陸奥国 七戸城

七戸城跡石碑

所在地:青森県上北郡七戸町字七戸

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★☆■■
公園整備度:★★☆■■



別名で柏葉城。現状、城跡は史跡公園になっているが、この公園の名が柏葉公園でござる。
築城の起源には諸説あり、最も古いものは平安末期〜鎌倉初期頃に現地の豪族・七戸太郎三郎朝清の
手に拠るもの、次いで鎌倉時代末期に工藤右近将監が構築したとする説がある。朝清は南部氏の始祖
南部光行(みつゆき)の3男(6男説もある)で、源頼朝が鎌倉幕府を創設するにあたり父・光行が陸奥国
三戸郡に所領を与えられ、そこから分知されて七戸を領したとされる。朝清が七戸に入ったのは
1199年(正治元年)の事と云うが、後に久慈(岩手県久慈市)も所領にした為、久慈三郎をも名乗り
七戸氏と久慈氏の両方を創始したという人物だ。一方、工藤右近将監というのは奥州工藤氏の一員で
年代的に見て御内侍所の工藤貞光なる者と推定されている。工藤氏と言うのもまた頼朝の命で奥州へ
入府した一族。元来は伊豆国の国人衆と見られ、鎌倉期には得宗北条氏の被官となっていた。
しかしいずれの築城説も有力なものではなく、鎌倉幕府滅亡直後の1334年(建武元年)に北畠顕家が
「工藤将監の館を伊達右近大夫行朝(ゆきとも)に与える」との命令書を発行している所に、七戸城の
変遷を想像させるのみである。結局、この文面から「工藤氏による城館があった」と言う逆算が成立し
これが七戸城の事を指すと考える根拠になる訳だが、一方で工藤氏の居館は別のものとする説もある。
なお、北畠顕家は倒幕を果たした後醍醐天皇の皇子・義良(のりよし、のりながとも)親王に従い
奥州へ下向し統治を担った人物。義良親王は後に後醍醐帝の跡を継いで後村上天皇になるのだが
その腹心として実務を行った顕家は、陸奥守(後に鎮守府将軍)に任じられ建武新政の東国統治を
取り仕切っていたのだ。この為、工藤将監(鎌倉幕府執権・北条氏の配下)の所領を没収し、朝廷に
与した伊達行朝に恩賞として与えた訳だ。しかし翌1335年(建武2年)2月、伊達五郎(修理亮)宗政に
「七戸内野辺地(青森県上北郡野辺地町)」が与えられ(つまり伊達氏は七戸本領から外された?)、
同年3月には顕家が結城七郎左衛門朝祐(ともすけ)の所領を召し上げ、南部遠江守政長に宛がうとの
命令を出した。この「結城朝祐」なる者は、下総国結城(現在の茨城県結城市)に本拠を置く武家の名門
結城氏の分流で、鎌倉幕府の倒幕運動に参加した功績で七戸に新領を与えられていた。よって、
工藤将監の所領は、一旦は伊達行朝に与えられたが結城朝祐へ移され、更に南部政長のものに
なったと繋げられる。
南部政長は、八戸(青森県八戸市)に根付いた根城南部氏の1人。南部一族は揃って南朝に従い、故に
北畠顕家の覚えも目出度く、七戸の領地を与えられたのだろう。一方の結城朝祐は、結城一族内での
対立や足利尊氏との関係もあり、この直後から北朝方として戦い始める。建武新政は武士の処遇を
軽んじ、また各地の所領問題も二転三転させて決断できない事が仇となって足利尊氏(北朝方)の
決起を招いたが、朝祐も七戸領の帰属に不満を抱いて南朝を見限ったのかもしれない。
ともあれ、政長の七戸入府によって改めて大規模な城館構築が行われ、これが確実視される七戸城の
築城とされている。八戸にある根城と共に、七戸城は南部氏の、そして南朝方の重要拠点として重きを
成す。この頃、南北朝の戦いが最も激しくなり南部一門は各地に転戦し、また戦死していくが、政長の
嫡孫である薩摩守信光系が根城(八戸)南部氏を相続する一方で信光の弟である雅楽助政光が
七戸城を継承。政光は一時期根城南部家を継いだが、隠居に及んで兄・信光の子である左近将監長経に
家督を譲り、七戸城に隠居したとされる。そして政光の長男・政慶は朝清以来である七戸氏の名跡を
継ぎ、七戸南部氏の祖となり申す。以降、七戸南部氏がこの城を受け継いでいく。ちなみに政光が
没したのは1419年(応永26年)の事と言い、83歳という当時としては驚異的な長命であった。
しかし跡を継いだ政慶は1456年(康正2年)9月に城を落とされる災厄に見舞われる。諸書に伝わる
「蠣崎蔵人(かきざきくろうど)の乱」で蠣崎軍に攻め落とされたのだ。この蠣崎蔵人の乱と言うのは
「公国史」という史料(「青森県史」はこれに準拠)では蠣崎氏と南部氏が猟糧争いから所領紛争に
発展したと書き、「東北太平記(田名部御陣日記)」では南朝復活を大義名分にした蠣崎蔵人信純が
攻め上がろうと南部領に侵攻したとするものだ。但し、当時既に南北朝合一は終えていた上、信純が
名目上の主に据えた新田義純(後醍醐天皇の皇子・護良(もりよし、もりながとも)親王)の後裔)は
信純自身の手によって謀殺されていた。この兵乱は、蠣崎氏が本拠地としていた陸奥国下北郡
宇曽利郷田名部(現在の青森県むつ市)で決戦が行われた為「田名部の乱」とも言われる。それまで
津軽地方の安東氏と対立していた南部氏の間隙を衝き、下北半島の蠣崎信純が挙兵、南部領に
攻め込んだのだ。この乱の序盤において七戸城は落とされ、蠣崎方に占拠された。
しかし南部方が態勢を整えて反撃を開始、12月に七戸城は奪還され政慶の手に戻る。更には根城
南部氏の八戸河内守政経が船団で田名部へ強襲をかけ、1457年(長禄元年)2月に決戦が行われた。
蠣崎軍は大敗を喫し蝦夷地(北海道)へ逃れるに至る。以後、田名部は根城南部氏の所領に加えられ
七戸城は平穏を取り戻したのでござる。一方、蝦夷地に渡った蠣崎氏は以後そちらで勢力を蓄える
事になり、近世には松前氏として幕藩体制へ組み込まれていく。
この他、1911年(明治44年)8月に刊行された南部史記「南部史要」に拠れば1483年(文明15年)
南部彦四郎の乱が起こり七戸城は落城するも、彦四郎はすぐに捕らえられ獄死したとある。
七戸南部氏は政慶の後、光慶―守慶―政進―慶武―慶国―家国と続き(諸説あり)豊臣秀吉の
全国統一期を迎えた。宗家である三戸南部氏の当主となっていたのは大膳大夫信直であったが
一族の有力勢力である九戸南部氏の九戸左近将監政実(まさざね)は当主の座を争い不満を募らせ
1591年(天正19年)3月13日、遂に叛旗を翻した。九戸党は南部家の中でも最強軍団で、信直の
独力では鎮圧できない状態に陥る。この情勢に七戸家国は九戸方に加担。もともと、家国も信直が
当主の座にある事を良しとしていなかったようで、信直の軍令に従わない事があった。
しかし信直は豊臣秀吉から南部宗家の当主と認められた存在である。即ち、信直に反乱するのは
中央政権に逆らうのと同義でござった。よって、九戸政実の乱は南部一族内の争いに留まらず
豊臣軍の介入を招くことになる。政実鎮圧の為、蒲生氏郷や浅野長政をはじめとする畿内の
大軍勢が派遣され、九戸軍は居城の九戸城(岩手県二戸市)で籠城するようになった。そして
固く守る九戸城は謀略によって攻め滅ぼされる運命を辿る。七戸城でも同様の結果となり、
この年の8月から9月にかけて豊臣方の上杉景勝軍の猛攻を受けて落城。家国は捕らわれた後
斬首され、ここに七戸南部氏は滅亡。城も廃城とされ申した。
しかし三戸南部氏にとって七戸は北を守る要所でござる。特に、津軽地方を占拠した津軽氏は
南部家にとって不倶戴天の仇敵であった。津軽氏が南部領へ侵攻するのを防ぐには、七戸城が
欠かせない存在と言える。この為、南部一門衆の重鎮である南氏から右馬助直勝が七戸氏の
名跡を復興、居城の浅水城(青森県三戸郡五戸町)から七戸へ移り、城も再建したとされる。
直勝の七戸入府がいつの事かは判然としないが、彼の跡を継いだ嫡男の隼人正直時は1597年
(慶長2年)の時点で治世を行っている事から、それより前と考えられよう。七戸南部氏の所領は
2000石、南部藩の家老職を務めたとされ、直時の没後は養子として入った隼人正重信が後を継ぐ。
この重信は南部藩主・利直(信直の長男)の5男として産まれ、幼少の頃は寺に預けられていた為
一般民衆の生活を良く知る“庶民の子”として育てられていた。長じて七戸家を継ぐが、更には
時の南部藩主・重直(利直の3男)が嗣子無くして没した事から、宗家後継にも迎え入れられた。
民の暮らしを熟知した重信は善政を敷き南部家の隆盛を成し得たが、一方これで七戸南部家は
無主となり、七戸領は宗家の直轄地に編入され申した。斯くして再び七戸城は廃され、1664年
(寛文4年)旧本丸と二ノ丸敷地を転用した代官所が設置され、現地統治の実務が行われていく。
七戸家の名跡は南部宗家の庶子の中から数代が相続したが、1万石に満たない所領であった為
大名とは扱われず、長らく旗本として存続。しかし1804年(文化元年)8月、幕府に七戸代官所を
「要害屋敷」と認めさせ、城郭に準ずる存在となった。そして1819年(文政2年)南部播磨守信鄰
(のぶちか)が旧領5000石に6000石を加増され1万1000石となった事で盛岡新田藩を立藩させた。
とは言え、この石高では城主格大名(城を持つ(作る)家格の大名)とは認められず、また江戸に
常駐する定府大名とされた為、城を持つ事は許されなかった。よって、七戸代官所がそのまま
盛岡新田藩の藩庁として用いられたと言う。信鄰の次代、丹波守信誉(のぶのり)は1858年
(安政5年)に城主格大名へと昇進したものの、形式上の事だった為に特段の変化はなかった。
時は幕末、全国が新政府と旧幕府いずれに与するかで分かれる中、信誉の跡を継いだ美作守
信民(のぶたみ)は、本家の南部藩と共に奥羽越列藩同盟に参加し佐幕の立場を貫く。結果、
新政府に敗れ1868年(明治元年)12月に強制隠居の処分を受け家督は養子の信方(のぶかた)へ
譲らされた。その為、翌1869年(明治2年)正月に新政府から信方へ1万石が与えられ七戸藩の
存続が認められる。その上、それまでは南部藩の支藩扱いであった七戸藩がこれにより独立
大名となった。この時、新政府は七戸藩の知行が戊辰戦争以前から確定していたかを
問題視したが、南部藩の家老・新渡戸傳(にとべつとう)が証拠となる七戸家への分知記録を
提出し七戸藩が残されたのでござるも、これは新渡戸がでっち上げた文書との説もあり
真相は定かでない。いずれにせよ、彼の功績により南部藩と七戸藩が守られた事に変わりなく
その孫が旧5000円札の肖像画となった名士・新渡戸稲造だというのも英傑の血と言うべきか。
さて晴れて独立した七戸藩が成立したのも束の間、直後に版籍奉還の上に1871年(明治4年)
廃藩置県で廃止されてしまう。藩領は七戸県となるが弘前県と合併の後に青森県と改称。
城地は七戸町役場七戸庁舎のすぐ裏にある台地。上面が平坦でありながら、周囲との
比高差が15m程を有し、しかも切り立った斜面で囲まれている。北〜東〜南の3面がこうした
法面で隔絶し、西側だけが台地続きの地形。よって、城址からは七戸町が一望できる隠れた
名所でござる。この敷地内を本丸・本城(二ノ丸)・北館・下館・西館・角館・西外郭という
大きく7つの曲輪で分割し、これに宝泉館という物見郭や南外郭の帯曲輪が附随する縄張り。
城地の台地と谷戸を挟んだ北側にも西から東へ延びる台地がある為、そちらを貝ノ口出城と
して造成、本城域と挟み込んで敵を殲滅できる構造に仕立てている。各曲輪の間は堀で区切り
明確な曲輪取りを行っているが、大半が空堀なのに対して西館〜北館〜本城の間にある
L字型の堀だけは水濠に仕上げられている。こうした敷地は殆どが綺麗な状態で残されており
1941年(昭和16年)12月13日に国の史跡に指定された。尤も、日米開戦直前のこの時期に
指定された国史跡なので、南朝遺跡としての“国策史跡”と言う面が否めなくもない。
史跡指定の要旨として「鎌倉攻ニ從ヘルヲ始メ北奧ニ於テ賊軍ヲ討チテ功アリ」たる南部政長が
「建武二年三月動功ノ賞トシテ七戸ニ所領ヲ宛行」て築いた城とされている。明らかに
南朝正統性に立脚した皇国史観が根底にある指定理由だ。実際、城跡に赴いてみれば
史跡の保存状態は良いものの、城郭としての遺構は然程技巧的とも言えず“大味”な印象を
受けるように感じる。とは言え、これだけの大きさを維持した城址であるからして、十分
“立派な城”である事は間違いない。1989年(平成元年)8月14日と2000年(平成12年)12月
13日にも国史跡の追加指定を受けており、この城が確かに見事な史跡だという認識が為されて
いる証拠でござろう。本城と貝ノ口出城の間を塞ぐ位置に東門が2008年(平成20年)復元され、
古式に則った姿は実に重厚で美しい。これも七戸城址の見所と言える。1991年(平成3年)からは
発掘調査も行われ、史跡としての価値も高まった。それに拠れば、城内から出た遺物は概ね
15世紀以降のもので、14世紀以前のものは検出されていない。これは七戸城が成立したのが
南北朝合一後に南部氏の統治体制が確定してからと言う事を指していよう。史跡指定面積は
約9万5000uだ。
一方、廃城後に破却された城内諸建築のうち本丸御門が七戸町町(まち)にある浄土宗
龍泉山青岩寺の山門として移築現存している。元来、この門は2層の楼門であったが、
大正時代に腐食が激しくなり、1923年(大正12年)上層部と袖門を撤去し改築、現在の
平門形式四脚門に改造されている。1990年(平成2年)7月6日、七戸町文化財に指定。
なお、この寺の庫裡も七戸城の残存建築(七戸県庁舎)を1873年(明治6年)に移した物で
あったが、老朽化で惜しくも1931年(昭和6年)に改廃されてしまった。


現存する遺構

堀・土塁・郭群
城域内は国指定史跡

移築された遺構として
青岩寺山門(旧本丸御門)《町指定文化財》




三戸城  津軽半島城址群