津軽氏発祥の経緯■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
青森県西部を治めた戦国大名、津軽氏。その津軽氏“発祥の城”として知られるのが種里城でござる。
津軽氏は元来、大浦氏を名乗っており、戦国末期の梟雄として名高い5代・右京大夫為信が津軽姓に
改姓したものだ。その大浦氏初代となる津軽家の始祖、大浦右京亮光信が1491年(延徳3年)築城。■
世界自然遺産の白神山地北端、鯵ヶ沢町大字種里町字大柳に所在。青森県道の190号線と191号線が
分岐する地点(赤石川に架かる橋)から南西に600m程の地点で、城地一帯が小さな丘陵になっている。
この山の頂は平面になっており、そこが主郭。谷戸を挟んで小丘陵の対岸になる山域が別郭だったと
されるが、現状そちらは判然としない。主郭は100m四方ほどの広さで、中世城館に適した規模だ。■■
光信がこの地に赴いた来歴は、青森県東部〜岩手県を所領とする武家の名門・南部氏が、安東氏の
領土であった津軽地方を制圧するために派遣したと言うもの。下久慈(岩手県久慈市)南部党の南部
(久慈)光信は、斯くして「南部軍の尖兵」として津軽へ入植するのである。しかし、これには別の側面が
あったとする見方もある。曰く、光信の祖父・彦六郎則信は元々津軽地方の豪族であったが、南部氏が
攻め滅ぼした。則信の子・元信は辛くも落ち延び、南部家が治める久慈にて成長し、久慈南部氏の娘と
結婚し光信を儲けたが、元信もまた南部家から独立し旧領を回復せんとした為に暗殺されたと言うのだ。
祖父と父が相次いで南部家に殺された光信は、南部家に従う事を条件に津軽の縁地を託され種里城に
入ったとされるのである。この「南部家の懐柔策」は同時に「光信を死地に送り込む」事でもあったのだが
名将・光信はそれを受容。事の真偽は定かでない(光信の出自を別の系譜とする説もある)が、後代に
津軽為信が「南部氏による大浦家累代に及ぶ嗜虐」を理由とし独立を正当化した裏には、このような
事情があったのかもしれない。ともあれ、久慈光信はこの地で大浦に改姓する。嫡子の右京亮盛信を
大浦城(青森県弘前市)へ進出させ、種里・大浦の2城を拠点として津軽地方の安定を図った。■■■
1526年(大永6年)10月8日、光信は種里城内で死去。以後、大浦家の本拠は盛信が整備した大浦城に
移るが、種里城はその支城として存続している。光信は自らの遺体を、甲冑姿で威儀を正して埋葬せよ
さすれば大浦領を脅かす敵を防ぐため睨みを利かせると遺言した。故に、種里城の一角にある光信の
廟所には鎧を着て太刀を履き、大法螺貝を腰に下げた光信の遺体が立ったまま葬られたそうだ。■■
光信没後、種里城は盛信の弟・伊豆守盛純が守った。この為、盛純は種里五郎を名乗っている。■■
廃城後の城跡と、その整備活用■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
時代が進み江戸時代になると1615年(元和元年)幕府から「一国一城令」が発布されたので、津軽氏は
居城・弘前城(青森県弘前市)以外の城砦を破却。種里城もこの時に廃されたが、津軽家の聖地として
その地は立入禁止になり保全された。しかし明治維新以後、その扱いも無くなって荒廃していく。■■■
曲輪の中は耕作地となり、ただ光信の廟所跡だけが片隅に取り残された状態になってしまったものの
鯵ヶ沢町の町制施行100周年記念事業として観光資料館「光信公の館」を建設する計画が浮上。その
建設に先立ち、1988年(昭和63年)から発掘調査が開始される。「光信公の館」は1990年(平成2年)
6月に開館したが、調査・研究は1997年(平成9年)まで継続している。この結果、主郭内部から掘立柱
建物柱穴痕を検出。これは主殿跡と見られ、14世紀末〜16世紀後半にかけて用いられた建物だが、
4回以上の建替えが行われたと推定されている。2間×3間の部屋が南北方向に4つ連なった間取りで、
他に2箇所の突出部を接続した建築様式が光信以降の時代における城館建築構造と合致しており、
これが種里城の主殿として機能していたのは確実だと考えられている。現在、この建物跡は柱割りを
示した平面展示で見学できるようになってござる。他にも「光信公の館」では津軽氏関連の史料などを
紹介し、主郭一帯は花を植えるなど綺麗な公園として公開されている。■■■■■■■■■■■■■
その一方、光信公の廟所付近は厳かな雰囲気だ。現代においても公は地元の英雄として崇められ、
遺徳が讃えられているようである。発掘調査や良好な整備のおかげか、2002年(平成14年)12月19日
弘前城・堀越城(青森県弘前市)の「津軽氏城跡」に加える形で国の史跡に指定された。■■■■■■
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