1999年8月 上総横断

旅行期間:1999年8月28日(土)

主な滞在地
8月28日(土):

佐倉武家屋敷・佐倉城跡・宗吾霊堂
麻賀多神社・佐原市内各所・香取神宮
上総横断行程地図


この夏は結構色々と出かけたけれど、
考えてみりゃ行った先はどれも茅ヶ崎から西側ばかり。
東へ向かうドライブも突然してみたくなり、
8月最後の土曜日、千葉方面へと出発したのであります。
目的は「東関東自動車道を走る旅!」って、何だそりゃ?と思うかもしれませんが
関東近辺の高速道路、東名・中央・関越・東北・常磐・京葉それに外環道は
走った事があるのに、東関道だけはまだ走った事がなかったからなんです。
たったそれだけの理由で、千葉へ出かけたかったんです。
えぇ、そうですとも…(←単なるアホなんで、放っといて下さい)

理由はともかく、我が街一番号は1国から横浜新道、
更に首都高湾岸線へ抜け、江戸川を越えたところから念願の東関道に進入。
習志野市・千葉市・四街道市を通過してまず下りたのが佐倉ICでした。
上総屈指の名城、佐倉城を最初の観光場所と決め
千葉県道65号線を北上していきます。そこで辿り着いたのはJR総武線の佐倉駅。
佐倉市の中心街にあるのは京成佐倉駅で、JRの佐倉駅は
どちらかと言うと町外れになりますが、まぁそれはどうでも良い事。
きっと京成の駅の方が賑やかなんだろうと思いつつ、駅に変わりは無いんだから
ここで観光情報を仕入れようと考えた訳です。
で、駅前の観光マップを見てみると、佐倉の町には城下町の名残として
古い武家屋敷街が残っているという話。何だか急に心惹かれ、城へ行く前に
まずその武家屋敷街を見物しようと思い立ったかすこばなのでありました。

佐倉の街中を走り、細い入り組んだ路地を抜けた先にありました、武家屋敷。
かなり立派な屋敷が、何軒も軒を連ねて並んでいます。
しかも各家ごとに建築様式が異なっていて、色々と楽しめるようです。
白壁塗りの家あり、土塀の家あり、
萱葺き屋根だったり、柿(こけら)葺きだったり…。
大概、古い城下町の武家屋敷街というと
同じ時期に同じ規模で沢山の屋敷が造成されるので
どの家も同じような建築様式の建て方で、それが何軒も続く風景になりますが
ここ佐倉の武家屋敷は個性に溢れている感じで面白いですなぁ。
一般公開されているお宅を2〜3軒拝見させて頂きまして、
少しばかり写真も撮らせて貰いました。
佐倉城下武家屋敷
佐倉城下武家屋敷

月見櫓の頁にも写真を1枚載せてありますが
それとはまた別のお宅の写真です。
玄関の奥に燈された行灯の明かりが渋いッスね!

楽しい寄り道をした後に、当初の目的地である佐倉の城へ向かった拙者。
城跡の東口、江戸期の大手口に車を停め、そこから歩いて城内に入ります。
佐倉城は西側の外堀以外は空堀と土塁で防備を固めていた城で
現在、城跡が公園として整備された後でもその姿を留めています。
もちろん、斜面での安全対策や景観面の配慮から
地面の起伏には芝が植えられ、危険箇所は生垣で囲ってはいますが
見るからに「ここは堀だった」「ここが土橋だ」という地形が見て取れる。
うーん、なるほどね。城跡のほぼ全域が残されているし
公園として広々と使えるようになっているのもいいんじゃない?
城跡を隅々まで見て回り、駐車した所の一番反対側、
つまり城の搦手(裏口)にあたる北側まで来たところで目に入ったのが
国立歴史民俗博物館。その名の通り、城址に建てられた国立の博物館です。
博物館があるだけあって、搦手ながら現代ではこちら側の方が開けている感じで
駐車場も広々としたものが確保されていました。
ありゃ、こっちに車停めりゃ良かったかな?とも思いましたが
でもまぁ大手から堂々と入城したんだからそれでいいやね、と考え直しました。

武家屋敷と城跡を見学したので、佐倉の街はこれにて終了。
次は成田市方面へ行く事にして、国道296号線を東へ進み
酒々井(しすい)町の交差点から千葉県道137号線に入って北上します。
そのまま道なりに行った所にあるのが有名な佐倉宗吾郎を祀った宗吾霊堂です。
佐倉宗吾郎、本名は木内惣五郎と言い、江戸時代初期に
印旛郡公津(こうづ)台方村の名主であった人物。
当時の佐倉藩主・堀田正信の圧政に苦しめられた農民たちを救うため
1651年(承応元年)無謀にも単身で時の将軍・徳川家綱に直訴を決行したという。
御法度とされた直訴の禁を犯した事で惣五郎一門は全員処刑されてしまったが
彼の尊い犠牲によって堀田氏の悪政は処断され、農民の重税は減免されたそうな。
惣五郎の功績を後世に伝え、義民伝承を尊重する事を目的として
1746年(延享3年)に堀田正亮(正信の傍系子孫です)によって
建立された寺院がこの宗吾霊堂。歴史好きな人にはそこそこ有名な場所ですね。
拙者が訪れた際にも、惣五郎の墓前には線香や花が手向けられ
次から次へと参拝客が行き来しておりました。
宗吾霊堂、成田市内の隠れた名所でありますな。
佐倉宗吾郎墓石
佐倉宗吾郎墓石

義民・佐倉宗吾郎は家族と共に処刑され
そうした家族の墓と並んでこの墓石があります。
来世では家族団らんを楽しんでいて欲しいものですな。

宗吾霊堂から裏道を潜り抜けていくと、寂びれながらも
ちょっと大きな神社がありました。その名も麻賀多神社。
この夏は何かと神社に行く機会が多かったので、
偶然辿り着いたこちらの神社も覗いてみようと思い立って、拝観。
神社マニアじゃないので、詳しい由来や形式は全然分かりませんが
昔は村の鎮守として尊重されていたんでしょうねぇ。
そこから何となく車を走らせ、いつの間にか成田市の住宅街へ。
う〜ん、ここはどこだぁ?閑静な住宅地で、周りにはいくつもの家々が並んでるけど
目印になるような建物があるわけじゃないんで、全然位置が掴めない。
しばらくぐるぐると住宅街の中を周回(徘徊?)し
ようやく見つけたのは成田警察署。これでやっと現在地が分かりました。
住宅地をウロウロするのも不審ですし、別にここで観光する訳でもないので
脱出路を確定し、とっとと退散する事にしました。

さて、成田の観光名所として最も有名な場所であろうというのが
成田山新勝寺ですね。まぁ、ここまで来たんだから行ってやろうと思い
市街地から細かい道を幾多に折れ曲がって新勝寺方面へ向かったのですが
さすがに有名観光地、土日は参拝客で溢れかえっていて
拝観どころか、駐車場すら空きが無い!
ここで待っていても中に入れるのはいつになるかわからんし、
元々不信心な拙者ですから、そんなにまでして寺参りしようとも思わないので
こりゃもう止めよう、と方針変更し、新勝寺から撤退する事にしました。
それにしても、普通の週末というだけでこれだけの混雑ですから
年末年始やお祭りの時なんて、いったいどうなるんだろう…。

成田を引き上げ、更に東を目指します。東関道と並走する
国道51号線に入り、佐原市方面へ向かった拙者の車ですが
気が付くと頭上に爆音!何事かと思い車のサンルーフから見上げれば
手の届きそうな低空を横切る巨大な旅客機が目に飛び込んできました。
そう、この道は成田国際空港、当時の新東京国際空港の
進入コースと交差しているんです。これがまぁ、あまりにも間近でビックリ。
まさか堕ちてくる事は無いだろうけど、迫力の光景にかなり驚かされます。

国道51号線の別名はその名も佐原街道。のどかな山村風景を眺めながら
成田から小一時間ほど走れば佐原市に到着します。水郷の町として有名な佐原は
水路と共に古くからの商家が建ち並び、街歩きを楽しめる所です。
市内の駐車場に車を置き、拙者もしばし散策をする事にしました。
この佐原という街の風景はなかなか面白いもので、
江戸時代さながらの蔵造り商家があると思ったら、
その向こうには明治・大正期といったレンガ造りの洋館があったりして
結構バラエティに富んだ景観を作り出しています。
これがまた違和感なく揃っているのが不思議なんだよねー。
もちろん、この町並みは国の伝統的建造物群保存地区に選定されております。
そうこうしていたら、街中を流れる水路のほとりまで辿り着きました。
佐原市内の風景
佐原市内の風景

拙者が訪れた時はタイミングが合いませんでしたが
水路に架かるこの橋には導水の仕掛けがありまして
決まった時刻になると、橋の縁から水が
滝のように流れ落ちるようになっています。
この水路の脇にあるのが伊能忠敬旧宅。
写真右手に写っている木造家屋がそれです。
佐倉宗吾郎はあまり知らないという人もいるでしょうが、
伊能忠敬を知らないと言ったら…義務教育やり直して下さい!
念のため申し上げておきますが、伊能忠敬と言えば
史上初めて日本全土の測量を行い、その計測結果に基づいて
正確な日本地図を作り出す基礎を算出した人物ですよね。
それまで想像図でしかなかった日本地図が、
彼の手によって初めて実測による科学的なものに生まれ変わったわけで、
こうして作られた「大日本沿岸実測輿地図」は、その正確さから
昭和初期まで国土統計の基本図として用いられていたそうです。
彼の計測技術と計算はそれだけ精密なものだったんですね。
そんな忠敬は江戸時代中期の1745年(延享2年)に上総国小関村、
現在の千葉県山武郡九十九里町に生まれ、17歳の時に佐原村の商家・伊能家へ
養子として迎え入れられたといいます。以来約30年に渡って
伊能家の家業を切り盛りし、巨大な財を成したのでした。
測量の仕事を始めたのは家督を譲って隠居した後の話なので、
彼が現役の商人として活躍していた頃に住んでいたのが
ここ、伊能忠敬旧宅なのです。何だか話が長くなりましたが
佐原に行ったら街歩きと共にこの旧宅も見学してみては如何でせうか?
もちろんこの旧宅、国指定の史跡です。

佐原の町からあと一歩進み、利根川を渡ればそこは茨城県。
本当は川を越して霞ヶ浦や鹿島神宮まで行きたかったのですが
もうすぐ日が暮れる時刻だったので、さすがにそれは無理そう。
茨城県へ出る事は断念しましたが、せめて代わりに見る所はないかと思い
鹿島神宮と並んで武道の神様を祀る香取神宮へ向かったかすこば。
佐原市街地から車で15分ほど走った所にある香取神宮は
少しばかり鬱蒼とした森の中にある静かな神社です。
かなりマニアックな話になりますが、鹿島・香取の両神宮は
武道の神と称えられるだけあって、ここを拠点に古武道、特に剣術が隆盛した所です。
室町時代中期、鹿島神宮では神官の卜部(うらべ)氏が
「関東七流(鹿島七流とも)」と呼ばれる剣術流派を伝承させていき、
一方の香取神宮では飯笹長威斎家直(いいざさちょういさいいえなお)なる人物が
日本剣術の創始と言われる香取神道流という剣術流派を興したのであります。
そうした武術の神、香取神宮を見学させて頂いた拙者。
境内はかなり広く、ここで剣術の修練をやっていたのか?と思えてきます。
鳥居から結構歩いて辿り着いた拝殿は、黒で統一された落ち着きのある建物で
質実剛健を旨とする武神を祀るにはうってつけの雰囲気。
派手派手しい朱塗りの神殿とは違い、重厚感を覚えるというか、
何か特別な迫力に圧倒される感じがありますな。
夕暮れ時の神社には、やはり神様が舞い降りているのでしょうか…。

千葉県の北辺を横断する形でドライブしてきた本日の行程も
これにて終了。茨城県に渡ってみようかという衝動を抑えつつ、
香取神宮の目前にある佐原香取ICから東関道に乗り、帰宅の途につきました。
1日かけて横断してきた道のりでしたが、やはり高速を使えばあっという間に過ぎ去り
一時間ほどで東京都に入り、そこからまた一時間もすれば自宅に到着。
さほど遅くもない時刻に家へ帰り着いたのでありました。


◆◇◆ 何気なく 歩む上総に 偉人在り 国の基(もとい)と 世界への路 ◆◇◆




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