久々に「人物評」がやりたくなりました!だからやります!!(ド直球)
今回ネタに上げるのは「北関東の名将」に相応しい人物?というお題。で、北関東で最近やたら取り上げられるようになった
“赤マル急上昇(←表現が古いw)”的な武将と言えば、冒頭に紹介した小田氏治さん。
「織田」じゃありません。「小田」です。常陸の名城として知られる小田城にお住まいだった方です。
この「小田城」何が名城なのかと云うと、四角い方形館を拡充して作った“歴史ある居館城郭”だからです。
航空写真を見れば一目瞭然で、四角い敷地が今もなお健在。鎌倉幕府の御家人・八田知家さんが築いた館を
戦国時代まで手入れに手入れを重ね、敷地を拡げて使い続けたのが良く分かります。そうそう、八田知家さんは
2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で市原隼人氏が演じて、色々と話題になりましたな。やたらと筋肉美を
見せつける知家さんのおかげで、それまで殆んど無名だった八田氏に脚光が…あ、今日のお題は氏治さんでしたね (^ ^;
そんな「鎌倉時代からの館」を戦国時代まで使った小田氏ですけど、名門武家と云うのは往々にして
下剋上の乱世には没落していくのが世の常でして、氏治さんの時代にはすっかり実力を失っておりました。
ですから、氏治さんと言えば小田城を奪われ流浪する事が当たり前になってしまいました。
え、「城を奪われるのが当たり前」ってどういう事?って感じですけど、この氏治さんが凄いのは
小田城を奪われる→逃げる→小田城を取り返す→小田城を奪われる(以下、これの繰り返し)と
何度も何度も城を奪還しているという点。まぁ、何度も何度も城を奪われている事の裏返しですから
以前は「史上最弱の戦国大名」と言われていたのが、最近は「常陸の不死鳥」なんて言う格好良い称号で呼ばれるように!
ははぁー、随分と褒められるようになりましたな氏治さん(笑)不死鳥ですか。そりゃ凄いwww
余談ですが氏治さん、ちゃんと立派な肖像画まで残っていらっしゃる。その膝元には丸まって寝る猫も一緒に
描かれていて(こういう図は戦国肖像画としては極めて異例)「猫フリーク」にも愛されています。
さぞかし猫好きで、わざわざ一緒に描かせたんだろう…なんて想像される訳ですが、それってホンマかいな?(呆)
こちらがその肖像画
「猫好き♪」「不死鳥!」なんて感じのキャッチーなフレーズに持て囃されて、最近とにかく大人気な氏治さん。
敵に獲られた城を奪い返せたのは、家臣や領民に慕われていて彼らが奪還の手助けをしたから―――との評価。
でもそれって、本当に正しいの?というか、
個人的には、全然納得できない! (ー゙ー;
(あれ?この台詞は別のシリーズだったような…)
氏治さんが生きていたのは1534年?〜1602年。小田家当主(大名)としての期間は1548年〜1590年。
北関東ではまだ小田・結城・宇都宮・那須と言った“名門”が存続していたものの、南関東では新興勢力の
小田原後北条氏が破竹の勢いで領土を拡大していた。全国的に見れば、“尾張のうつけ”織田信長が頭角を現し
下剋上から家を興した越後長尾(後の上杉)家、分国法整備で室町体制から脱却した甲斐の武田家、鬼謀を使い
独力で勢力を膨張させた安芸の毛利家など、“実力本位”の時代に移っていた頃であります。
家臣・領民に愛されて、復活の手助けをして貰っていた…と云うのは聞こえが良いが、本来ならば
家臣や領民を従えて、他国に負けない実力を養うのが戦国大名としてあるべき姿なのでは?
それを怠った「公家かぶれ」「独裁者」「名門の名に胡坐をかく」ような某氏とか某氏とか某氏は悉く滅ぼされた訳ですし。
“鎌倉以来の”“将軍の従兄弟”というブランドは、「看板としては」素晴らしいものですが
実力には何ら結びつきませんがな。そもそも氏治さん、居城を奪われるだけの話じゃなくて
参戦した戦はどれもこれも負け戦ばかり。しかも采配ミス(かなりの凡ミス)が原因で。もうね、軍事の才能ゼロでしょ?
連歌で名を挙げたり(文化的才幹)、家臣に離反されなかったというのは確かに評価すべきでしょうが
それは戦国大名としての在り方とは別次元の話だと思います (T-T)
石田三成の話をした時にも書きましたが、産まれる時代が間違っていたような。
もっと“太平の時代”の人だったならば、素晴らしい統治者にはなっていたでしょうが
戦国乱世を渡り歩く為には、才能の活かしようが無かったという人なんでしょう。
だからね、基本的に「(戦国大名としての)小田氏治さんは『ダメ武将』だった」と言うべきなんだと思うの。
「猫好き♪」と言うのはもはや人材評価とは無関係の話だし、ましてや「不死鳥」って…それ正しい表現なの?
普通ね、不死鳥っていう表現は「たとえ1度や2度ヤラれても、最後には勝ち上がる」というものであって
氏治さんは没落して終わりますから。そう、何度も争奪を繰り返した小田城は、最終的に常陸の大大名・佐竹氏が
強固な馬出を備える戦国城郭に大改造してしまい、とうとう氏治さんが手出し出来ない状態になってしまうのです。
それまでは「自分の家だから、弱点は知ってるので何時でも取り返せる」という感じで戦っていたのが
いつの間にか「何だコレ?!もう俺の知ってる家じゃない(泣)」という形にされてしまうのでありました。

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小田城空撮写真 (クリックすると拡大画像が出ます)
中心にほぼ正方形の主郭。これが草創期からの曲輪。
そこから一回り、二回りと大きな曲輪が取り囲んでいるのですが
主郭の左下に、突出した四角形の角馬出が。
主郭の右側にも馬出状態の曲輪、他にも随所に…これらが
佐竹氏による増築部分で、それが出来たため
氏治さんは簡単に城を攻められなくなり、敗退する事に。
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獲って獲られて獲って獲られて…そして帰る家を無くした氏治さんに「不死鳥」は褒め過ぎでしょ?
むしろ、戦いの相手だった佐竹氏から見れば「何度倒しても倒しても蘇るアンデッドなヤツ」だった訳で
「常陸のゾンビ」と言う評価の方がしっくり来ると思うのですが、如何なものでせう? (^ ^;
何せ「小田家」を指す時の定番表現が“弱い方のオダ”ですから。
”弱い方”で通じるんですよ、織田家じゃないという事が。繰り返しますが“弱い”んです。名将じゃ無ぇよなぁ。
※全っっったくの余談ですが
歴史好き、お城好きな方ならば愛読書であろう「歴史群像」(学研刊)
その名物コラムとなっている、大野信長さんの「信長の独断フルスロットル」でも
小田氏治を評して「不思議な人形」とされておられます。え、不思議な人形?
ほら、良く聞くでしょ?「捨てても捨ててもいつの間にか家に帰って来ている不思議な人形」
つまり「呪いの人形」、ホラーコンテンツなんですよ氏治さんは。
佐竹方からすれば、まさしく「しつこく、しぶとく呪われた」感じだったでしょう。
大野信長氏も「常陸の不死鳥」と言う例えは「うーん間違いじゃない。間違いじゃないけど…」と
オイラと全く同じ違和感を感じておられました。不死鳥と言うけど、飛び立てない鳥だもん氏治さんはw
まぁ、最近は歴史ブームが複雑化・重層化して様々な嗜好(←敢えてこの表現で)があるのは理解してます。
漫画では「センゴク」仙石秀久が取り上げられ、コアなファンには長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)好きが居たり。
(個人的意見ですが、仙石秀久も長宗我部盛親もダメ武将の部類だと思ってるんで御容赦を)
そんな訳ですから、小田氏治さんに好感度が集まるのも…時代の流れなのかもしれませんけど
でも「不死鳥」と褒め称えて称賛するような、優秀な武将では無いよなぁ (^ ^;;;
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