★★★相州乱波の勝手放談 ★★★
#45 独断人物評:天庵よりも蟠龍斎じゃないの?
 




小田氏治 (C)KOEI  おだ うじはる
小田氏治。幼名は小太郎、出家した後は法号を天庵(てんあん)と称す。常陸国小田城主。
小田氏は坂東八屋形の一つに数えられ、その祖先は鎌倉幕府草創期の重鎮・八田知家(はったともいえ)
繋がる名族だが、それ以上に父・左京大夫政治(まさはる)は堀越公方・足利政知(まさとも)の子が小田家に
養子入りしたものなので、氏治は足利12代将軍・義晴の従兄弟に当たるとか。実に高貴な血筋だが…。


久々に「人物評」がやりたくなりました!だからやります!!(ド直球)

今回ネタに上げるのは「北関東の名将」に相応しい人物?というお題。で、北関東で最近やたら取り上げられるようになった
“赤マル急上昇(←表現が古いw)”的な武将と言えば、冒頭に紹介した小田氏治さん。
「織田」じゃありません。「小田」です。常陸の名城として知られる小田城にお住まいだった方です。
この「小田城」何が名城なのかと云うと、四角い方形館を拡充して作った“歴史ある居館城郭”だからです。
航空写真を見れば一目瞭然で、四角い敷地が今もなお健在。鎌倉幕府の御家人・八田知家さんが築いた館を
戦国時代まで手入れに手入れを重ね、敷地を拡げて使い続けたのが良く分かります。そうそう、八田知家さんは
2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で市原隼人氏が演じて、色々と話題になりましたな。やたらと筋肉美を
見せつける知家さんのおかげで、それまで殆んど無名だった八田氏に脚光が…あ、今日のお題は氏治さんでしたね (^ ^;

そんな「鎌倉時代からの館」を戦国時代まで使った小田氏ですけど、名門武家と云うのは往々にして
下剋上の乱世には没落していくのが世の常でして、氏治さんの時代にはすっかり実力を失っておりました。
ですから、氏治さんと言えば小田城を奪われ流浪する事が当たり前になってしまいました。
え、「城を奪われるのが当たり前」ってどういう事?って感じですけど、この氏治さんが凄いのは
小田城を奪われる→逃げる→小田城を取り返す→小田城を奪われる(以下、これの繰り返し)と
何度も何度も城を奪還しているという点。まぁ、何度も何度も城を奪われている事の裏返しですから
以前は「史上最弱の戦国大名」と言われていたのが、最近は「常陸の不死鳥」なんて言う格好良い称号で呼ばれるように!
ははぁー、随分と褒められるようになりましたな氏治さん(笑)不死鳥ですか。そりゃ凄いwww

余談ですが氏治さん、ちゃんと立派な肖像画まで残っていらっしゃる。その膝元には丸まって寝る猫も一緒に
描かれていて(こういう図は戦国肖像画としては極めて異例)「猫フリーク」にも愛されています。
さぞかし猫好きで、わざわざ一緒に描かせたんだろう…なんて想像される訳ですが、それってホンマかいな?(呆)
小田氏治 肖像画 こちらがその肖像画

「猫好き♪」「不死鳥!」なんて感じのキャッチーなフレーズに持て囃されて、最近とにかく大人気な氏治さん。
敵に獲られた城を奪い返せたのは、家臣や領民に慕われていて彼らが奪還の手助けをしたから―――との評価。
でもそれって、本当に正しいの?というか、
個人的には、全然納得できない! (ー゙ー;
(あれ?この台詞は別のシリーズだったような…)

氏治さんが生きていたのは1534年?〜1602年。小田家当主(大名)としての期間は1548年〜1590年。
北関東ではまだ小田・結城・宇都宮・那須と言った“名門”が存続していたものの、南関東では新興勢力の
小田原後北条氏が破竹の勢いで領土を拡大していた。全国的に見れば、“尾張のうつけ”織田信長が頭角を現し
下剋上から家を興した越後長尾(後の上杉)家、分国法整備で室町体制から脱却した甲斐の武田家、鬼謀を使い
独力で勢力を膨張させた安芸の毛利家など、“実力本位”の時代に移っていた頃であります。
家臣・領民に愛されて、復活の手助けをして貰っていた…と云うのは聞こえが良いが、本来ならば
家臣や領民を従えて、他国に負けない実力を養うのが戦国大名としてあるべき姿なのでは?
それを怠った「公家かぶれ」「独裁者」「名門の名に胡坐をかく」ような某氏とか某氏とか某氏は悉く滅ぼされた訳ですし。
“鎌倉以来の”“将軍の従兄弟”というブランドは、「看板としては」素晴らしいものですが
実力には何ら結びつきませんがな。そもそも氏治さん、居城を奪われるだけの話じゃなくて
参戦した戦はどれもこれも負け戦ばかり。しかも采配ミス(かなりの凡ミス)が原因で。もうね、軍事の才能ゼロでしょ?
連歌で名を挙げたり(文化的才幹)、家臣に離反されなかったというのは確かに評価すべきでしょうが
それは戦国大名としての在り方とは別次元の話だと思います (T-T)

石田三成の話をした時にも書きましたが、産まれる時代が間違っていたような。
もっと“太平の時代”の人だったならば、素晴らしい統治者にはなっていたでしょうが
戦国乱世を渡り歩く為には、才能の活かしようが無かったという人なんでしょう。

だからね、基本的に「(戦国大名としての)小田氏治さんは『ダメ武将』だった」と言うべきなんだと思うの。
「猫好き♪」と言うのはもはや人材評価とは無関係の話だし、ましてや「不死鳥」って…それ正しい表現なの?
普通ね、不死鳥っていう表現は「たとえ1度や2度ヤラれても、最後には勝ち上がる」というものであって
氏治さんは没落して終わりますから。そう、何度も争奪を繰り返した小田城は、最終的に常陸の大大名・佐竹氏が
強固な馬出を備える戦国城郭に大改造してしまい、とうとう氏治さんが手出し出来ない状態になってしまうのです。
それまでは「自分の家だから、弱点は知ってるので何時でも取り返せる」という感じで戦っていたのが
いつの間にか「何だコレ?!もう俺の知ってる家じゃない(泣)」という形にされてしまうのでありました。
小田城空撮写真
小田城空撮写真 (クリックすると拡大画像が出ます)

中心にほぼ正方形の主郭。これが草創期からの曲輪。
そこから一回り、二回りと大きな曲輪が取り囲んでいるのですが
主郭の左下に、突出した四角形の角馬出が。
主郭の右側にも馬出状態の曲輪、他にも随所に…これらが
佐竹氏による増築部分で、それが出来たため
氏治さんは簡単に城を攻められなくなり、敗退する事に。
獲って獲られて獲って獲られて…そして帰る家を無くした氏治さんに「不死鳥」は褒め過ぎでしょ?
むしろ、戦いの相手だった佐竹氏から見れば「何度倒しても倒しても蘇るアンデッドなヤツ」だった訳で
「常陸のゾンビ」と言う評価の方がしっくり来ると思うのですが、如何なものでせう? (^ ^;
何せ「小田家」を指す時の定番表現が“弱い方のオダ”ですから。
”弱い方”で通じるんですよ、織田家じゃないという事が。繰り返しますが“弱い”んです。名将じゃ無ぇよなぁ。


※全っっったくの余談ですが
歴史好き、お城好きな方ならば愛読書であろう「歴史群像」(学研刊)
その名物コラムとなっている、大野信長さんの「信長の独断フルスロットル」でも
小田氏治を評して「不思議な人形」とされておられます。え、不思議な人形?
ほら、良く聞くでしょ?「捨てても捨ててもいつの間にか家に帰って来ている不思議な人形」
つまり「呪いの人形」、ホラーコンテンツなんですよ氏治さんは。
佐竹方からすれば、まさしく「しつこく、しぶとく呪われた」感じだったでしょう。
大野信長氏も「常陸の不死鳥」と言う例えは「うーん間違いじゃない。間違いじゃないけど…」と
オイラと全く同じ違和感を感じておられました。不死鳥と言うけど、飛び立てない鳥だもん氏治さんはw



まぁ、最近は歴史ブームが複雑化・重層化して様々な嗜好(←敢えてこの表現で)があるのは理解してます。
漫画では「センゴク」仙石秀久が取り上げられ、コアなファンには長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)好きが居たり。
(個人的意見ですが、仙石秀久も長宗我部盛親もダメ武将の部類だと思ってるんで御容赦を)
そんな訳ですから、小田氏治さんに好感度が集まるのも…時代の流れなのかもしれませんけど
でも「不死鳥」と褒め称えて称賛するような、優秀な武将では無いよなぁ (^ ^;;;







みずのやまさむら
水谷正村。官職は伊勢守、出家した後は法号を蟠龍斎(ばんりゅうさい)と称す。常陸国下館城主。
「結城四天王」の一人、つまり結城氏の家臣に数えられる人物だが、後に豊臣政権は水谷氏を独立した
大名として認めた。正村は結城家中で抜群の軍功を挙げ、主君・結城政勝から娘婿に迎え入れられる。
主君が病に伏せった時には、その名代を務めるなど実務にも優れた名将にして、愛民の情も深かった。
どうでも良いが水谷を「みずのや」と読むのは難解だが、慣れるとむしろ「みずたに」とは読めなくなるw
水谷正村 (C)KOEI


氏治さんを冷静に評価すると、どうしてもコキ下ろす感じ…だけで終わってしまうのも寝覚めが悪いので、それに代わる話を。
むしろ、常陸には本物の隠れた名将が居る!という話題。そこで登場するのがこちら、水谷蟠龍斎さんです。
小田家の小田城(茨城県つくば市)と、水谷家の下館城(同県筑西市)は距離にして僅か20km程度しか離れていませんが、
その至近距離で氏治さんとは全く違う“デキる男”が潜んでいたという、摩訶不思議な取り合わせでござりまする。

水谷氏は関東武士の源流と言える藤原秀郷(ふじわらのひでさと)後裔を称し、源頼朝から陸奥国岩城郡水谷を与えられ
(諸説あり)その姓を名乗るようになったとか。南北朝の頃、結城氏(こちらも藤原秀郷末裔とされる)に仕え始めたそうで。
結城氏が鎌倉公方の遺児である春王丸・安王丸兄弟を匿い、京の幕府と戦う事になった「結城合戦」では、
他の結城氏家臣が軒並み幕府との対決を嫌い離脱していったのに対し、水谷時氏(ときうじ)だけは忠実に主君へ従って
戦死を遂げ、後に結城氏と水谷氏の再興が許されると、その功績から結城家の重臣として列せられた。
以来、水谷家は結城家と共にあり戦国時代を迎え、蟠龍斎こと正村が登場する訳です。

主君の結城氏というのも、鎌倉御家人から続く関東の名門。ですが戦国時代には鳴かず飛ばずの勢力で
近隣の宇都宮氏・佐竹氏・後北条氏などと集合離散を繰り返し生き長らえておりました。そんな中で正村は
●武蔵国吉見(現在の埼玉県比企郡吉見町大串)へ遠征、大串氏と戦ってこれを散々に打ち負かし
●その手柄を横取りしようとした多賀谷氏(共に結城家臣)に抗し、城へ攻めて来た多賀谷軍を返り討ち!
●宇都宮氏に従う中村氏や八木岡氏を壊滅させ
●佐竹氏の客将・太田氏とも覇を競って手玉に取り
●田野城(栃木県芳賀郡益子町)攻めでは城主・羽石時政を正村自身が一騎討ちして倒す
●外交にも卓越し、早くから織田信長や徳川家康と誼を通じる
などなど、どれもこれも「負け知らず」と言った輝かしい戦歴。小田氏治とは大違い…いや、何でもないw
えぇ、もちろん本当は負け戦もあったでしょうが、それを上回る程に勇猛果敢な伝承が残っている訳です。
そうそう、無敵の軍神と言えば上杉謙信ですけど、正村はその謙信とも戦って一歩も退かなかったとか。
相手は越後国主、方や関東の一豪族。それで渡り合えるって凄まじいですな、この人。

戦いに負けなし、というだけでないのが正村の更に凄い所。有名な話を掻い摘んで御紹介すると―――
@領民に篤い殿様
1541年(天文10年)の事、長雨が続いて食料や燃料が枯渇する事になってしまった水谷領。
生活に困った領民は、遂に下館城の塁壁となっていた竹垣を破壊し薪にしてしまった。
しかし正村は「領民の困窮に手を打てない自らの不徳である」とし、これを罰する事はしなかった。
また別の年の事、不作で年貢が収められない状況となった折、正村は税率を減免して3分の1とし
足りない費用は家宝の刀を売却して用立てた。翌年は豊作となり、家臣らは売り払った家宝の買戻しを提案したが
正村はそれを不要としたのみならず、領民を思ってその年も同じ年貢率で良いとした。

A妻に篤い殿様
正村は1544年(天文13年)主君・結城政勝の娘である小藤姫を娶ったが、彼女は翌年に産後の肥立ちが悪く
17歳の若さで没してしまった。それを悲しんだ正村は入道し、あっさりと家督を弟の勝俊(かつとし)に譲ってしまう。
斯くして正村は蟠龍斎を名乗る訳だが、何とこの時、彼もまだ21歳の若さであったそうだ。

どうですか、これ? 名君以外の何者でも無いでしょ!
武田信玄は「人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」と謳いましたが
それを地で行ってるのがまさしく正村公!こんな良い殿様、なかなかお目にかかれません。
領民の為なら城が壊れるくらい目を瞑る。それでいて戦では負け知らず、敵が来ても撃退する。
小田氏治は領民に助けられて城を回復する(そしてそれを失う)のですが、蟠龍斎さまは
領民の為に城を提供して、年貢の減少も我慢し、何も見返りを求めないんですよ!スゲー…。
奥方様についても、もしかしたら主君の押し付け女房だったかもしれないのに(何せ政略結婚ですから)
彼女を慈しみ、ひたすらに愛し、亡くなった事を儚んで出家してしまう。戦国武将と言えば
側室を山ほど持っているのは当たり前、下手をすれば家臣の妻すら奪う主君まで居る位なのに
正村さんは短い間だけ娶った奥様一筋。古い考え方だと、夫を亡くした妻は「未亡人」夫が死んだのに
まだ生き残っている人なんていう扱いをされて、夫亡き後は髪を下ろすのが普通でしたが
正村さんは逆に「妻の未亡人」として、若いのに出家してしまう。こんな奥様想いの旦那さん、居ないでしょ!
最近は歴史好きの女性(歴女さん)も増えてきたんだから、こんな“女性に優しいお殿様”もっとフィーチャーすべきでは?

ちなみに、正村公が徳川家康と通じていたと言うのは“書状や贈答品を送る”だけでなく、
天正壬午の乱(本能寺の変後、甲信の織田遺領を巡って徳川家と後北条家が争った戦い)において
水谷軍は徳川方として甲斐まで出陣したそうで、「実績を伴った外交」を演じておりました。
その甲斐あってか(甲斐だけに?)、豊臣政権が崩壊した後も徳川家から水谷家は独立大名として遇され続け
正村没後となるが勝俊は関ヶ原の戦いにおいても東軍へ参加、徳川秀忠に従い信濃方面へと兵を進めます。
そうそう、かつての主君筋にあたる結城家には家康の2男・秀康が養子入りしてますしね。その仲を取り持ったのも勝俊。
そういった蓄積があって江戸幕府からも水谷家は城主大名として認められ、勝俊の次代・勝隆(かつたか)さんは
備中国松山5万石を与えられます。え、それってどこ?と仰る方、備中松山城と言えばお城好きには必須ポイント、
現存12天守(江戸時代以前からの天守を残す12箇所の城)の1つにして、昨今は“雲海の城”としても有名な
岡山県高梁市にある「天空の城」でございます★ (^-^)
雲海の備中松山城
雲海の備中松山城

こんな風に見事な雲海が
城を取り巻きます。
この天守を造営したのが
水谷家。勝隆の子・勝宗
(かつむね)さんの頃の事です。
松山城主としての水谷家は
勝宗の後に彼の2男・勝美
(かつよし)さんへ継承されます。

水谷家後日談 その1:忠臣蔵 第零章
ところが、その勝美さんは嗣子が無いまま亡くなってしまい、水谷家は幕府から取り潰しの処分を受けます。
この時、水谷家の家臣団は御家再興を願い、備中松山城に籠城までする覚悟を決めました。
時は既に江戸時代中期、いまさら戦乱も何もあったモンじゃありません。しかし彼らは戦ってでも水谷家を
守ろうとしたのです。恐らくは正村公の“家臣・領民を安んじる殿様”と言う遺風が
家臣たちの心に灯を点したのでしょう。(氏治さん、本当に家臣に慕われるというのはこういう事ですよ?)
そうは言っても、僅かな手勢だけで籠城しても勝ち目は無い事が明らか。それを説いたのが、
幕府の上使として松山城の引き取りにやって来た赤穂藩家老・大石内蔵助良雄(よしたか)。その内蔵助もまた、
後年になって主家の浅野家が取り潰され、赤穂城に籠城するかという一触即発の事態に行き当たります。
籠城を無謀と説いた自分が、同じ目に遭うとは。内蔵助は自身の境遇を嘆きつつ
後日の復活に望みをかけ、その場は城を退去する…歌舞伎演目「忠臣蔵」の幕開けですが、
内蔵助が歩むべき第一歩を決めさせたのは、水谷家の一件あっての事だった訳です。
結局、水谷家は勝美の弟(勝宗の3男)・勝時が旗本として存続し明治まで続きました。
浅野家も同様に浅野内匠頭長矩(ながのり)の弟である浅野大学長広(ながひろ)が旗本になっておりますな。

水谷家後日談 その2:一般的なようで、微妙に違う(らしい)城郭専門用語
「根小屋」と言う城郭用語。根古谷、根古屋などとも書きますが「ねごや」と読みます。
山城があって、その山麓に侍屋敷が集中的にまとまっている状態、或いはその屋敷地を指す用語です。
情報が溢れている現代、城郭マニアにとっては“当たり前のように知られている用語”なのですが
用例としては東日本の城郭に多く使われており、西日本では使用例が無いという、
実は“地域格差のある用語”なんだそうで。某城の発掘調査を担当されていた専門家の方から聞き
「何と!全国的に使われる一般的な用語だったのでは?」と思っていた拙者としては“目から鱗”状態でした。
ところが備中松山城(岡山県ですな)では例外的に西日本ながら「根小屋式」と言う表現を使います。
ん?東日本偏重の言葉が高梁市に…そうか、水谷家か!という事で繋がるのですね。
よく、国替えされた大名が「地元の名産だった●●を移封先にも持ち込んだ」なんて話を聞きますが
城郭用語がそういう例に当てはまるというのは、かなり特異な事例なのではないでせうか?



と云う事で北関東の2人の武将に注目してみましたが、どう考えても推すべきは妙なブームに乗っているだけの
小田天庵よりも、水谷蟠龍斎じゃないの?と、世の皆様方に
ひとしきり問いたい!えぇもう膝を詰めて滾々と問いたい!!むしろ天庵を信奉している人にゃ説教したい!!!
何でみんな蟠龍斎に注目しないんだ!小田氏治が名将だなんて御世辞にも言えないが
水谷正村はまごうこと無き名将だろ?だろ?? (ー゙ー;
小田氏治をして「常陸の不死鳥」と評するのは余りにも恣意的な言葉選びだと思うのですが
だったら水谷正村こそ「不世出の天才」と言って過言では無い筈ですわな。
いや、正村さんをも上回る「知られざる名将」もまだまだ居る筈…。
安易な謳い文句に踊らされず、客観的な目で武将を見る目を養いたいものですな!(自省も込めて)




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