陸奥国 浅瀬石城

浅瀬石城址 侍屋敷跡

所在地:青森県黒石市大字浅瀬石字山辺

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★☆■■■
公園整備度:★■■■■



浅瀬石(あせいし)城は汗石城・浅石城とも書き、その名の通り浅瀬石川を見下ろす急峻な台地上に
あった平山城でござる。通説ではこの地を治めた千徳(せんとく)氏の城とされているが、千徳氏の
系譜は諸説入り混じり判然としない。当然、城の来歴にも諸説あり確実な事は僅かだ。とりあえず
大まかに分かっている事を列挙し、城の紹介としていこう。
まず千徳氏の起こりであるが、源頼朝に従って奥州の太守となった南部光行(みつゆき)の長男
彦太郎行朝(ゆきとも)は、庶子であったため家督を継げず陸奥国糠部郡(ぬかのぶぐん)一戸に
所領を分け与えられた。これが故に行朝は一戸氏を名乗り、以後の一戸氏は南部宗家配下として
現在の青森県東部~岩手県一帯にかけて勢力を築く。その行朝の孫にあたる伊予守行重(ゆきしげ)は
陸奥国閉伊郡(へいぐん)千徳村(現在の岩手県宮古市千徳町)に入り、この系譜が千徳氏を称した。
よって、浅瀬石城の築城起源を1240年(仁治元年)千徳行重の手に拠るものとするのが一般的だ。が、
千徳氏の創始を行重ではなく南部分流の一戸政英(室町時代中期の人物)とする説や、行重も室町期の
人物と考える説、そもそも一戸氏の成立を現地豪族の閉伊氏や桓武平氏(千葉氏流)とする説もあるので
良く分からない。だいたい、行重が拠点とした千徳村と浅瀬石では南部領の南端と北端、距離にして
155kmもの隔たりがあり、千徳氏による築城説を鵜呑みにはできないだろう。
事の真偽は兎も角、鎌倉時代に何かしらの武家居館あったというのが浅瀬石城の創始でござろう。
1943年(昭和18年)に刊行された青森郷土会の書物「津軽封内城址考」には1320年(元応2年)頃に
城が改修され、室町初期の文中年間(1372年~1375年)には南部家重臣・桜庭何某?なる者が
城主になっていたという。更に1444年(文安元年)城域の北側に代官館(出曲輪か)が築かれ
浅瀬石城の全容が整い申した。こうした曲折を経た後に千徳氏が入府し、この地の統治に当たった為
一戸氏起源の諸説は、遡って千徳氏の創始が浅瀬石城から始まったと結び付けた誤解からであろう。
また、先に名前の出た桜庭何某というのも戦国時代末期の南部家臣・桜庭安房守光康の事績が
混同された可能性(文献によって桜庭光康の登場年代が異なる)が考えられる。
ともあれ、千徳氏は南部氏の津軽支配における主力を為し、7代城主(とされる)千徳政久は文明年間
(1469年~1486年)南部宗家から津軽代官に任じられ繁栄を極めたと言う。津軽支配は南部一族
大光寺南部氏が担っていたが、千徳氏は津軽六代官の1人と数えられる有力な家であった。戦国時代に
なると南部一族の重鎮・石川左衛門尉高信が津軽郡代として辣腕を振るい、10代城主・千徳大和守
政氏はその配下に組み込まれた。なお、南部宗家26代当主・大膳大夫信直は高信の長男でござる。
子が宗家の跡取りに迎え入れられる事で、高信の信任と実力が窺えよう。
一方この頃の津軽地方は、大浦(津軽)為信が勢力を拡大していた時期でもある。為信もまた南部家の
家臣として位置づけられていた(大浦氏は南部家から独立した傍流の家柄)が、南部家と大浦家は
かねてから怨嗟を募らせており、為信の代になって自主独立の道を歩もうとしていたのだ。主君の
南部家からすれば謀叛となる行動であるが、こうした対立の中で政氏は為信と密約を結び、南部の
支配を脱するべく暗躍していく。父・政吉の跡を継いで浅瀬石城主となった1583年(天正11年)
所領権益の争いから南部家臣・津軽石(つがるいし)九郎勝富(行重とも)を謀殺。これに端を発し
南部信直は1585年(天正13年)4月、政氏討伐を命ず。南部一門衆・東政勝(ひがしまさかつ)
率いる兵3000が浅瀬石城を攻めるも、政氏はこれを撃退。返す刀で同年5月、南部方であった
同族の千徳掃部之助政武(まさたけ)を田舎舘城(下記)に攻め滅ぼした。
石川高信の動向は史料によってまちまち、明らかでないが、石川氏が為信によって没落しており
高信も戦死して果てた?と考える説がある程。結果として為信は津軽に独立を果たし、それは
天下人・豊臣秀吉にも公認された為、南部氏は津軽地域の権益を失ったのでござる。
ところがこの後、津軽氏と千徳氏は仲違いをするようになる。謀略の鬼・為信としては千徳氏など
タダの捨て駒に過ぎなかったのかもしれない。1597年(慶長2年)3月5日、突如として浅瀬石城は
為信の軍に襲われ、政氏と子の安芸介政康(政保とも)らは討死したと言う。この時、千徳家臣
木村越後らが津軽方に寝返り本丸を急襲、津軽軍の将・森岡金吾信元ら2500の兵が加勢し
突撃を行ったので千徳軍2000は奮戦するも及ばず、政康が自害して果てたと伝わる。しかし
「永禄日記」という文書には政氏・政康父子が為信の居城・堀越城(青森県弘前市)へ呼び出され
そこで謀殺されたと記している。よって、この戦いの真実は不透明であるが、いずれにせよこれで
千徳氏は滅亡、浅瀬石城も廃城になったのでござる。城下町には家臣屋敷530軒、町人宅1230軒
寺社仏閣も数多く壮大な町があったと言うが、それも廃絶し今では静かな農村風景が広がる。
城跡周辺は1975年(昭和50年)発掘調査が行われた。それに拠れば縄文時代~平安時代における
集落痕が検出されたようだ。現状では城地一帯が林檎果樹園になっており、私有地なので迂闊に
立ち入る事は出来ない。縄張りは台地の頂部一帯(麓との比高20m~25m)を啓開削平し、大きく
本丸・二ノ丸・侍屋敷(三ノ丸)・町屋敷(外郭)の4曲輪と、代官館・御堂館という2つの出曲輪に
分割されていたようだ。この他、台地斜面にせり出した位置に物見台があったようで、現在は
その場所に館神社の小さな社と櫓台土塁の名残と思われる塚盛がござる。写真にある城址碑の石碑と
「侍屋敷跡」の標柱の間に並ぶ通路状の空間もかつての空堀跡と見られるが、しかし何処も現状は
風化や改変が激しく、それほど明瞭な遺構には見受けられない。ただ、台地の縁から見晴らす風景は
なかなかの絶景で、確かに城を構えるのに相応しい場所だと思える。場所は東北自動車道黒石ICの
目の前だが、ICの出入口は城と反対側の国道に通じている上、城跡へ至るには農村の細い道を
通り抜けて行かねばならないので少々分かり難い。傾斜もキツいので、くれぐれも安全運転で。


現存する遺構

堀・土塁・郭群







陸奥国 黒石城

黒石城址石碑と岩木山

所在地:青森県黒石市境松

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:☆■■■■



黒石へ鎌倉期に入植した工藤氏の城館跡。黒石の町を興す起源となった城と言えるが、江戸時代に
置かれた黒石陣屋(下記)も「黒石城」と通称されるので、こちらは「旧黒石城」と区別される。
工藤氏と言うのは、元来は伊豆(静岡県東部)の国人で、源頼朝が平家打倒を掲げ伊豆に挙兵した
時から供奉した工藤左衛門尉祐経(すけつね)から派生している。祐経は所謂“曽我兄弟の仇討”で
討たれた人物としても有名だが、頼朝の覚えは目出度く、嫡男の祐時は九州の日向国(宮崎県)を
所領とし伊東家を興し、紆余曲折ありながら明治の廃藩置県まで日向伊東家を繋ぐに至る。他方、
その祐時から分流した系譜は陸奥国に下向し八戸(青森県八戸市)に家を立て八戸工藤氏となる。
また祐経系とは別の中務丞行光(ゆきみつ)系工藤氏も厨川(くりやがわ、岩手県岩手郡)に所領を
得て厨川工藤氏になる等、とにかく様々な分派が行われた。陸奥の戦国大名となる二階堂氏も、
元を辿れば工藤氏の同族だ。鎌倉幕府が成立した後、工藤氏は有力な御家人として扱われ、特に
執権(鎌倉幕府機構での最高権力者)北条氏の臣下として良く働いた事から全国的に広がっていく。
こうした中で鎌倉末期に北条氏の御内人(みうちびと、直属の家臣)であった工藤右衛門慰貞行が
田舎郡(いなかぐん、現在の青森県黒石市~平川市~南津軽郡田舎館村周辺)の地頭代として入府し
築いたのがこの黒石城だと言う。築城年代は元弘年間(1331年~1334年)頃と見られるが、貞行は
それより前から既に田舎郡に入って活動を行っていたようだ。
程なく鎌倉幕府は倒れ、南北朝が対立する時代がやってくる。陸奥国内の工藤氏は大半が旧北条氏
御内人として南朝に抵抗したものの、貞行は南朝方に与した。当時、奥州では南朝から派遣された
北畠顕家が大きな勢力基盤を構築しており、貞行もその配下として活躍し所領を拡大。また、同じ
南朝方として八戸南部氏と婚姻関係を結び申した。貞行に男子は居なかった為、結果として遺領が
八戸南部氏に組み込まれ南部氏の勢力拡大の一因となった。黒石城のその後は良く分からない。
津軽為信が病没する直前の最晩年、隠居城にしたという伝説もある。
場所は弘南鉄道弘南線の境松駅から東側、青森県道38号線に沿った一帯。ここは南側に浅瀬石川が
流れ、その河岸段丘となっている地形だ。段丘崖は全体的に5m~6mほどの高さを有し、南側の眺望が
開ける一方で段丘上面は極めて平坦な敷地を有し、そこを外広市館・内広市館・花館という3つの
曲輪に分割していたと言われている。この3曲輪を隔てる為に空堀が掘られていたらしく、その名残が
今でも見られるとされているが、経年劣化や土地造成によって殆ど分からないのが実情だ。特に近年
県道38号線に繋がる新道が作られた折、工事用車両の出入用に各所が均されたり削られたようで、
ハッキリと遺構が判明するような状態ではなくなっている。その新道と県道の交差点に、写真の
「旧黒石城址」の石碑が置かれているものの、うっかり見過ごしそうな場所なので分かりづらい。
そもそも、この石碑も道路工事で転々としたらしく、本当に城址の位置を示しているのやら…?


現存する遺構

堀・土塁







陸奥国 黒石陣屋(蝦夷館)

黒石陣屋(黒石城)石碑

所在地:青森県黒石市内町・甲大工町

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★☆■■■
公園整備度:★☆■■■



江戸時代に津軽氏の弘前藩が成立し、その分知陣屋として築かれた旗本陣屋跡。通称で「黒石城」だが
上記の鎌倉期黒石城と混同せぬよう注意が必要だ。元来、この場所には蝦夷館(えぞだて)というアイヌの
小砦らしき構造物があったと言い、その遺構が陣屋と渾然一体となって現存してござる。なお、この蝦夷館が
黒石の地に初めて築かれた人工構築物と考えられる事から“黒石開闢の地”とされている。
弘前藩3代藩主・津軽土佐守信義(のぶよし)が1655年(明暦元年)11月25日に没すると、その長男の
越中守信政(のぶまさ)が家督を相続した。しかし彼はこの時まだ13歳の若年であった為、江戸幕府は
当面の間、信義の弟である十郎左衛門信英(のぶふさ)に後見役を命じた。既に信英は1642年(寛永19年)
幕府の小姓組となっており弘前藩から独立した旗本として扱われ、その時点で兄・信義から1000石を分知
されていたのだが、宗家後見役に任じられた事で5000石の所領に加増されてござる。この5000石は各地に
分散された飛地配分であったが、最も主要な領地となった黒石の地を本拠としその統治陣屋を設置する。
斯くして1656年(明暦2年)の春、黒石津軽家が成立し黒石陣屋が築かれた。以後、明治維新まで黒石
津軽家の統治本拠として受け継がれていく。鋭才の人として知られた信英は弘前本藩と黒石領の両方を
巧みに指揮したが1662年(寛文2年)9月22日に病没。その長男・信敏(のぶとし)が翌1663年(寛文3年)
1月に黒石領を相続したが、弟の信純に1000石を分け与えたため黒石津軽家の領地は4000石になった。
以後、この4000石が黒石津軽家の所領になる。信敏の後、釆女正政兕(まさたけ)―寿世(ひさよ)
著高(あきたか)―寧親(やすちか)と継承。寧親は後に弘前藩宗家の当主へ迎え入れられ、黒石領は
彼の長男・典暁(つねとし)に譲られ、更にその養子である親足(ちかたり)が継ぎ申した。
1809年(文化6年)4月5日、宗家・寧親の計らいによって黒石家は6000石が加増される。これにより
甲斐守親足は1万石の大名となり、黒石領は支藩として立藩された。陣屋を“城”と呼ぶのは黒石津軽家が
諸侯に列せられた故であろう。親足の隠居後は養子・左近将監順徳(ゆきのり)が支藩2代藩主となるが
彼も宗家の家督を継ぐ事になり順承(ゆきつぐ)と改名、黒石支藩は養子の出雲守承保(つぐやす)の
ものになる。承保は親足の実子だ。しかし彼は子が無いまま病没した為、式部少輔承叙(つぐみち)を
養子に入れて黒石支藩4代藩主とした。承叙は津軽寿世の玄孫という人物。他家からの養子で繋ぐ事が
多かった黒石津軽家であったが、ようやく津軽為信以来の血筋に戻った事になる。が、この承叙の代で
明治維新、廃藩置県を迎える事になった。1871年(明治4年)7月の廃藩で黒石藩領は黒石県となり、
同年9月には弘前県と合併していくが、黒石陣屋は廃藩と同時に役目を終え廃止されたのでござる。
廃藩に先立つ1873年(明治6年)8月、陣屋御殿を利用し黒石小学校が建てられたが、後に移転して
建造物は破却。他の陣屋遺構も大半が湮滅、現在は市の文化会館などが建てられている。馬場跡は
黒石公園(御幸公園)となっているが、公園と言うよりも運動場で、まさしく馬場を転用した物だ。
陣屋の立地は浅瀬石川の河岸段丘上にあり、南側およそ200mの位置に川が流れている。段丘の比高は
15m程あり、急傾斜で屹立してござる。一方で北側は大きく平野部が広がり、陣屋周辺を市街地が取り巻く。
絵図に拠れば陣屋正面に枡形を備えた大手門を置き、東西隅部にも東門(黒門)・西門があった。特に
西門は枡形虎口を有しており、大手に次いで厳重な構えであったようだ。この他、大手口と西門の間から
北へ延びる道にも無常門と言う木戸が置かれている。だが陣屋敷地と外部を仕切るのはこれらの門だけで
堀や土塁を構築した様子は見られない(東側は堀があったと言うが埋め戻されている)。やはり太平の
時代に築かれた「統治の為の」陣屋という事で、それほどの防備性は求められなかったのかもしれない。
浅瀬石河畔へ半島状に突き出した旧蝦夷館(出曲輪となっていたようである)敷地と陣屋本体の間にのみ
大規模な空堀が掘られ、ここだけが現在も城郭遺構らしき様相を見せているものの、これは元々の蝦夷館
時代からあった為そのまま利用されたのではないだろうか。もっとも、この蝦夷館敷地にはちょっとした
いわくがある。当初、黒石領と弘前藩領の境界が蝦夷館と黒石陣屋本体の間に敷かれていた。陣屋と
浅瀬石川の僅かな空間には宇和堰と小阿弥堰という2本の人工水路が流れており、ここが境界とされ
“境堰”と呼ばれていたのだ。陣屋にとって要となる詰めの曲輪、蝦夷館が藩境の南に区分けされ
(主家とは言え)他藩の敷地とされていては都合が悪い黒石藩は、天和年間(1681年~1684年)に
境堰の流路を付け替え、蝦夷館を黒石領に組み込んだと言うのだ。地図を見てみれば、現在でも
蝦夷館敷地の直下を流れる宇和堰は不自然な屈曲を成す流路になってござる。当然、この水路は
城の生命線である水利の確保も担っていたであろう。また、段丘崖で隔絶した地形に加えて宇和堰
小阿弥堰・浅瀬石川の3河川が並ぶ事で多重防御線を南側に構えていた訳でもある。北側は目前まで
民家が建ち並んで然程堅固な構えになっていないのに対し、南側だけは是程の厳重な防備という
アンバランスさが面白い縄張りでござる。
陣屋敷地内には御殿の他、台所・御蔵・焔廠蔵といった建造物があった。この敷地を塀で囲んでおり
その壁面が黒かった事から「烏城(うじょう)」の別名を有す。


現存する遺構

堀・土塁・郭







陸奥国 田舎舘城

田舎舘城址 田舎館村役場

所在地:青森県南津軽郡田舎館村大字田舎舘字中辻

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:★★★★



田舎館村役場(写真)の東側一帯、青森県道268号線が弓なりにカーブを描くあたりにあった中世城郭。
田舎館村指定史跡第2号とされ、調査に拠れば弥生~奈良~平安時代での遺物も出土してござる。
西側の生魂神社から、東側の胸肩神社あたりまでが敷地(故に、厳密には村役場は城地から外れる)で
ここを南北2つの曲輪に分けていた。現在、跡地全域は住宅地化されて北端の「ヤマコ」という塚森に
土塁の断片的な跡が残るのみだが、この集落は用水路に囲まれており、これを繋いだ線が曲輪の
形取りになる。即ちこの用水路はかつての濠の名残と言えよう。また、城地から南に200mほど離れた
場所に「新館」と言われる出曲輪もあったとされている。曲輪を成す土地は周囲一帯の水田からごく
僅かに隆起している微高地。伝説に拠れば、城の北と南にあった水門を閉じると周辺全てが水没し
城だけが浮かび上がるようになっていたとされる。つまり城の周りにある湿地帯は防御の為の水濠と
して用いられるようになっていた訳だ。今や田舎館村と言えば全国に名が知られた田んぼアートの
村だが、美麗な稲作画が描かれる田圃はまさに田舎舘城の眼前にある水田。かつての泥田堀は、
現代に於いて村の名を轟かせる観光名所に変わったのでござる。
築城時期や築城者は定かでない。南北朝期の1336年(延元元年・建武3年)より前の時点で工藤氏
あるいは安保弥五郎入道なる者が城館を構えていたとされ、1336年・1337年(延元2年・建武4年)に
発生した田舎楯(田舎館)合戦で工藤貞行(黒石城の項にて登場)が平賀郡(津軽半島内の郡)の
地頭職・曽我太郎貞光と戦っており、この折に城が用いられたと考えられ申す。
室町時代になると1475年(文明7年)浅瀬石城主・千徳政久の次子である千徳大三郎貞武(政実)が
田舎館に分知され城主となった。「七百五十町歩分与、家臣重臣十数名、雑兵五百拾人」を分けたと
「黒石星田家文書」の中にその様子が記されている。南部一門である千徳氏の中、田舎舘城に入った
系譜は田舎舘千徳氏となり、武光―政伊―政朝―政武と受け継がれている。ところが戦国末期、
浅瀬石の千徳政久が南部家を裏切り、田舎舘城の千徳政武が討たれたのは浅瀬石城の項で記した
通り。津軽制覇を狙う津軽為信は目下最大の敵となった千徳政武を寝返らせるべく、政武の友人
清藤長兵衛を使者に送った。しかし政武は南部家への忠節を曲げなかった為、1585年5月15日に
出陣。これに浅瀬石城の千徳政久が加わり、同月20日に城への総攻撃が行われたのでござる。
籠城軍は312人のうち303人が討死したと伝わり、政武も戦死。田舎舘千徳氏は滅亡し、おそらく
これを以って廃城になったと考えられる。
政武の妻・於市の方は落城に際し共に死のうとしたが、政武に諭されて城を落ち延びた。戦いから
16年を経た1601年(慶長6年)津軽統一を果たした為信は敵味方の区別なく戦死者の供養をすべく
弘前郊外・清水森で法要を行ったが、そこに臨席した於市の方は焼香を終えるや為信の前に出て
懐剣で自刃。彼女の侍女もこれに従っている。田舎舘千徳軍の玉砕に加え、妻君の壮烈無垢な死。
田んぼアートの村には隠れた悲話が残されているのでござるが、村役場の“模擬天守”がどれだけ
正しい城の歴史を伝えているのかは分からない。


現存する遺構

土塁
城域内は村指定史跡





津軽半島城址群  胆沢城