南部氏分流・根城南部氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「ねじょう」と読み申す。陸奥北部に広大な版図を築いた南部氏の支族・根城南部氏の居城。軍事集団の根拠地を
「根城(ねじろ)」と云うが、根城南部氏は「陸奥の根幹を為す本拠城郭」との意味でこの城名を付けたそうで、その
言葉の意味には(読み方は異なるが)通底するものがあろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
平安後期に甲斐国巨摩郡南部牧(現在の山梨県南巨摩郡南部町)に本拠を置き、その地名から南部姓を名乗った
甲斐源氏の一員・南部三郎光行(みつゆき)は、源頼朝に従い奥州征伐へ参戦した。その軍功を以って陸奥国糠部
(ぬかのぶ)五郡(現在の青森県東部〜岩手県北部一帯)を賜った事で光行の子息は陸奥各所に散らばり所領とし
光行の2男・彦次郎実光(さねみつ)は三戸、3男・六郎三郎実長(さねなが)の後継が八戸に(他の息子も各所に)
入部している。その子孫はそれぞれ三戸南部氏、八戸氏と言った具合に派生。光行の嫡子は実光だった為、南部
宗家は三戸南部氏と言う事になる訳だが、南北朝時代に八戸氏を継承した又次郎師行(もろゆき)は、実は実光の
曾孫で、甲斐南部牧に残って生活していた中から八戸へ養子入りした人物であった(出自・系譜には諸説あり)。■
師行は1334年(建武元年)、八戸で新たな城を築城。これが根城である。その前年、1333年(元弘3年/正慶2年)に
鎌倉幕府は倒され、後醍醐天皇による建武新政が始まっていた。朝廷は東北鎮定のために義良(のりなが)親王や
陸奥守・北畠顕家(あきいえ)を派遣しており、師行はそれに従って八戸へ入ったものであったとか。このように南部
一族は南朝に与していく歴史を辿るのだが、中でも親王や顕家に近しい師行は抜群の働きを成していく事になる。
当時、陸奥北部は御内人(みうちびと、鎌倉幕府執権・北条家に直属の家臣)が数多く残り、新政権への従属を良しと
していなかった事から、親王・顕家それに南部氏はその平定に奔走するのであるが、そうした中で根城が築かれて
南部氏の、そして南朝の威光を彼の地に知らしめた訳だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
南朝への忠義に生きる■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この後、陸奥の国衆は鎮圧された代わりに中央政権では建武新政に反感を抱いた武士らが足利尊氏を奉じ北朝を
立てた。後醍醐天皇の親政は勲功のあった武士を蔑ろにし、側近の公家らを優遇した事に対する不満が募った結果
南朝と北朝の戦いが始まったのだ。南朝に忠実な南部一門、中でも師行は北朝打倒に東北の辺境から軍を発した。
その功績に対し、南朝は三戸南部氏に替わって根城南部氏(師行が根城を築いた後の八戸氏)を総領と認めていく。
1335年(建武2年)末〜1336年(延元元年/建武3年)にかけて顕家や師行は足利尊氏追討の為に上洛し、近畿から
尊氏軍を駆逐する事に成功。斯くして尊氏は九州へ落ち延びて行くのだった。畿内の平定を見た師行らは陸奥へと
帰還したが、程なく尊氏は西国で勢力を盛り返し再び京都を占領した。後醍醐天皇は吉野へ落ち、ここに“南朝”が
開かれる事となったが、天皇の都落ちに1338年(延元3年/建武5年)顕家と師行は再び畿内へ攻め入る事になった。
だが既に南朝方は軍事的に劣勢となっており、顕家・師行軍は孤軍奮闘するも5月22日に行われた和泉石津の戦い
(大阪府堺市)で敗北、彼らは戦死するのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
師行の討死で根城南部家の家督は弟の遠江守政長(まさなが)が継承。師行は出師に際し遺言を残しており、曰く
「子々孫々まで南朝への忠節忘るべからず」との事だったため政長も南朝に与するのを堅持した。同様に北畠氏も
戦死した顕家に代わり弟の左近衛少将顕信(あきのぶ)が陸奥へ遣わされたとされ、政長は彼に忠誠を尽くしたとか。
政長以後の系譜は三郎信政(政長の嫡子だが家督相続前に没していたとの説もあり)―薩摩守信光―薩摩守政光
(信光の弟)と続くが、南朝は衰退の一途を辿り室町幕府が全国を統べる時代を迎えていく。こうした中で三戸南部
家の大膳大夫守行(もりゆき)は時勢を見て幕府へ帰服を行い、3代将軍・足利義満に近侍するようになる。守行は
南朝への忠義を通し未だ幕府に服従しない政光を説き伏せ、一方で義満へも政光の忠節ぶりを認めるよう取り成し、
両者の和解を成し遂げたが、この過程で再び南部宗家の地位は三戸家に移る事となった(将軍に伺候したのだから
当然である)。ただ、根城南部家も宗家に次ぐ実力者として地位を維持した。もっとも、これには異説もあって、延々と
服属しない根城南部家に対し北朝軍が1341年(興国2年/暦応4年)攻め寄せ、根城での籠城戦が約2年も繰り広げ
られたが城は落ちず、結果として和議に至ったと考える向きもござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国時代の八戸氏と根城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その後は左近将監長経―薩摩守光経―遠江守長安―刑部丞守清―八戸河内守政経(政経より八戸姓を称す)―
但馬守信長―薩摩守治義―五郎義継―弾正少弼勝義―薩摩守政栄(まさよし)と代を重ねるが、この間には秋田
安東氏領への侵攻、近隣で起きた蠣崎蔵人の乱平定などに出兵した。他方、病弱な勝義は子が無く、その後継者と
して八戸氏庶流・新田(にいだ)家から入嗣した政栄に対し、1567年(永禄10年)櫛引(くしびき)弥六郎・東中務政勝
(ひがしまさかつ)ら八戸家の家臣・縁者からの反抗を受けてもいる。詳しく記せば、この年の1月24日に政栄の実父・
新田行政(ゆきまさ)が没し、その葬儀のため根城を離れた八戸政栄に対し、四戸櫛引氏は東政勝と謀って根城へ
攻め寄せたのである。城の留守居はこれを良く防ぎ撃退したが、周辺の民家に放火する等の狼藉を行った。政栄の
後見人にして行政の父、即ち政栄の祖父である新田左馬頭盛政は激怒し、後日の復讐を誓ったと言う。だが老齢の
盛政はそれを果たせず没したものの、遺言で政栄に策を授け、盛政三回忌に櫛引氏を襲撃した。葬儀の日に攻めて
来た櫛引氏に対し、三回忌の日に軍を発するという逆転の発想であった。斯くて1571年(元亀2年)8月28日、櫛引領
並びに東領は攻め落とされ、その領土は八戸氏の手に落ちたのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
結果的にこれで勢力を拡大した八戸氏であったが、時代は豊臣秀吉が天下統一へ動いた頃。1590年(天正18年)
関東征伐の触れを諸大名に出し、未だ豊臣政権の影響下には無かった奥羽の諸勢力にも参戦、つまり服従を要求。
南部家中では惣領である三戸南部家の大膳大夫信直(のぶなお)が参陣する手筈を整え、その留守を守ったのが
八戸政栄であった。八戸家は宗家に匹敵する力を有しており、政栄も信直と同行すれば秀吉から独立大名としての
地位を認められる可能性もあったが、政栄はそれを選ばなかったと言う。八戸家を抑え込みたい信直が謀り政栄を
国元に置いて行ったと言う説もあれば、南部家の結束を固めるため政栄自らが身を引いて、信直の臣下となる途を
選択したとも云われるが、いずれにせよこれで八戸氏は南部家臣としての地位が確定する事になる。そして秀吉が
奥羽へ諸城整理の命令を出した事により、根城も破却対象となった。“家臣”として南部宗家に従う事を定められた
政栄はこの命令を受忍し、“城”としての防御構造物を撤去。だが八戸氏の“住居”である為、居館としては残存した。
この後に八戸氏は弾正直栄(なおよし)―左近直政(直栄の弟)と続くが、直政は若くして亡くなり、その嗣子である
久松も夭折したので当主不在となってしまう。それ故、南部宗家からの命で直政未亡人(直栄の娘)の女古(めご)
姫(名前には諸説あり)、出家して清心尼(せいしんに)が当主に据えられる。清心尼は八戸家の存続に心を砕き、
1620年(元和6年)八戸氏の同族である新田氏から弥六郎直義を婿養子(2女・愛の夫)に迎え入れた。以後、八戸
家は南部藩の筆頭家老として重責を果たす事になるが、その一方で1627年(寛永4年)3月にその重責を買われて
当時まだ政情不安の状態にあった鍋倉城(岩手県遠野市)下の統治を命じられた。斯くして八戸氏(根城南部氏)は
父祖伝来の八戸を離れ、遠野へ居を移す事になる。これにて根城は完全に廃されたのでござった。■■■■■■
根城の縄張りと、圧巻の史跡公園化■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
根城があるのは八戸自動車道・八戸ICの北側一帯。馬淵(まべち)川に沿った低台地上という立地で、川を下れば
程なく八戸港(太平洋)で、逆に遡れば当時の南部宗家の本拠・三戸城(青森県三戸郡三戸町)へ至る河川交通の
要地。概ね東西に細長い低台地の敷地を、西端を本丸とし、東に中館(東北地方では曲輪名称に「館」を用いる)・
東善寺館・東構といった曲輪を並べたのが主城域。この南側(台地を堀で切り離した先)一帯には岡前館、更にその
南に沢里館(さわさとだて)と言う出曲輪が構えられている縄張り。本丸の西側には西ノ沢と呼ばれる大空堀があり、
こちら側からの進入を阻む他、各曲輪間もそれぞれ堀を穿ち分断する構造。城域の北側、馬淵川の河畔には下町、
つまり城下町が開かれ、川湊として繁栄していたようだ。南北朝時代に築かれた城郭にして、経済先進性を重視した
選地には南部師行の慧眼が窺えよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
南朝史跡とあって、日米開戦から5日後の1941年(昭和16年)12月13日に国の史跡に指定された。ただ、戦前の皇国
史観では大した遺構が無くとも「南朝」の伝承があるだけで国史跡となる事例が往々にある中、根城は本当に良好な
敷地保全が為されていたので明瞭な遺構が残存する。1983年(昭和58年)からは11年に及び発掘調査が行われて、
掘立柱建物跡354棟・竪穴建物跡82棟や門・塀・柵の跡など、膨大な遺物を確認した。そうした成果に基づいて史跡
公園整備が行われ1994年(平成6年)本丸の主殿を復元、「史跡根城の広場」と言う有料公園が開園した。主殿の他
馬屋・鍛冶工房・板倉・納屋・門などの諸建築を建て、それ以外の建物跡も配置が分かりやすく平面展示されている。
ちなみに、有料公園だけあって入城口を通らないと中に入れない…と云う事は、敷地を囲う柵列などが並んでいる為
まさに「城郭」としての武威を醸し出している(笑)また、城の建築物と言えば「瓦葺きの」「白漆喰塗りの」との印象が
強かろうが、この根城での復元建築は茅葺だったり板壁だったりと、むしろ「古民家?」「竪穴式住居?」と思わせる、
ともすれば「時代が違う」「城じゃない」と勘違いしそうな建物ばかり。しかし、南北朝時代の城郭、しかも東北地方の
最奥部にある城なのだから織豊系城郭(織田信長や豊臣秀吉によって完成した城郭形態)等とは全く異なる訳であり
“これこそが”正解なのである。否、城にある陣小屋などは近世であっても竪穴式住居同然の茅葺小屋が当たり前。
まさにリアルな戦国城郭の姿を目の当たりにできる城、と言う事になろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
国の史跡指定範囲面積は約18.5ha。良好な遺構保全、更に史跡整備の素晴らしさも相俟って2006年(平成18年)4月
6日、財団法人日本城郭協会から日本百名城の1つに選出されている。八戸まで足を延ばしたなら見学必須の城郭で
あろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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