北に栄えた一大港湾都市■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
奥州古豪の安倍氏を祖とすると伝えられる安東(安藤)氏に関連する城址だとされるが、いにしえの名族には
虚実入り混じった伝承が多く、真実が良く分からない城跡でもある。以下、安東氏の系譜と絡めてこの城を
解説していき申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
津軽半島の西部に位置する十三湖(じゅうさんこ)は、日本海に繋がった天然の入江として活用され、平安
時代後期から北方交易の港として発展し、そこにあった十三湊(とさみなと)は国際港湾都市の可能性を
指摘されている。前九年の役で勇戦した陸奥の剛将・安倍貞任(あべのさだとう)の子孫と云う(諸説あり)
安東氏が津軽に入ったのは十三湊が開発される途上の時期と一致し、十三湊は安東氏の隆盛を支える
経済的・軍事的基盤になっていく訳だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて福島城の立地は十三湖の北岸、全体的に隆起し頂部が平坦な低台地である。十三湖は現在、全域に
土砂が堆積し水深が1m程しかない浅瀬が広がっており(最大水深でも2m)、その周辺平地も標高にして
1m〜5m以内の低地ばかりだが、この台地は概ね15m〜20m程の高さがあり(北辺は30mほどの壁状隆起)
縄文時代から高地性集落が営まれていた。東側から十三湖へと入り込む街道が、この台地を経由して
十三湊の港湾都市に至る要衝であり、また周囲の低湿地(耕作地となる)に屹立する防御性の高さから、
在地武士団が館を構えるのに適した場所と言え、諸説ある福島城の築城時期において最も古い説では
十三湊開発に先立つ文治年間(1185年〜1189年)としている。ただ、この時点ではまだ安東氏入府の前と
推測されるので、この築城はそれ以前から十三湖沿岸を領していた十三秀栄(ひでひさ、ひではるとも)の
手に拠るものとするのが妥当か。この十三秀栄と言うのは奥州藤原氏3代・清衡(きよひら)の弟である
藤原秀栄の事で、後の津軽藩祖・津軽右京亮為信(つがるためのぶ)の遠祖とされる人物でござる。■■
安東氏の勢力拡大■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
では安東氏が十三湊を掌握するようになったのが何時かと言えば、鎌倉幕府の後ろ盾を得てからの話だ。
十三氏が十三湊を押さえていた頃、安東氏はまだ藤崎城(青森県南津軽郡藤崎町大字藤崎)を本拠とし
津軽半島へは進出していなかった。それが幕府執権・北条氏の被官になって所領拡大のお墨付きを貰い
「蝦夷管領」や「日之本将軍」と言った称号を得て、津軽や北海道まで支配下に治めていくようになったと
言われている。蝦夷管領というのは南北朝時代になってからの名称とも言われるので、鎌倉時代の扱いは
「蝦夷代官」あるいは「蝦夷沙汰職(えぞさたしき)」とするのが正当だろう。現代人の感覚だと「蝦夷」は
北海道の事だけを指すように思えるが、この当時は東北地方北部も含めており、要するに京都や鎌倉の
中央政権から見て“北の外れの辺境地”は全て「蝦夷」だったのである。その「蝦夷」の支配・統括権を
「蝦夷沙汰職」として安東氏が獲得した訳だが、辺境地という感覚はそれこそ鎌倉幕府中枢が思い描いた
排他的な認知でしかなく、十三湊を活用した経済交易圏は日本海沿岸全域のみならず、北海道や樺太を
経由してユーラシア大陸沿海州までも到達するものでござれば、安東氏の得た役得は途方もないもので
あった。実際、安東氏がアイヌ兵を率いて大陸出兵したと言う伝説まで残る程だ。日之本将軍と言う誇大な
尊称も、大陸との外交を視野に入れればハクを付ける為に十分有効な肩書となったであろう。■■■■■
十三湊の被災?と、安東氏の津軽失陥■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
事の真偽は兎も角として、1229年(寛喜元年)に安東氏は十三秀直を萩野台(青森県弘前市)合戦で破り、
十三氏を滅ぼし十三湊を掌握。これに伴い、安東又太郎貞季(さだすえ)は正和年間(1312年〜1317年)に
福島城を構築したと言うのが築城第2の説。尤も、この頃の安東氏は系譜が入り乱れて判然としない。■
また、貞季が「新城」を築いた(これが福島城を指すものとされる)と記録する「十三湊新城記」という史書が
そもそも偽書であるとする考えもある。その上、1320年代になると安東氏は一族内で総領争いを起こして
内乱状態となった。元寇以後、支配能力を欠きつつあった鎌倉幕府はこの戦いを鎮圧する軍を発するも
収められず、これが幕府衰退を顕実化させ後醍醐天皇や楠木正成らによる倒幕運動を発露する遠因に
なったとも言われている。さらに付け加えると、1340年(興国元年/暦応3年)8月に大津波が十三湊を襲い
一夜にして湊は湖底に沈んだ、或いは1398年(応永5年)に砂丘に埋もれてしまったという伝説もある。■
それまでは外洋船も出入りできた十三湖は、この頃になると土砂堆積物に埋まってしまい、現在のような
浅瀬になっていく。十三湊と安東氏にとっては受難の時代を迎えていたようだが、交易で成した財力を使い
瞬く間に復興したとされる上、大津波を伝える文書「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」は偽書で
全く信憑性がないとされ、科学的調査で津波の痕跡も出ていない(地層堆積物で津波の有無は分かる)。
要するに、どこまで行っても安東氏の動静はハッキリしないと言う事なのであるが、次なる動きが出るのは
悲しい事にその衰退を伝えるものでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
青森県の太平洋側〜岩手県一帯にかけて勢力を有した南部氏は、南北朝合一後に室町幕府から陸奥の
所領を安堵され、更には津軽地方制覇の野望も抱く。一方、安東氏は鎌倉末期の内訌から檜山安東氏と
湊安東氏に2分されていた。福島城を維持していたのは檜山安東氏であり、戦乱に備えて城を拡充。内郭と
呼ばれる敷地や外郭の虎口はこの時期の構築と見られ、14世紀後半〜15世紀初頭と推測されている。■
斯くして檜山安東氏は蝦夷ヶ島(蝦夷地=北海道)の南部にまで勢力を広げていたものの、これに対して
1432年(永享4年)南部大膳大夫守行・遠江守義政父子が侵略を開始、下国安東康季(やすすえ)は敗北し
福島城と唐川城(下記)は落城、柴崎城(同)へ逃れた。この戦は時の室町将軍・足利義教の仲裁によって
康季の妹が南部義政へ嫁ぐ事とされ和睦がなされたが、1442年(嘉吉2年)再び南部義政は福島城を攻略、
康季は唐川城を経て蝦夷ヶ島へ逃れたのでござる。康季は津軽奪還を試みるが果たせぬままに死去し、
その後継も蝦夷ヶ島や羽後国檜山郡(現在の秋田県北部)に居を構えるだけで津軽は取り返せなかった。
こうした状況下、福島城は役割を終えて廃城になったと考えられる。なお余談だが、秋田県の旧檜山郡
(山本郡)や北海道の檜山支庁(振興局)は、檜山安東氏に由来する地名でござる。■■■■■■■■■
福島城址の発掘調査■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現状の福島城址は大規模な土塁や堀が確認されている。一辺約1kmの三角形を城域とし、中央からやや
西へ寄った位置に堀と土塁で囲まれた内郭(内城)がある。内郭は一辺200m程の方形。写真はこの内郭
入口に再現された模擬門である。また、外郭は東側の台地に密着している為、その部分を断ち切るように
大規模な空堀が掘削されている。外郭内部もいくつかの空堀を構築し敷地を区切っていた。■■■■■■
総面積およそ62万uという広大な城跡の中では1955年(昭和30年)9月に東京大学東洋文化研究所の江上
波夫教授が発掘調査を行い、外堀・内堀・土塁や門の他、竪穴式住居痕や柵列の柱跡、10世紀後半から
11世紀までの土師器が検出され申した。よって縄文期の古代集落ならびにそれ以後に継続使用された
古代城柵の遺構と推定された。次いで1992年(平成4年)国立歴史民俗博物館が、2005年(平成17年)〜
2009年(平成19年)に青森県教育委員会ならびに市浦村(当時)が主体となって発掘調査を行っている。
この調査は十三湖西岸にあった十三湊遺跡と連動したもので、内郭の南東部で中世の武家屋敷が発見
され、檜山安東氏による城郭整備が確実となった。特に主殿と想定される東西70m×南北55mもの規模を
誇る大型建築物が確認されたのは貴重でござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方、十三湊遺跡でも1432年の兵火で焼失した痕跡が確認され、南部守行による福島城攻撃が十三湊の
町をも巻き込む大掛かりな兵乱であった事が証明されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城跡は国道339号線に沿った位置にあり、旧市浦村の中心街(相内集落)の南端部から少しだけ東へと
進んだ所に駐車場があり、その近辺に案内板や模擬門がある。曲輪群もその周囲に、広範囲に存在。■■
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