奥州藤原氏の時代まで遡ると伝承されるが…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
岩手県奥州市、その中でもかつて江刺市であった区域の観光名所として「えさし藤原の郷」がある。平安時代の建物や庭園を
再現し、数々のTVドラマや映画の撮影も行われたテーマパークだが、その「藤原の郷」から重染寺川を挟んだ対岸、夢乃橋を
渡った先にある山が「館山史跡公園」として整備された岩谷堂(いわやどう)城の跡でござる。■■■■■■■■■■■■■■
「えさし藤原の郷」が築かれた理由もそうだが、この地は平安中期に数々の戦乱を潜り抜け奥州藤原氏の祖となった藤原清衡
(ふじわらのきよひら)が生まれ育った土地という伝承を有している。下に示した豊田館(とよだのたち)と共に、岩谷堂城は清衡
生誕の場所と比定されている。館山史跡公園と言う公園名も、この城山が「御館山」つまり藤原御館があった場所との由緒に
拠るものだが、しかし岩谷堂城が藤原御館である確たる証拠は無い(但し、発掘において平安期の遺物は出土している)。■■
同時代の豪族・安倍氏の築いた鶴脛柵(つるはぎのさく)と推定する説もあるが、これも別の場所と混同している可能性が高い。
史書の上に岩谷堂城の存在が記されるのは、その奥州藤原氏が滅亡した後の話。清衡―基衡(もとひら)―秀衡(ひでひら)の
3代に亘り平泉で栄華を極め、黄金文化を華開かせた奥州藤原氏だが、秀衡没後の4代目・泰衡(やすひら)は源頼朝と敵対し
鎌倉御家人らの討伐を受けた。これにより奥州藤原氏は滅亡するのだが、頼朝は討伐後の奥州を統治する役として葛西三郎
清重(かさいきよしげ)を派遣し奥州総奉行の職に据える。下総の名族・千葉氏の一門に産まれた清重は、一族を引き連れて
広大な陸奥国の統治に当たる事となったが、この際に彼の配下として千葉三郎胤道(千葉介頼胤の3男)が岩谷堂に入り城を
築いたと言う。正確な年代は不詳だが、一説には1189年(文治5年)だとも。以後、胤道は江刺氏と改称し後代に血を繋いだと
伝わるが、江刺氏の発祥を別の系譜と見る説もあるし、そもそも葛西清重の奥州下向も短期間の話では無かったかと、伝承の
内容に疑問符が付く。さりとて、葛西氏は戦国末期まで陸奥の名族として家を遺すし、江刺氏も後々まで続いているので、この
伝承が全く事実無根と言う訳でも無いだろう。江刺氏は葛西氏の家臣であったが、1495年(明応4年)江刺美濃守隆見は主家と
対立した戦いに敗れ、江刺氏の新当主には葛西氏13代当主・左京大夫政信(まさのぶ)の孫である三河守重胤(しげたね)が
据えられ、岩谷堂城主になったと言う。また、戦国時代の1585年(天正13年)には江刺三河守信時が葛西家から“勘当”されて
新たに江刺兵庫頭重恒が江刺の家督と岩谷堂城主の座を相続したとされるが、この当時の系図は混乱が多くて、どの血脈が
どこに繋がるのか、いまいちハッキリしない。しかも、葛西家が家督に据えた重恒も葛西氏と対立し叛旗を翻している。さらに、
葛西・江刺の内訌を好機と見た遠野横田城(岩手県遠野市)の阿曽沼刑部少輔広郷が岩谷堂城へ攻め寄せたとの話もあるが
これは重恒が撃退している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
大崎・葛西一揆の“発火地点”■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国の終焉は1590年(天正18年)の事。小田原後北条氏討伐で天下統一を成し遂げた関白・豊臣秀吉は、小田原への参陣を
怠った奥羽の武将を軒並み改易した。いわゆる奥州仕置だ。鎌倉以来の名族である葛西氏は、成り上がりの秀吉を侮ったか
小田原参陣を拒んだ為、秀吉に改易されている。また、江刺重恒も岩谷堂城の明け渡しを余儀なくされたが、彼は岩手北部の
大大名・南部家に預けられたので、南部家臣として生き長らえる事になる。秀吉は旧葛西領に木村伊勢守吉清を配し、岩谷堂
城には吉清の家臣・溝口外記が入っている。されど、旧体制に属する者が総じて取り潰され、食い扶持を無くした彼らが路頭に
迷った奥羽では、豊臣政権への怨嗟が満ち溢れていた。秀吉はその状況をわざと作り出し、反抗する者を一掃する機を窺って
いたとされ、葛西に宛がわれた木村吉清は“統治能力の無い無能さ故に”任じられたと言う。果たして秀吉の狙い通り、吉清の
支配地では反体制派の一揆が勃発、いや爆発し一大争乱が巻き起こった。一揆勢は岩谷堂城に攻め寄せ、溝口外記を殺害。
世に云う「大崎・葛西一揆」はこうして始まり、秀吉の政治を良しとしない者が続々と集まったが、むしろそれを狙っていた秀吉は
名だたる大名を討伐軍として派遣し、一揆は殲滅された。なお、外記の戦死後には佐瀬伯耆・粟野九左衛門が岩谷堂の代官に
入ったようだが、これは次に記す伊達家統治時の事と見る説もある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一揆後、木村吉清は所領を没収され(領地争乱の責任を取った形だが、秀吉としては狙い通り事が終わり用済みとなった訳だ)
葛西地域は伊達政宗の領地になった。独眼竜として名高い、あの左京大夫政宗(伊達家17代当主)である。政宗は岩谷堂城を
領内の要衝と見て、重臣の桑折摂津守政長(こおりまさなが)を入れている。桑折家の治世下、岩谷堂では用水路開削や湿地
干拓事業が進められ領内整備が行われたものの、政長は朝鮮出兵の従軍先・釜山浦(韓国釜山)で1593年(文禄2年)の7月に
病没してしまう。32歳の早過ぎる死だった。彼の父である桑折点了斎宗長は既に隠居の身、その宗長も1601年(慶長6年)7月
(宗長の没年には諸説あり)亡くなったので、桑折摂津守家(仙台桑折家)は断絶してしまう。よって岩谷堂城主の座はこの後、
母帯(もたい)越中守・猪苗代長門守(宗国か?)・古田内匠重直・増田将監宗繁といった面々が歴任(順番には諸説あり)した。
なお、幕府から一国一城令(大名の居城以外の城を廃する命令)が発せられたため、伊達領内では「城」の表現を改め、増田
宗繁在城時と言われる1619年(元和5年)から岩谷堂要害と称するように変更している。政宗は領内で「要害」を維持する特例を
幕府から引き出しており、伊達領最北端を守る要地として岩谷堂を手放さなかったのだろう。■■■■■■■■■■■■■■
岩谷堂伊達家が明治まで城主を務める■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1622年(元和8年)からは仙台藩世子・美作守忠宗の所領となり、城代として藤田但馬守宗和が岩谷堂要害を預かった。1643年
(寛永20年)には古内伊賀守義重・志摩守義如(よしゆき)の父子がその任を引き継いでいる。そして1659年(万治2年)古内家は
上口内(かみくちない)要害(岩手県北上市)へ転任し、岩谷堂要害は岩城左兵衛宗規(むねのり)が城主となった。宗規が引き
継いだ岩城家は戦国期に伊達家と争った血筋だが、その中の岩城長次郎隆道は故あって岩城一門から追放され、政宗の下に
身を寄せていた。と言うのも、隆道は祖父まで遡ると伊達家の出自であり、そのため岩城の名を捨て、伊達政隆と名乗るように
なっていた。政隆の後嗣が伊達清次郎国隆(くにたか)で、国隆の跡継ぎが宗規である。岩城宗規、つまり伊達宗規は岩谷堂で
5000石を賜り、伊達一門の中でも重きを為した。よってこの家系は政隆まで遡って岩谷堂伊達家と呼ばれるようになる。実際に
岩谷堂を領したのは宗規からだが、岩谷堂伊達家としては政隆が初代、宗規が3代目と言う訳だ。一門第六席と言う高い家格を
有した(石川家・亘理家・水沢家・涌谷家・登米家に次ぐ席次)岩谷堂伊達家は宗規以後、左兵衛村隆(むらたか)―左兵衛村望
(むらもち)―数馬村富(むらとみ)―左兵衛村将(むらまさ)―右近宗隆(むねたか)―靫負宗嵩(むねたか)―右近義隆(よしたか)
―数馬邦規(くにのり)と続いて明治を迎え申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、幕末の仙台藩は佐幕の立場を貫き戊辰戦争を戦ったが、敗戦する事となり62万石の領地は28万石まで減らされた。故に
財政が成り立たなくなり、岩谷堂の所領は邦規から没収されてしまう。伊達一門の重役から一藩士に落とされた邦規は、1869年
(明治2年)祖先の姓に戻し岩城基規(もとのり)と名を変えたそうだ。また、当然の事ながら岩谷堂要害はこれで廃された。江刺
一帯はその年の8月7日から江刺県となり、岩谷堂要害が県庁となったものの、程なく三戸県を編入したため県庁機能は閉伊郡
横田村(岩手県遠野市)に移転しており、岩谷堂要害は用済みとなったのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城の縄張りと公園化■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
重染寺川は人首川とも呼ばれる。前九年の役や後三年の役では戦場を生首が飛び交ったとの凄惨な話が伝わり、それに因む
名前であろうか。だとすれば藤原御館の由来もアリだとは思うが、その川の断崖に面した御館山は山頂が標高114.9mを数えて
川面からの比高差は80m近くにもなる。山容は南北に長く、北側に山頂、南に小ピークを有し何となく前方後円墳のような形状。
山頂部が本丸(後円部)、南に二ノ丸(前方部)がある縄張りで、両者の間も中ノ丸と言う副郭になっている。また、二ノ丸の南に
馬場や屋敷群を抱えた三ノ丸が造られ(ここまでが山の連なり)その更に南側の平野部には城下町が開かれた。本丸の規模は
東西およそ80m×南北約100mの楕円形、二ノ丸は東西約100m×南北150m程の細長い形状。各曲輪には帯曲輪が付属し、山
全体(城域全体)としては東西400m程度×南北850mくらいの大きさにもなる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1983年(昭和58年)本丸と二ノ丸の中間(中ノ丸近辺)で発掘調査が行われ、その場所だけで空堀2列・井戸2基・柵列1・溝6本・
土坑54・掘立柱建物の柱穴329、それに鍛冶場と思われる工房跡2箇所を検出した。この他に平安時代の竪穴式住居痕1箇所も。
出土品は土器や陶磁器が大半だが、その中には舶来の青磁・白磁・染付碗なども含まれた。国産品としては瀬戸焼・美濃焼皿、
鉢・天目茶碗・かわらけ・擂鉢・甕と言った物。この他に石製品・木製品・金属器が出たと言う。■■■■■■■■■■■■■■
現状、本丸跡(山頂一帯)は館山八幡神社の境内となり、二ノ丸跡は旧岩手県立岩谷堂高校のグラウンド跡(学校は移転済)、
中ノ丸には館山史跡公園の展望台が置かれ、その下段(帯曲輪)が公園駐車場となっているが、城域の随所には堀や土塁が
綺麗に残されていて、史跡散策に丁度良い場所となっている。江刺市街を望む高台にあり、戦略の要所であったことは容易に
想像できるので、往時に思いを馳せるのも一興でござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名で江刺城・柄杓城・柄杓ヶ城とも。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城址のすぐ近くにある真言宗愛宕山興性寺の山門は二ノ丸裏門を移築したものだとか。ただ、かなり改変されているようだ。■
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