2013年2月 小田原城現説

旅行期間:2013年2月16日(土)

主な滞在地
2月16日(土):小田原城
小田原城現説会場地図 (C)Mapion


この数年、小田原城では御用米曲輪での発掘調査が継続して行われておりました。
元々ここには小田原市の球場が建てられていたんですけど、それが移転し
国の史跡である小田原城の発掘が大々的に行われるようになった訳です。
で、掘ってみたらまぁ凄い。古い絵図ではここに幕府の米蔵が並んでいた事が分かっていて
だから名前が「御用米曲輪」、当然そうした蔵の痕跡があるだろうと想像されておりましたが
それに加えて、戦国時代の小田原城でも相当な施設が置かれていた事が判明。
何度か発掘調査の結果を現地で解説する現地説明会が行われてきたんです。
それに加え、2012年後半からは驚くべき発見が連続してあり、
それを発表する現説がこの度開催されるとの事。ちょうど仕事も休みだし
これは是非とも見学しに行かないと!と思い立った次第。
さてさて、どんなモノが見られるんでしょうか? (^-^)

E217系 東海道線
E217系 東海道線

我が家から小田原城(だけ)へ行くなら、車より電車の方が便利。
と云う事で茅ヶ崎駅で下り東海道線を待っていたら、やって来たのはE217系の車両。
元来は横須賀線用の車両なんですが、この当時は一部東海道線にも転用され
それ用に湘南色が施されておりました。でも、この2年後には横須賀線へ戻されたので
湘南色として使われた最末期の様子です。

小田原駅を出たら、線路に沿ったお城通りを歩いて小田原城址公園へ。
旭丘高校の裏を回り、坂を登って行くと天守へ一直線に向かっていく道なんですが
今回のメインは現説会場の御用米曲輪。なので、天守には目もくれず(爆)坂の下にある
御用米曲輪の様子を見下ろしてみると…
小田原城 御用米曲輪 小田原城 御用米曲輪
この日は微妙な曇天。雨が降りそうで降ってない天気で、発掘現場には前日からの水たまりが目立ちます。
それにしても広い!何せ野球場が丸ごと入っていた場所で、そこを一気に全域で掘り返しているので
広大なエリアのあちこちで遺構が露出しています。これは凄い〜!!

一旦、天守前まで出てしまったのでそこからぐるりと回り込んで現説会場入口へ向かいます。
(入口は天守と正反対の東側からなのねw)
常盤木門と梅
常盤木門と梅

小田原と言えば梅の名所。
本丸から出て行く常盤木門(ときわぎもん)の前でも、梅の花が綺麗に咲いておりました。
凍えるような寒さの日でしたが、さすが梅の花は凛とした佇まい。
銅門と桜
銅門と桜

一方、二ノ丸を出る銅門(あかがねもん)の前には早咲きの河津桜。
でもこちらは曇り空でちょっと寒そうな雰囲気。
日が射していれば暖かみも出るんでしょうが…(苦笑)

お堀端通りまで出て、そこから弓道場方面へ。ようやく現説会場の入口です。
発掘中は立ち入り禁止となっている御用米曲輪ですが、今日は正々堂々と中に入れますw
遠目に見ても、いきなり凄そうな雰囲気が漂ってます♪ 御用米曲輪 現説会場

出土品展示

軒平瓦と軒丸瓦 菊丸瓦と三ツ葉葵の鬼瓦
会場入口では瓦がいろいろと並んでいたり
茶碗やかわらけ かわらけの墨書
茶碗やかわらけ、しかも墨書入り…(謎)
なかなか興味深い物が展示されておりました。

では発掘現場に入ってみます。
蔵跡の石列
蔵跡の石列

まずは江戸時代の遺構、蔵跡の石列。
江戸時代は幕府の蔵が並んでいたと記しましたが
御公儀の権威を示すべく、蔵の周りを石畳(石列)で囲み
整然と建物が建っていたそうです。これがその証拠。
様々な遺構
様々な遺構

大きな石を並べていたり、小さな礫を敷き詰めていたり、
庭石として使われたような個性的な石があったり。
埋没層も多段階に亘っていて、この場所が戦国時代以降
数次に及んで使われ続けた(改造され続けた)様子が分かります。
多層構造
多層構造

レンガのように整然と積まれた切石積みは江戸時代のもの。
その下に埋もれているのは、それより古い時代のもの。
このように、深い所から出てくるものはそれだけ年代が前と云う事を意味します。
当然、出土する遺物も時代に応じた技術編年を見せつける訳で。
なお、史跡での改変は絶対に許されないので、地表面から近い(年代的には新しい)所で遺物が出ると
その場所では、それ以上深く掘る事が出来ないのが原則。なので、切石積みの遺構は勿論素晴らしいのですが
もしそれより深い所(年代的に古い)に何か埋まっていたとしても、それはもう検出できません。
いろいろな発見があるのは嬉しいのですが、更に奥にあるものは手が届かないもどかしさ… (^ ^;
小田原市教育委員会でも、御用米曲輪では江戸時代のものと戦国時代のものが混在して発見されるので
どこがどうなっていたのか全容を把握する事が出来ず、当然それは今後の史跡整備にも難しい判断が求められ
(江戸時代の構造を再現すべきか、戦国時代のものを想定するか)なかなかにお困りのご様子だとか。う〜む…。


戦国時代の池泉遺構

戦国時代の池泉遺構
そして今回の現説で最大の目玉!と言える展示がコレ。
戦国時代、ここにあった池泉の護岸として敷き詰められていた石です。
くれぐれも申し上げますが、江戸時代や近代のものではありません。戦国期です。
まるで現代のタイル敷きを思わせるような構造物。このように石を敷き詰めて
池の縁や底を固めていたそうで…現代も都会の都市公園とかではこういう池がありますけど
小田原城では戦国時代にこれを作り上げていた!と言うのは実に驚異的な話。
小田原後北条氏(当時の小田原城主)、どんだけ技術力と資金を持ってたんだよ!って事ですね。

参考写真(注:これは小田原城のものではありません)

きっとこういう感じで池を作っていたんでしょうね。
現代の公園にある池と全く同じ構造物だ…(驚)
参考写真

さてさて、その他にも目を遣ると
地層展示
地層展示

地層もこんなにクッキリと。
この場所の造成履歴やどこの土を持ってきて埋め立てたのか
一目瞭然。やっぱ御用米曲輪の発掘、タダモンじゃねぇなぁ…。
ちなみに直近の(江戸時代の整地面)造成では、この曲輪と本丸とを隔てる切岸を
削って地ならししたそうで。切岸と同じ土質が判明しているとの事。と、なれば
緩かった切岸を急峻にし、しかも御用米曲輪の面積を広げ、更に敷地内の水平面を整えるという
一石三鳥の効果があった訳。そういう事も、こうした発掘で判明する…って凄いねぇ。

敷石列
敷石列

江戸時代の蔵跡を示す敷石列。
あちこちに整然と並んだ石が出ています。
他にも、戦国時代までの曲輪裾が確認出来ていて、色々と大発見だらけw
敷石列 戦国時代の曲輪裾
排水路
戦国時代の遺構面では排水路が石で組まれている上、こんなにも蛇行している。
当然、何かしら意図があって(機能が求められて)そうなっているんでしょうねぇ。
堀跡痕跡
同様に戦国時代の堀跡が確認できる場所。と云う事は、その頃の御用米曲輪はもっと複雑な形取りがされていた?
多様な展示
排水石列、滴水受、それに石組竪穴。
何でこんなに凄いの? Σ(゚◇゚;;;
この一角は特に色々と集中してました。
多様な展示
切岸の上は近世本丸
切岸の上は近世本丸。
木々の間に天守が見え隠れしています(スゲー分かり難いですが)
こういう位置関係にありました。
建物縁の石列
等間隔に整えられた石の並び。
そして見事な竪穴。何でこんなものが
作られたのか気になる〜!!!
石組竪穴
地層展示その2 ここにも地層展示が。
瓦積塀跡
この日は埋め戻されていましたが、
前回の現説ではこんなものも
展示されていたそうです。
瓦充填溝
現説会場の一番奥の方までやって来ました。
最初に眺めたのは、この土塁の上あたりから。
ここにも奇妙なモノがありまして…


瓦充填溝

瓦充填溝
瓦の礫で埋め尽くされた溝。
瓦充填溝
何なんでしょう、コレ?
蔵跡もまだまだあります
そのすぐ傍にも蔵跡が。
江戸時代と戦国時代の痕跡が、本当に混在した状態で見つかっています。
どれもこれも興味深いんですが、収拾がつかない(苦笑)

と、概ね一回りした所で説明が始まりました。
見学人数も多いので(お客さん沢山だ〜★)何組かに分かれての解説。
オイラが割り振られたのは、小田原市教育委員会のエース・佐々木先生の班(ラッキー!)
現説の様子 現説の様子
最近は現説の内容をネットに上げるのは禁止とされるようになってきてますが
現説の様子 現説の様子
この当時はそういう制約が無かったので、載せても大丈夫…ですよね?(汗)
現説の様子 現説の様子
まぁ、そうは言うても内容の詳細は伏せて、写真だけにしておきますがw
現説の様子 現説の様子
焼土層に、瓦の集中発掘地点…どうしてこういう現象が起きるんでしょうねぇ?
戦国時代の敷石通路
戦国時代の敷石通路!
後北条時代に高度な土木技術と
都市景観策定が為された証拠です。
彼方に天守が
現説の様子 現説の様子
例の池泉、護岸を固めている石は五輪塔の“屋根”部分(五輪の「火」のパーツ)の石を裏返しに並べております。
いくつか、裏にならず屋根らしい状態のまま転がっているのがお分かり頂けますでしょうか?
この石の底面を、タイル状に並べて敷き詰めると、このような石敷きが出来上がると言うワケ。
考えたもんだねぇ(感心)
池泉の全体像
織田信長が城の石垣に石仏や墓石を転用して「神も仏も恐れない」みたいな事を言われますが
ここでも供養の印である五輪塔をバラしてこのような使い道をしている訳で、案外戦国時代は
(一向一揆のように熱心な信者も居ましたが)ドライで現実的な考えをする人も多かったのかも?
“部材”として考えれば、五輪塔のパーツはこれ以上ない統一規格品ですから、使い易さ抜群ですわなぁwww

御用米曲輪の発掘ではこれ以後もこうした戦国期の幾何学的な敷石遺構が続々と発見され
後北条氏が、極めて独自で高度な文化的才能・技能を有していた様子が明らかになりました。
その当時、文化の中心といえば京の都ではありましたが、むしろ小田原ではそれと一線を画す
別の文化が隆盛していた…と思えるのですが、如何でせうか?(真面目な話です)
後北条末期には畿内から流れて来た茶人・山上宗二(やまのうえそうじ)を厚遇し、都とは別の茶の湯文化が開花しましたし
「上方なにするものぞ!」と言う気風が小田原にはあったようにも思えるのですが。
まぁ、その対抗意識が強すぎて豊臣秀吉の征伐を受けた事に繋がったような気もします(泣)

現説会場を後に
と言う展示で、この日の現説会場は大賑わい。
極寒の日でしたが、熱気あふれておりました。
菖蒲園
菖蒲園(季節じゃないんで影も形もありませんがw)から回り込んで本丸へ戻る頃
とうとう空からは雪が舞い始めました。どうりで寒い訳だ…。

本丸にて
小田原城 天守

上へと上がって来ました。
本丸では親子連れが記念撮影。
天守の前には寒さに負けない紅梅。
冬でもここは元気な観光名所♪
天守と紅梅

上から望む

で、改めて上から発掘現場を。こちら側からしか見えない角度で撮影。
午前中の説明が終わったので、一旦お客も掃けた状態。
この後、午後からも説明があるようですけど
雪模様なんで、オイラはこれにて撤収します〜。
縦穴を覗き込む

小田原駅へと戻って来て、帰りの東海道線を待ちながら小田急線を何本か撮影…。
小田急 1000形(レーティッシュカラー) 小田急 7000形 LSE
小田急 50000形 VSE あ、VSEも来た! \(^o^)/
タイミングが良かったのか、ちょっと待っている間だけで1000形レーティッシュカラーに7000形LSE、50000形VSEまで!
今ではLSEもVSEも運用終了…VSEなんかまだまだ使えるだろうに、早い引退だよなぁ(←いや、ここで言っても…)

そんなこんなで、説明を伺って非常に満足する1日でした。良いもの見させて頂きました〜! (^-^)b
(猛烈に寒かったけどねwww)


◆◇◆ 梅に雪 土に浮く石 夢の跡 互いを引き立つ 小田原の冬 ◆◇◆




本 丸 御 殿 へ 戻 る


城 絵 図 へ 戻 る