「群郭式」城郭の有名な例■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
旧浪岡町、現在は市町村合併で青森市の一部となった、八甲田山と岩木山に挟まれている平野部の中に浪岡城がある。
JR奥羽本線の浪岡駅からだと東北東へほぼ2km、東北自動車道の浪岡IC料金所を起点にすれば概ね真南へ2.8km程の
地点が城跡。この城は浪岡川の河畔にあり、湿地帯の中に点在する島のように曲輪が浮かんでいる構造だ。西から順に
無名館・検校館・西館・内館・北館・猿楽館・東館・新館と呼ばれる曲輪が並んでいて、城域のだいたい中心点に位置する
主郭相当の曲輪が内館とされる。だが、一般的な城郭が主郭を直衛する二ノ丸、更にその前衛となる三ノ丸と言う具合に
曲輪の“序列”が見えるように並ぶのに対し、この城の曲輪はどちらが上位の曲輪なのかイマイチ判別しにくい配置だ。
大雑把な例えだが、扇の「要」の部分が内館だとして、それ以外の曲輪は扇面のように内館から等間隔に付随していて、
果たしてどちらが上位なのか、どう進めば主郭(内館)を攻略できるのか分かりづらい。まるで意味も無く曲輪が分散する
「群郭式」と呼ばれる縄張りの典型例とされる。こうした群郭式の城は、特に東北と九州に多いと言われ、それはそのまま
集権制が未発達な地域の権力構造を示している。城主(主君)が居て、その側近が居て、その下の重臣が居て、更にその
下の家臣が居て、城主の指示に従い敵の最前線に立つ者が配置される城ではなく、各々の家臣が各々の持ち場を守り、
他者の動きには関知しない、という戦い方を強いられる(つまり、城主にそこまでの強制力が無い)城郭と言い換える事が
できよう。もっとも、それは攻め手にとっても“どこから攻めるのが正解なのか分からない”戦いになるのかもしれないが。
ともあれ、曲輪間は約20m近くある広い堀で分断され、中世の古絵図を参照すれば浪岡川の対岸(城の南側)には立派な
城下町も開かれていたと見られており、この地域の基幹城郭となっていたのは確かなようである。では、それだけ重要な
城の来歴は如何なるものでござろうか。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
浪岡北畠氏の隆盛■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
浪岡城の主は浪岡北畠氏である。そこでまずこの北畠氏について記す必要がある訳だが、北畠氏と言うのだから南北朝
時代に南朝の忠臣として働いた、あの伊勢国司・北畠氏と言う事になる。ただ、話はそれで片付くほど単純ではない。■■
南朝の先鋒、陸奥大介・鎮守府大将軍として東北地方に勢力を広めた北畠顕家(あきいえ)は、南部氏(現在の岩手県〜
青森県に領地を有した名門大名)を従え北朝に攻勢をかけた。顕家や南部勢は北東北から度々畿内まで軍を発し、足利
尊氏との死闘を繰り広げるものの遂に1338年(延元3年/建武5年)5月22日、石津の戦い(大阪府堺市)で力尽き、顕家は
彼の地で戦死した。この顕家が浪岡にて子孫を遺し、それが浪岡北畠氏になったとするのが一般的なのだが、史料毎に
系図はまちまち。顕家の嫡男・南朝内大臣顕成(あきなり)が安東氏(現在の秋田県を領した大名家)の後援を得て1373年
(文中2年/応安6年)浪岡に入り(それまでは伊勢国司家として伊勢に居た)浪岡北畠氏を興したとする説、或いは顕家の
弟である左近衛少将顕信(あきのぶ)が同様の経歴で浪岡に入部したとする説や、そもそも浪岡には奥州藤原氏後裔の
浪岡氏が元々いて、その中の行岡(浪岡)右兵衛太夫秀種(ひでたね)なる者が娘である萩乃局を北畠顕家の側室に入れ
血縁を結び、そこから派生したのが浪岡北畠氏である等々、諸説が入り乱れている。いずれにせよ北畠顕家を中心として
「浪岡北畠氏」という一族が成立したようではあるが、当然ながら系図も諸々異なるものが多数伝わり、どれが正しいのか
判然としない。ここでは「浪岡北畠家系図略」を元に示すが、顕家の後は顕成―顕元(あきもと)―顕邦(あきくに)―顕義
(あきよし)―顕具(あきとも)―具統(ともむね)―具永(ともなが)―具運(ともかず)―顕村(あきむら)と続いたらしい。■
浪岡に入部当初の浪岡北畠氏は源常館(浪岡城の東側にあった館)を居館にしたとされ、浪岡城を築いたのは顕義の頃、
年代的には応仁年間(1467年〜1469年)と考えられるが、それより前の長禄年間(1457年〜1460年)や、逆に応仁以後の
文明年間(1469年〜1487年)と言う説もある。概ね1460年代と言った処であろうか。浪岡氏は(南朝貴族?の出自からか)
東北最末端の僻地にあって京都とも盛んに交流を行い、1500年頃には最盛期を迎えた。拡張された浪岡城の城域は東西
約1.2km×南北およそ600mにも及び、東西南北には鎮護となる加茂(現在の五本松加茂神社)・八幡(浪岡八幡宮)・祇園
(北中野広峰神社)・春日(現在は廃社)の各社が置かれた。四神相応の配置、そして祇園神社や加茂神社と言った社は
当然ながら平安京を模したものだ。その領地は田舎郡に2800町歩、奥法(おきのり)郡に2000余町歩、馬(うま)郡300町歩、
穂瑠麻(ほるま)郡300町歩、それに外ヶ浜を加えたものと云い、現在の津軽地方(青森県西部)の大半に及んでいた。■■
高貴な血筋、そして津軽の有力者、更に朝廷との繋がりもあって、浪岡北畠氏は「浪岡御所」と尊称されるようになる。■■
現在も城の所在地が「五所」となっているが、これは「御所」が転訛したものだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
浪岡北畠氏の滅亡■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
だが、浪岡氏の歴史は順風満帆だった訳では無い。津軽は秋田の安東氏と岩手・青森の南部氏が領土争いを繰り広げる
係争地。そして浪岡氏の中でも内訌が巻き起こる。1562年(永禄5年)の「川原(かわはら)御所の乱」だ。■■■■■■■
浪岡城を築いた顕義がまだ幼少の頃、顕信の子・大納言守親(もりちか)が当主の後見として権勢を振るった。この家系は
浪岡城から浪岡川を挟んだ対岸に川原館を構え、川原御所と称された。後にこの家系は途絶えるが、具永の弟・弾正大弼
具信(とものぶ)が再興する。ところが具信は宗家と所領争いがあったとかで(諸説あり)1562年の正月、新年の挨拶にかこ
つけて浪岡城を訪れた際、時の浪岡御所・式部少輔具運を斬り殺したのである。具信もその場で具運の弟・左衛門佐顕範
(あきのり)に討たれたが、この事件で浪岡氏は一気に衰退する。但し、近年の新史料発見により具運は1576年(天正4年)
までは生きていた可能性が浮かび上がり、川原御所の乱で亡くなったのは具統だとする指摘もある。■■■■■■■■■
いずれにせよ、浪岡氏はこの乱ですっかり実力を失った。家督を継いだ三郎兵衛顕村はまだ若く、安東氏から妻を迎えて
血縁を強化し、更に叔父・顕範を補佐役として権勢の回復を図った。しかし南部氏側の史料によれば、浪岡氏の所領には
南部家からの代官として石川彦次郎政信(まさのぶ、時の南部家当主・大膳大夫信直(のぶなお)の弟)が派遣され、浪岡
城に入ったと言う。浪岡氏は南部氏の支配下に置かれたと言う事でござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方で、津軽地方では大浦弥四郎為信(おおうらためのぶ)が独立の動きを見せていた。大浦氏は南部氏の庶流で、津軽
統治を任せられていた一族であるが、されども大浦氏と南部氏は互いに怨嗟を募らせる間柄でもあり、代々積み重なった
恨みは為信の時代になって爆発するようになったのだ。津軽の独立を目論む為信にとって南部氏の“手先”である政信は
目障りな存在で、ひいては浪岡城の攻略が不可欠となる。その結果、政信は為信に暗殺されたと言われ、浪岡城は大浦
勢に攻められ落城した。この折に、為信は浪岡城下のあぶれ者を手懐けて、彼らに蜂起させた所で大浦勢本隊がとどめを
刺したと伝わる。あぶれ者共が城内に乱入し放火や略奪を行い、城方が大混乱に陥った所で大浦勢が攻め寄せたとか。
落城後、為信の兵は一転して迅速な消火作業や民心慰撫に動いて町民から地侍に至るまで以前通りの居住を許し、更に
地侍には扶持を与えるなどして瞬く間に民の信頼を勝ち取った。人心掌握に長けた大浦為信、即ち津軽右京大夫為信の
面目躍如と言った所である。この後、為信は着実に津軽平定を進め、しかも天下人・豊臣秀吉の公認も取り付けて津軽の
独立大名の地位を確固たるものにした。一方、南部氏は遂に津軽回復が果たせぬまま終わり、城を奪われた浪岡顕村は
落城時に為信の虜囚となり切腹させられたとも、何処かへ落ち延び行方知れずになったとも伝わっている。斯くして陸奥の
名族・浪岡北畠氏は滅亡するが、彼の子孫は安東氏(秋田氏)との姻戚関係を頼って秋田家臣となり、後に秋田氏が陸奥
三春城(福島県田村郡三春町)へと移封されるとそれに随行し、三春浪岡氏として存続した。■■■■■■■■■■■■
但し、石川政信の死没時期や浪岡城の落城年は諸説入り乱れて確定的な事が言えない。年代の整合性が取れないので
そもそも石川政信なる人物は架空の存在とする説もある。これは南部氏側と津軽氏側がそれぞれ己に都合の良い記録を
遺している為で、浪岡城の落城は南部氏側では1590年(天正18年)とし、津軽氏側では1578年(天正6年)の事としている。
南部側は「天下統一の直前まで我が領土だったものを為信が掠め盗った」とし、津軽側は「以前から自分の領土だった」と
主張したかったのだろう。故に、津軽側で既に奪い取った後とされている年代に、南部側では楢山剣帯・南右兵衛と言った
郡代が浪岡城を治めていた事になっている。逆に、津軽家のものとなった後の浪岡城は暫くの間、津軽統一戦の砦として
維持されていたが、程なく廃され、以後は水田などの耕作地と化し、近代には林檎畑に転用されるようになっていた。■■
国史跡、そして続百名城へ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
耕作地になったものの、城地そのものは良好に残されていた浪岡城。南朝方の遺跡である事もあって、戦前の皇国史観に
基づき1940年(昭和15年)2月10日、城跡は国の史跡に指定された。青森県内における国史跡はここが初。国威発揚の為、
南朝史跡の整備を求められた地元自治体は戦時体制下の貧困状況にあって寧ろ“有難迷惑”のような感じだったらしいが、
平和になった後の昭和40年代にようやく史跡の公有地化や発掘・保存整備に着手する事が出来るようになった。1969年
(昭和44年)度から始まった私有地の買い上げ事業は毎年のように進められ、1973年(昭和48年)には航空写真に基づいた
詳細測量図が完成。それを元とし1977年(昭和52年)7月27日〜8月12日に発掘調査が行われ、以降数次に及んで発掘が
為された。出土品は武器・建築用具など武家居館たる城郭に必須の物から、日用品・調理器具といった生活用品、更には
宗教用品や化粧具と、浪岡北畠氏の“血統の良さ”を物語る品も含まれる。また、建物は掘立柱建物と竪穴式住居が混在。
これまた城主・重臣と言った支配者階級と、一般兵士など被支配民の用いる建物が別で、高貴な浪岡氏が特別な地位に
相応しい居住空間を占有していた事を物語る。もう1つ、出土した陶磁器には中国からの渡来品が含まれており、浪岡氏が
日本海交易で大陸と直通の流通経路を有していた状況も確認された。このように、発掘調査の結果は実に有意義なもので
あった。これら出土物は城址の隣に建てられた「青森市中世の館」で展示されており申す。■■■■■■■■■■■■■
国史跡範囲は1989年(平成元年)3月7日に追加指定を受けて広がり、2024年(令和6年)現在で約13万6300uを数える。■
1987年(昭和62年)から環境整備事業も開始。1998年(平成10年)に浪岡城址公園として一般開放されている。東北地方の
歴史における重要性、そして保存状態の良さから2017年(平成29年)4月6日、財団法人日本城郭協会から続日本百名城の
1つにも選定され、現在に至っている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
史跡公園なので駐車場も完備。東北自動車道の浪岡ICも程近く、国道7号線からも簡単に赴ける。また、鉄道利用にしても
JR奥羽本線の浪岡駅から徒歩圏内。全国的に見れば知名度が低めの城?ではあるが、青森県内では必見の城だろう。
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