家臣の放火に端を発した新城構築■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国時代に三戸南部氏の本拠として用いられた連郭式の山城。別名として留ヶ崎(とめがさき)城と呼ばれる。■■■■■■■
南部氏は甲斐源氏の流れを汲む氏族で、甲斐国南部牧(現在の山梨県南巨摩郡南部町)に所領を有した源光行(みつゆき)が
地名を採って南部姓を名乗るようになり、南部三郎光行と称したのが始まり。光行は源頼朝の奥州征伐で功績を挙げ、1189年
(文治5年)陸奥国糠部(ぬかのぶ)五郡を与えられ、彼の子がその領地内に分散して入部した事で、陸奥国の北部には南部氏
一族が派生していく。例えば光行の長男(庶長子)である彦太郎行朝(ゆきとも)は一戸(岩手県二戸郡一戸町)に入り一戸氏を
創始し、光行の4男(6男とも)・朝清(ともきよ)は七戸(青森県上北郡七戸町)に入部し七戸南部氏となった具合だ。そんな中、
南部家の家督(宗家)を継承したのが光行の2男・彦次郎実光(さねみつ)で、三戸を領していた。南部一族は南北朝期において
南朝に与し畿内まで軍を発した事もある実力者で、建武新政で一時的に根城南部氏(八戸を本拠とした一族)が宗家の地位を
得たものの、室町幕府の体制下に組み込まれる中で再び三戸南部氏が惣領に返り咲いている。■■■■■■■■■■■■■
その三戸南部氏が本拠としていたのが聖寿寺館(しょうじゅじだて、青森県三戸郡南部町)であったが、南部氏24代・大膳大夫
晴政(はるまさ)の頃に当たる1539年(天文8年)6月に放火され焼失してしまう。晴政家臣である赤沼備中なる者の反逆による
炎上で、程なく赤沼は討ち果たされたが、これを機に晴政は新城の構築を決意し、それにより作られたのが三戸城だと言う。が、
三戸築城を永禄年間(1558年〜1570年)とする説もある為、聖寿寺館が焼けたからと言ってすぐに築城された訳では無いようだ。
ともあれ、三戸“新城”が出来た事によって聖寿寺館は「本三戸(もとさんのへ)城」と呼ばれるようになった。■■■■■■■■■
川に守られた山城で集権化を図る■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
三戸城の城山は現在の三戸町役場から北東へ約500m、南西から北東へ延びる細長い山容になっている。山地の全長はおよそ
850m、全幅は最長部で350mほど。山の全周は急峻な傾斜地で取り囲まれているものの、山頂部は比較的大きな平場が広がり
その中をいくつもの曲輪に分割した構造。山並みのほぼ中央にある山頂(標高130m)部が本丸で、そこから東西へと、概ね山を
“輪切り”にするような感じで曲輪が連なる縄張り。本丸は勿論城主である南部晴政の居館があったという事だろうが、そこから
西(南西側)へ向かって並んだ曲輪には南部彦八郎利康邸・南部彦九郎政直邸・石井伊賀邸・石井善太夫邸・鳥谷大炊邸・東
彦左衛門邸・石亀七左衛門邸・医者屋敷・目時筑前邸・北左衛門佐邸・桜庭安房邸、本丸の東(北東側)にあるのは淡路丸や
陸奥与四郎邸と、殆んどの曲輪にはそこに館を有した有力家臣の名が付けられて区分されている。つまり、南部晴政は家臣を
三戸城内に集住させる事で大名集権化を進めようとした狙いがあった訳だ。中世以来(それまでの本三戸城で)の家臣統制では
個々の家臣は己の在所に居を構えるのが通例で、それ故に主君である筈の大名の意に反する動きも取れたのだが、戦国乱世も
終盤になると集権化が図られて強大な大名権力の下に家臣団を組み込む事が全国的に行われていた為、三戸城でもそういった
動きに対応した城造りが考えられたのだろう。何せ本三戸城が焼け落ちたのは家臣が叛旗を翻した事が原因なのだから、それを
契機に?逆手に取って?晴政が南部氏の統治体制を強化する原動力としたのは理に適っている。しかしその一方、曲輪と曲輪の
間には然程明確な区別や序列が見受けられず、晴政の集権体制構築は“途半ば”であった状況も見て取れるのが面白い。■■
城山の南西端が大手で、武者溜まりと呼ばれる馬出状の前衛で守られていた。その前には綱御門と呼ばれる枡形虎口を備えた
櫓門が厳重に城を守っている。反対に本丸の東側裏手には鶴池と亀池という2つの貯水池があり、城の水利を賄っていた。その
先にあったのが搦手口となる鍛冶御門。細長い城山の北面に沿って熊原川が流れており、城域の東側を蛇行する馬淵(まべち)
川と鍛冶御門を下った先で合流している。この合流地点となっている岬状の土地が留ヶ崎でござる。留ヶ崎から馬淵川を下れば
約28kmで根城(青森県八戸市、根城南部氏の本拠)、33kmで太平洋(八戸港)に達する。留ヶ崎城とも呼ばれるこの城は、即ち
河川交通を意識した選地であった事を意味しよう。2つの川に守られ、その川を管制し得る山城、それが三戸城であり、馬淵川の
河畔は標高30m強なので、城山の比高差は95m程を数える。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
九戸の乱を機に近世城郭化■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
築城した南部晴政は1582年(天正10年)1月4日に没し、その跡継ぎであった嫡男の彦三郎晴継(はるつぐ)も同月24日に死去。
年若い晴継が父の死から20日後に亡くなった点には様々な憶測が飛ぶものの、結果的に三戸南部家(南部宗家)の家督を継承
したのは晴政の養子だった田子九郎信直(たっこのぶなお)であった。信直は晴政の従兄弟であり、また娘婿でもある。斯くして
南部家26代当主となり南部大膳大夫信直と名を改めた彼は南部家中の集権化をより進めていき“南部家中興の祖”と呼ばれる
賢君に成長していく。その過程で三戸城はより強化されたと言う一方、この相続に不満を持つ一族の有力者も居た。九戸南部家・
左近将監政実(まさざね)である。九戸家は晴継の没後、宗家相続の筆頭候補に目されていたが、それが信直によって阻止され
やがて大規模反乱へと繋がった。豊臣秀吉が全国統一を完成させた翌年、1591年(天正19年)に起きた「九戸政実の乱」である。
(このあたりに、南部家の権力集中が未だ過渡期にあった状況を匂わせている)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
同時期、それまで南部領であった津軽地方でも大浦為信が独立し、政実は為信と示し合わせた上での挙兵であった。また、九戸
一党は南部家中でも最強の兵力を有しており、彼らの蜂起に南部信直は独力で鎮圧できるだけの力が無かった。その為、天下の
主になった豊臣秀吉へ援軍を要請する。秀吉は信直を“南部家の正当な家督継承者”と認めており、それに対する九戸の反乱は
中央政権たる豊臣政権への反逆と同じである。秀吉は北の果てで起きた謀反に蒲生飛騨守氏郷や浅野弾正少弼長政ら有力な
大名を派遣、力でねじ伏せた。但し、大浦為信は南部信直同様に秀吉から領地安堵を公認されていたため、信直がその所領を
回復する事は出来なかった。こうして九戸一族は滅び、大浦為信は津軽右京大夫為信と称して津軽の独立大名となり、信直は
残された領地を堅守する大名として生きていく事になった。この乱を経て知己を得た蒲生氏郷は三戸城改修に助力し、本丸には
天守に相当する三重櫓が創建されている。また、城内各所を石垣作りにするなどして補強し、三戸城は中世城郭から近世城郭へ
少しずつ体裁を改めていった。大櫓や石垣での法面加工は、織豊系城郭(織田信長〜豊臣秀吉によって確立された城郭形態)に
必須の“権威の象徴”となるものでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
九戸の乱を機に新城への移転■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方、浅野長政からは「三戸は閉塞の地でこれ以上の発展は見込めない」と指摘され、新城への移転を提案されたと言う。南部
家は津軽の所領を失った代わりに、秀吉から新たな所領を南に与えられていた。かつて南部晴政は実力で南北に所領を広げて
「三日月の 丸くなるまで 南部領」と謳われる程に繁栄したが、津軽の独立や九戸の乱を終えて所領範囲が変わった事で三戸は
むしろ領土の北辺に偏った位置となってしまったのである。九戸の乱が平定された後、九戸城(岩手県二戸市)も織豊系の改修を
受け、南部家はそちらを本拠に変更したが、いずれにせよ北に偏った場所である事に変わりはなかった。その為、信直は不来方
(こずかた)の地に新しい城を築く計画を立てる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
結局、この新城計画は信直存命中には果たせなかったものの、後嗣である27代・信濃守利直(としなお)によって成し遂げられた。
1615年(元和元年)不来方城、縁起を担いで名を改め盛岡城(岩手県盛岡市)に南部家は居を移す事となり、三戸城は支城として
扱われ「御古城」の名前で呼ばれるようになる。なお、“新首都”への移転を記念して三戸城下にあった橋の擬宝珠が盛岡城下へ
移設されたそうで、その擬宝珠は現存し国の重要美術品に認定されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
盛岡城の工事はその後も続き、全域の完成は1633年(寛永10年)までかかっている。恐らく、それまでは三戸城が有事に際しての
拠点となるよう維持されていたのだろう。幕府からは一国一城令(大名の居城以外の城を破却する命令)が出されていたが、盛岡
移転の後も三戸城は存続しており、城代が差配する中で石垣の補修や維持管理が継続されている。貞享年間(1684年〜1688年)
ようやく城代制も廃され、三戸代官が預かる事となった(名目上の廃城)が、それでも城山はそのままの状態が残されたらしい。■
国史跡指定への道のり■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1956年(昭和31年)10月、近隣の山岳地と合わせて三戸城山は名久井岳県立自然公園に指定された。更に観光誘致を目的として
1967年(昭和42年)本丸の隅部(元来あった三重櫓の位置では無い)に模擬天守が建てられ「温故館」という歴史資料館になって
いる。また、1989年(平成元年)には綱御門も復元された。綱御門という名は、般若心経を念じた綱(注連縄(しめなわ)的な?)を
城の安泰を祈願して掲げていたから名付けられたとか。ただ、(個人的感想だが)この模擬天守や復元門(特に石垣)が…どうにも
ウソくさい見栄えなのが残念。歴史的検証が然程重視されなかった時代の再建建築なので仕方がない話なのだが、せめて石垣は
隣にある現存石垣と意匠を合わせる努力はして欲しかった。完全に「ブロック塀」みたいな作りは戴けない話だ。なので、紹介した
写真もそれらの再現建築ではなく、本丸跡(駐車場になっている)の真ん中にある城址碑を使用した。■■■■■■■■■■■■
話が逸れたが、現状で青森県立城山公園となっている三戸城址には約3000本の桜の木が植えられ、花見の名所としても有名だ。
公園整備により改変を受けた部分もあるが、基本的に城山の構造は保たれていて、2004年(平成16年)から2019年(令和元年)に
かけて三戸町教育委員会による発掘調査も行われた。その結果、廃城時の遺構をそのまま封印したかの如き状況が浮かび上り
建物配置や整地面の年代、石垣の加工法、国産陶器を始めとする遺物が確認出来た。戦国末期から近世初頭にかけての大名
居城を明らかにし、また東北地方における築城術を検証し得る遺構である事から、2022年(令和4年)3月15日に国の史跡に指定。
ただ、史実に基づかない模擬天守の存在は問題視されたそうで、国は将来的に撤去を求めているそうな。あの模擬天守の運命も
あと数年…?だとすれば、何だか惜しくも思えてくるのはワガママでござろうか(苦笑)■■■■■■■■■■■■■■■■■■
移築された建築物は門が2棟。表門と呼ばれる薬医門が町内川守田字中屋敷の曹洞宗月渓山龍川寺山門に。切妻造り銅板葺き、
一間一戸で欅材を使用し、1980年(昭和55年)三戸町有形文化財に指定されている。もう1棟は同じく町内の六日町にある臨済宗
梅嶺山法泉寺の山門。こちらは三戸城の搦手門であったと云い、切妻造り鉄板葺、一間一戸の棟門で、柱間3.37m×軒高4.17m。
変形唐破風(屋根の棟ではなく妻側が唐破風)を持つ。これも1980年に町の有形文化財となっている。また、城門ではないのだが
代官所時代の門が浄土宗護念山観福寺に。薬医門、総欅造りの金属板葺きで柱間2.1m×軒高3.71m。代官所は1747年(延享4年)
建て替えられており、その折の移築と考えられてござる。これまた1980年に三戸町有形文化財に指定。■■■■■■■■■■■
門以外には上記の法泉寺旧庫裏が城の御台所部材を転用したものだとか。加えて龍川寺には城の御殿で使われていた襖4枚や
衝立、「松風の釜」と言われる湯釜が寄進されている。松風の釜は1982年(昭和57年)町の文化財に指定されている。■■■■■
龍川寺には城で使われていた鐘(梵鐘)もあったそうだが、それは太平洋戦争中に金属供出令で失われてしまったとか。残念!■
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