陸奥国 福島城

福島城復元門

所在地:青森県五所川原市相内実取・相内露草
(旧 青森県北津軽郡市浦村大字相内実取・相内露草)

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★☆■■■
公園整備度:★☆■■■



奥州古豪の安倍氏を祖とすると伝えられる安東(安藤)氏に関連する城址とされるが、いにしえの名族には
虚実入り混じった伝承が多く、真実が良く分からない城跡でもある。以下、安東氏の系譜と絡めてこの城を
解説していき申す。
津軽半島の西部に位置する十三湖(じゅうさんこ)は、日本海に繋がった天然の入江として活用され、平安
時代後期から北方交易の港として発展し、そこにあった十三湊(とさみなと)は国際港湾都市の可能性を
指摘されている。前九年の役で勇戦した陸奥の剛将・安倍貞任(あべのさだとう)の子孫と云う(諸説あり)
安東氏が津軽に入ったのは十三湊が開発される途上の時期と一致し、十三湊は安東氏の隆盛を支える
経済的・軍事的基盤になっていく訳だ。
さて福島城の立地は十三湖の北岸、全体的に隆起し頂部が平坦な低台地である。十三湖は現在、全域に
土砂が堆積し水深が1m程しかない浅瀬が広がっており(最大水深でも2m)、その周辺平地も標高にして
1m〜5m以内の低地ばかりだが、この台地は概ね15m〜20m程の高さがあり(北辺は30mほどの壁状隆起)
縄文時代から高地性集落が営まれていた。東側から十三湖へ入り込む街道が、この台地を経由して
十三湊の港湾都市に至る要衝であり、また周囲の低湿地(耕作地となる)に屹立する防御性の高さから、
在地武士団が館を構えるのに適した場所と言え、諸説ある福島城の築城時期において最も古い説では十三湊
開発に先立つ文治年間(1185年〜1189年)としてござる。ただ、この時点ではまだ安東氏が入府する前と
推測されるので、この築城はそれ以前から十三湖沿岸を所領としていた十三秀栄(ひでひさ、ひではるとも)の
手に拠るものとするのが妥当であろう。この十三秀栄と言うのは奥州藤原氏3代・清衡(きよひら)の弟である
藤原秀栄の事で、後の津軽藩祖・津軽為信(つがるためのぶ)の遠祖とされる人物でござる。
では安東氏が十三湊を掌握するようになったのが何時かと言えば、鎌倉幕府の後ろ盾を得てからの話だ。
十三氏が十三湊を押さえていた頃、安東氏はまだ藤崎城(青森県南津軽郡藤崎町大字藤崎)を本拠とし
津軽半島へは進出していなかった。それが幕府執権・北条氏の被官になる事で所領拡大のお墨付きを貰い
「蝦夷管領」「日之本将軍」と言った称号を得て津軽や北海道まで支配下に治めて行くようになったと
言われている。蝦夷管領というのは南北朝時代になってからの名称とも言われるので、鎌倉時代の扱いは
「蝦夷代官」あるいは「蝦夷沙汰職(えぞさたしき)」とするのが正当か。現代人の感覚では「蝦夷」は
北海道の事だけを指すように思えるが、この当時は東北地方北部も含めており、要するに京都や鎌倉の
中央政権から見て“北の外れの辺境地”は全て「蝦夷」だったのである。その「蝦夷」の支配・統括権を
「蝦夷沙汰職」として安東氏が獲得した訳だが、辺境地という感覚はそれこそ鎌倉幕府中枢が思い描いた
排他的な認知でしかなく、十三湊を活用した経済交易圏は日本海沿岸全域のみならず、北海道や樺太を
経由してユーラシア大陸沿海州までも到達するものでござれば、安東氏の得た役得は途方もないもので
あった。実際、安東氏がアイヌ兵を率いて大陸出兵したと言う伝説まで残る程だ。日之本将軍と言う誇大な
尊称も、大陸との外交を視野に入れればハクを付ける為に十分有効な肩書となったでござろう。
事の真偽は兎も角として、1229年(寛喜元年)安東氏は十三秀直を萩野台(青森県弘前市)合戦で破り
十三氏を滅ぼして十三湊を掌握。これに伴い、安東貞季(さだすえ)は正和年間(1312年〜1317年)に
福島城を構築したと言うのが築城第2の説。尤も、この頃の安東氏は系譜が入り乱れて判然としない。
また、貞季が「新城」を築いた(これが福島城を指すとされる)と記録する「十三湊新城記」という史書が
そもそも偽書であるとする考えもある。その上、1320年代になると安東氏は一族内で総領争いを起こして
内乱状態となった。元寇以後、支配能力を欠きつつあった鎌倉幕府はこの戦いを鎮圧する軍を発するも
収められず、これが幕府衰退を顕実化させ後醍醐天皇や楠木正成らによる倒幕運動を発露する遠因に
なったとも言われている。さらに付け加えると、1340年(興国元年/暦応3年)8月に大津波が十三湊を襲い
一夜にして湊は湖底に沈んだ、或いは1398年(応永5年)に砂丘に埋もれてしまったという伝説もある。
それまでは外洋船も出入りできた十三湖は、この頃になると土砂堆積物に埋まってしまい、現在のような
浅瀬になっていく。十三湊と安東氏にとっては受難の時代を迎えていたようだが、交易で成した財力で
瞬く間に復興したとされる上、大津波を伝える文書「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」は偽書で
全く信憑性がないとされ、科学的調査で津波の痕跡も出ていない(地層堆積物で津波の有無は分かる)。
要するに、どこまで行っても安東氏の動静はハッキリしないと言う事なのだが、次なる動きが出るのは
悲しい事にその衰退を伝えるものでござる。
青森県の太平洋側〜岩手県一帯にかけて勢力を有した南部氏は、南北朝合一後に室町幕府から陸奥の
所領を安堵され、更に津軽地方制覇の野望を抱く。一方、安東氏は鎌倉末期の内訌から檜山安東氏と
湊安東氏に2分されていた。福島城を維持していたのは檜山安東氏であり、戦乱に備えて城を拡充。内郭と
呼ばれる敷地や外郭の虎口はこの時期の構築と見られ、14世紀後半〜15世紀初頭と推測されている。
斯くして檜山安東氏は蝦夷ヶ島(蝦夷地=北海道)南部にも勢力を広げていたものの、これに対して
1432年(永享4年)南部大膳大夫守行・遠江守義政父子が侵略を開始、安東康季(やすすえ)は敗北し
福島城と唐川城(下記)は落城、柴崎城(同)へ逃れた。この戦は時の室町将軍・足利義教の仲裁によって
康季の妹が南部義政へ嫁ぐ事とされ和睦がなされたが、1442年(嘉吉2年)再び南部義政は福島城を
攻略、康季は唐川城を経て蝦夷ヶ島へ逃れたのでござる。康季は津軽奪還を試みるが果たせぬ
ままに死去し、その後継も蝦夷ヶ島や羽後国檜山郡(現在の秋田県北部)に居を構えるだけで津軽は
取り返せなかった。こうした状況下、福島城は役割を終えて廃城になったと考えられる。なお余談だが
秋田県の旧檜山郡(山本郡)や北海道の檜山支庁(振興局)は、檜山安東氏に由来する地名でござる。
現状の福島城址は大規模な土塁や堀が確認されている。一辺約1kmの三角形を城域とし、中央から
やや西へ寄った位置に堀と土塁で囲まれた内郭(内城)がある。内郭は一辺200mの方形。写真はこの
内郭入口に再現された門でござる。また、外郭は東側の台地に密着している為、その部分を断ち切る
ように大規模な空堀が掘削されている。外郭内部もいくつかの空堀を構築し敷地を区切っていた。
総面積およそ62万uという広大な城跡の中では1955年(昭和30年)9月に東京大学東洋文化研究所の
江上波夫教授が発掘調査を行い、外堀・内堀・土塁や門の他、竪穴式住居痕や柵列の柱跡、10世紀
後半から11世紀までの土師器がが検出され申した。よって縄文期の古代集落ならびにそれ以後に継続
使用された古代城柵の遺構と推定された。次いで1992年(平成4年)国立歴史民俗博物館が、2005年
(平成17年)〜2009年(平成19年)に青森県教育委員会ならびに市浦村(当時)が主体となって
発掘調査を行っている。この調査は十三湖西岸にあった十三湊遺跡と連動したもので、内郭の
南東部で中世の武家屋敷が発見され、檜山安東氏による城郭整備が確実となった。特に、主殿と
想定される東西70m×南北55mもの大きさを誇る大型建築物が確認されたのは貴重でござろう。
一方、十三湊遺跡でも1432年の兵火で焼失した痕跡が確認され、南部守行による福島城の攻撃が
十三湊の町をも巻き込む大掛かりな兵乱であった事が証明されている。


現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群







陸奥国 唐川城

唐川城址展望台

所在地:青森県五所川原市相内岩井
(旧 青森県北津軽郡市浦村大字相内岩井)

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★☆■■■
公園整備度:★■■■■



福島城に於ける詰めの城(有事の際に立て籠もる為の戦闘用城郭)として、安東氏が用いた山城。
福島城の内郭から見て北北西に3.6kmの位置にあり、標高166mを数える山の頂部を利用している。
麓からの比高は130m〜140mだが、十三湖にも近い事からすれば標高がそのまま比高と考えても
差し支えないでござろう。東西約200m×南北約700mの敷地を有する山頂部は概ね平坦な敷地で
それを南北方向に3分割し、北郭・中央郭・南郭としている。北郭と南郭には井戸があり、山城の
生命線と言える水利を確保。南郭の井戸は上端の幅10m、深さ2.5mで岩盤を刳り貫いたものだ。
現在、南郭の更に南側には唐川城址展望台が置かれ、車で来訪する事が出来る。この展望台からは
眼下の福島城は勿論、十三湖や日本海、岩木山までも見晴らせるので、詰めの城として必須の
眺望が確保されていた様子が良く分かる。
城の起源は定かでなく、従来は安東氏の城として鎌倉末期に安東貞季が築いたとも言われていた。
また、上記福島城の項で示した通り1432年の南部氏侵攻では落城、1442年には福島城が奪われ、
安東康季はこの城に逃げ延び、更に柴崎城へと落ちて行ったと伝わっている事から、安東氏の
城という認識が定着してござった。余談だが、安東氏が落ち延びる際に上記の井戸へ家伝の宝物を
隠して去って行ったとか。だが1999年(平成11年)〜2001年(平成13年)度末にかけ富山大学が
発掘調査を行い、本来の唐川城は平安時代後期の10世紀後半〜11世紀に作られた高地性環濠
集落だと言う事が明らかになった。当然、まだその頃は安東氏が影響力を及ぼす前の時代だ。
南郭(とされる)にあった井戸の周辺には竪穴式住居群が検出され、更には精錬炉1基も確認。
竪穴式住居の床面には焼土があり、金床石(かなとこいし、製鉄時に叩き台とする石)や鍛冶
道具なども出た事から、古代唐川城には鉄製品を製造する高度な技術集団が居たと考えられる。
これもまた、十三湊交易において重要な輸出品となり得るものか、はたまた安東氏の外征時に
必要な武器を産出する体制に繋がるものなのか?なかなか興味深い。この他、発掘調査では
平安時代後期のものと推定される土師器の甕や坏、須恵器の長頸壺や甕、土錘(漁網用の重り)
それに加えて擦文(さつもん)土器までもが出土。擦文土器とは北海道のアイヌ文化圏で用いられた
独自の土器でござれば、この地も「蝦夷」であったと言う性格を裏付ける物的証拠と言えよう。
しかし一方、中央郭からは中世の削平面があり、そこに小規模な掘立柱建物が建てられていた
跡が残っていた。その周辺には中世の陶磁器片も散在。安東氏がこの城を使っていたと言うのも
間違いないようだ。結局、平安末期の環濠集落として防御性を有した独立丘陵を、後世になって
安東氏が出城(詰城)として再利用したというのが唐川城の歴史だと言う事らしい。


現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群







陸奥国 柴崎城

柴崎城址標柱

所在地:青森県北津軽郡中泊町大字小泊字嗽沢
(旧 青森県北津軽郡小泊村大字小泊字嗽沢)

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:☆■■■■



「上野発の夜行列車〜♪」で知られる龍飛崎から15kmほど南に下った小泊半島に遺る城跡。
津軽半島からさらに小さく日本海へ突き出した小泊半島の北面、弁天崎手前の山に位置する。
ここは平成の市町村合併で誕生した中泊町のうち旧小泊村地域に属するが、中泊町は五所川原市を
挟んで旧小泊村と旧中里町が合併しているので、こちらは飛地という扱いになる。ちなみに、中泊町に
挟まれた五所川原市域も、旧市浦村(福島城や唐川城の所在地)を飛地として合併したものなので
互いに挟み合うような関係になっている。柴崎城は中泊町小泊嗽沢(うがいさわ)、小泊漁港の
すぐ裏手にある山に築かれたもので、港の目の前と言う位置から分かるように水軍拠点として
使われた可能性もあろう。小泊半島の付根、小さな湾を形成する地勢は良港と言うに相応しい。
築城時期は不明であるが、一説には1229年に十三氏を滅ぼし安東氏が津軽半島を掌握した時、
作られたとも考えられてござる。小泊の港からは蝦夷ヶ島へ渡る事が出来る為、既にこの時から
安東氏は蝦夷ヶ島制覇も視野に入れていた訳だ。十三湊が大津波で壊滅したという伝承がある一方
この城が新たな水運拠点として整備されたという説も。小泊湾に面した急峻な山は、単郭城郭と
推測される(但し、中泊町の文化財包有地としてはもう一回り大きい面積を想定している)ものの
曲輪の面積は東西120m×南北30mと比較的大きく比高も60mほどあり、堅固かつ居住性も確保した
有用な小城砦だったと思われる。故に、安東氏本城たる福島城やその詰めの城である唐川城と共に
“安東氏三段構えの城”の一つ「背水の陣の城」と数えられている。江戸時代に松前藩が編纂した
史書(松前藩主・松前(蠣崎)氏は安東氏の被官にあたる)「新羅之記録(しんらのきろく)」には
「柴舘」と記された。
福島城の項と重複するが、1432年に南部軍が津軽へ侵攻した際、福島・唐川の両城を落とされた
安東康季はこの城に籠って和議の機を掴んだ。まさしく“背水の陣”として有効に機能した訳だ。
その和議により康季の妹が南部義政へ嫁いだと記したが、逆にこれが安東家の命取りとなった。
縁者となった安東氏と南部氏。1442年、娘婿たる義政の弟・南部政盛が安東盛季(康季の父)に
招かれ福島城へ来訪する。盛季としては親類としての交誼を深めるつもりだったのだろう。政盛も
挨拶と称して福島城を訪れたが、しかし南部氏は偵察を行う絶好の機会と捉えた。斯くして政盛は
福島城の守りが手薄と見るや、即座に兵を引き入れて城を占拠してしまった。慌てた安東方は
唐川城へ逃れ抵抗、南部軍はこれに攻め掛かったが戦線は膠着する。しかし、季節は晩秋。不意を
衝かれた安東方に越冬の備えは無く、柴崎城へと退却。これを南部勢が追い、柴崎城へも攻め掛け
遂に安東方は諦めて蝦夷ヶ島へと落ちて行ったのでござる。こうして安東氏は津軽の所領を失い、
回復はできなかった。柴崎城もその後の歴史は明らかでなく、廃城になったと考えられ申す。
今では神明宮の境内となり、ひっそりと案内板が立つのみ。小泊漁港の脇にある鳥居が入口だ。
歩いて暫く行けば「柴崎城跡」の標柱があるものの、神社創建により地形が改変されたようで
城としての明瞭な遺構は良く分からない。だが、南部氏との抗争に破れた安東氏が蝦夷地へ
渡る際、最後に立ち寄った城…と聞けば何となく哀愁が感じられる。一応、発掘調査が行われ
空堀や土塁の痕跡を検出、縄文土器(中期・後期・晩期)・石器・勾玉・土師器などが出土。
城跡は中泊町の史跡包有地という扱いになっている。なお「柴崎」の読み方は「しばさき」や
「しばざき」諸説あるようだが、史跡包有地登録名称上では「柴崎遺跡」とされ、その読み仮名は
「しばざき(濁る)」と記載されている。


現存する遺構

堀・土塁







陸奥国 中里城

中里城主郭跡と「のれそれ中里」歌詞碑

所在地:青森県北津軽郡中泊町大字中里字亀山
(旧 青森県北津軽郡中里町大字中里字亀山)

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★■■■
公園整備度:★★☆■■



津軽鉄道線の津軽中里駅からほぼ真北へ600m程の位置にある台地城跡。現在は史跡公園として
整備されており、竪穴式住居跡や堀・土塁などが良くわかるように再現されてござる(写真左)。
ここに城館があったという事は地域に口伝されており、城山を「館(たて)ッコ」「お城ッコ」などと
称していた。各種文献にも「古城」「古館」と記され、1684年(貞享元年)編纂の地誌「貞享絵図」には
この山を「古城」大きさを「三拾間弐拾間」と説明。山裾には「館ノ下」や「館ノ腰」との地名が記載されて
いる。また「陸奥国津軽郡田舎庄中里村御検地水帳」にも「一古館 三町弐反三畝拾歩 弐箇所」として
免税地に指定されていた。弘前藩の史記「津陽実録(津軽大成記)」でも「中里ノ舘」とある。ところが
城の来歴はほとんど分からず、津陽実録でも中里ノ舘は「館主不明」と記すのみでござった。
中里町(当時)は1985年(昭和60年)から中里城跡の土地を公有化し、1987年(昭和62年)から歴史的な
調査に着手する。翌1988年(昭和63年)に中里城跡調査会が現地の試掘を行い、以後は教育委員会が
1989年(平成元年)に第1次調査、1990年(平成2年)に第2次調査、1991年(平成3年)に第3次調査、
1992年に補遺調査をそれぞれ行った。その結果、平場から古代の竪穴式建物が約80軒も見つかり、
併せて出土した縄文土器・擦文土器や石器などと関連し、この地が縄文時代前期(約5500年前)の
古代環濠集落であった事が確実となり申した。しかしそれは中里城遺跡の始まりに過ぎず、10世紀
前期からも集落が成立し、約100年ほど継続したのち11世紀代に廃絶したと考えられている。当然、
平安期の土師器や須恵器、砥石と言った生活遺物も出ている。また、唐川城と同様に鍛冶場の遺構も
検出、製鉄時の鉄屑も発見された。特に平安期集落の末期には敷地内を柵列や空堀で区画分けし、
更には平場全体を囲うような大規模空堀の痕跡も確認、その中には11世紀までの遺物が残されていた
事から平安期には一定の防御性を求めた「区画集落」という集落形態に進化していたと結論付けられた。
ここで検出された柵列跡は全長85m、空堀は幅5m・深さ3m・総延長130mを数えており、集落が大がかりな
広がりを見せていた様子を物語ってござる。その一方、廃絶時期が11世紀代と言うのも興味深いもので
前九年の役や後三年の役などの奥州大乱を経て中央政権の影響力が津軽まで波及し、縄文期からの
古い集落形態が有効で無くなった様子を示している。
教育委員会の発掘調査は更に続けられ、1993年(平成5年)には出土物の検証、1994年(平成6年)から
別曲輪の試掘を行い、これが1997年(平成9年)の空堀発掘まで継続している。この時期の調査は、
町内にある他の遺跡と並行して行い、それらとの関連性を考慮しながら検証され申した。結果、
室町時代の青磁・白磁・瀬戸・越前・珠洲と言った各種焼物が出土、この城が安東氏統治時代にも
何かしら用いられていた事も想定されたのでござる。十三湖を囲む、十三湊防御の支城群の1つで
あったと推測できよう。城内から検出した遺物に15世紀以降の物が見受けられない事も、安東氏が
南部氏に追い落とされて以降はこの城が用いられなくなった、つまり安東氏の城であったと言う
証と言える。一方、主郭の西にあった敷地(V郭)は江戸期になって神明宮が創建され、1948年
(昭和23年)には経塚(経典を土中に埋納した塚)も発見された場所だが、発掘ではそれを裏付ける
遺物が発見され申した。江戸時代、中里城址は地域信仰の拠点となっていたようである。
では改めて、中里城の構造を記してみる。十三湖へ注ぐ中里川を北に控えた丘陵地を城地とし、
主郭(T郭)と想定される山頂部を平場に啓開、その南に尾根続きで繋がる山塊の端部がU郭、
反対に主郭から西へと連結する小曲輪がV郭とされている。主郭は海抜50m、麓との比高は40m程。
U郭の高さも同様だ。1989年〜1992年に調査したのが主郭、1994年〜1997年の発掘はU郭が主で
V郭にあった神明宮は明治期以降、このU郭に遷座してござる。それぞれの曲輪は下段に3重ほどの
帯曲輪が囲む構造で、これらはやはり中世の遺構と考えるべきであろう。主郭の北東隅には
井戸跡も検出されている。
発掘調査の終了に合わせ、1996年(平成8年)から「中里ものがたりふれあいタウン整備事業」と題し
城址の公園化整備工事が開始された。これは自治省主管の国庫補助事業にも採択され、公園として
必要な展望台や四阿・駐車場などの他に歴史再現の為の竪穴住居や井戸跡の展示設備、あるいは
史跡案内板といった物も整えられた。この工事はその年の8月27日に着工、翌1997年9月27日に竣工し
10月1日、中里城址公園が開園してござる。また、町おこしの一環として「のれそれ中里」という
中里城址イメージソングを作っている(写真右)。城のイメージソングと言うのも中々無いものだが
河島英五作曲というのだから大したもの!
様々な取り組みが評価され、2003年(平成15年)4月14日に青森県指定史跡となっている。
なお、こちらの城も「なかさと」「なかざと」とどちらの読み方も出来そうだが、柴崎城とは異なり
「なかさと(濁らない)」と読むのが正当。


現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群
城域内は県指定史跡







陸奥国 平舘台場

平舘台場の砲座土塁から望む平舘海峡(陸奥湾)

所在地:青森県東津軽郡外ヶ浜町平舘田の沢
(旧 青森県東津軽郡平舘村田の沢)

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★★☆
公園整備度:★☆■■■



平舘は「たいらだて」と読む(「ひらだて」は誤り)。幕末、弘前藩が沿岸防備の為に構築した砲台場跡。
築造に先立つ1834年(天保5年)、現在の青森県東津軽郡今別町袰月(ほろづき)当時の陸奥国津軽郡
今別村袰月に米国の捕鯨船が接岸し乗組員が上陸、1843年(天保14年)には八戸沖に異国船が現れる等
青森県の周辺海域にも外国船舶が頻繁に来航していた。既に蝦夷地(北海道)ではロシア船との遭遇や
限定的ながら武力衝突も起きていた頃、幕府は沿岸警備に悩まされるようになっており、諸藩にもその
対応を命じるなど緊張感が漂っていたのである。そうした中、1847年(弘化4年)に平舘にもオランダの
捕鯨船が漂着、8人の船員が上陸し食料や酒を要望。船内には100名ほどの乗組員が居た様子で、もし
全員が上陸していたならば、かなりの争乱になった事が推測できた。事態を重く見た弘前藩は、陸奥湾の
出入口を塞ぐここ平舘の防備が肝要と考え、1848年(嘉永元年)12月に台場を築く。これが平舘台場だ。
台場が築かれた地点から、陸奥湾の対岸に当たるむつ市脇野沢面木までは10.4km。平舘海峡は湾を
塞ぐ最短地点である。既に津軽海峡は異国船が往来する事が茶飯事となっていた為、現実的な警備の
対応としては陸奥湾を封鎖する事が津軽藩領への外国勢力上陸を防ぐ最も効率的な方法であっただろう。
陸奥沿岸の外洋に面した部分は切り立った崖が多く、上陸に適した場所は陸奥湾内に限られるからだ。
また、台場を陸上経路から見ると松前街道に沿った位置で構築している。松前街道とは、名前の通り
松前藩(北海道松前郡松前町)が参勤交代で江戸へ向かう際に用いた道で、当時の主要街道であった。
大名行列が通る幹線道路という事は、武器弾薬の補給が容易である事を意味する。街道は松並木が
両脇を固め、夏の暑さや冬の風雪を凌げるようにするのが通例であるが、それに接した台場なれば
砲座周辺の土塁にも松を植え、海から眺める景色に溶け込ませるよう偽装してござる。台場土塁に
植えられた松は33本と云う。こうした土塁の高さは約2.3m、幅はおよそ10mとなっている。土塁内部の
敷地は東西11m×南北80m、湾曲して扇形に近い四辺形。この中に大砲を据えたと推測される窪地が
7ヶ所あり、砲座から外へ砲門を開く土塁の開口部(写真)からは陸奥湾を行き交う船が現在でも良く
見える。台場への出入口は2ヶ所。それは南北両端の台場隅部に構えられており、出入りは屈曲した
経路を辿るため、さながら虎口の様相を呈してござった。津軽藩は平舘陣屋(御仮屋)をこの台場の
近隣に設置、そこに藩兵を駐留させ台場警備を交替で勤務させていた。
津軽地方では、深浦(西津軽郡深浦町)・鰺ヶ沢(同郡鰺ヶ沢町)・龍飛(東津軽郡外ヶ浜町)等にも
台場が築かれた。長州藩(現在の山口県)を脱藩し全国遊学の旅に出ていた吉田松陰は、同志の
宮部鼎蔵(ていぞう)らと共に1852年(嘉永5年)3月7日、この平舘台場を訪れ見学。その後、平舘の
港から船に乗り青森港へ向かったと「東北遊日記」に記載している。しかし台場は実戦を経験する事の
ないまま、幕府が開国の方針を採ったために程なく廃止されたと云う。
現在、跡地は土塁が綺麗に残り当時の規模を感じさせてくれる。土塁造りの台場がほぼ完存するのは
全国的に見ても貴重と言え、2004年(平成16年)4月19日、青森県指定史跡になった。史跡指定面積は
周辺松林も含めた1万1941uでござる。平舘灯台の直下、駐車場もあるので車なら簡単に行ける。


現存する遺構

土塁・郭
台場敷地は県指定史跡





七戸城  浅瀬石城・黒石城・黒石陣屋(蝦夷館)・田舎舘城