★★★相州乱波の勝手放談 ★★★
#32 【歴史の悪人を擁護するシリーズその4】神から凋落した男、武田勝頼
 




武田勝頼 (C)KOEI たけだかつより
武田勝頼。甲斐の虎・武田信玄の4男として産まれ、信州の名族である諏訪氏を継ぐ者として育てられたが
その後の武田家中における騒動の末、結果的に信玄の後継者となって武田の“陣代”に。しかし偉大過ぎた
父の幻影に悩まされ、また家臣団との軋轢や天下人へ駆け上がる織田信長との対決など様々な要因により
版図を縮小させてしまい、遂には武田氏滅亡を招いた愚将という評価を受けるに至るが…。ちなみに諏訪氏は
神代の昔から諏訪大社を守護する神職が武装化した武士団で、その当主は諏訪地方の長のみならず、社の
“大祝
(おおほうり)”つまり神と同等の地位として崇敬の対象とされていた。勝頼も諏訪姓を称していた頃には
「諏訪四郎“神”勝頼」と云う名乗りで、神
(みわ)氏(伝説上での諏訪氏の本姓)の現人神と崇められた。


甲陽軍鑑(こうようぐんかん)
甲斐源氏の嫡流・武田家の歴史を記した軍記物語。いや、稀代の英雄である武田信玄の伝記と言うべきか?
信玄股肱の臣として有名な高坂弾正昌信
(こうさかだんじょうまさのぶ)こと春日虎綱(かすがとらつな)が原作者と伝わり、
信玄時代(の前後)における武田家の歴史を知る史料として第一級の評価を受ける史書と捉えられてきた。
春日虎綱、いやここでは従来の通り名である高坂弾正と呼ぼう。信玄から様々な意味で最大の親愛を受けた
彼が“敬愛する御屋形様様様々々々さまさま…(×∞)”という感情の迸るままに伝えた主君の伝記であるから
必然的にその内容は信玄の活躍や武田家の隆盛時代を称賛するものとなる一方、信玄没後の勝頼を酷評し
国を滅ぼした元凶として描く形になっている。戦国時代における甲斐武田氏の動向は長らくこの甲陽軍鑑を
元にして考えられてきた為、自ずと偉大な名将・信玄に対し家を亡くした愚将・勝頼という評価が定まっていた。


でもそれって、本当に正しいの?というか、
個人的には、全然納得できない! (ー゙ー;
と言う事で、「歴史の悪人を擁護するシリーズ」第4弾として採り上げるのは、無鉄砲で己の力量を見誤り
平安以来の名家・甲斐源氏武田家を滅ぼした?とされ(てしまってい)る武田勝頼です。



一般的に、と言うか義務教育で習う戦国時代の歴史からして、甲斐武田家が滅びた一番の原因というのは
勝頼が古くからの騎馬隊突撃戦術を過信して織田信長と徳川家康の連合軍に戦いを挑み、その連合軍から
鉄砲兵力の集団活用という新時代の戦法に晒され大敗北を喫した1575年の長篠・設楽ヶ原合戦とされる。
この戦いで信玄以来の重臣を数多く失い、兵力を大きく損失させ逃げ帰った勝頼。しかも合戦直前、彼ら
重臣は織田・徳川連合軍の“新戦術”を察し、勝頼に無謀な突撃を留まるよう諫めたにも関わらず
勝頼はそれを無視し、自身の取り巻きである新参の家臣に踊らされた末の惨敗だとも言われている。
これらは当然ながら甲陽軍鑑にその記載がある為、実しやかに事実であると信じられてきた。

ところが、だ。

甲陽軍鑑で「勝頼のイエスマン」と蔑まれ、長篠合戦の行く末を大いに狂わせたとされる“A級戦犯”の佞臣
長坂長閑斎光堅(ながさかちょうかんさいみつかた)は、実は長篠には居なかったという説が近年の研究によって急浮上
している。また、勝頼は父の時代から仕える重臣を疎んじたと言われているが、長篠にて殿軍を務め
勝頼を落ち延びさせる為に戦死した内藤修理亮昌豊(ないとうまさとよ)に関し、遺族へ頭を下げに行った上
彼の戦死に報いるため自らの甲冑を褒美に与えたという伝承が残る。即ち、勝頼は決して古参の家臣を
疎んでいたという訳ではないのだ。そもそも、長篠合戦を伝える甲陽軍鑑であるが、当の高坂弾正は
この戦いに参加しておらず、当日の経緯をそんなに正確な記録として残せる筈もないのである。

もうこの時点で甲陽軍鑑の信憑性に疑問符が付く。加えて言えば、武田家が滅亡する1582年というのは
長篠合戦から7年も後の事。仮に長篠合戦が武田家を滅ぼすほどの大敗北だったというならば、なぜ信長は
その場で追撃もせず、以後7年もかけて攻略せねばならなかったのだろうか?つまるところ、たった1回の戦で
東海地方5ヶ国にも及ぶ領土を保有する武田家が滅亡するという結果にはならないという事だ。このあたり、
例えば“天下分け目”と言われる関ヶ原合戦や、信長が業火に消え去った本能寺の変など、戦国時代の
転換点が往々にして「たった1日で勝負が決まる」という華々しい戦果に彩られ、そういった印象が
強すぎる故に長篠合戦もそのような目で見られる傾向がある、という事なのであろう。



では甲陽軍鑑ひいては武田家の歴史上において、何故これほど勝頼が卑下されてしまうのであろうか?
これは勝頼の生い立ちから話を始めねばなるまい。しかも、現代人が考える戦国像や、通説的な解釈に対して
実際の(その場の状況の)あり方が如何ようなものだったかというギャップを差し引いて考察せねば。



勝頼の母は通称“諏訪御料人(正確な名は不明)”と呼ばれる、時の諏訪氏当主・諏訪頼重(よりしげ)の娘である。
頼重は義兄弟であった武田晴信(出家以前の信玄ね)を侮り、よもやの急襲にあっけなく敗北し命を奪われた。
そしてその娘である御料人は、晴信が半ば強引に奪い側室とし勝頼を産ませた…というのが通説だ。小説や
劇画で良く描かれるその光景は、晴信伝記の中で一つの見せ場であり、父の仇である晴信に恨念を抱きつつも
御料人は泣く泣く側室に…といった具合である。が、私はその解釈があまり納得できない。戦国の慣習に於いて
敗者の(特に当主一門の女性)側にある者は殺されたり売られたり(人身売買の商品と化す)凌辱されるのは
至極当然の事で、そうした観念(覚悟)は誰しも持ち合わせていた筈だ。となれば、御料人としてはせいぜい
「死なずに済んだ」と、むしろ安堵して側室になったのではなかろうか?しかも、勝者である晴信の男子を産み
それを諏訪氏の新たな当主に据え、家の再興が期待できるならば大喜びだったとも思えてくる。

この点、父母の仇である秀吉の側室になった淀殿なんかも同じだよね。他にも“敵の懐に入る”という感じで
相手に取り入る女性は、実はかなりの数に及んでいたかと。無論「敵に辱めを受けるより潔く死を選ぶ」と
自決した者もいた筈だが(だいたい、落城譚ではそういう話ばかりだ)、必ずしもそればかりではなく
命を遣り取りする戦国の習わしの中では「生き残る」という選択肢を選ぶのもアリだったと思われる。



#近年の歴史ドラマとかだと、「戦国の世でも女性は逞しく生きていた」として女性自活の様子を取り入れ
 やけに猛々しい…というか出しゃばりな姫様を描く事が多いけど、そういう現代的な意味ではなく
 強かに知恵を巡らせ、上手く最悪の状況を回避する術を心得ていた、という位の意味が正しいと思う。
 現代の人権意識とは違い、やっぱり当時は“男尊女卑が当然”という世の中だったんだから
 (故に女性は売られたり、政略結婚で人質同然の扱いだったり、“褒美の品”として下賜されたりしていた)
 無理矢理に「男に負けず主張する女性」という筋書きはむしろダメでしょ?
 そんな“男より偉かった女性”って、先に記した淀殿か春日局くらいだよねぇ (^^;
 ※女性蔑視をするつもりではなく、あくまで“当時はそうだったでしょ?”という話ですので、念のため!



諏訪大社 上社 諏訪大社 上社
(長野県諏訪市)

上社・下社に分かれる
諏訪大社にて、勝頼が
継いだ諏訪氏(神氏)は
上社側の系統とされるが
下社諏訪氏(金刺氏)も
元を辿れば同じ血統で、
両者ともこの写真にある
「三ッ葉根有梶の葉」が
家紋。当然、それは
大社の神紋でもある。
話が脱線したので戻すと、そうして生まれた勝頼は、信玄にとっても諏訪一門側からしても
「諏訪氏を継ぐ者」というのが既定路線だったと思われる。実は頼重には他に落とし胤と言える男子が1人おり
家督の継承権はそちらが上位の筈だったが、敗北した頼重の直系を素直に認めるのは勝者たる武田側として
頷けるものではなかっただろう。故に「信玄(武田)と御料人(諏訪)2人の血を継ぐ」勝頼が選ばれたのだ。
勝頼の母、御料人としても「諏訪家が絶えずに残るなら」致仕方なし、いや「自分の息子をそう育てれられる」の
ならば結果として良し、という感覚だっただろう。この為、勝頼には諏訪家の通字「頼」が入る一方、
武田家の通字「信」は入っていない。なお、信玄の他の男子には全て「信」の字が与えられている。
ドラマなどでは「側室として相応しいか」とか「信玄の子を産むか産まないか」といった感じで大いに揉める
シーンになる場面だが、それほどの事は無かったのではないか?武田家臣らも、そうやって諏訪家を
手懐ける(戦国の世で“御家乗っ取り”を行う常套手段である)のに反対する者はそれほど居なかったかと。

現代の感覚だと「それよりも諏訪家を滅亡させちゃう方が手っ取り早くない?」と短絡的に考えそうだが、当時
「家の観念」「名族の存続」というのは非常に大きな要素である。滅ぼして空白地を作ったり、滅ぼした家の
縁者から叛かれるより、上手く乗っ取る方が確実なのだ。そもそも武田氏自体が“甲斐源氏の名門”だからこそ
その権威によって周辺諸豪族を従わせられたのだから、諏訪の名門もどうにかして残す方が良いのである。

さてその“武田家の嫡男”は長男・義信であった。義信が成長していく時期、武田家は信濃攻略を主眼とし
隣国である駿河とは安全保障を結びたいという思惑があった為、彼は駿河太守・今川家の姫を娶り政略結婚、
武田・今川両家の安泰を図る役割を果たしていた。だが今川家が急速に衰退、もはや信に足る同盟相手では
無くなった事から信玄は方針転換し、今川領の攻略を計画する。となれば、義信は嫡男と言えどむしろ邪魔な
存在になってしまう。このため、義信は廃嫡のうえ命を奪われる。信玄の2男は盲目であり一軍の将にはなれず
3男は早世。よって、側室の子で4男という“あり得ない立場の”勝頼が、突如武田家の当主候補に急浮上した。
それまで「諏訪氏の総領」であった神の子・勝頼は諏訪家中の統率を目標とし独自の家臣団を形成していたが、
(このあたり、ドラマなどでは逆に詳しく描かれない…むしろそこが当時の観念では重要な筈なのに)
今度は「武田家の総領」という地位へ変わっていく。何度も云うが、当時は「家系」「家格」というものが非常に
重要視されていた時代、武田に敗れ去った存在の筈だった“諏訪の子”が、源氏の名門たる“主家”へと
乗り込んで来るのである。旧来の武田家臣団は、当然その存在を認めず、必然的に勝頼は“見下される”
御屋形となっただろう。ここに甲陽軍鑑が「勝頼は旧臣を軽んじた」という対立構図を描く素地が出来上がる
訳だが、実際の所それは「旧臣が勝頼を軽んじた」のだ。また、既に構築していた諏訪家臣団こそが
勝頼の直臣だったため、彼らを引き連れて武田家に入った事で家臣団内部での派閥抗争も発生。これが
長坂光堅を筆頭とする「勝頼の佞臣」という具合に旧来の武田家臣団側からは見られるようになる。

長坂は長篠合戦時において60代となる年齢だった。仮に参戦していたとして、安っぽい戦術を具申し
大敗を導くような若造などではなかった筈だ。この点、甲陽軍鑑が「勝頼の佞臣」を戦の駆け引きも知らない
無能な若輩者の集団として描いている事が、勝頼を極端に貶めようとする意図に基づいているように見える。

だとすれば勝頼を“不遜の大将”とする一連の通説は、勝頼個人の資質が原因なのではなく父・信玄の
外交方針大転換に根本的問題があったと考えるべきであろう。少なくともこれに関して勝頼に落ち度は
全くない。そしてそれを理解していた信玄は、勝頼と家臣、武田家臣団と諏訪家臣団の軋轢を回避せねば
ならなかった。そこで打ち出したのが有名な信玄の遺言「勝頼は陣代である」という策である。陣代とは
臨時の当主、あるいは当主代行という意味を指し「勝頼は仮の当主だよ、だから次の当主を早く育ててね」と
問題の先延ばしを図った訳だ。ところがこれはあくまでも先延ばしでしかなく、問題の解決ではなかった。
名将とされる信玄だが、後継者選びに関しては本当にこれで良いのか?と疑う駄策しか出せなかったのだ。
(そもそも、歴代武田家当主は殆ど必ず家督相続に問題を起こしている)
結果「仮の大将だから」と勝頼はますます軽んじられ、問題はさらに悪化したワケである。
設楽ヶ原古戦場(愛知県新城市)

この橋の下を流れる小川が連吾川。その彼方に
織田・徳川方陣址(再現した馬防柵)が見える。
川を濠として活用し、東から突撃してくる
武田騎馬隊を食い止めた激戦地と伝えられるが
しかし、当時の川はもっと水量があった上
周囲は泥田のような状態。更には一般的に
「開けた平野で戦われた」ような印象のある
長篠・設楽ヶ原合戦であるが、実際に現地を
見てみれば予想以上に複雑な起伏や小丘陵が
幾重にも入り組んでおり、武田軍が馬鹿正直に
突撃を繰り返したとは考えにくい地形だ。
このあたり、勝利した織田・徳川方が
武田の戦法を“愚策”と蔑んで
自軍の勝利を誇大に喧伝したとも考えられ
これも“勝頼愚将説”を一助する
要因になっているのではなかろうか?
設楽ヶ原古戦場
長篠合戦で騎馬隊の突撃を下知したのも、逆に考えれば勝頼がそれだけ武田の「伝統的戦術」つまり
「家臣の優秀さ」を信用していたからこそだったのではないだろうか。だとすれば、勝頼は決して家臣を
疎かにした訳ではないし、少なくとも鉄砲戦術を目にするまでは騎馬突撃が“必勝の方程式”として
有効だと思えていた証(決して無謀な特攻ではないという事)なのだろう。革新的な信長が
相手だったというのが不運だった訳で、例えばこれが父の代から続く川中島の合戦を再燃させ
上杉軍が相手だったとしたら?または信長本人ではなく「根性で戦え!」というような猛将
“甕割り柴田”あたりが全軍を率いていたならば?はたまた、織田の援軍がなく徳川軍単体で戦ったら?
恐らく武田騎馬隊の突撃は、十分に良い働きを見せた筈だろう。よって、勝頼がセンスのない無能な
当主だったという論は必ずしも当てはまらない。また、長篠合戦が(それ以上の攻勢をかけられなくなったが)
武田家を滅亡させる直接的な原因になったという訳でもないのである。
(武田家は長篠以後もまだまだ戦力を維持していた、というのも近年の研究で明らかになっている点である)

※甕割り柴田
織田家筆頭家老・柴田権六勝家の事。彼の率いる一軍が、敵の大軍に包囲され
籠城を余儀なくされた折、城中で最も重要な蓄えである水を兵士らに一口ずつ飲ませた後
その水瓶を叩き割り、必勝の宣言をした事からこのような渾名が付いた。要するに
「あとは戦いに勝って、城外で存分に水を飲もう!」と兵を鼓舞した訳なのだが
勝てなければ死あるのみ、という逆説的な意味でもある(苦笑)
詰まる所、細々と水を節制して食い繋ぐような女々しい計算はせず
「何が何でも勝つんだよ!」と、気合で乗り切る“スポ根”な豪将なので
勝頼の突撃作戦と良い勝負だったのではないか(そういう事なのか?!)



要するに、勝頼の評価を決定付けている「甲陽軍鑑」という書物は、あくまでも軍記物語であり
「信玄様LOVE」な高坂弾正の主観が入りまくっている筋書きなので、「信玄は最高の君主」とする反面
その信玄の偉業を「台無しにした勝頼」は、どうしても悪役として描かれるのであろう。さらに付け加えると
甲陽軍鑑という書物そのものは、高坂の述懐を後世(江戸時代に入ってから)になって編集したものなので
「結果論」でまとめられたに過ぎない。例えば、信玄ですら落とせなかった遠州の高天神城を勝頼が
一気呵成に攻め落とした行(くだり)において、高坂は“これで勝頼が天狗になった”とし、戦勝の宴なのに
「これは御家滅亡の杯である」と嘆いたと記してあるのだが…実際にそんな事を言っただろうか?
確かに、以後の歴史を見抜いたとあれば高坂の「先見の眼」はとてつもないものだとして盛り上がる。
しかし、その時その瞬間にそんな事が見抜けたとはかなり疑わしい話だ。勿論、高坂弾正は名将中の
名将であるし(斯く云うオイラも尊敬している武将である)、そう見抜く慧眼があって欲しいとは思うが
こういう“劇的過ぎる話”は、往々にして編集時に付け加えられた創作なのであろう。結果を知っているなら
“初めに滅亡ありき”で勝頼の評価を持っていける訳である。よって、ドラマチックな筋書きとして主役の
信玄を引き立てると、どうしてもその子供は「偉大すぎる親は越せない」小者として比較せざるを得ない。
近年でも、某大河ドラマで秀吉の軍師を主役にしたもので(実際には有能な将と評価される人物なのに)
いつまでもヒヨッ子な出来損ないの子供が描かれていた。時代を問わず、愚息を心配する親…という
ストーリーは英雄譚の定番になるのであろう(苦笑)
しかしそんなしわ寄せで評価を落とされた勝頼はたまったものじゃない。
諏訪氏を離れ、武田家に入った時点から、彼は人為によって神の位を奪われてしまったのである。





とは言え、実際問題として勝頼は武田家を滅ぼしてしまった。だとすれば、武田家を窮地に陥れる決定打が
どこかにあった筈である。しかしそれが長篠合戦ではないとなれば、何がそれだったのかが問題となろう。
個人的に思うに、御館の乱における勝頼の判断ミスがそれだったと考える。では、以下に検証してみよう。

※御館(おたて)の乱
1578年、信玄の宿敵であった越後の上杉謙信が急死する。この時、実子を持たない謙信は
2人の養子を迎えていたのだが、そのどちらを後継者と決める間もなく死去してしまった。
1人は謙信の姉の子(つまり謙信の甥)である景勝。もう1人は関東の雄・小田原後北条氏から
同盟の証として迎えた景虎。景虎は本来「人質」として上杉家に入った人物なのだが
謙信は自分の旧名(長尾景虎)を彼に与え、その信情を示し家族としたのである。
血の繋がりのある養子と、最大限の友愛で結ばれた養子であるが、彼ら2人は謙信の急死後
“関東管領上杉家総領”という地位をめぐり(家臣団の思惑も複雑に絡み合う)悲惨な家督争いを
始めてしまうのである。こうして勃発した上杉家の騒乱を、御館の乱と呼ぶ。上杉家の大乱が、勝頼に
何で関係あるの?と疑問をお持ちの方、この下をとくとご覧あれwww

乱の勃発時、上杉家の本拠である春日山城を押さえたのは景勝側であったが、しかし家臣団の支持を得て
優勢であったのは景虎側であった。そのため、春日山城に籠城する景勝軍を景虎軍が攻め立てるという
構図になっていく。だが天下の堅城たる春日山城は容易に落とせない。決定打にかける景虎は、実兄
北条氏政(小田原後北条氏第4代当主)に援軍を求めたが、関東では後北条氏包囲網と呼べる北関東の
大連合が氏政を拘束していた。動くに動けない氏政は、北条と同盟関係にあった勝頼に代理援軍を依頼。
こうして、勝頼は景虎救援に赴く…筈であった。ところが、土壇場になって勝頼は景虎に味方せず、逆に
景勝支援へ回るのである。実は景勝側が裏工作をし、勝頼に賄賂を渡して寝返りを促したと言われている。
こうして景勝と勝頼は同盟を締結したため、孤立無援になった景虎の方が窮地に陥っていく。その結果、
後北条の援軍が到来する前に景虎は敗北、遂に自害するに至った。斯くして、父の代では宿敵であった
武田・上杉両家は、勝頼・景勝の代になって同盟関係を維持するようになる。

はて、武田と上杉が安定した関係になったのならば良い事だったのでは?と思う方、甘い。上杉景勝は
味方になったのだが、それまで盟約を結んでいた後北条氏に対しては完全な背信行為に当たり、当然
相模との同盟は手切れとなったのである。この結果、西から織田が、南から徳川が攻め来る武田家は
東から北条までもが攻めてくるという四面楚歌ならぬ“三面楚歌”という状況に陥ったのだ。一般的に
“義の将”と称される(←個人的にはあまり賛同しないのだが)謙信が存命の頃ならば、上杉家は
不用意に武田領を侵犯する事はなく、後北条氏との安定した関係もあって勝頼の敵は織田と徳川だけに
限定できていたのだが、こうして後北条氏も敵に回した事で、武田軍は兵力を分散させる必要性に
駆られるようになってしまったのだ。
謙信逝去直前の状況 謙信逝去直前の状況

上杉家との対立は何とか回避されつつ
東の後北条家とは同盟関係にあるため
勝頼は信長と家康にのみ対峙。この時
遠州の橋頭保となっていた高天神城が
徳川領に食い込み、目下のところ
その救援に全力を傾ける事が
勝頼の至上命題であった。
御館の乱後の状況 御館の乱後の状況

景勝との同盟が成り、上杉家とは
継続的な和睦状況に持ち込めたが
後北条氏との関係は断絶する。
この為、武田軍は東方への備えに
兵力を回さねばならず、高天神城の
救援は不可能な状態になった。
上杉との和議で得たものより
敵対勢力を増やした事で
不利益を被ったものの方が多い。
歴史に“もし”はあり得ない話だし、それを考えたところで史実を覆す事は出来ないが、仮に勝頼が
景虎救援を成していた場合はどうなるであろうか
。景勝を救ったのと同様、景虎が上杉の当主となっても
武田・上杉間の和議が成立したであろう。それに加え、従前からの後北条氏と結んだ同盟も残る事になる。
当然、北条氏政と上杉景虎は実の兄弟であるから、両者の間も血縁関係で安定する。小説や劇画では
「実家(後北条家)に鬱屈した念を持っていた」と描かれる景虎だが、兄・氏政が上杉の家督相続にきちんと
支援を行いそれが成ったという状況なら、そう言った遺恨は無くなる筈だ。さすれば、甲相越の三国同盟が
成立するのだ。かつて父・信玄は甲相駿三国同盟を締結し盤石の支配体制を勝ち取った訳だが、甲相越
三国同盟ならば、それを遥かに上回る規模での軍事同盟になる。東国では巨大安定政権が誕生し、織田や
徳川が上方に勢力を伸ばそうとも、もはや恐れる必要は無くなると考えられるのだ。
甲相越三国同盟(仮) 甲相越三国同盟の成立

織田・徳川に押されていた勝頼にとって
恐らく、これが理想的な打開策だったと
考えられる巨大軍事同盟案。これにより
武田も上杉も、共同して織田に
攻めかかれるので、高天神城の救援は
あっという間に為され、そのまま
徳川家康を屠る事すら可能だった。
となると、信長が天下人となる事はなく
日本の歴史そのものが変わったかも?
長篠の戦い以来、防戦一方に甘んじていた武田軍が息を吹き返すまたとないチャンスだった甲相越和議だが
勝頼がそれを選ばなかったのは、弟である上杉景虎を従える事で北条氏政が圧倒的な力を得る事になり
名門中の名門である武田氏が、後北条・上杉連合に従属する地位に落ちるであろう事態を懸念しての
選択だったのだろう。しかし後北条氏は関東制覇を第一の目的としていたので、当面の間は武田との関係は
波風立てるような事をせず、北関東と房総方面への出兵に専念した可能性が高い。故に、勝頼は織田への
攻勢に転じて勢力挽回する絶好の機を逸した訳である。織田を蹴散らし、尾張や美濃を手中に収め、上洛まで
漕ぎ着けたならば、後北条・上杉連合の圧力も十分跳ね除けられたと思うのだが…。

さて、この段で先程から問題にしているのが
高天神城の救援だ。信玄も成し得なかった高天神城を手にした
(この折、高坂弾正が「御家滅亡の杯」と発言したとされる)勝頼は、長篠で大敗した事で領土を縮小させ
逆に高天神城が敵地で孤立する状態に陥っていた。この城がキーポイントとなるのはこの後の話である。
城に籠る武田の兵は、救援を期待しつつ絶望的な兵糧攻めに苦しんでいた。そして“天才”信長は彼らを
最大限に利用する。もはや勝頼の来援は見越せぬと思われた頃、仕方なく城兵は包囲する徳川軍へ降伏を
打診しはじめたのだが、信長はその申し出を拒絶するよう家康に申し渡す。その一方で信長は勝頼に対し
和睦交渉もチラつかせる。防戦に苦しむ武田は“渡りに船”と食いつこうとするが、それが信長の罠だった。
和睦交渉は見せかけのもので、初めから結ぶつもりなどない。しかし和議の可能性がある以上、勝頼は
表立って高天神城への出陣が出来なくなる。こうして時間だけが無為に過ぎ、高天神城はますます孤立。
そして遂に、高天神城は悲劇の玉砕を迎えるのである。その結果、城の救援に来なかった勝頼は
「家臣を見捨てた酷薄な大将」というレッテルを張られるのだ。この宣伝効果を作り出すために信長は
高天神城からの降伏申出を却下していたのだった。その上で織田・徳川は武田領への本格的侵攻を
開始する。こうなると、武田の領地は切り取り次第という状態になった。信玄の領土拡大により従属した
信濃や駿河の地侍らは、実際のところ武田家の支配を快く思っていなかった。そこへ「勝頼は薄情者」と
噂され、恐怖の織田軍が攻め込んで来る。もはや武田を見限って織田へ投降する者が後を絶たず、かつての
武田帝国は一晩で崩壊したのだった。故に勝頼は何が何でも高天神城を救いに動かねばならなかったのだが
後北条氏を敵に回した為、駿河や伊豆での戦闘が頻発し、とてもそんな事をする余裕は無くなってしまった。
これこそが、御館の乱における判断ミスが最後まで尾を引く致命傷になったと考える所以である。



武田勝頼像
こちら、有名な武田勝頼像である。そして下半分に描かれているのは、勝頼の妻と子だ。何と、この肖像は
家族3人で描かれたものなのだ。現代風に言えば“家族の記念写真”といった感じで微笑ましいものだが、
戦国時代の肖像画で家族全員を描き上げたものと言うのは非常に異例なものだと言う。ここに描かれた妻は
相模との同盟を結んだ際に後北条氏から迎えられた姫君で、夫婦の間柄はまことに仲睦まじいものだったと
されている。肖像画を一緒に描く程なのだから、さぞかし円満な夫婦だった―――と言えば大変な美談だ。
同盟が破綻した後も武田家に留まり、勝頼自刃の時まで行動を共にして武田滅亡に殉じた姫なのだが…
実のところ、実家には「帰れなかった」というのが本当らしい。相模と甲斐の橋渡し役になる筈で嫁いだのに
夫(武田家)が実家(後北条家)に不義を働き(御館の乱の件である)、もはや郷里には顔向けできないと
武田家に残った。そして悲劇的な最期を迎えるまで、その立場は変わらなかったのだ。涙ぐましいまでに
責任感の強い妻を前にして、同盟相手を裏切った代償はあまりにも重く、しかも最後には彼女の命までもが
失われたのである。勝頼の後悔たるや如何ばかりであっただろうか?もし後北条との同盟が生きていれば
織田に攻め立てられ国が崩壊しても、小田原へ逃げ込む事が出来た筈。実際、今川氏真はそうやって命を
長らえ、実はその後に江戸幕府の高家
(こうけ)という役職へ取り立てられている。妻を頼れば御家再興の機も
見る事ができたのだが、勝頼にその手はなかった。後北条氏への裏切りは、最期の時まで勝頼に暗澹と
のしかかったのだった。なお武田家が滅亡に瀕した折、上杉家からは何らの援助も差し向けられていない。
景勝は御館の乱で勝頼に助けて貰いながら、全く恩を返す事がなかったのである。やはり、景虎を支援し
“東国大同盟”を早い段階から締結していれば、こんな事にはならなかったと思われる。




とまぁ、こんな事を長年思い連ねてやっとこの頁に纏めてみた訳だが、先ごろ武田氏研究の第一人者である
平山優先生が、ほとんど(というか全く)同じ内容で著書を刊行された。いやぁ、先を越されたなぁ…というのは
あまりに烏滸がましい発言なので(そんな偉そうな事、ホントに考えてませんってばw)むしろ
平山先生と同じ考えだったのだから、オイラの頭も鈍っていないモノだなと安心してみたりして(笑)




…。
……。
………。




さりとて、これで終わりだったら全然面白くない内容じゃん!(><)という事なので、もう少し頑張って
多少はオリジナリティのある話題を載せてみたいと言うもの。そこで、信玄を絶賛する高坂弾正でさえ
考えていなかったであろう「武田家滅亡の危機もあり得た、信玄の失策」を検証してみたい。

それは先に記した、義信廃嫡に伴う開戦で想定される「信玄・勝頼の同時討死」というシナリオ。

甲相駿三国同盟、つまり武田・北条それに今川の3者で結ばれた軍事同盟により、この3者はそれぞれ
勢力拡大に成功したが、今川義元が桶狭間で戦死し、跡を継いだ氏真は文弱の将であったため
同盟の一角・今川氏は急激に衰退の度を強めていた。上杉謙信に北上の路を絶たれ、これ以上の北伐が
望めなくなっていた武田信玄は、それならば今川領を攻めて南へ領土を拡大しようと考え始める。
こうして義信は排除され、今川との血縁を絶った武田だが、懸念されるのは同盟のもう一角・後北条氏の
動きであった。一方的な盟約破棄は大義を失い、後北条氏から追討される格好の口実を与えるだけである。
信玄はせめて今川領獲得を速攻で終わらせるべく、徳川家康と秘密協定を締結した。曰く、今川領のうち
とりあえず駿河は武田が押さえ、遠江は徳川にくれてやる。両者の同時侵攻で今川軍に反撃の機を与えず
後北条氏の介入も阻止しようとしたのだ。遠江への進出は、その後で考えれば良い。徳川を蹴散らす事など
当時の武田軍にとっては、造作もない事であった。つまりこの作戦で最大の障害となるのは、後北条氏なのだ。

1568年、徳川との約定に則り武田軍は一瞬で駿河を併呑した。武田と徳川の両者に攻められた今川氏真は
行き場を失くし、案の定後北条氏の下へと逃げ込んだ。当然、時の後北条氏当主である北条氏康は同盟の
一方的破棄に激怒、すぐさま駿河奪還の兵を差し向ける。思った通り、後北条氏は信玄の意に反した行動を
採ってきたのである。ならば、武田の全軍を挙げて後北条氏と決戦に及び、氏康を黙らせる他に手は無い。
斯くして1569年、武田軍は後北条氏の本拠・小田原城へ攻め寄せる。されど小田原は天下の堅城、信玄でも
落城させる事は不可能であった。そこで信玄は兵を退く。退けば後北条軍は追撃して来る。それを叩けば、
結果的に後北条との決戦は成し遂げられるからだ。信玄はユルユルと、後北条軍の追撃を待ち構えつつ
甲府へ引き上げる道を進み、その軍勢は三増
(みませ)(神奈川県愛甲郡愛川町)へと差し掛かっていた。
後の1573年に起こる、徳川軍との対決「三方ヶ原の合戦」と同じシチュエーションである。

三増峠は相模中部から甲斐へ抜ける街道の要衝にあり、峠の北側には後北条氏の拠点城郭・津久井城が
あった。津久井城の駐屯兵が峠を塞ぎ、小田原から追撃してきた後北条の本軍が後ろから攻め掛かれば、
さしもの武田軍と言えど全滅する危険性さえあったのは間違いない。要となるのは津久井城の動きである。
その津久井城を守るのは、地元の豪族・内藤氏一門だった。ところが内藤氏は地勢上、近隣の甲斐つまり
武田氏とも大きく誼を通じ、身の保全を図っていた経緯がある。表向き、後北条氏に従いながら裏では
戦国最強と称される武田軍に怯え、両属の関係を取っていたのである。故に津久井は“半敵所”と呼ばれ
後北条氏にとっては、必ずしも統制しきれていない弱点になってしまっていた。こうした両属関係を取る
土豪は全国に数多くおり決して珍しいものではなかったが、それが武田・後北条という超巨大勢力の
狭間にあった事、そしてその両者が今まさに激突しようとしている状態にある事が、歴史を大きく
揺るがすのだが…。
三増峠合戦
史実における三増峠合戦

峠の手前で、滝山城から出陣してきた北条氏照と、鉢形城からやってきた北条氏邦が待ち伏せしていた。
これに対し武田方は歴戦の勇将・山県昌景が別働隊となり待ち伏せ部隊へ側面攻撃を敢行。山県隊に
釘付けとなった氏照・氏邦隊の横を武田本隊はすり抜けて行き、そのまま甲府への帰還ルートを通過する。
肝心の内藤勢は津久井城から一歩も動かなかったため信玄を足止めできず、小田原から来援する
北条本隊が到着するまでの時間稼ぎが果たせなかった。武田軍は北条一門の重鎮である氏照・氏邦を
軽くあしらう事で余裕の行軍を見せつけ「後北条の動きなど取るに足らぬ」という優位な情勢を
作り上げたのである。本隊が間に合わなかった事は、後北条方にとっては戦略的ミスとなり、以後
氏康は信玄に対して表立った対立姿勢を採らなくなった。信玄の思った通りに事は運んだのだ。

北条軍の計画
北条軍が計画していた三増峠合戦

内藤勢も津久井城から出陣、総掛かりで武田本隊を坂の途中で足止めし、その背後から北条本隊が
襲い掛かる。袋のネズミとなった武田軍は傾斜地で閉塞し、或いは全滅する可能性が考えられた。


内藤勢が動かなかったのは、多分に信玄の事前工作があったのだろう。城を守った事にでもして、
留まっていればそれで良い…と言った具合か。武田を恐れる内藤勢は恫喝に容易く屈した。この為
武田軍は危機に陥ることなく北条方の包囲網を突破できたのだが、それでも信玄の譜代衆である
浅利信種や浦野重秀といった指揮官クラスの将が戦死している。となれば、もし後北条方が想定した
通りの戦況になっていたとしたら(つまり内藤勢が足止めに参加していたら)これは後の長篠合戦で
喫する大敗北以上の損害が出たと推測できよう。なお余談だが、浅利・浦野の両名は後北条方が
発砲した鉄砲弾に当たって戦死した。つくづく、武田軍に鉄砲は鬼門のようである。

三増峠合戦の際、冒頭に記した通り武田義信は既に自刃している。信玄の2男・3男も上記した通りだ。
(この時は確定していなかったが)信玄の後継者候補の筆頭は勝頼という事になろうが、その勝頼は
信玄ともども合戦の中に居る。5男以降の男子は総てまだ幼少だ。三増の戦いで武田が北条の術中に
嵌った場合、それは信玄・勝頼の同時戦死となった危険性が高い。そうすると、甲斐武田家は事実上
当主不在になってしまうのである。機を見るに長けた北条氏康はすかさず甲府への進軍を行うだろう。
領内の予備兵力も可能な限り甲信地方や西上野に繰り出す筈だ。何せ、後北条氏は史実に於いて
本能寺の変直後、空白地となったこの地域に全軍を展開し領土拡張を目論んでいる。1582年では
徳川家康も同じ地域に出陣して講和を結ぶに至った(つまり外交決着に終わった)が、三増の戦い
直後だったとしたら、徳川が甲信まで出張る兵力は皆無。即ち、武田の遺領は大半が後北条の手に
収まる結果となる。名目上、駿河には今川氏真を復帰させる事になろうが、これとてもはや圧倒的な
勢力差の上に成立する復帰なので(しかも復帰「させて貰った」という“恩義の上”である)現実的には
今川家は後北条家に服属するようなものとなろう。さすがに北信濃や木曽までは手が出せないだろうが
例えば北信では上杉謙信の計らいで村上ら現地豪族が復帰するとか、木曽地方は史実より一足早く
木曽氏が独立を果たすという感じか。しかしそれとて一時的なもので、北信は武田に取って代わった
後北条が勢力を伸ばす?或いは真田が動くか?木曽は信長に屈する?という結果に帰結すると
思われる。つまり、武田が後北条に代わる以外は史実と大差ない流れになるので、逆に言えば
この予想はかなり的を得たものなのではないだろうか?
北条領激増の可能性 三増峠合戦で後北条が大勝した場合

史実における「天正壬午の乱」同様に
後北条軍は素早く甲信地方の大半を
占拠したであろう。今川領も名目的な
復活に過ぎず、実質的に後北条家の
保護領となる為、東国の殆どが
北条氏康の支配下に収まる事となる。
武田残存領は、仁科盛信が纏めるか?
しかし盛信もまだ幼年なので、程なく
後北条か織田に飲み込まれるだろう。
上杉謙信はこの頃、越中方面作戦に忙殺されていたが、長年の宿敵である氏康が巨大勢力となるため、慌てて
兵を返すか、逆に後北条とは矛を収めそのまま越中侵攻に専念するか?という二者択一を迫られる事になろう。
上洛に拘っていた謙信ならば、西方へ兵力展開する策の方が後々を見据えれば良策と思うのだが、果たして…。
いずれにせよ後北条家は東国における最強勢力となるのは疑いなく、これによって北関東の諸勢力は史実より
遥かに早く、後北条氏の支配下に入(らざるを得なくな)るだろう。もし宿願である関東平定を終えたならば、
その後の後北条家が目指すのは、北か?それとも…。


※天正壬午の乱
先に記したように史実に於いて1582年、本能寺の変で信長が横死した直後、
空白地となった甲信地方の旧武田領に対して、後北条氏と徳川氏が兵力展開し
行った争奪戦の事。この時、後北条軍は甲信地方のほぼ全域を占領しつつあったが
補給の問題が懸念された上、徳川家康の巧みな外交戦術が為された事で
兵を引き上げた。しかし、もし徳川軍が来攻せず、後北条軍の独壇場であったなら?
歴史は大きく変わったであろう事は間違いない。


※仁科盛信(にしなもりのぶ)
武田信玄の5男。即ち勝頼の弟。姓を見ればわかる通り、仁科氏の養子に入った。
仁科家は安曇地方の有力一門で、これまた信玄が家の乗っ取りを図って
養子に入れたのである。信玄・勝頼の両名が亡くなったとしたら、
最も後継者候補になり得た人物だが、この当時まだ10歳を超えたほどの若年である上
諏訪勝頼でさえ武田家の後継となるのに難儀した状況で仁科家に出された盛信が
家中を掌握できるかと言えば…かなり無理があったと思われる。
やはり信玄と勝頼が亡くなった場合、その時点で武田家の命運は尽きたであろう。



甲陽軍鑑の話で申し上げたが、後世になってそこまでの歴史を「結果論」で語るのは簡単だ。そう、結果的に
信玄は内藤勢を上手く丸め込み、後北条軍を嘲笑う戦果を上げてその後の勢力拡大を成していく。しかし
三増峠合戦の時、果たして内藤勢が思った通りに動くか否かは分からなかった筈であり、そうなると信玄は
「勝頼を共に参戦させる」=「武田家当主となり得る人材を残しておく配慮を怠った」という状態で迂闊にも
後北条軍との合戦を引き起こしていたのである。弱小豪族を潰しに行く戦いではない。相手は武田と拮抗する
戦力を有する巨大勢力、しかも敵地なのだ。一般的に、三増峠合戦は戦国史上唯一の「山岳野戦」と言われ
何が起きるか分からない予測不能の戦いに際し、これはどう見ても短慮であろう。何より、甲陽軍鑑において
高坂弾正は三増峠の合戦を「御かちなされて御けがなり」と記している。勝ちはしたが被害も大きかった、と
この戦いが本当に正しい選択だったか疑問を呈しているのだ。信玄を絶対的な君主と祀り上げる高坂でさえ
こう評するのだから、武田軍が如何に危うい橋を渡っていたかが垣間見える。深く突き詰めて考察すると、
名将と(盲目的に)称えられる信玄ですらこのような愚を犯す事があったのだ。
勝頼一人が“敗者の責を問われる”のは、些か酷な話なのではなかろうか?
歴史の悪人は、必ずしも本当の悪人ではないのである。


※【余談】内藤一族、後日談
1590年、天下統一に王手をかけた豊臣秀吉は小田原後北条氏を最後の敵と定め
関東征伐の大軍を発した。後北条氏は領内各所の支城で抵抗活動を行い
豊臣軍の分散化を目論むのだが、この時に内藤氏は…後北条氏に従い、豊臣軍と戦い、
そして歴史の闇へと消えていった。三増峠の合戦では武田軍を見逃し、後北条氏を謀り、
歴史の大転換点を台無しにした内藤一族だが、絶対的に敗北が確定的な豊臣方との戦いでは
わざわざ滅亡する選択を行ったのである。何とまぁ、恐ろしいほど
空気の読めない輩だこと…ほとほと呆れるばかりである。




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