と胆沢川の合流地点付近、岩手県道270号線に隣接する。奥州市埋蔵文化財調査センターがすぐ
近くにあるので、そこを目当てにして行けば良いだろう。土段や建物跡が平面展示され、近年には築地塀も再現
されてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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