★★★相州乱波の勝手放談 ★★★
#35 信濃の山城は小笠原に始まり小笠原に終わる?!?!
 




小笠原長時 (C)KOEI おがさわらながとき
小笠原長時。室町幕府信濃守護。小笠原氏は室町幕府草創期に信濃守護と任じられ入国したが
信濃国は鎌倉幕府の執権・北条氏の領国であった事もあり、さらに在地豪族の自立性も非常に強く、
守護と言えど統治権力を確立するのは難しい土地であった。小笠原氏は何度も諸氏と対立し、時に
国を追われる事もありつつも長い時間をかけてようやく守護権力の浸透を図っていく。その軍事的な
拠点となったのが小笠原氏の居城・林城だったと言える。しかし長時の代になると隣国・甲斐国から
武田信玄が大規模侵攻を行い、頼みとする林城を捨てて逃亡する破目になってしまった。長時は
武力に長けた将であったが、大局を見る目には欠け諸豪族の離反を招いたと言われる一方で、
武家の名門たる小笠原家はその後も生き延び、現在まで“小笠原流礼法”の伝統を伝えている。


おがさわらひでまさ
小笠原秀政。信濃守・上野介・兵部大輔。長時の孫。祖父・長時は諸国流浪の末ついに信濃へ
帰る事は出来なかったが、その子・貞慶(さだよし)と孫である秀政は織田信長、続いて徳川家康に
従属、時流を巧みに読み江戸幕府成立後ようやく父祖以来の地である松本近辺の所領を回復。
程なく、戦国最後の合戦である大坂の陣が勃発し従軍する。そこで比類なき軍功を挙げたものの
瀕死の重傷を負い家康の眼前で絶命。絶大な忠義心に報い、以後徳川幕府は小笠原家を譜代
重臣として重用していく。その秀政最期の言葉は「信濃は…」というもの。どこまでも故郷を愛し、
名門・小笠原の名に恥じない名将であった。
小笠原秀政 (C)KOEI


小笠原氏の城と言えば林城。林大城と林小城(ほか諸々の付属出城)から成る、松本市街から
東に入った山を大規模に造成した巨大山城です。前々から行ってみたかったんですが、2018年
4月にようやくオフ会を開いて頂ける機会を得て登城してきました。当日、御参加の皆様方…
特に御案内して下さった地元のえどっちさん、どうもありがとうございます m(_ _)m大感謝
で、そうした小笠原氏の山城をいくつか見てみて思った事が―――。



以下に記すのは、城めぐり歴●年の拙者が今までの経験と知識を総動員してお送りする
画期的かつ斬新、城郭考古学に一石を投じる新理論?!?!です。
皆様、心してお読み下さいませ〜! (←もうこの時点でインチキ度∞






第一の段 林大城
オフ会本編の前に朝駆けしたら存外ボリューム感があって「前菜からステーキ」状態になったり
メンバーが合流した途端に大トラブル発生があったりと、すったもんだがあった上で(詳細割愛)
まず訪れたのが林大城。標高845m、麓からの比高約200mの険しい山にある大きな城です。
主郭を取り囲んで石垣も構築され、小笠原氏が軍事的権勢を恃むに相応しいのですが、その
縄張図を見てみると…(「松本市史」歴史編Tより引用)
林大城縄張図 「松本市史」歴史編Tより引用
山頂に主郭T、その下段に副郭Uを置き両者の間を空堀で分断。U郭の下には比較的大きな
平場のV郭が。V郭は現在、駐車場として使われており堀切H方向からの車道が通じている。
この山は北西から南東へ稜線が伸びる地形で、堀切Aから主郭を経て裏手の堀切G方向へと
夥しい数の段曲輪を重ね防御の要としている。当然、想定される戦闘正面はAから上がって
来る敵であろう。逆に攻め手としては、そのAから順に攻め登って行くのは非常に難儀だ。
段曲輪群はB・Cをはじめとする数ヶ所の堀切で区切られ(T〜U郭間の空堀も堀切Eの一部)
その堀切はそのまま山裾へ真っ直ぐ落ちる竪堀にもなっている。敵がAから山腹を迂回しようと
してもこの竪堀に阻まれるので、主郭へ達する事は難しい。

ところが良く見てみれば、駐車場へ繋がる車道が走っている部分も小尾根になっている。が、
ここは多重堀切Hを構えて分断しているものの、段曲輪群は作られていない。また、主郭Tの
下にのみ僅かながらの帯曲輪があるだけで、それ以外の山腹斜面には全くと言っていい程
帯曲輪も腰曲輪も確認できないのである。堀切Hの脇には城の生命線である井戸があったと
言うが、それを確保するだけの備えも見受けられず、あくまでも敵軍に対してはA〜G間の
多重防御“だけ”が頼りとなっている防御構造なのである。


林大城を訪れて、まずこの多重防御線のしつこさに驚愕。「えー、これどこまであるの?」と。
でも縄張図を見てみると尾根上の一直線に並ぶだけ。これが山全域にあるのなら滋賀県の
観音寺城みたいになるのにねぇ、ちょっと片手落ちなのかなぁ…と考え直す事に。


※観音寺城
滋賀県近江八幡市安土町にあった巨大山城。安土町なんだから、安土城のある所でしょ?と
思われるでしょうが、安土城よりも前にあったのが観音寺城でございます。この城は
南近江を押さえる戦国大名・佐々木六角氏の城で、山全体に帯曲輪を構築し
その数は千とも万とも…要するに数え切れない程、という事です。しかも
これらの曲輪はほぼ全て石垣で固められており、六角氏の権威と技術力を大いに
知らしめる堅城だった訳で。六角氏を追い出して近江を支配した織田信長も、
この城を見て、隣に自らの居城である安土城を構築。いわば、観音寺城は安土城の
モデルとなった城だったと云う事ですな。林大城も、もっと帯曲輪を多方向に広げていれば
観音寺城に匹敵する“圧巻の城郭”になって信玄を追い返せたのかも…。




第二の段 林小城
続いてやって来たのは林小城。林大城の南西側にあった山を城塞化したもので、こちらも
主郭周辺を大規模に石垣で固めた名城。で、その縄張は…(再び「松本市史」歴史編Tより引用)
林小城縄張図 「松本市史」歴史編Tより引用
※林大城の縄張図とは若干縮尺が異なります
こちらも山頂に主郭T、その下段に副郭Uを置くが、林大城に比べて曲輪を広く取っている。
それを成し得る山を見つけての築城というのもあるが、明らかに曲輪の形取り自体が人工的に
作り込まれており、自然の地形に頼るだけではなく、造成でより大きな曲輪を構えようという
思想が見受けられる。
この山は北西方向と北東方向の2方向に尾根が伸びている為、それに対し段曲輪群を構えて
いるのも林大城との共通点だが、しかし段曲輪の作り方も若干の差異が感じられよう。北西の
尾根は順々に段曲輪を重ねているものの、中段では屈曲を取り入れた広めの曲輪を用意し、
登って来る敵兵への横矢攻撃を掛けられるようにしている。しかもこの尾根は副郭の直下で高く
隔絶し、結局は北東方向の尾根へ回り込まないと上へ登れないようにしており、林大城のように
“多重防御だが一直線”というルートとは異なる。
そして肝心なのが北東方向の尾根。こちらはやや丸みを帯びた(つまりもう1つ山が付属する形)
尾根になっているので、一直線に曲輪を連ねるのではなく全方向に広げ帯曲輪を取り巻かせる
構造になっているのだ。山塊が団子のように丸いので、当然その帯曲輪はどれも丸い縄張り。
これを現地に行って実際に目で見てみると
「うわー、しつこいわコレ」と辟易してしまう。まさしく
攻城兵の気分を味わえる“全周防御の山城”なのである。


聞けば、林小城は林大城よりも後から作られた「新しい城」の可能性があると言う。なるほど、
主郭Tや副郭Uの形や大きさは戦国後期、大規模軍勢を収容するに必要不可欠な構造だし、
尾根筋の段曲輪・帯曲輪の作り方は林大城に比べ大掛かりで年代的・技術的発展の結果とも
考えられる。小笠原氏が長年かけてようやく信濃守護としての権力を浸透させ、かつ武田氏を
始めとする強大な隣敵と抗争する為に必要なだけの新城を作ろうとした結実が林小城なのか。
それにしてもこの城、あちこちが丸い。主郭Tは図面上だと四角い敷地だが、隅部はそれほど
角ばっていなくて丸みを帯びている(そういう石垣で囲われている)。副郭Uはもっと顕著だし、
北東尾根の帯曲輪群は山の等高線をそのまま曲輪にしているから丸い丸い…。
林小城 主郭石垣
林小城 主郭石垣
こちら、林小城主郭石垣の隅部。在地系石積技術なので織豊系城郭のような大規模なものではないが
それでも甲信地方の城郭ではほぼ御約束の平石積みではない点が興味深い。とりあえず、天然石を
そのまま組み上げた野面積みの石垣である為、石垣の法面がそれほど明瞭に際立つ訳ではないが
それにしても隅部なのに全然角ばっておらず、むしろ“丸く丸く”作り上げているのである。




そして個人的に、特に気になったのが副郭Uから下段へ至る経路。縄張図で言うとこの部分…
重ね丸馬出では?
U郭出入口は北面中央部。そこから横矢を掛けるように北東方向へ道が延び、その先に
小さな曲輪が1つ、そして更にもう1つ。あるいはその先にも?と思わせる部分も見えるが、
少なくとも確実に2つの小曲輪がある。この曲輪はだいたい3m四方ほどの大きさ、戦時には
3人〜5人くらいが詰めるに丁度良いスペースだ。普通に考えて、この位置でこの形は…
丸馬出?それも重ね馬出?!


※丸馬出
城の敷地、つまり曲輪の出入口を「虎口(こぐち)」と言い、敵が入って来られないよう
様々な構造的トラップを仕掛け、防御を固めます。その形態は戦術の進化に伴って
技巧的になって行き、最も発達した構造になったのが「馬出(うまだし)」という
小曲輪を虎口の前衛に据え付ける方法。この馬出が、角ばった形ならば角馬出と言い
丸みを持った形ならば丸馬出と呼びます。更に、重ね馬出と言うのは馬出をいくつも
連続させて設置し、敵軍の侵入を何段にも分けて手間取らせるものです。
丸馬出、そしてそれを重ね馬出として用いる築城術と言えば―――。


丸子城縄張図 西股総生先生作画縄張図を引用し加筆
※丸子城(静岡県静岡市駿河区)縄張図 西股総生先生作画縄張図を引用し加筆
こちら、静岡県静岡市駿河区にある丸子(まりこ)城の縄張図。この城は武田軍が駿府を占領し
大改修を加え、山の頂上を大きく啓開して主郭や副郭を構築。その曲輪取りは円を基調にした
丸い敷地で、虎口には当然のように丸馬出を設置している。しかも重ね馬出。図中、@A
数字を振った場所が重ね馬出である。この城はとにかく丸馬出の一点集中で強力な防御力を
見せつけていて、現地に赴けば
「味方でさえ撃ち殺す」必殺の構えに恐怖する程だ。



丸い敷地、丸い縄張、丸馬出、そして重ね馬出…林小城を見ていると、直ぐに丸子城との
共通性を感じた。もしかして林小城は武田軍の改修を受けている?いや、来歴からしてそれは
あり得ない。林小城は純然たる小笠原氏の城郭で、武田軍の侵攻によって役目を終えた城だ。
だとすると―――武田軍の方が小笠原の城を踏襲した???



遡れば林大城で多重防御構造を確立した小笠原氏は、新たに林小城で丸い縄張の有効性に
覚醒し丸馬出や重ね馬出で鉄壁の防御形態を完成させた。最後の信濃守護・小笠原長時
武略に長じ、軍事的才幹は恵まれていたと言う。いわば“小笠原流築城術”のようなものを
体得していたとしても不自然ではない。図らずも武田晴信の大規模攻勢に敗れ、国を追われる
事にはなったが、その城を見た晴信(信玄)が「この城は使える」と気付いて自らの城郭に
取り入れたとしたら?そう、織田信長が観音寺城をヒントに安土城を築いたかの如く―――。

となると、今日「武田流築城術」として広く知られている円形を基調とした武田家の築城技術は
元来、小笠原氏が用いていた縄張を発展継承させたもの
と言う事に?そう、武田流の城は後年
徳川家康が東海甲信を領有するに至り徳川氏の築城術へと受け継がれていく。武田→徳川と
いう技術継承があるのならば、その前段階として小笠原→武田という流れがあってもおかしくは
ない筈。近年、上杉氏の築城術と後北条氏の築城術に共通項を見出して上杉〜後北条の築城
技術伝播を考える向きもあるのだから、小笠原〜武田〜徳川という繋がりがあったとしても…。


※横堀の構築
“武田流”の山城において、もう一つ顕著な傾向に横堀の構築がある。
山の等高線に沿って堀を掘削し、登って来る敵に対する障壁とするのが横堀だが
他の大名・土豪の山城ではそれほどでもないのに、武田流では
“必ずと言って良い程”に使用される傾向がある。元来、山城の地形からして
等高線に沿った向きで堀を作ってしまうと、その分だけ曲輪を構える有効面積が
減少してしまう筈なのに、だ。例えば上記の丸子城においても、主郭群の北側には
2重にもなる横堀が掘削され、削り残しの土堤を通路兼用の土塁としている。
「高天神を制する者は遠州を制する」とまで呼ばれた高天神城(静岡県掛川市)も
武田家が構築した部分には、ぐるりと山を取り囲むような横堀が掘られている。
こうした横堀の構築も、林小城の縄張りを進化させたものと考えてみると…。
帯曲輪から横堀への進化
林小城では、山の斜面を多数の段に分割した帯曲輪にしていた。これだけでも見事だが
武田軍は「これならば攻め落とせる」だけの軍備を有し、故に小笠原長時は叶わじと見て
逃亡したのだろう。然るに、小笠原流築城術を継承しつつも「これでは攻め落とせない」という
更なる発展を求めた武田軍は、帯曲輪だけでなく堀すら構えて多重障壁にする術を編み出した。
この点について、武田流築城術は小笠原流築城術を凌駕した事になる訳だが、
しかし原点を林小城の縄張りに求めるならば、やはり少なからず影響があったのではなかろうか?







第三の段 桐原城
話はこれだけで終わらない。オフ会の最後に訪れた城、桐原(きりはら)城での事。この城は守護
小笠原氏に従属した在地豪族の桐原氏が築城し、小笠原氏が信濃を棄てた時に林城と同じく
廃城になったと言う城。小笠原氏の影響を多大に受けているとされる城ですが、その縄張は…
(こちらも「松本市史」歴史編Tより引用)
桐原城縄張図 「松本市史」歴史編Tより引用
※林城の縄張図とは縮尺が異なります
山の小ピークに主郭T、その下段にU郭・V郭・W郭が階段状に続く「ザ・梯郭式」の縄張り。
主郭のみならず、これらの曲輪はほぼ全て石垣で囲まれているのが圧巻。しかも各曲輪は
いずれも広く、敷地は直線を基調にした完全な人工造成地形だ。そしてその下段には無数の
帯曲輪が置かれている。言わば林小城の設計思想を更に進化させ、石垣化し、無駄な丸みを
補正整形した縄張りなのである。
加えて、主郭Tを中心として放射状に竪堀B〜Fを配置。戦闘正面となる西側から山に取り
付こうとしても、どの向きに対しても迂回を阻止する。結果、登城口となるのは最も南側の
急峻な道だけになるが、このルートも2重堀切HとI(2重×2段の厳重な構え)が行く手を阻む。
この山は更に東側へ高くなっていく。よって、東から城へ攻め下るという裏技も考えられなくは
ない。それを防ぐため、主郭Tの裏側には連続堀切群Aが掘削されているのだが―――
これが圧巻!深さ10mはあろうかと言う空堀がザクザクと切り刻まれている。まるで山を鉈で
丸ごとぶった切ったような巨大な堀切で、Tから見る対岸までが気の遠くなるような距離に
感じられる。ハッキリ言ってここまでやるなんて「バカなんじゃないの?」と思ってしまうくらい。
信じられん… (ー゙ー;


この連続堀切を見て思い起したのが愛知県新城市にある古宮(ふるみや)城。武田流築城術が
最も円熟した頃の縄張りで、盆地に置かれた小さな山を丸ごと城地として活用している。この
城も「山を真っ二つに切り分ける」形で竪堀(もはやそのレベルを超えているが)が掘られ、
更には何重にも重ねた横堀を巡らせて敵の侵入を阻む構造となっている。
古宮城縄張図 西股総生先生作画縄張図を引用
※古宮城(愛知県新城市)縄張図 西股総生先生作画縄張図を引用
東西およそ150m程ある山を、だいたい真ん中で切り分けるように竪堀が貫通。山頂部にのみ
土橋を残し、東西の曲輪を行き来できる通路を確保しているが、こうまでして山を2つに分ける
必要はあるのだろうか?さらに、城地北西側に関しては5重(!)にもなる横堀を巡らせて
侵入者を管掌しようとしている。この城も、実際に見てみると
「うぁー、バカだ(誉め言葉)」
思わず呆れてしまう名城である。


「山を分断して、多重の堀で防御する」古宮城に対し、「多重の堀切で山を分断し防御する」
桐原城の設計思想はかなり通じるものがあると思う。だが古宮城の築城時期と桐原城の利用
年代は全く違う。古宮城が作られた時、既に桐原城は廃城になっている―――筈なのだ。




しかし今一度、桐原城の遺構を見直してみたい。林大城・林小城はいずれも主郭部近辺のみ
石垣で固めていたが、桐原城はほぼ全域が石垣になっている。しかも曲輪は人工的な造成、
加えて恐ろしいほどの多重堀切の土木工事量は、もはや守護配下の一地方豪族が成し得る
限界を超えているのではないか?と言うか、守護の城である林城より立派なのだ。
更に付け加えると、縄張図のV郭虎口(赤く色付けした部分)はどう見ても小型の枡形虎口。
そしてそこもきちんと石垣で封鎖されている。多用されている竪堀についても、それに寄り添う
ように竪土塁が並走している部分まである。これが小笠原長時の在国時代(天文年間ころ)の
物だと言うには、余りにも進歩し過ぎている構造ではなかろうか…?



そこで大胆な仮説を立ててみる。この構造、築城技術、そして場所を考えてみると、もしかして
慶長年間の大改修を受けているのでは?関ヶ原合戦以後、徳川幕府の論功行賞で大規模な
国替えが発生し、全国各地で新たな統治体制を構築する為の“築城ブーム”が起きた頃の
遺構だとすれば、これだけの城になり得た事にも納得がいくのだ。石垣や枡形虎口の多用、
それに竪土塁は“慶長築城ブーム”の城に顕著な傾向であるし、山をカチ割るだけの工事も
幕府公認の大名権力ならば、それだけの人足を動員して難無くこなせる筈であろう。
ではそれを行った大名とはいったい誰なのか?慶長年間以後、松本周辺の領主に任じられた
人物は―――松本城主となっていた小笠原秀政である可能性が高い!

当時の松本城は、天守付属の月見櫓がまだ無い時代ではあるものの、城郭としての完成は
終えていた。松本平の盆地中心にある平城は、幕藩体制が成立していく時代の中において
統治拠点としては絶好の立地にあったと言える。即ち、松本城に関しては何も手を加える
必要なく存分に活用できる状況になっていた。
が、時代はまだ豊臣家が存命している頃。西国諸大名の動静も気になる中、各地の新入府
大名は「もしかしたら起こり得る次なる戦乱」に備えねばならず、新城や国境警備の城砦を
盛んに作っていた時期だ。城郭保有に制限が加えられる幕府の法令「一国一城令」が出る
前なので、こうした城が続々と誕生していたのである。小笠原秀政も、平城である松本城の
“詰めの城”となる堅固な要塞を欲していても何ら不思議はない。否、信州に生まれ育った
小笠原一門なればこそ、戦いの城は平城ではなく山城であるべきだと考えたかもしれない。

しかし彼は家康に臣従を誓った譜代大名でもある。譜代大名が“謀反の兆候”とも受け取られ
かねない強大な山城を大っぴらに作る訳にも行かない。よって、松本平から望めるかつての
居城・林城の大改修は憚られた。目の前の山に要塞を築くのは、幕府の隠密や参勤で所領を
通過する他大名に丸見えとなるからだ。ならば…と白羽の矢が立ったのが、林城のもう一つ
奥にある山、桐原の山城だった。ここならば簡単には見抜けない。また堅固な城郭を築くの
にも相応しい地の利がある。それでいて松本城からも近く、有事の即応も可能だ。そうして
極秘裏に進められたのが、小笠原秀政による桐原築城だった―――?

秀政戦死後、小笠原家は播磨国明石(兵庫県明石市)へと栄転になる。また、一国一城令が
幕府から出され、無用な山城は全て破却せねばならなかった。故に、桐原城の復活は闇に
葬られ、文献にも残されなかった
。この為、遺構は慶長期のものなのに来歴は天文年間の
ままで止まってしまった…桐原の城。





この“大空想仮説”に基づくならば、室町幕府から信濃に封じられた小笠原氏は林大城を築き
更に林小城へと発展していく。武田信玄の攻撃で長時は国を離れたが、その武田家が築城
理念を踏襲、小笠原流築城術は“武田流築城術”と名を変えて流布していくのだ。そして武田
滅亡の後は旧主・小笠原家が信州に帰還し“新・小笠原流築城術”とも言える慶長期桐原城の
構築を図ったものの、戦国終焉の世になって全てが消えて行く…という筋書きに。
だとすれば、「信濃の山城は小笠原に始まり小笠原に終わる」との結論は当然の帰結である。


と言うのが、その場の勢いだけで思いついた新理論(?)
えーえー、こんなのは全くの空想論、いや妄想論の与太話ですよ。分かってますって。
何ら歴史的根拠や発掘物証もなく、たった3城だけで他のサンプル例を挙げるでもなく、
言わば状況証拠のみで犯人をデッチ上げた違法捜査のような話ですので
これぞまさしく“勝手放談”の極み、最大級の与太話としてお聞き流し下さいませ(爆)



でも林小城の重ね馬出や、桐原城の過剰に見事な構造は、通説では割り切れない何か
感じさせるんですよねー。もし百年後、武田流築城術の起源が小笠原流だというのが定説に
なっていたら、オイラの妄想もあながち捨てたモンじゃないと―――誰も思わんか(爆)







後日談
ところで、林大城を見学していた時の事。案内役のえどっちさんが、主郭の裏の裏に
縄張図にさえ載っていない“謎の石垣”があるとお教え下さって、城地の奥深くまで
突撃を敢行。確かに、そこには謎めいた石垣がありました。しかもこれ、エラい急峻な
斜面の中腹にあって…辿り着くにも難儀する事しきり (^ ^;
林大城 搦手石垣
林大城 搦手石垣
これがその林大城搦手側の石垣。とにかく急斜面にあるので、正面に回り込めません。
正面へ行くとなると、坂を転げ落ちるしかないので(それでも行ってしまう摂州の某氏っていったい…w)
横から見ただけでもお分かりでしょうが、その場に元々ある岩と組み合わせて作っている石垣。
こんな急斜面に、岩が転がり落ちる可能性だってあるのに追加で石垣を組むなんて、エラい危険やん!

この石垣があるのは、先に記した林大城縄張図の堀切Gから更に南東側。縄張図から外れる
ギリギリくらいの位置。で、その縄張図を見てもこの石垣は描かれていません。つまり、松本
市史に載っている縄張図では認識されていないという事に…。

いやそれどころか、お城系の他サイトを色々と見ても、この位置の石垣について触れている
頁は全然なし。あれ?もしかしてこの石垣は城と関係ない後世の構造物?だから誰も興味を
持っていないのか―――という不安もちょっとよぎったりする。でもこれだけ立派で、しかも
林城の主郭と同じ構造・石材の石垣だよ?全く無関係という事もなかろうに…。

謎と不安が交錯するこの石垣、オフ会の後えどっちさんがわざわざ松本市文化財課さんに
問い合わせをして下さいまして、御担当者様からお返事を頂いたとの事。で、回答文面を
こちらに御紹介させて貰いますと…(以下、原文のままメール文面転載)
お世話になっております。
林大城付近の石垣につきまして、早速写真をお送りいただきありがとうございます。
写真を拝見いたしましたが、林大城の史跡指定範囲の外で、私は直接見ていませんが、
別の職員が確認しており、同じ石垣の写真が記録されています。
石の用材は林城と同じですが、積み方や場所からみて城郭本体に直接関わる遺構では
ないと見ています。しかしながら、大城の背後から橋倉集落のある谷を挟んで東に
水番城があり、その東のカシワ沢から大城の化粧水まで木樋で引水したと伝わっています。
かかる石垣はその推定ルートにも近く、今後周辺の調査が必要と思われます。
私自身も一度確認しなければと思いながらなかなか機会を得ていなかったもので、
ご指摘も受けてできるだけ早いうちに一度実見したいと思います。情報をご提供いただき、
心より感謝申しあげます。 
(転載ここまで)

つまり松本市でもまだ十分に把握していない遺構で、今のところは城本体と一括で
史跡認定できるようなものではないが、実は近隣の出城・水番(すいばん)城から
引水する為の遺構として考えられる可能性がある。この為、今後の調査を要する…と。

林大城の搦手から、水番城への通路や水路の存在は十分に考えられるもの。もしかして、
この石垣がその土台となるような構造物だったとしたら、これは林大城の史跡指定範囲
そのものが大きく塗り替えられるのかも?松本市は林城周辺の国史跡指定整備を随時
進行しているとの事なので、この期待はあながち空想でもないのかも???



オイラの大妄想論よりも、えどっちさんが林城新遺構発見の功労者として称えられる方が
十分ありえる将来像…というオチでこの頁は〆させて頂きます(チャンチャンw)





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